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全てで恋をする(4)

 雛子を、俺の部屋へ連れてきた。
 鍵を開けて玄関の扉を開くと、彼女は何の躊躇いもなしに中へ入り、脱いだ靴を身を屈めて揃える。
 後に続いた俺が玄関に鍵をかけ、靴を脱いでいる間に、彼女は部屋にある座卓の前に腰を下ろした。久し振りに訪れたからだろう、室内を懐かしむように見回しているのが印象的だった。
 本当に、久し振りだった。八月の旅行の前までは、こんなに間が空くなんて思いもしなかった。彼女をここへ連れてこないようにしようとまで思いつめるようになったのも、あの旅行の――あの夜の出来事のせいだった。
 ああいう感情を彼女に対して、またしても抱いてしまったことと、その後の一連の行動を彼女に隠していること、どちらに対しても罪悪感はこの上なく重く、全身に圧し掛かってくる。

 俺はあえて室内には立ち入らず、座る彼女を見下ろして尋ねた。
「弁当の用意はできている。食べるか?」
「えっ、もうですか?」
 弾かれたように顔を上げた雛子が、次いで携帯電話を取り出す。水色をした薄型の電話で現在の時刻を確認したのだろう。すぐに控えめに笑んだ。
「食べられなくはないですけど、もうちょっと後でもいいと思います」
 弁当を食べに来たのではないのか、と俺は内心で焦る。さっさと片づけてすぐにまた出かける気でいたこちらの心算が狂ってしまう。
 食べられなくはないのなら食べられるだろう。俺は改めて確かめた。
「腹は減ってないのか」
「そうですね、まだ……」
 雛子は小首を傾げてから、逆に聞き返してくる。
「先輩はお腹空きましたか?」
「それほどでもない」
 正直に言えば、食欲自体あまりない。それでも彼女が空腹だと言ったなら無理をしてでも食べるつもりでいた。
 だが雛子が空腹ではないのなら、これ以上強くは勧められない。
「じゃあ、もう少し後にしましょうか」
 彼女はあっさりと昼食の先延ばしを宣言した。
 待ち合わせ時刻が十時だったのだから、現在はせいぜい十時半頃だろう。彼女の腹が空くのはあと何時間後だろうか。その間、俺たちは何をして過ごせばいいのだろう。それでなくてもここにこうして二人でいるだけで身を切られるような思いがするというのに。
 床に座ったままの雛子を横目で見る。今日はジーンズだからか足を崩して座っていたが、オレンジ色のカーディガンを着た背中はぴんと伸ばされていた。いつものように耳の下で髪を二つに結わえており、そのせいで真っ白な首筋がよく見えた。ここに来るまではその剥き出しの首を竦めて何度か寒そうにしていたが、今はただきょとんとした顔でこちらを窺っている。落ち着きのない俺の態度を訝しがり始めたのか、しばらくじっと見つめられていた。
 そのうちに眼鏡の奥の瞳が忙しなく瞬きをする。
「どうかしましたか?」
 おずおずと問われ、俺はこの場を立ち去る口実を考えた。とりあえず何かしなくてはならない。
「いや。それより何か飲むか、雛子」
 思いついて俺は尋ねた。
「え? いえ、お構いなく」
 すぐさま雛子がかぶりを振ったので、思いつきが台無しだと俺は更に慌てた。
「不似合いな遠慮をするな。どうせ大した手間じゃない」
 いつもなら遠慮はしないくせに、今日に限ってなぜ断ってくるのか。腹が減っていないからと言ってまさか水分も入る余地がないということはあるまい。
 そう思い、強く勧めた。
「寒い中を歩いてきた後だ、温かいものでも飲んでおくべきじゃないのか」
 すると雛子は圧倒されたように身を引いた後、軽く頷いて言った。
「そういうことなら、いただきます」
 救われた思いがした。
 だがそのせいで勢いづいてしまったのだろう、
「紅茶とコーヒーならどっちがいい?」
 俺は聞かなくてもいいはずの問いを尋ね、
