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忘れ物はないですか(4)

 初詣に出かけた翌日、俺は雛子のことばかり考えていた。
 言ってしまえば彼女と会った後はいつでもそうなのだが、年明け早々に何も手につかなくなって、胸裏で彼女の面影を蘇らせている。お医者様でも草津の湯でも、とはよく言ったもので、俺も既に末期症状なのだろう。
 もっとも、かつてのように彼女について考える時、言い知れぬ焦りや罪悪感や胸の痛みを覚えることはほぼなくなったと言っていい。少しだけ、入試に挑む彼女を案じて落ち着かない気持ちになったりもするが、彼女が努力してきたことも、残り一ヶ月で更に努力し続けていくであろうことも知っている。俺にできるのは信じて待つことだけだろう。
 誰かを信じるという行為はとても難しいことだ。俺は長い間、他人を信じる心を忘れていた。幼い頃には確かにあったのに、成長するにつれ少しずつ摩滅し、使い物にならなくなっていたのだ。一時は雛子の想いさえ疑ったこともあった。
 だが雛子のひたむきさは、俺が忘れていた人間として真っ当な感覚を、再び呼び戻してくれた。
 だから俺も彼女を信じていよう。
 そして彼女と共に、訪れる次の春を晴れやかな気持ちで迎えたい。

 正月が過ぎても静かな冬の午後、俺は机に向かいながらそんな思いを巡らせていた。
 実を言えば俺も一週間後には冬休みが終わり、すると即座に後期の試験がやってくる。今日は試験に備えて復習をしておこうと思ったのだが、気がつけば雛子のことばかり考えている体たらくだ。昨日会ったばかりではやむを得ないとも言えなくはないが、そろそろ気持ちを切り替えなくてはならないだろう。
 椅子の上で伸びをして、机上のノートに向き合おうとしたその時、何の前触れもなく携帯電話が鳴る。
 画面を覗けば表示されていたのは雛子の名前で、昨日会ったばかりなのに何事かと、期待と不安が交錯した。
「どうした、雛子。何か用か」
『そうなんです。ちょっと先輩に聞きたいことがあって……』
 彼女の声は心なしか硬かった。妙に澄ました口調にも聞こえた。
「聞きたいこと? 一体何だ」
 俺が続きを促すと、彼女もすぐに本題へ入った。
『実は、ご存知の通り昨日からうちの兄が帰ってきてるんですけど』
「ああ。先日お会いしたな」
 青い車に乗った雛子のお兄さんとお会いしたのは昨日の話だ。どのくらい遠方にお住まいなのかは知らないが、恐らく何日間か実家に滞在するのだろう。
『その兄が、先輩と話がしたいって言うんです』
 雛子がそこまで語った時、背筋がわずかに緊張した。 
「話とは、どういった用件だ」
 お兄さんとは昨日の時点で挨拶こそしたものの、それだけで十分だとは俺も思っていない。機会をいただけるならきちんとご挨拶をしなければいけないだろう。
 それは当然、お兄さんの側も思っていることだろう。柄沢兄妹はとても仲がいいようだし、お兄さんも可愛い妹がどんな男と交際しているのか、信用して預けてもいいものかとさぞかし気にしているに違いない。話がしたいというのはつまり、俺が信用に値する男かどうか見極めたいということかもしれない。
 ならばこちらも失礼のないように伺わなければなるまい。
『単に話したいだけみたいですよ。紹介して欲しいんだって言ってました』
 説明を添える雛子の声は気楽そうだったが、それで済むものではないだろう。
「そうか。俺も昨日のご挨拶だけでは足りないだろうと思っていた」
『それで明日、うちの両親は仕事で出てるんですけど、兄はいるので先輩に家まで遊びに来てもらえないかって……お昼をご一緒したいそうなんです』
 雛子が更に続けた。
『予定がなくて暇だったらでいいんですけど、もしよければどうですか?』
 幸いなことに明日も予定はなかった。
