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冬の日に歌を(4)

 熱が出た時点で、俺は雛子に連絡を入れた。
 床に座り込みながらメールを打ち、『風邪を引いた。しばらく連絡はできないが、心配は要らない』とまで入力したところで頭が朦朧としてきた。他に添える言葉も思いつかず、下手なことを言って余計に心配されるよりはいいかとそのまま送信した。それから大学の帰りに買ってきた薬を飲み、床に布団を敷き、携帯電話を枕元に置いてとりあえず横になる。
 薬を飲んだのだからよく眠れるだろうと思っていたが、とろとろと浅い眠りが過ぎていっただけだった。次に目が覚めた時には全身が火照ったように熱く、喉だけでなく手足の関節にまで痛みを覚えていた。布団から這い出て冷蔵庫を開け、買っておいたスポーツドリンクを飲むまでに相当な気力を必要とした。水分を飲み込む度に喉が痛み、まるで溶岩の塊でも飲まされているようだった。
 一息ついてからまた這うようにして布団へ戻ると、カーテンを閉め忘れた薄暗い部屋に携帯電話のランプが明滅していた。メールの受信を知らせる合図だった。もしかすると雛子かもしれない、そう思って確認すると、やはり彼女からのメールが一通届いていた。
 ――何か、私にできることはありますか?
 雛子からのメールは珍しく簡潔で、その一文だけだった。
 しかしたったそれだけの文章から彼女の切実な不安がありありと窺えた。受験生が病人の面倒を見たいなどとおかしなことを言い出すものだ。俺はどう返事をしていいのかわからなくなり、布団に仰向けに寝転んで携帯電話の画面を眺める。明かりを点けていない部屋では返信メールを編集する画面が眩しくて、頭まで痛くなってくる。
 熱のせいか意識もはっきりとせず、何度かうとうとしては携帯電話を取り落とした。それでも彼女に何か返事をしなくてはならないと、気力を振り絞って一文字一文字入力した。俺は雛子に嘘をつきたくないと思っているし、雛子も俺については嘘偽りのない真実を知りたいと思っていることだろう。だから嘘をつかなくて済むように返事をするしかない。
 それで、こう送った。
 ――特にないから心配するな。治ったらまた連絡する。
 送り終えた後で限界が来た。携帯電話を放り出して目を閉じると、倦怠感と眠気に呆気なく捕らえられた。そのまま引きずり込まれるように眠った。

 熱が出始めてから二日間はほとんど寝てばかりだった。
 大槻は病院へ行けと言っていたが、それができるほどの余裕はなかった。ただひたすら、昼夜の境が曖昧になるほど長く眠った。途中で何度も目覚めては水分を取り、それが済むとまた眠るを繰り返した。意外と空腹は感じなかったが、薬を飲む必要があったので炊飯器でおかゆを作り、二日間かけてそれをちびちびと食べた。洗い物までは気が回らず、流し台に食器類を溜め込んだ。汗を掻く度に着替えをしたので洗濯機も直にいっぱいになった。そうして荒れ果てていく部屋を横目に、俺は熱にうなされ続けた。
 ある時目覚めると、窓からは白い冬の陽光が差し込んでいた。太陽の高さから判断するに恐らく今は昼時だろう。本来なら大学へ出て講義を受けるなり、学食あたりで昼食を取るなりしている頃合いだ。しかしこうして部屋で横になっていると、言い知れぬ焦燥感が湧き上がってくるようだった。
 それでなくともこのアパートは他の住人の影が薄く、昼夜を問わずいつも静かだった。現在も外の道を時折車が走り抜ける以外は物音一つせず、まるで自分が世界から切り離されて孤立しているような気にさえなる。
 心細い。
 と、随分久し振りに思った。
 しかしすぐに情けなくなった。小さな子供ならともかく、二十歳の大人がたかだか風邪で熱を出したくらいで心細いなどと言う方がおかしい。そもそも風邪を引いたのは自分の責任なのだから、こうして苦しんでいるのも自業自得というものだ。