「紅茶がいいです」
 雛子はそれに、特に気づいた様子もなく即答した。
 素早く踵を返して台所へ逃げ込んだ後、俺は湯を沸かそうとやかんに水を注いだ。しかしやかんを持つ手は自然と震え、俺が想像以上に動じていることを、頼んでもいないのに気づかせてくれる。
 彼女がコーヒーよりも紅茶の方が好きだということは、もう十分すぎるほど知っていた。だから俺はこの部屋に、一人では滅多に飲まない紅茶を用意しておくようになったのだ。わざわざ聞くまでもないことを聞いてしまうほど、俺はこの状況にすっかり打ちのめされている。
 早く、ここから抜け出さなくてはならない。

 できるだけ時間をかけて紅茶を入れようと思ったが、精一杯引き延ばしたところで稼げる時間もたかが知れている。
 そうこうするうちに湯が沸き、湯の中で茶葉がこっくりと色を滲ませ、二人分の紅茶の用意ができる。俺は覚悟も決まらぬうちから二つのティーカップを向こうの部屋へ運び出す。彼女の前にある座卓に二つ、わざと離して置いてから、彼女の視線を振り切るように台所へ引き返した。
 時間を稼ぐのに都合のいいものがあったのを思い出した。冷蔵庫を開けてそれを取り出すと、再び雛子の元へ戻る。
 怪訝そうに俺の忙しない動きを見守っていた彼女の前に、その箱を置いてやった。
「チョコレートだ。前に来た時、食べていかなかっただろう」
 離れた位置に座った俺が説明を添えると、雛子は俺の顔とチョコレートの箱とをしげしげと見比べる。
「お前が食べないと減らないからな、あれから長いこと冷蔵庫に入りっ放しだった。今日食べるなり、持ち帰るなりしてくれ。その為に買ってきたんだからな」
 そこまで話すと彼女もようやく思い当たったようだ。途端に眉尻を下げて、申し訳なさそうに言った。
「す、すみません……。私、ずっと食べに来ないままで……」
「気にしなくていい。これだけ間が空いたのも、お前が悪いわけじゃない」
 俺は首を横に振る。雛子が悪いわけではないのだ、全てにおいて。
「でも、先輩がせっかく買ってくれたものなのに――」
「俺もずっとお前を呼ばなかった。それでは食べる機会もなくて当然だ」
 彼女の謝罪を遮って断言する。
 それでも雛子は気に病んだ顔つきをしていた。俺に真っ直ぐな視線を向け、何か言葉を探している様子だった。それが弁解でもただの世間話であっても、今の俺に聞いている余裕はない。
 目を逸らし、急いで促した。
「しつこいぞ、気にするなと言ったはずだ。いいから黙って食べろ」
「……そうします」
 雛子はいそいそと包装を解き始め、曇りかけた透明なビニールを箱からするりと脱がした。そこで一旦箱を卓上に置き、両手で箱の蓋を持ち上げる。中には二十個の小さなチョコレートが詰められており、その一つ一つが小さな仕切りの中、ぎざぎざしたカップに収められている。どのチョコレートも店頭で見た通りの形を維持したまま、店頭で見た通りに並んでいた。
 俺がこっそり目の端で見守っていれば、雛子は箱の中身を口を開けて眺めていた。しばらく眺めた後で大切な宝物でも見つけたように目を輝かせ、こちらに極上の笑顔を向けてくる。おかげで即座に顔を背けなければならなかった。
「こんなに素敵なチョコレート、ありがとうございます」
 彼女の感謝の言葉には温かい心が込められていた。喜んでもらえてよかったと思う反面、本当ならもう少し早くに渡せていたのにとも思い、無性に悔しくなる。
「誕生日らしくはないがな」
 俺はわざと素っ気なく言うと、彼女がチョコレートだけに夢中にならないよう釘を刺しておく。
「雨が止んだら、ケーキでも食べに行くか」
「いえ、十分ですよ。お弁当もありますし、いいお誕生日になりそうです」
 意外にも彼女は俺の提案をやんわり断ってきた。甘いものなら際限なく食べるだろうと思っていた彼女がケーキを拒むとは思ってもみなかった。こちらとしては目論見が外れた格好だ。
