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笑いある日々(2)

 大槻の部屋はよくある単身者用アパートの一階にあるが、いつ訪ねても窮屈という印象が拭えない。
 それは言うまでもなく奴の部屋を我が物顔で占拠しているオーディオ機器のせいだ。部屋のほぼ半分がそういった機器類のスペースで、残りの半分にその他の家具を詰め込んでいるから面積以上に狭く思えるのだろう。ロフトベッドの下に勉強机と本棚をどうにかしまい込み、その前にガラスのローテーブルを置いてどうにか生活できる環境を維持している。
 今はそのテーブルの上も本や雑誌やレポート用紙で埋め尽くされていて、台所へ向かう大槻が俺に声をかけてきた。
「ああごめん、今片すから!」
 大学の帰りに立ち寄ったスーパーの袋を台所に置いた後、大槻が部屋に戻ってくる。テーブルの上に散らばる諸々を大雑把な手つきで片づけていく。そのうち何枚かの紙類が奴の足元に落ちたので、代わりに拾ってやった。
 紙には五線譜とその上で跳ねる音符が延々と記されていた。ト音記号ではなく、ヘ音記号の楽譜だった。
「これ、大事なものじゃないのか」
 俺が楽譜をまとめて差し出すと、大槻はそれを受け取り、覗いてから苦笑を浮かべる。
「マジだ。昨夜読みながら寝ちゃったんだよ」
「床でか?」
「そうそう。夏休みだからつい気抜いちゃってさ」
 先程までの扱いとはうって変わって、大槻は楽譜の束を丁寧に重ねる。そしてそれを机の上に置きながら、
「秋は俺たち、訪問演奏の時期なんだよ。夏休み明けたらしばらく忙しいかも」
 と語った。
 訪問演奏、という言葉だけで何をするのかは概ねわかった。楽団の活動は大槻越しにしか聞いたことがなく、あまり馴染みがないのだが、そこそこ活動が忙しいらしいというくらいは知っている。
「訪問って、どこへ行くんだ?」
「市内の幼稚園と保育園。童謡とかアニメソングとかやるんだけどさ」
 そこで大槻は人懐っこい表情を浮かべる。
「案外、一番いい観客ってそういう子供たちかもって思うことあるよ。知ってる曲かかると身体揺らしたり手拍子したり、一緒に歌ってくれたりさ。そういう客が相手だとこっちも楽しいんだよね」
 大槻は子供好きなのかもしれない。水を得た魚のような話しぶりだった。この性格なら騒がしい子供たちとも相性がいいのかもしれない。
 俺はあいにくと子供が好きではない。嫌いだというほどでもないがどう扱っていいかわからないし、実家にいる歳の離れた妹のことを思い出すせいかもしれない。大槻たちが出向く先に妹が通う園は含まれているのだろうか。そんな考えがふと浮かび、知ったところで何にもならないと一瞬のうちに掻き消した。
「あと依頼があれば中学校、高校にも行くよ」
 そう言ってから大槻は意味ありげににやりと笑う。
「でも残念だなあ、東高に行く予定は今年はないんだ。あれば雛子ちゃんと会えたかもしれないけど」
 彼女の名前が出ると、俺はどういう表情を取っていいのかわからなくなる。一番いいのは平然としていることなのだろうが、それができれば今日まで何の苦労もしていない。
 だが大槻は事あるごとに彼女の名を口にしては俺を狼狽させる。そのやり方には遠慮も容赦もなく、こと今のような状況では顔にも態度にも表れてしまいそうで恐ろしい。そして今日の場合、まず間違いなく大槻は俺に、雛子と何かあったのかと聞くだろう。それでなくても奴は、八月に旅行をしたという事実だけはしっかり知っているのだ。
「……とりあえず、酒の用意をしよう」
 俺は逃げを打つように大槻を促す。
 奴はもう一度にやりとしてから、黙って台所へ踵を返した。

 ゴーヤチャンプルーの作り方は、大槻が携帯電話で調べた。
 検索して行き着いたレシピによると、何より肝要なのは下ごしらえを丁寧に行うことらしい。ゴーヤは切ったら塩もみをして、更に塩水にさらす。豆腐は念入りに水切りをし、豚バラ肉にも下味をつけておく。ここまで完了したら後は順番に炒めていくだけ、とのことだ。
 自炊をするだけあって大槻の一連の作業は手慣れており、件のゴーヤチャンプルーはものの二十分ほどでテーブルに並んだ。見栄えはそう悪くない。野菜炒めの亜種に見える。だが味はどうだろう。
「いいから食べてみればいいじゃん。案外開けちゃうかもよ、新世界」