 それでも、小さな子供だった頃の気持ちを思い出していた。俺が風邪を引いて熱を出すと、澄江さんが心を込めて看病してくれた。うなされていると俺の手を握りながら顔を覗き込んでくれて、皺だらけの手の冷たい感触と、熱に滲む視界に移る心配そうな面持ちに、安堵と申し訳なさが入り混じった複雑な感情が込み上げてきた。澄江さんには心配をかけたくなかったのに、季節の変わり目ごとによく熱を出したり喉を痛めたりして、その度に焦燥感に苛まれていたあの頃――澄江さんにうつすのが嫌で、なるべく一人で寝ているようにしていた。だが一人きりになるとたちまち心細くなり、熱がもたらす辛さと苦しさに呻いては澄江さんにかえって心配をかけた。
 大人になったところで状況はそう変わらない。俺は風邪を引いて熱を出し、雛子にも大槻にも心配をかけている。自業自得の苦しみを他人にまで振り撒いて、そして熱にうなされながら孤独への焦燥と心細さを抱いている。
 誰にも心配をかけずに生きられたらいいのに。
 いっそ、誰も心配してくれなくても構わない。
 俺のことで雛子や大槻や澄江さんに心配をかけるのが心苦しかった。そのくらいならいっそ、病気の時は誰にも気にされない方がいい。風邪を引いたのも熱を出したのも全て俺自身のせいだと遠慮なく糾弾される方がよほど楽だ。
 短絡的な思考に支配された頭は、しばらくするとまた眠りに落ちた。そうして二日の間、俺はたった一人で高熱と戦い続けた。

 寝込んでから三日目を迎えると、ようやく熱も下がり始めた。
 夕方熱を測ったら、デジタル体温計の窓に表示された体温は三十七度四分だった。気がつくと身体もいくらか楽になっており、関節の痛みもなく意識もはっきりしていた。
 だが喉は完全にやられており、声がまともに出なかった。咳もまだ取れる気配はなく、時々激しく咳き込んでは肺にまで走る痛みに苦しんだ。
 それでも熱が下がった以上、寝てばかりはいられない。荒れ放題の部屋を片づけ、少しずつ生活習慣を元のペースへ戻さなくてはならない。おかゆばかり食べていたせいか立ち上がると頭がふらついた。空腹が行き過ぎて気分もよくはなかったが、ひとまず窓を開け、濁りに濁った部屋の空気を入れ替える。
 何かちゃんとしたものを食べよう、そう思って開けた冷蔵庫に病人に優しい食べ物は入っていなかった。買い置きの食料はどれも普段食べるものばかりで、例えば梅干やうどんといったものを用意しておかなかったことを今更悔やんだ。おまけに初日に買い込んであったスポーツドリンクが切れ、台所には空のペットボトルが散乱していた。買い出しに行くべきかもしれない。しかしその前に台所を片づけ、洗濯機を回し、風呂に入る必要もある。
 洗い物を済ませた後、俺は洗濯機を回してその間にシャワーを浴びた。風邪を引いているからと湯温を普段よりも高めにしたところ、風呂場を出た頃にはのぼせたようにふらふらになっていた。バスタオルで髪を拭きながら、風邪を引いた人間は知性ある生き物ではないのかもしれない、とさえ思う。ちょっとしたことにさえ判断力が働かない。
 どうにか髪を乾かし、着替えを済ませることはできた。だがそこまでで力尽き、俺は敷きっ放しの布団に倒れ込む。気分の悪さを堪えようと息をつき、やはり買い物はもう一眠りしてからにしようと思い、目を閉じかけた時だった。
 外で足音がしたかと思うと、俺の部屋の前で止まり、玄関のチャイムが鳴った。
 俺が上体を起こしてそちらに目をやれば、古びたドアが音を立てて叩かれ、震えるように揺れた。
「鳴海くん、いるー? ちゃんと生きてるー?」
 大槻の声だった。
 返事をしようとしたが声が出ず、俺は咳き込みながら玄関へ向かう。こちらの気配がわかったのかノックの音はすぐに止み、鍵を開けると、玄関のドアが三日ぶりに軋みながら開いた。
 ドアの前に立つ大槻は普段と変わりなく、人懐っこい笑みを浮かべていた。だが俺の顔を一目見た途端に眉尻を下げ、乾いた笑い声を立てる。