 ただ、気がかりなこともある。雛子の話を総合すると、彼女のお兄さんは俺を彼女の家へ呼びたいらしい。もちろんそこは柄沢兄妹二人の家でもあるが、第一に彼女たちのご両親の家でもある。家主不在のところへ赤の他人がずかずか上がり込むというのはあまりに無礼だろう。とは言えお兄さんからの誘いを断るのもまた失礼だろうから、ここはあえて他の場所でお会いすることを提案すべきかもしれない。
 俺が思案に暮れていると、不安になったのか雛子が言い添えてきた。
『あの、都合悪いようでしたら無理しなくていいですから』
「都合は大丈夫だ。明日は特に予定もない」
 その点は早急に伝える必要がある。それから俺は、現在抱いている懸念について彼女に打ち明けた。
「だが、どうなんだろうな。お前のご両親にご挨拶もしていないのに、ご不在の隙にお前の家に上がりこんでいいものか。後でご両親が聞いたら、気を悪くしないだろうか」
『あ……。そういうの、気になりますか』
 雛子が気遣わしげに笑う。
 直後、どこからか声でもかかったのだろうか。
『……すみません、ちょっと待っててもらっていいですか』
 そう断ってから、彼女の声が急に途切れた。通話口を手で押さえているのだろうか、圧迫するような物音が聞こえる。
 恐らく通話をする雛子の近くに、お兄さんもいるのだろう。この沈黙の間に兄妹の間で何らかの協議がなされているであろうことは予想に難くない。
 しばらくしてから雛子の声が戻ってきて、
『兄としては、そういうのは気にして欲しくないとのことです。もし万が一の時は兄がちゃんと丸く収めてくれると言ってますし』
 と言ったので、これ以上の遠慮はかえって失礼になると俺も判断した。万が一のことなどない方がいいが、俺も相応の覚悟を持って臨むべきだろう。
「そちらで迷惑でなければ、喜んで伺おう」
『本当ですか? くれぐれも無理はしないでくださいね』
 俺の出した答えを聞き、雛子は心配そうにしている。
「無理はしてない。ちょうど暇だったから、気にするな」
 実際、彼女のお兄さんに話がしたいなどと言われて拒めるはずもない。それは当然のことだが、しかし俺も嫌々伺うわけではなかった。今まで外から眺めるだけだった彼女の家に招いてもらえるのだし、何より雛子とまた会える。
『それならいいんですけど。すみません、うちの兄が勝手なこと言い出して』
 平謝りの雛子が何だか可愛い。妹なのに、まるで年長者みたいな物言いで詫びている。
 彼女に明日もまた会えるのだと思うと胸がいっぱいになり、俺は心から告げた。
「いや、誘ってもらえて嬉しいくらいだ。おかげで明日もお前に会える」
『……先輩』
 雛子は困り果てたような声で俺を呼んだ。傍に兄がいるから必要以上に照れているのかもしれない。今、この瞬間の表情を見てみたかったと俺は思う。
 さすがに電話越しの会話まで筒抜けということはないはずだ。俺は密かに笑みながら言った。
「お前が暮らす家を見せてもらえるのも楽しみだ。一度見てみたいと思っていた」
『た、大した家ではないですけど……是非どうぞ、お越しください』
「ああ。明日は俺の知らないお前が見られるかもしれないな」
 あの家で彼女は普段、どんなふうに暮らしているのだろう。何度も想像はしてみたが、上手く思い浮かべることができなかった。明日はそういうものが少しでも覗けたらいいと願っている。
 無論、物事の優先順位も弁えているつもりだ。雛子のお兄さんにも改めてちゃんと挨拶をしよう。彼女との交際を認めてもらわなければなるまい。

 一月五日の正午前、俺は初めて柄沢家を訪ねた。
 薄曇りの駅から歩くこと数分、何度か外から眺めたアイボリーの外壁の一軒家が見えてきた。金属製の柵に囲まれたその家の車庫には、見覚えのある青い乗用車が停まっていた。俺は深呼吸をしてからインターフォンに手を伸ばし、呼び鈴を鳴らす。
 すぐに玄関のドアが開き、雛子が顔を覗かせる。目が合った途端、綻ぶように微笑んでくれたのが嬉しい。今日の彼女は淡いピンク色をしたニットのワンピースを着ており、長い髪を下ろしていた。恐らく化粧もしているようだ。レンズ越しに見える睫毛の長さにどきりとした。