 泡盛の蓋を開けながら大槻が勧めてくる。奴は味を見ているはずだが、表情は自信ありげにも、面白がっているだけにも見えて不安が募った。
 それで俺は意を決し、乾杯前だが失礼して取り皿に少しだけ盛った。
「ゴーヤだけ食べちゃ駄目だよ。豆腐とか肉とかを一緒に食べること」
 大槻の助言に従い、箸でゴーヤと共に豆腐と卵をつまんだ。青々としたゴーヤは調理前と変わらないほど硬く思えたが、口の中で噛めないほどではなかった。
 そして味は、
「……美味い」
 ゴーヤは確かに苦いが、口に入れた途端に苦いというのではなく、後からじわりと押し寄せてくるような苦味だった。他の具材と一緒に食べるとその苦味がアクセントになり、豆腐や卵の旨味が引き立つようだった。
「ほら見ろ。チャレンジ精神って素晴らしいだろ!」
 勝ち誇る大槻に、今回ばかりは素直に頭を下げた。
「悪かった。確かにこれは美味い」
「だろ? 鳴海くんも古い考えに凝り固まってないで、自分の殻をぶち破るべきだよ!」
 別に古い考えのせいで警戒していたわけではない。俺は苦笑しながら正直に告げる。
「作ったことがないというから心配だったんだ」
「そんな、作ったことないっつったって料理は料理じゃん。どうにでもなるって」
 大槻も同じように苦笑いを見せた。
「失敗して超苦いのできたらそれはそれ、後で飲み会のネタになるしね」
「そんなことを思ってたのか……」
 とんでもない発言に思わず呆れたが、大槻はむしろ愉快そうに言葉を継ぐ。
「いいじゃん、笑えれば。何事も楽しいのが一番だよ」
 そんなものだろうか。俺は先刻の教授とのやり取りを思い出し、そして大槻の『笑いのツボ』は何だろうと考える。
 こいつなら何が起きてもげらげら笑っていそうな気はする。
「ってか俺さあ」
 大槻は二つ並べたグラスに氷を入れながら語る。これもスーパーで購入したロックアイスだ。
「こういう時に一緒になって笑ってくれるような女の子と、お付き合いしたいって思うんだよね」
 何の話だと俺は目を剥いたが、大槻はどこか遠い目をしている。
「料理が上手くできても、失敗して微妙に苦いのができちゃっても、どっちも一緒に笑いながら食べてくれるような……そういう子いないかなあって思っててさ」
 諦念を滲ませた口調の大槻は、氷を入れたグラスに泡盛を注いだ。
「いるのか? そんなによくできた女なんて」
 俺は聞き返し、その間にも彼女のことを考える。
 彼女ならそういう時、例えば俺が料理に失敗した時、どうするだろう。笑ってはくれないだろうが、気を遣って食べるのを手伝ってくれそうだと思う。
 勢いづいた大槻は身を乗り出し、首が外れそうなほど大きく頷いた。
「だよねえ。そんな優しい女の子なんてレアだよね、いたとしてもほとんど彼氏持ちだし!」
 夏休みの間、奴の身にも何かあったのだろうか。尋ねてみたい衝動に駆られたが、薮蛇かもしれない。やめておく。
「この夏にそういう出会いがあればな、と思ったんですけどね……」
 乾いた笑いを立てる大槻からグラスを手渡され、タイミングはずれたが乾杯をしておく。
 泡盛も初めて飲む酒だったが、意外に口当たりがよく喉越しもさらりとしている。もっと癖がある酒だと思い込んでいたので新鮮だった。ただ大槻はロックで飲めと勧めてきたが、二杯目からは何かで割ろうと俺は思う。こういう爽やかな飲み口の酒ほど飲みすぎてしまう危険がある、用心しなくてはならない。
 そして大槻と、酒を飲みながらつまみを食べながら、しばらく他愛ない話をした。
 俺が教授から聞いた船津さんについての話を打ち明けると、大槻はたちまち心配そうな顔をする。
「え、それってまた働きにおいでってことじゃないよね?」
「さあ。先生はそうは仰っていなかったが」
「俺はそういう意味だと思うなあ……。つかあの店、マジで大丈夫かな」
 近々訪ねてみるつもりだと俺が言うと、大槻も暇ができたらそうすると応じた。ただ大槻は楽団の練習が忙しいようなので、もう少し先になるかもしれないとも言っていた。
「そういえば鳴海くん知ってる? 沖縄じゃ写真撮る時、『はいゴーヤ!』って言うらしいよ」
 いきなり大槻が脈絡のないことを言い出したりもした。
「嘘だろ」
 俺がまるで信じてやらなかったせいか、大槻は心外そうに言い返してくる。
「嘘じゃないって!」
「どうも胡散臭い話だ。俺は騙されない」
「騙してないよ! 沖縄行った先輩が言ってたし!」