「相当酷くやられちゃったみたいだね……。熱は下がった?」
 俺は黙って頷いた。それから喉元を指差すと、大槻も心得たように顎を引く。
「声出ないのか。大変だね」
 そう言いつつも大槻の声にはどこかほっとした空気があった。
「でも思ったより顔色いいから安心したよ。けどやつれたなあ、ご飯ちゃんと食べてる? ってかご飯ある? 何だったら俺が買い出し行ってきてあげようか?」
 矢継ぎ早に言われて俺は戸惑った。そもそも大槻が突然訪ねてくるとは思ってもみなかった。見舞いに来てくれたということなら、事前に連絡くらいくれてもいいものを。
 俺の困惑を見て取ったのだろう。大槻は一旦口を閉じると、照れ笑いを浮かべてみせた。
「ってかさ、ぶっちゃけると、ケータイ繋がんなかったから心配になって来ちゃったんだよね」
 その言葉にはたと気づく。
 雛子にメールを送ってから、携帯電話は布団の傍に転がしておいたままだった。それから三日、一度として充電をした記憶はない。
「多分電池切れてるだけだろうなって思ったけど、もし万が一のことあったら困るじゃん」
 どうやら大槻にはかなり心配をかけてしまったようだ。俺は申し訳なさに肩を落とす。
「……部屋の電話には? かけたのか」
 無理に声を出して尋ねると喉がひりひり痛んだ。
「いや、ケータイ充電できてないってだけでも大事かもって思ってさ……」
 大槻はどことなく気まずげに笑んだまま続ける。
「まあ何て言うか、顔見て無事か確かめときたかっただけだよ。悪いね、急に押しかけて」
 謝ってもらうようなことではない。それだけ俺を案じてくれたことを、むしろ感謝しなくてはならない。
 ただ申し訳ない気持ちが強すぎて、俺は何と言っていいのかわからなかった。奴の言葉にかぶりを振るのが精一杯だった。
「あ、そうだ」
 思い出したように大槻が肩から提げていた鞄を開ける。そこから真っ赤に色づいたリンゴが二つ現われて、俺に向かって差し出された。
「これ、仙人から。お見舞いだって」
「先生から?」
 聞き返した途端に喉が引きつり、俺は口元を押さえて激しく咳き込んだ。
 大槻はそれが収まるまで辛抱強く待ってから、
「君の様子見に行くって話をしたら、持ってきなさいって言われたんだよ」
 と言い、少しだけおどけたような顔をする。
「何日か哲学の研究室に置いてあったやつなんだって。だから承認欲求が満たされて、自己実現の欲求が生まれてるんじゃないかって仙人が言ってた」
 それからリンゴに目を留めて、更に続けた。
「食べてみてどんな味がしたか、あとで報告が欲しいって言ってたよ。もしかしたら自己実現の味がするかもってさ」
 自己実現の味とはどんなものだろう、いや、そもそもそれに味はあるのだろうか。俺は無言で首を傾げた。これもあのユニークな教授なりの冗談ということなのか。
 だが大槻は俺よりも早く真理に気づいたという顔で、こう続けた。
「つまり、治ったら顔出せってことだろ。心配されてんだよ、君は」
 俺は返す言葉もなく、下駄箱の上に置いたリンゴを眺めた。
 熱を出してうなされている間でさえ、俺とこの部屋は世界から切り離されてはいなかった。それは心苦しいことではあるが、恐らくは幸いなことでもあるのだろう。

 大槻が買い出しに行ってくれると言うので、俺は奴に頭を下げた。
「済まない。今はお前しか頼れる相手がいない」
 言い終わるか終わらないうちに俺が咳き込むと、大槻は押し留めるみたいに手を振る。
「いいって無理に喋んなくても。ってか謝ってもらうことでもないし」
「雛子にも頼めないから、お前に負担をかけるようで本当に心苦しいんだが――」
「わかったから。とりあえずほら、筆談にしよう筆談に」
 大槻の提案を受け、俺は奴に買ってきて欲しいものをメモ用紙に記して手渡した。