「いらっしゃいませ、先輩」
 雛子の言葉に俺は頷いた。
「ああ」
 彼女の顔を見られたことと、屋内の暖かい空気にほっとしていた。
 程なくして家の奥からスリッパの足音が近づいてきた。玄関から真っ直ぐ伸びた廊下に、雛子のお兄さんが姿を現す。緑のセーターにジーンズといういでたちのお兄さんは、あっという顔をしてこちらへ近づいてくる。
 すかさず俺は頭を下げた。
「お邪魔します。本日はお招きいただきありがとうございます」
「いいですって、そんなに畏まらなくても。さ、上がって上がって」
 取り成すように言ったお兄さんは、その後でぎこちなく笑んだ。さして親しくない相手に気を遣ってくれているそぶりが感じられた。
 正直に言えば俺も緊張している。ここで下手な行動を取っては後々響くだろう。そして俺は、他人の家にお邪魔するという機会がこれまであまりなかった。近年で覚えがあるのはせいぜい一人暮らしの大槻の部屋と、船津さんが物置のように使っている古書店奥の住居くらいのものだ。一般的な家族が暮らす家に上がらせてもらうのは、実家を除けば始めてのことだった。
 緊張しながらも、まずは靴を脱いで上がり、脱いだ靴は素早く揃えた。嗅ぎ慣れない花のような匂いがする廊下を、雛子が先に立って案内してくれる。上がってすぐ、右側にある木製のドアに手をかけて、彼女は俺を振り返る。励ますように微笑んでから言った。
「どうぞ、入ってください」
 彼女がドアを開けてくれたので、俺は会釈をしながらその部屋へと立ち入った。
 そこはどうやら居間のようだった。真っ先に目についたのは家族が囲むサイズの大きなローテーブルと、それを挟むように置かれたソファーセットだった。ソファーはカジュアルな灰色の布貼りで、俺の実家の応接室にあったものより座り心地がよさそうだった。壁際には天井まで届きそうな食器棚があり、その側面にはメモ用紙やレシートを貼りつけた小さなホワイトボードがかけられている。居間の一番奥には大きな薄型テレビが置かれ、一見不安定そうに見えるそれをがっしりとしたテレビ台が支えていた。テレビの上にかけられた月めくりのカレンダーにはぎっしりと予定が書き込まれていて、例えば昨日の日付には『父母仕事始め、お兄ちゃん帰省』と記されている。その下方の日付には『雛子願書提出』という一文もあり、それが雛子の字ではないことに少しだけ衝撃を受けた。
 テレビ台の脇には写真立てもあった。しげしげと見てはいけないと思っていても、気がつけば視線が縫い止められるようにそちらへ向いていた。写真はここ数年、もしかすると去年撮られたもののようで、温厚そうな中年の夫婦の間に東高校の冬の制服を着た雛子と、ダークカラーのスーツを着たお兄さんが映っている。四人が四人ともそれぞれ眼鏡をかけており、そして家族全員が写真の中で微笑んでいた。
 初めて見る雛子のご両親は、こうして見る限りでは優しそうだった。眼鏡のせいかもしれないが、雛子もお兄さんも両親のどちら似とも言い切れず、両方によく似ていた。そして家族に囲まれている時の雛子もいつもと変わらず、穏やかで控えめな微笑を浮かべている。写真に納まるからと澄ましてみせたのだろうか。
 俺がその写真を眺めていることに雛子が気づいたようだ。視界の端にこちらを見つめる彼女の姿が映り、俺は振り向いて弁解した。
「じろじろ見るつもりはなかったんだが……よその家にお邪魔することもあまりないからな」
「いや、いくらでも見てってください。あんまり面白いものないですけど」
 雛子より早く、お兄さんがそう言ってくれた。
 だが雛子が気にかけるようにこちらを見ていたので、心配をさせてはいけないと、俺もそれ以上写真を眺めるのはやめた。
 見慣れないものだらけのこの空間こそ、ごく普通の家族が暮らす家なのだろう。随所に見受けられる生活感が俺には物珍しく、新鮮だった。

 雛子のお兄さんはこの日の為にわざわざ出前を取ってくれたという。