 ケーキを食べに行くという口実を使えなくなるのは困る。そして今の彼女の口ぶりでは、プレゼントさえ要らないと言い出しそうで更に困る。どうにかして雛子をここから連れ出さなければならない。
「そうは言っても、ずっとここにいるわけには……」
 言いかけた俺はふと、頬の辺りに視線を感じた。雛子がこちらを見ているのに気づくとたちまち頬が炙られたように熱くなり、脳裏を埋め尽くしていた様々な心算が意味をなさない文字列に置き換わる。考えがまとまらないどころか、考えることさえできなくなる。
「こっちを見るな」
 俺は彼女を咎めた。
「え? どうしてですか?」
 だが雛子は咎められたことに納得がいかない様子だ。不思議そうに聞き返してくる。
「どうしてもだ」
 強く見つめられると、心底まで見透かされているような気分になる。俺の浅ましい目論見も、隠し事をしている事実も罪悪感も、そして今日までに彼女に対して抱いた感情の全てを、彼女はそのレンズ越しになら見抜くことができるのではないかとさえ思えた。
 彼女は以前から、こうして俺を見つめるのが癖だった。会話の途中で俺の話を聞こうとする時も、俺からの質問に答えを返す時も、彼女は揺るぎない眼差しをこちらへ向けてきた。耳だけではなく、目でも話を聞こうとしているようだった。
「どうかしたんですか、先輩」
 そして今も、雛子は俺の話を聞こうとしている。
 到底話せはしないことを抱え込み、押し潰されそうになっている俺から何かを聞き出そうと試みている。彼女からすれば今の俺は明らかに不審な態度なのだろうし、もしかすると深い苦悩を抱えているようにも映るのかもしれない。だからこそ彼女は聞きたがるのだろうし、内心では案じてさえいるのだろう。
 俺の中で罪悪感が膨れ上がり、せめぎあっていたその他の感情を呑み込み始めた。元から考え事ができる精神状態ではなく、彼女の眼差しにいつの間にやらじりじりと追い詰められ、遂に思いもしない言葉が口をついて出る。
「俺は、この空気に、長く耐えられる気がしない……」
 自分でも思いがけない言葉ではあった。
 だが紛れもない本音だった。
「……何ですか? 空気って」
 雛子は俺の呟きをすぐに拾い、どういう意味かと聞き返してきた。
 俺は即答を避け、目を伏せる。微かな雨音が室内に満ちてきて、辺りはしばし静寂に包まれた。

 終わりかもしれない。そう思っていた。
 真実を打ち明ければ、彼女は俺を軽蔑するだろう。そこまでではなくとも、もう以前のように慕ってはくれないだろう。彼女が理想とする人間像とは程遠い俺に、彼女がどんな審判を下すか、とてもではないがいい想像はできなかった。
 それならば黙っておくべきなのかもしれない。いっそ墓場まで持っていくべき秘密なのかもしれない。だが俺は日毎に膨らむ罪悪感を背負いきれるほど強い人間ではなく、彼女の眼差しから目を背け続けることもできなかった。彼女の好意に恥じない人間でありたかったが、それが叶わないのであればせめて、彼女に嘘だけはつきたくなかった。
 乱れていた心に一つの決意が沈んでいく。するともはや、それしか考えられなくなっていた。もしかすると俺は端からこのつもりで――彼女に全てを打ち明け、懺悔をするつもりでここへ連れてきたのかもしれない。今日雨が降り、ピクニックが中止になったのも、全てはこの時の為の天の配剤であったと思うべきなのかもしれない。
 沈んだ決意が心底に辿り着き、動きを止める。覚悟が決まる。
 もし、もしも、雛子がその心優しさから俺を許してくれたなら、その時こそ俺は心を入れ替えて彼女の為に生きよう。あのメールのやり取りのように、彼女に対して無私の愛を捧げよう。
 しかし許されることを望んではならない。今から俺は、真っ当な人間ならば引き起こさないような狼藉を告白するのだ。それがどんな結果をもたらそうとも当然の報いだと思わなくてはならない。