 そして大槻が買い物に出ている間、携帯電話を充電器に差し込み、洗濯物を干し、布団も一旦上げておく。もちろん全ての行動をスムーズにできたわけではなく休み休みする羽目にはなったが、やるべきことを済ませると人心地つけた。電源を入れた携帯電話には大槻からのメールが三通届いており、内容はどれも俺の安否を気遣う文章だった。雛子からはまだ連絡はなかったが、こちらから連絡すると言ってあるから大丈夫だろう。
 買い物から戻ってきた大槻は、俺の為に鍋焼きうどんを作ると言い出した。そこまでしてもらうのも悪いし、何より奴に風邪をうつす心配があったので断ろうとした。だが大槻は頑として譲らない。
「病気の時くらい素直に頼りなよ。友達だろ?」
「しかし、散々心配をかけたのに」
 喉に声が引っかかるようで上手く話せない。また咳き込みそうになるのをどうにか堪えた時には、大槻はさっさと台所に立って鍋に火をかけていた。
「自慢じゃないけど俺、うどん煮込むの超上手いよ。楽しみにしてて」
 事前にそう宣言した通り、大槻が作った煮込みうどんは美味かった。久々に食べたおかゆ以外のまともな食事であることを差し引いても十分すぎるほどだった。俺は喉の痛みを鬱陶しく思いつつもうどんを残さず食べ、教授がくれたリンゴもすりおろして食べた。自己実現の味がしたかどうかはわからなかったが、こちらも美味かった。
「念の為、病院行った方いいよ。何だったら付き添ってあげようか」
 大槻はそこまで言ってくれたが、さすがに二十歳にもなって一人で病院に行けないのはみっともない。それは大丈夫だと答えておいた。起き上がれるようになってきたことだから、明日辺り一度行っておくのもいいかもしれない。
「心配をかけて悪かった」
 帰り際、玄関で靴を履く大槻に、俺は改めて詫びた。
 振り返った大槻が苦笑する。
「だから、謝んなくていいって。何でそんなに気に病むかね」
「誰にも心配をかけたくなかった」
 自分の声ではないような、がらがらの声がそう言った。
「なのに、お前にも、他の人たちにも随分心配をかけた。そのことが心苦しい」
 心配をかけている、という方が正しいだろう。俺が早く風邪を治さなければ、今以上にいろんな人の心を煩わせることになる。
 派手な青色のスニーカーを履き終えた大槻が、三和土の上に立ち上がる。
「鳴海くんはさあ、人に心配かけるの、すごく嫌みたいだけど」
 俺を見上げるようにして、軽く眉を顰めながら笑った。
「心配してる側からすれば、ちょっとくらい寄っかかってくれる方が安心できたりするんだよ」
 大槻はそう言うと細く息をつき、
「さっき君は『雛子ちゃんにも頼めない』って言ったけど、本当は違うよね。たとえ頼めたって、君は雛子ちゃんにも、誰にも頼ろうとしないつもりだったんだろ?」
 口調はあくまでも穏やかに、淡々と続けた。
「でも俺は頼ってくれた方が嬉しいし、雛子ちゃんだって絶対そうだよ。そういう考え、改めるべきだと思うな」
 もっともな言葉に、俺は口を噤んだ。もしこれが逆の立場なら、大槻が風邪を引いて寝込んでいるのにちっとも頼ろうとしてこないなら、俺も同じことを思ったことだろう。相手が雛子でも、澄江さんでもそうだ。心配している相手には、いつでも手を差し伸べる用意がある。俺にもそういう気持ちがないわけではないのに、自分のこととなると途端に考えが滞る。至極単純な結論に行き着けず、一人で抱え込もうとしてしまう。
「また何かあったら連絡してよ。駆けつけるからさ」
 ドアノブに手をかけた大槻が軽く手を挙げる。
 俺は頷き、礼を言った。
「ありがとう」
 それからもう少し何かましなことを言っておくべきだと思い、考えてから付け足した。
「俺は、いい友達ができた」
 大槻は一瞬ぽかんとして俺を見た。
 が、すぐに愕然とした顔つきになり、
「今気づいたの!?」
「いや、そういうわけでは」
 ないのだが、こういうことを言う機会もなかったし、何より俺はこの手の言葉を、雛子への愛の言葉と同様に薄っぺらなものだと長らく思い込んでいた。そもそも普通の友人同士は、いちいちそんなことを言い合わないものなのかもしれない。