 俺よりいくらか遅れて届けられた三人前の寿司桶を、雛子は嬉々として居間に運び入れ、卓上に並べた。お兄さんは三人分の煎茶を入れ、更に台所から枝豆を運び出してきてテーブルに置く。座るように勧めてもらった後、俺は下座に腰を下ろし、お兄さんはその真向かいに座った。雛子はその間、俺から見て左手側の席に着く。
「ま、まあ、今日は堅苦しい席でもないし。気楽に食べてってください」
 お兄さんは硬さの取れない顔つきで笑う。
 刷毛で流したような形のいい眉と黒目がちな瞳は雛子ともよく似ている。年齢のせいもあるだろうが落ち着いた、理知的な面立ちをしており、怒った顔が想像できない人だった。ただ雛子との間にある空気、及び俺に対する態度から、雛子をとても大切にしていることは察せられた。だから彼女に害なす人間がいたとすれば、この人は間違いなく敢然と立ち向かうだろう。
「ありがとうございます。いただきます」
 俺は手を合わせて箸を取る。こちらもまだ緊張はしていたが、まずはせっかくの寿司をいただくことにする。本日招いてくださったお兄さんのご厚意には報いておきたかった。
「ヒナ、ホタテやるから何かと替えっこしよ」
 お兄さんが雛子に声をかける。妹と話す時だけ、その口調は年齢よりも若く、フランクに聞こえた。
 一方、雛子は呆れたような目つきで兄を見る。
「しょうがないなあ……」
 溜息をついてから、自分の寿司桶を兄の方へ差し出した。
「お兄ちゃんは何がいいの?」
 するとお兄さんは顔を輝かせて、
「選んでいいのか? なら、サーモン貰おっかな」
「それは駄目!」
 雛子が語気を強めて拒む。どうやら彼女はサーモンが好きらしい。
 恐らくお兄さんにとってもそれは既知の事実なのだろう。むしろ一喝されるのを待っていたというように、妹に対して笑んでみせた。
「駄目かよ。わかったわかった、じゃあもうヒナが決めていいよ」
「何その上から目線……。元はと言えばお兄ちゃんが好き嫌いするのがいけないんだよ」
 雛子とそのお兄さんが会話をするのをじっくり聞くのは初めてだった。兄妹の仲は良好のようだが、意外と妹の方が強いようにも見える。歳の離れた妹に手厳しい物言いを許すほど、気心の知れた関係であるのかもしれない。
 家族を指して『気心の知れた関係』というのもおかしいのかもしれないが――俺は妹とも、両親ともそういう間柄にはなれなかった。だから余計に柄沢兄妹が眩しく映る。あの日、書店で出会った兄妹と同じように。
 ただ、現在の雛子とお兄さんは、あの幼い兄妹とは少しばかり印象が違う。
「仕方ないだろ、好き嫌いくらい誰でもするよ」
 お兄さんは不満げに、やや大人気なく反論した後、ふと俺の方を見た。
 黒縁眼鏡に囲まれた目が興味深げに瞬きをする。
「好き嫌いくらい誰でもありますよね? 何か、食べられないものとかあります?」
 そう水を向けられて、俺は正直に答えた。
「食べられないというほどではありませんが、甘い物が苦手です」
 途端にお兄さんは酷く嬉しそうな顔をして、雛子に対して勝ち誇ってみせた。
「ほら見ろ! 先輩だって好き嫌いあるっつったぞ!」
「お兄ちゃんのはただの食わず嫌いでしょ。先輩のとは違うよ」
 雛子がちらりと俺を見てから嘆息する。
 俺の甘い物嫌いは幼い頃に植えつけられたものだが、最近は少しばかり改善されつつあるようだ。見るのも嫌だというほどではなくなった。むしろ雛子が甘い物を食べている顔を見ているのが好きになった。自分で食べるのは気が進まないが、甘い物と聞くと無条件に毛嫌いしていた頃に比べたら格段の進歩だろう。中でもチョコレートは特に、嫌いではない。
「ホタテが苦手なんですか」
 今度は俺の方から、お兄さんに尋ねてみた。
 お兄さんは少し恥ずかしそうに答える。
「ええ、まあ……と言うか貝類全般駄目なんです。トラウマがあって」
 トラウマとはただならぬ響きだ。俺はぎょっとしかけたが、同じタイミングで雛子がおかしそうに吹き出した。
 そんな妹にお兄さんが食ってかかる。