「お前には申し訳ないことをしたと思っている」
 俺は俯いたまま、慎重に口火を切った。
 長らく黙り込んでいた俺を、同じように黙って待ち続けてくれた雛子が、そこで声を裏返らせた。
「え!? な、何ですか急に」
 彼女が狼狽しているのがその声からわかった。胸が軋むように痛んだ。
 これからもっと傷つけることになるのかと思うと、痛くて、苦しくて堪らない。
「仕出かした以上は腹を括り、墓場まで持っていくつもりでいたが……」
 それでも必死に言葉を紡いだ。
「どうやら俺にもなけなしの良心があったらしい。何も知らないお前を見ていると、どうにも息苦しくてたまらなくなってきた。今日が潮時だと思った」
 皮肉なものだ。彼女の理想に見合う、真っ当な人間でありたかった俺が、唯一まともに良心を働かせる機会を得たのが今日のこの瞬間だとは――。なけなしの良心にしろ、もっとまともな使い時があったはずなのに、やはり今の俺はまだ未熟で情けない人間でしかない。
 意を決して面を上げる。
 先程から俺を見つめ続けていた雛子は、動揺がありありとわかる顔をしていた。瞬きもせずこちらに見入りつつも、不安の色が絶えず揺れている。唇は微かに震え、呼吸を整えようと苦心しているのが見て取れた。
 彼女にそんな顔をさせてしまったことを深く悔いながら、俺はようやく本題となる一言を発する。
「俺は、お前に隠し事をしている」
「えっ……」
 雛子は息を呑んだ。
 それは当然の反応だろう。隠し事をしていると恋人に打ち明けられ、衝撃を受けない者などいない。
 だが直後の反応はいささか予想外だった。雛子はすぐさま身を乗り出すようにして、
「隠し事って何ですか」
 と聞き返してきたので、今度はこちらがうろたえる番だった。
「そう聞かれてたやすく答えられるなら、そもそも隠したりはしない」
「そ、それはそうですけど」
 俺が答えを濁したせいか、雛子は困ったように身を竦める。
 しかし、まさかずばりと切り込んでくるとは思わなかった。確かに彼女は、時に顔に似合わぬ豪胆さを見せることもこれまであったが、真正面から聞き返されるとこちらが驚かされてしまう。
 その雛子は少しの間、俺がしていそうな隠し事について頭の中で推論を展開していたようだ。
「まさか……」
 やがてその顔が恐れと悲しみに凍りついたかと思うと、形のいい眉を曇らせ、びくびくと怯えながら語を継いだ。
「先輩に、他に好きな人ができた……ということではない、ですよね?」
 一瞬、耳を疑った。
 そういう話をしていただろうか。首を傾げたくなるような思いで俺は答える。
「あり得ると思うか? そんな馬鹿げた話」
「い、いいえ。一応可能性として聞いてみただけです」
 雛子は慌てて両手を振り、
「お前一人にここまで手を焼いているくらいだ。他の女に目を向ける余裕などない」
 俺は率直に、ありえないことだと断言しておく。
 そもそも他人にこんな気持ちを抱く日が訪れるとは思わなかった。そして恋愛というものがこれほどままならず、ややこしく、自分の意思だけではどうにもならないものだとは思ってもみなかった。精神的に成熟していない人間が迂闊に手を出していいものではない。本来ならば俺は、避けて通るべきだったのかもしれない。
 だが彼女と出会い、彼女に恋をしたことで、世界全てが変わって見えるほどの幸いを得たのも事実だ。俺はこの二十年の人生のうち、死にたいと思ったことは一度もないが、生きていてよかったと思えるようになったのはごく最近のことだった。彼女と出会ってからだ。これからの人生全てが幸いであればと願うようになったのも、同じように彼女の幸いを願うようになったのも、全てが柄沢雛子という人間との出会いが契機だった。