 大槻はしばらくの間渋い顔で何事か考えていたが、やがて気を取り直したようににんまりして言った。
「何なら今日からは、親友と呼んでくれてもいいんだよ!」
 それは普通の友達とどう違うのだろう。友達すらずっといなかった俺にはよくわからない。
 友達がいるだけで十分だ、とも思っている。

 それから俺の病状は、ゆっくりとではあるが次第に回復し始めた。
 四日目には病院へ行き、適切な治療と投薬を受けることができた。
 五日目にはいつも通りの時間に起きられるようになり、食事も白米中心の献立に戻すことができた。
 六日目には机に向かうこともできるようになった為、遅れてしまった勉強を進めたり、疲れない程度に本を読んだりもした。
 喉の痛みも一時期よりは和らぎつつあったが、なかなか咳は取れなかった。熱を出してから一週間が経とうとしているが、未だに話そうとすると咽るような咳が出る。医者によれば大分喉を痛めてしまったようなので当然だということだったが、咳が長引くと体力を消耗するし、外出するにも気を遣う。俺はまだ大学に戻れておらず、教授にリンゴの味を伝えることもできていなかった。
「何か先輩に聞いたんだけど、喉痛い時はウイスキーがいいって」
 大槻がそう言って、わざわざ小瓶に入ったウイスキーを持ってきたのには閉口した。いかに喉にいいと言われても、病み上がりの体力が落ちている時に酒を飲むようなことはしたくない。
「騙されたと思って飲んでみなって! 先輩はこれでうがいをしたおかげで軽い風邪で済んだらしいよ」
「騙されるのは嫌だ。それにお前は以前も担がれていたじゃないか」
 ゴーヤの話を思い出して俺が反論すると、大槻も少し自信なさそうな顔をする。
「いや、今回はマジだって。多分……」
「じゃあお前が試してみてからにしてくれ。喉が痛くなった時にでも」
「いいけど、俺が試すんじゃ何年先になるかわかんないよ」
 あっけらかんと言い切った大槻は、四日目以降も足繁く俺の部屋を訪ねてきては買い物を引き受けてくれた。そして一週間目を迎えても、奴は風邪を引く様子がまるでなく、元気そのものだった。
 そして俺の方も体力、気力共にすっかり戻りつつあった。唯一咳だけが続いていたが、喉が痛くても喋りたくなる程度には元気だった。
「ってか鳴海くん、雛子ちゃんにはしっかり連絡してる?」
 大槻は時々、雛子のことを気にかけていた。奴に言わせれば俺は甚だしい連絡不精ということらしいので、釘を刺してやろうなどとお節介なことを考えたのだろう。
「大丈夫だ。連絡はしてある」
 俺がそう答えると大槻は目を剥き、すぐに疑わしげな視線を向けてくる。
「本当に? ちゃんと風邪引いたことも言った?」
「ああ」
 治ったら連絡をすると言っておいたおかげか、雛子から連絡を寄越してくることはなかった。きっと彼女は俺が養生に努めていると思ってくれているのだろう。なるべく早く連絡をしてやりたいと思うが、その時はメールではなく、電話をしたいとも思う。
 彼女の声が聞きたくなっていた。そして俺を心配してくれているだろう彼女に、元気な声を聞かせて、早く安心させてやりたかった。
 だが現状はどう聞いても病み上がりの嗄れた声をしているし、咳も消えてはいない。彼女に連絡をするのはまだためらわれた。
「ならいいけど」
 どこか半信半疑の口調で大槻は言い、その後で冷やかすように笑んだ。
「まあ俺の知らないところで君たちの愛も海か海溝かってくらい深まってるようですし、君もマメに連絡取るようになったのかな、なんて思いますけどね」
 熱のある間はいい奴だと思えていたが、風邪が治ると途端にいつもの大槻に戻ったようだ。俺は返事をするのも億劫で、無視を決め込んだ。
 すると大槻は俺の部屋を興味深げに見回し始め、
「雛子ちゃんが大学入ったら、やっぱ同棲すんの?」
 と言い出したので、俺は思わず咳き込んだ。
「するわけがない」
「え、本当に? 何でだよ、すればいいじゃん」
「馬鹿なことを言うな」