「その先輩に担がれてるって可能性はないのか」
「え? いや、ないと思うけど……どうなんだろ。言われてみりゃちょっと気になるな」
 急に不安になったように大槻の声が小さくなる。しばらく考えた後、奴は携帯電話をポケットから取り出した。
「ちょっと待って、先輩に確認してみるわ」
 そして手早く操作を済ませ、メールを送ったようだ。程なくして奴の電話が短く振動し、大槻が画面を読み上げる。
「『自分で確かめてみれば?』だって……あれ、これやっぱ担がれてる?」
 大槻が首を捻り、俺は『ほら見ろ』と言ってやる代わりに鼻を鳴らした。悔しそうにしながら大槻は携帯電話を卓上に置き、泡盛のグラスを再び手に取る。氷が解ける微かな音がした。

 室内に水を打ったような沈黙が落ちる。

 次の話題を探した俺が自分のグラスに目を向けた時、
「雛子ちゃんと、何かあったんだろ」
 予想よりも早いタイミングで大槻が切り込んできた。
 視線を上げる。テーブルの向こう側で大槻は見透かすような目をしてこちらを見ている。顔に出ている自覚もある。
「なぜそう思う」
 俺は聞き返した。
 大槻はもっともらしい顔で答える。
「だから、君が本気でへこむのなんて、あの子のこと以外にないだろ」
 奴はわかったふうなことを言うが、それは事実ではない。俺の気分を沈ませるのはもっと他の人間たちで、彼女には何度となくそれを救ってもらっている。
 だが俺を誰より幸せにしてくれる彼女だからこそ、こうして何かあった時に強く影響を受けるのも事実だった。あの旅行から三週間、彼女の姿は俺の頭から片時も離れず、振り払えない罪悪感と共にある。
「君らが夏休みに旅行するって言うからさ、戻ってきたらそれこそ根掘り葉掘り聞いてやろうって思ってたのに」
 大槻はそこで笑んだが、見るからに気遣わしげな笑みだった。
「そんな落ち込んでるんじゃ冷やかしようもないじゃん。何か、あったんだろ」
「話せるようなことは何もない」
 素っ気なく、俺は答えた。
 だがそのせいで大槻はますます、まるで自分のことのように深刻ぶった顔になる。このまま黙秘を決め込めば俺より奴の方が思い詰めるのではないか、そんな予感さえ過ぎる。
「喧嘩をしたわけでもなく、特に大きなトラブルがあったわけでもない」
 仕方ないので嘘にならない範囲で教えてやる。
 もちろんこれだけで奴が納得するはずがない。かえって訝しそうにされた。
「じゃあ、何で?」
「雛子の問題ではない。俺の側の問題だ」
「も、もうちょっと具体的に……わかんねえよそれじゃ」
 わかってもらいたくないのだから、具体的に言うつもりもない。
 俺は答えず、グラスを一息に空にした。次は水割りでと言い出すより早く、大槻が俺のグラスに氷を二つも入れてくる。
「おい、頼んでないぞ」
「いいからいいから。酔っ払った方が話しやすいこともあるだろ」
 大槻は俺を酔わせてから聞き出す魂胆のようだ。その手は食うかと俺は身構え、新しく注がれる泡盛の澄んだ液体を睨みつけておく。
「もうちょい外側から攻めてこうかな」
 自分のグラスにもお替わりを注ぎ、大槻が俺を見る。
「旅行、楽しかった?」
 その質問には、少し迷ったが正直に頷いた。
「ああ」
「どこ行ったの? 二人で」
 次の質問には別の意味で迷う。だが詳しく話すとなると時間がかかる上、いい気分にもなれないので、簡潔に言った。
「祖母の家だ」
「へえ!」
 大槻が驚きの声を上げる。
 これまで親族の話をしたことがなかったせいだろう。直後、大槻は自分の驚きに自ら恥じ入るような顔をして、顔の前で軽く手を振る。
「ごめんごめん。君におばあさんがいたって話、初めて聞いたから」
 俺は無言で頷き、大槻が酒を軽く飲んでから、また口を開く。
「じゃあ今回の旅行はあれか、おばあさんに彼女を紹介する的なやつか」
「そうだ」
 それも目的の一つに過ぎなかったが、それ自体は無事に果たせた。澄江さんはいたく喜んでくれたし、雛子のことも気に入ってくれたようだ。雛子の方も澄江さんを何かと気にかけてくれて、そういう繋がりを喜ばしいと思う反面、慣れない気がしてくすぐったさも覚える。
「だったら……おばあさんにお付き合いを反対されたとか?」
 大槻がでたらめな推論を挙げた。
 即座に俺はかぶりを振る。
「いいや」
「それなら、何も落ち込むことないじゃん。雛子ちゃんと楽しく旅行できて、おばあさんに無事紹介も済ませて、一体何が問題なんだよ」