 その柄沢雛子は今、俺の目の前で寄せていた眉を開き、安堵の表情を浮かべている。場違いなくらいに深い息をついた後、微笑んでいるようにさえ見える表情を浮かべた。
「では、どういうことなんですか?」
 俺に続きを促す声も妙に明朗だった。俺が浮気、心変わりをしたのでなければいいと言わんばかりの態度だった。意外と浅薄な考え方をするものだ。それよりももっと自らを傷つける可能性について、彼女は恐らく幼さゆえに想像もつかないのだろう。
 状況に違和感を覚えつつ、俺も続きを話そうと試みる。
「言いにくいことなんだが……」
 本当に、言いにくいことだった。
 口にするまでに何度となく躊躇った。視線のやり場に迷い、ティーカップ二つとチョコレートの箱が置かれたままの座卓をしばらく眺めた。膝の上で握り固めた拳が血の気を失い、ぶるぶると情けなく震えた。
「八月の、旅行の話だ」
 それでも言わなければならない。俺は勇気を奮い立たせる。
「お前を連れてあの田舎へ出かけた時のことを覚えているな」
「はい」
 雛子がいつものトーンで返事をする。俺が呼びかけた時、何か頼み事をした時、彼女はいつも短く、静かな声で応じてくれた。
 いつまでも、この声を聞いていたかった。
 俺は迷いを断ち切り、尚も続ける。
「あの時、俺はお前に、不埒な行為を働いた」
 そう告げると、雛子は予想だにしない言葉を聞いたと言うふうに呻いた。
「ふ、不埒な……?」
 俺の言葉の最も言いにくい、これでも精一杯緩やかな表現にしたつもりのその単語を捕まえ、声に出して繰り返してみせる。彼女がこれまでの人生で口にしたこともないであろうその単語を彼女の澄んだ声で聞くと、今更でしかない猛烈な後悔が腹の底から湧き上がる。
「そんなこと、ありました?」
 おまけに雛子は堂々と、こちらが言いにくいと思っていることの詳細を尋ねてくる。無邪気さを装った拷問ではないかと思えてくる。
 傷口に指を突っ込まれて穿り返されるような痛みを覚え、俺は顔を顰めて答えた。
「厳密に言えば、途中で思い留まった。だからお前が知っているはずはない」
「そうなんですか……」
 ほっとした、のだろうか。雛子が肩を落とす。
 よくわからない反応だと思ううち、またしても彼女の方が、
「一体、何をしたんですか」
 追及の手を緩めず尋ねてきたので、俺はいよいよ心臓がいかれるのではないかと不安を覚えた。
「そう次々に聞くな。言いにくいから言いよどんでいるのがわからないのか」
「でも、聞かないことにはどうとも判断できませんし」
 確かに、罪人に言いよどむ権利や表現を選ぶ権利などあるはずもない。全てを話すだけではなく、なるべく簡潔に、彼女にもわかりやすく打ち明けなくてはならない。
「……わかった。今から言う」
 俺は細く長い息をつき、告白すべき事柄のうち最も言いにくいくだりに触れる。
「その、お前が寝ている時、むしろあれは寝入り端だったか。……ともかく」
 なるべくあの時のことを思い出さないよう、正気を保ちながら話した。
「お前の寝顔を見てやろうとしたら、つい魔が差した。つまり、その時に――」
 しかしその時、雛子の表情に何かひらめくものがあった。
 すぐに頬に赤みが差し、落ち着きなく瞬きを始めたかと思うと、恐る恐る手を挙げて、
「え、ええと、先輩。ちょっといいですか」
 言いにくい話に口を挟まれることより惨い仕打ちがこの世にあるだろうか。俺は愕然としたが、雛子は構わず言った。
「あの、私、知ってました」
 何を。
 何を言われたのか、まるで理解できなかった。
 固まる俺をよそに、雛子はもじもじと恥ずかしい秘密でも打ち明けるような顔つきをして、声を潜めた。
「先輩こそ知らなかったでしょうけど、私、あの時、起きていたんです」
 その潜めた声が俺の頭の中に流れ込むと、途端にぐらぐらと大音量でこだまし始めた。
 起きていた。
 彼女が――あの夜に?