 まるでどこかその辺にでも出かけるような、気軽な言い方をしてくれる。俺はすっかり面食らったが、大槻はどうも本気のようだ。
「だって雛子ちゃんって、こっちまで電車で通ってんだろ? 大学も電車通って結構辛くない?」
 大槻はいかにも名案だというように得意げな顔をした。
「それに君みたいな男は、誰かと一緒に暮らした方が絶対いいと思うよ。心の平穏的な意味でね」
「意味がわからん」
 咳をしながら俺は一蹴した。
 大体、親に学費や家賃を出してもらっている身分でそんなことができるはずもない。おまけに雛子は未成年で、俺はまだ彼女のご両親に挨拶にも行っていない。そういうものを全てクリアしても尚、法的な縛りのない同棲という行為には軽薄さ、ある種の無責任さを感じる。そこまでするなら結婚をするのが筋ではないだろうか。
「いいじゃん憧れるじゃん。毎日朝起きたら雛子ちゃんがいて、夜に部屋に帰ってきたらやっぱり雛子ちゃんがいて……みたいなの。駄目? 興味ない?」
 確かにそういう生活が素晴らしいものであることに異存はない。だからと言って同棲などというのはやはりどうかと思う。
「そんな迂闊なことをしたら、かえって彼女を悲しませる」
 道のりの長さを認識しつつ、俺は嘆息する。
 大槻は俺の顔をじっと見てから、低く呟くように言った。
「でも、ぶっちゃけしたいんだろ?」
「……聞いてどうする、そんなこと」
「雛子ちゃんのいる生活が一刻も早くやって来ないかなあとか、毎日のように思ってるんだろ?」
 そこまでわかっているならなぜ聞くのかと、俺はむしろ大槻に問いたい。
 黙って睨みつけてやると、大槻は腑に落ちたような顔をしながら立ち上がった。
「はいはいわかりました。とりあえず俺、そろそろお暇するよ」
 それから玄関で素早く靴を履き、ドアを開けながら、見送りに出た俺に笑顔を向けてくる。
「また何かあったら連絡して。お大事に」
 俺は先程の苛立ちを多少引きずっていたので、黙って頷くだけに留めた。
 大槻もまた心得たようににやにやしながら、ドアをくぐって外へと消えた。玄関のドアが閉じた後、吹き込んできた粉雪がぱっと散って掻き消えた。
 そういえば今日はまた一段と冷え込む日だ。俺は早々に玄関を離れ、ストーブの前へと戻った。病み上がりなのに身体を冷やしてはまたぶり返すかもしれない。

 それから、三時間ほど経ってからのことだ。
 大槻が電話をかけてきた。
 何か忘れ物でもしたのかと部屋を見回しながら電話に出ると、
『――あ、鳴海くん? 今ちょっと話せる?』
 気のせいか、少し落ち着きのない声が聞こえてきた。
「少しなら。どうした?」
 咳払いをしてから応じる。
 大槻は間を置かずに続けた。
『喉辛いなら俺の話聞いてくれるだけでいいよ。実はさ――』
「ああ」
『今日、雛子ちゃんに会ったんだ』
 その言葉を聞いた途端、彼女の面影が瞼の裏に浮かび上がるようだった。
 彼女はどうしているだろう。元気でいるだろうか。俺のことをあまり心配していないといいのだが。そんなことを立て続けに考えているうち、大槻がためらいがちに語を継いだ。
『君の部屋の前で』
「……は?」
『いや、だから、来てたんだよ雛子ちゃんが。君のアパートの前まで』
 大槻はそこで自ら慌てたように言い添えてくる。
『あのさ、怒んないであげて欲しいんだ。雛子ちゃんも君を心配して訪ねてきたみたいだから。で、俺と出くわしたから、俺は君のこと大丈夫だって伝えておいたんだけど――』
 俺は言葉に窮した。
 怒ってはいなかった。腹立たしいというならむしろ自分自身の迂闊さの方だ。なぜ彼女の気持ちをいつもいつも読み誤ってしまうのだろう。
 雛子が、俺を心配していないはずがないのに。
 一週間という時間が彼女にとってどれほど長かったのか、まるで考えもしなかった。
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