「ちょ、笑うなよヒナ! ってかいいだろ別に食べられなくたって!」
 雛子は黙って笑いを堪えている。どうやら彼女はお兄さんのトラウマなるものの経緯を知っているらしい。そう重い事情があるようではなかったが、お兄さんが秘密にしたがっているようなので俺も深くは尋ねなかった。
 やがて雛子は先程交換を持ちかけられていたサーモンをお兄さんの桶へと譲り渡した。
 お兄さんは驚き、サーモンと雛子の顔を見比べる。
「え、いいのか? 貰っちゃって」
「先輩の前だからね。いい妹らしく振る舞おうと思って」
 澄まして答える雛子に、お兄さんが形のいい眉を顰めた。
「振る舞うのかよ……。猫被ってると、後で大変になんないか?」
 そう言うが早いかお兄さんは俺の方を向き、
「どうですか、うちの妹。家ではたまに生意気なくらいなんですけど、外ではちゃんとやってるのかって心配なんですよね」
 半分冗談のように、半分は本気の口調で尋ねてきた。
 猫を被っていると思ったことはある。出会ったばかりの頃の雛子はステレオタイプの文学少女然としていて、俺はその本質をすぐには見抜けなかった。
 だが彼女も意図的にそうしていたというわけではない。彼女からすれば目上の先輩、それも気難しく扱いの面倒な男相手に気を許すには相応の時間が必要だっただろうし、その時間は俺に勝手な思い込みをさせるのに十分なほどだった。真実の雛子は聞き分けのいい相手ではないが、今となってはだからこそいいのだと心から思う。
 俺は雛子に視線を向ける。雛子がお兄さんの質問に疎ましそうな顔をしていたので、安心させてやろうと笑いかけておく。
 それから、
「雛子さんはいつも優しいです。生意気だなんて思ったこともありません」
 と答えておく。
 優しいのは本当のことだが、多少サービスしてやろうという気もなくはなかった。普段なら平然としてこんなことは言えない。
「本当に? じゃあ先輩の前じゃいつでも猫被ってるってことかな」
 俺の言葉を聞いたお兄さんは疑わしげだった。雛子から譲ってもらったサーモンを一口で食べてしまった後、厄介な思案を抱え込んだような顔をする。
「ところで先輩は……って、考えてみりゃ俺がそう呼ぶのも変か……」
 またこちらへ話しかけようとして首を捻り、
「こんなこと聞くのも何ですけど、俺からはどうお呼びしたらいいですかね?」
 尋ねられたので、言われてみればまだ名前で呼ばれていないと気づく。
 確かにお兄さんから『先輩』と呼ばれるのも妙だ。
「鳴海と申します。名字で呼んでいただいて構いません」
「ああ、そうですね。じゃあ『鳴海さん』で」
 お兄さんが腑に落ちた様子で頷き、それから話題を戻す。
「鳴海さんはどうなんですか? 本日はうちに来るってことで、ちょっと猫被ったりしてません?」
「お兄ちゃん、先輩に失礼だよ」
 俺が答えるより早く、雛子がお兄さんを咎めた。
 しかしお兄さんはそれが不満なようだ。
「そうかあ? でも、気になるだろ。お前の彼氏がどんな奴かって。今んとこ、隙見せるそぶりもないしさ……」
 やはりこの人は、大切な妹がどんな男と交際しているのか、非常に気になっているのだろう。俺が上辺だけ取り繕うのが上手いような男であっては困るということかもしれない。今日こうして俺を招いてくれたのも、恐らく俺の人柄を知りたいという気持ちがあってのことに違いない。
 つまり、試されているということだ。
 俺は気を引き締め直し、お兄さんの疑問に対する答えを考え始めた。
 しかしまたしても雛子が機先を制した。
「どんなも何も、先輩はいつもこんな感じだよ」
「本当に? いつもこんな感じで堅苦しいってか、生真面目風なの?」
 その点だけは俺も本心から頷ける。俺の話し方が堅苦しいというのはよく言われることだが、こればかりは性分なので仕方がない。
「うん」
 雛子もやはり深く頷いていた。
 お兄さんは信じがたいというように息をつく。
「じゃあヒナと先輩は、普段からこんな調子で喋ってるのか?」
「そうだよ」