「はっ?」
 俺の口から叫びのような声が飛び出し、すぐにぞっとする悪寒とのぼせそうになるほどの体温の上昇を感じた。背筋に汗が伝い、呼吸が乱れ、目が眩む。
「いや、まさかそんな……そんなはずはあるまい。お、起きていただと?」
 狼狽のあまり喘ぐように聞き返すと、雛子は叱られた子供のような、ばつの悪そうな微笑を浮かべる。
「はい。あんまり寝つけなくて、でもずっと扇いでもらうのも悪いと思って」
 つまり、彼女はあの夜、俺が何をしたのか知っているのか。
 彼女が寝ついたと思い、扇ぐのをやめ、一度は立ち去りかけたにもかかわらず戻ってきた俺がどんなことをしたのか、全て知っていたというのか。
 と言うより起きていてそれら全てを現実としてその身で感じていて、その上で翌日以降の俺にもあんなふうに普段通りに接していた、ということか。
 普段通り――いや、よくよく考えてみれば、翌朝の彼女はどこかおかしかった。早く寝ついたという割に寝不足の顔をしていたし、澄江さんにそれを指摘された際はうろたえていた様子だった。
 しかし、まさか、起きていたとは思わなかった。
「なぜ黙っていた!? あ、あの時だって、声を上げるくらいはできたはずだ!」
 思わず俺は彼女を叱ったが、雛子は慌てふためいて反論してくる。
「そ、そんなこと言われても、できないですよ普通」
「それになぜ今の今まで秘密にしていた! 非難でも何でもすればよかっただろう!」
「非難なんて、そもそもそんな必要ないですし……」
 では俺はこの二ヶ月、彼女が既に知っていることを一人で抱え込んだ気になってただひたすら塞いでいたのか。雛子が何も知らないのをいいことに、何もなかったような顔をして、墓場まで持っていくつもりで――しかし罪悪感には打ち勝てず正直に懺悔してみれば、彼女は知っていたというのだから滑稽な話だ。
 しかし、それではなぜ雛子はこの二ヶ月、俺の狼藉に知らないふりをしていたのだろう。
 俺の内心の疑問に答えるが如く、彼女はその時、恥らうように口元を綻ばせた。
「私、嬉しかったです」
 それは果たして本心なのだろうか。声が震えていたので、俺を庇い、気を遣ってくれたのかもしれないととっさに思った。
 だが雛子は覚悟を決めたように、次の言葉はきっぱりと言った。
「だから非難はしません。先輩にも不埒な行動だと思って欲しくありません」
「馬鹿なことを、言うな」
 頭がくらくらする。雛子がそんなことを言い出すとは思ってもみなかった。
 彼女は子供だから、そもそも事の重大さをよくわかっていないのだろう。ことによると何をされようとしていたのかすら把握しきれていないのかもしれない。
「昔から思っていたがお前は、そういう勘の鈍さ、隙のあるところがよくない。直せ。俺が思い留まっていなかったら、一体どうなっていたかわからんぞ」
 俺は自分の振る舞いを棚に上げ、ひとまず彼女をきつく諭した。
 それで雛子もようやく、自身の軽はずみさと俺の所業を振り返ることができたのだろう。その時、はっきりと赤面した。
「……だから言ったんだ。俺はお前にとって有害な人間にもなり得る」
 彼女に警告をするつもりで、俺は続けた。
「旅行を終えてからのこの二ヶ月、ずっと考えてきたことだ。二度とおかしな考えが頭を過ぎらないよう、お前とも距離を置こうと思っていた。少なくとも、お前が受験生のうちはな」

 考えていた。彼女にとって有益な、模範的な人間でありたいと。
 その為に必要なものは何か、不要なものは何かを考え、そして答えは出た。

「二ヶ月も……ずっと、だったんですか」
 雛子が呆然と声を発する。
「そうだ」
 俺は頷いた。
 恐らくそれで、彼女の中の疑問も全て解けてしまったのだろう。この二ヶ月間、今日に至るまでの俺の言動の根拠となるものを、彼女は理解してしまった。
 それならば何を言われても、どう思われても仕方がない。
 唇を噛み締める俺の前で、雛子はしかし、なぜか笑った。
「先輩こそどうして、私に黙っていたんですか」
 笑われるとは思わず、俺は一瞬酷く動転した。
 だが質問には答えなくてはならない。
「言えるわけがなかった。俺がお前に対していかがわしい感情を持っていることを知られたら、軽蔑されるものと思っていた。そのくらいならまだ黙っているべきだろう」
 そう打ち明けると肩から自然と力が抜け、項垂れたくなった。
「だが、結局は言ってしまったな。我ながら悪手を打ったものだ」
 全ては俺の未熟さ、弱さが招いた事態だ。
 もはや言い逃れをするつもりはない。
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