「こんな調子で、ちゃんと会話弾むのか? 想像つかないけど」
「問題なく弾んでるよ。――ですよね、先輩」
 彼女が同意を求めてきたので、俺は無言で顎を引く。
 二人でいる時、お互い黙っている時間も決して少なくはない。本を読んだり書き物をしたりする間、俺たちはあまり口を利かない。しかし必要がある時は言葉を交わして話し合うし、時にそれが押し問答に発展することもままある。雛子は俺の話をよく聞いてくれるから、俺は彼女と話をするのがとても好きだった。
「へえ……。ますますわかんなくなってきた」
 思案顔のお兄さんは、やがて大きく肩を竦めた。
「考えてみてもしっくり来ないな。鳴海さんがヒナの前ですら、まだ猫被ってるってことはないよな」
「またお兄ちゃんってば、失礼なこと言って」
 庇うように雛子が非難の声を上げたが、俺は見透かされているような気がして思わず笑んだ。
 もう過去の話ではあるが、俺も確かに雛子に対し、猫を被り続けていたことがあったのだ。彼女に失望されたくなかった。自分の本心を知られるのが嫌だった。
 今ではそういう醜い本心すら、彼女が受け止めてくれている。俺が被れそうな猫は全て、どこにもいなくなってしまった。
「そういうところもあるかもしれません。どうしても、自分をよく見せようと思ってしまうものです」
 ともあれ俺が率直に答えると、お兄さんは得心した顔つきになる。
「やっぱそうなんだよ。ヒナ、お前の先輩も多少は猫被ってるってさ」
「それは誰だってそうなんじゃない?」
 雛子は尚も俺を庇ってくれようとしたらしいが、
「まあ、ヒナはぞっこんですもんね。気にならないですよねそういうの」
 お兄さんの冷やかす口調にたちまち俯いた。否定もせずに黙ってしまうその態度を、俺も幸せなような、気恥ずかしいような思いで眺めている。
 彼女とお兄さんの間に俺の話題が持ち上がることもあるのだろうが、そんな時雛子はどんなふうに俺について話すのだろう。
「じゃあ本日は、鳴海さんにも猫被るのやめてもらいましょうか」
 余計な考え事に耽っていたせいで、お兄さんの言葉に対する反応が一瞬遅れた。
 思わず目を瞠る俺に、お兄さんは喜色満面で持ちかけてくる。
「鳴海さん、よかったらビール飲みません? お酒平気なら一緒にどうです?」
 こればかりは予想だにしない提案だった。
「お兄ちゃん!」
 雛子が尖った声を上げる。
 お兄さんはその反応を予見済みだったのか、慌てるふうもなく言った。
「何だよ、いいだろ。大人同士なんだし普通だよ普通」
「飲む必要がある流れには思えなかったんだけど」
「そんなことないぞ、俺は鳴海さんと腹割って話したいって思ってるし」
 兄を説き伏せるのは無理と踏んでか、雛子は勢いよくこちらを見やる。まるで諭すように、俺に向かって言った。
「先輩も、無理しなくていいですからね。兄は単にお酒が飲みたいだけなんです!」
 だが俺にはお兄さんの真意がわかっていた。
 これは挑戦だ。
 お兄さんは俺が、雛子を預けるに値する男かどうか、試そうとしているのだろう。
 それならば拒むことはできまい。こちらも誠意を見せなければ。酒に酔ったくらいで腹を割って話せるものではないだろうが、酔った勢いでならより堂々と言えることもある。
「いや、経緯はどうあれ誘いをかけられて断るのも失礼だろう」
 俺は雛子を納得させる為、そう告げた。
 当然、雛子は面食らったようだ。
「飲むんですか!?」
 素っ頓狂な声を上げたので、宥める為に続ける。
「特に問題はあるまい。むしろお付き合いするのが礼儀だ」
 雛子は隙だらけの顔でぽかんとしていたが、俺はお兄さんに向き直り、挑戦を受けることを告げた。
「では、いただきます」
「よし決まり! 早速持ってきますね!」
 こちらの答えがわかっていたかのように、お兄さんは迅速に立ち上がり、台所へと消えていった。
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