 全くだ。俺は大槻の言葉に心から同意する。それだけで済んでいたならあれほど素晴らしい二日間もなかった。
 あの夜の出来事さえなければ――俺が馬鹿な真似をしなければ。
「言っただろう。彼女の問題ではなく、俺の問題だ。俺一人が猛省して、心を入れ替えればいいだけの話だ」
 そう告げて話を締めくくろうとする俺を、大槻は釈然としない顔で見つめてくる。
 しかしその時、ふと、奴の顔にひらめきのような色が浮かんだ。
「あ! ああ……ごめん、俺何かちょっとわかっちゃったかも……」
「なっ」
 突然の言葉に俺は慌て、飲もうとしていた泡盛にむせる。
 大槻は途端に申し訳なさそうな半笑いになり、俺に向かって庇うようなことを口走る。
「いや、でも、それはしょうがないって。彼女と旅行に出かけたらさ、そりゃまあ多少は」
「勝手にわかったような気になるな! 俺は何も言ってない!」
 俺が奴の考えを覆そうと声を上げると、大槻は至って冷静に、
「有言実行、できなかったってことだろ?」
 先月、アルバイトの打ち上げをした際に奴と二人で話した内容が、鮮明に頭の中で再生された。
 そうなると俺も項垂れるしかない。
「……俺は最低な人間だ」
「い、いやそんなことないって! 俺はむしろ安心してるくらいだよ!」
「なぜお前が安心する」
「だって何つうかさ……鳴海くんもかなり普通の男なんだなあと思って」
 普通なものか。これほどまで忍耐力に欠ける人間を捕まえて『普通』と評する大槻の神経はどうかしている。
 俺は自棄気味に箸でゴーヤだけをつまんで、そのまま口に運んだ。苦かった。

「で、雛子ちゃんは、何て言ってんの?」
 大槻が二杯目を空にする。やはり今日もペースが速い。その上遠慮会釈のない質問までする。
「何についてだ」
 俺も泡盛に口をつけた。奴のペースに引きずり込まれないよう、少しずつ飲む。
「だから、その、君の言う『猛省すべき点』についてだよ」
 大槻が濁すように続けたので、俺もこの問題の根深さを改めて思い知った。
「雛子は、何も知らない」
 眠っていたからだ。俺が何をしても目を覚まさなかった。
 彼女に隠し事をするのは心苦しい。それもあんな、俺がしでかした狼藉ともなれば尚のことだ。だが彼女に事実を打ち明ければ、さしもの雛子も俺を軽蔑するだろう。
「知らない? それって、つまりどういうこと?」
 大槻は詳細を知りたがったが、これ以上答える気はもうない。俺が無言で酒を飲むと、やがて痺れを切らしたのか奴が自ら語を継いだ。
「何かそれって、君が思うほど大事じゃない気がするけどなあ」
「そんなはずはない」
 その言葉には当然異を唱えた。大事だ。罪深い行動だ。
「いいや、多分君の考えすぎだよ」
 しかし大槻はそう言い張る。俺を咎めるように見て、
「そんなに気にして一人でうだうだ言うくらいなら、いっそ雛子ちゃんに聞いてみればいいんだよ」
 とっさに思う。そんなことができるか。
 だが、別の考え方もできなくはない。もしかするとそうすることの方が、道理に適っているのかもしれない。
「彼女の審判を仰げということか」
 俺が呟くと、大槻は目を丸くしてからなぜか肩を落とす。
「そういう話じゃ……まあ、俺が何言っても無駄か。でもね、鳴海くん」
「何だ」
「俺は、君の話を聞いた雛子ちゃんが何て答えるか、大体わかるよ」
 やけに大見得を切るものだ。今度は俺が瞠目する番だった。
 他人に彼女のことをわかると言われるのは、そこはかとなく腹立たしい。俺はすぐに眉を顰めた。
「お前にわかってたまるものか」
 すると大槻は偉そうに胸を張る。
「残念だけどね鳴海くん! 俺は君と比べたら百万倍は女心を把握してるよ!」
「嘘だろ」
「嘘じゃないって! いいから聞いてみなよ、彼女に」
 しかしまさか、雛子に対してそんなことが言えるだろうか。包み隠さず打ち明けるなら酷いことになる。眠るお前に欲情し無断で唇を奪った挙句、更なる行動に出ようとしていたなどと、誰が言えるだろう。
「雛子ちゃんは君が何か失敗しても――例えばすっごい不味い料理作ったりしてもさ」
 ふと、大槻がゴーヤチャンプルーに箸を伸ばしながら言う。
「君を励ましながら、一緒に食べましょうって言ってくれる子だと思うよ」
 くしくも、俺も先程想像したのと同じことを言う。
 彼女を知る人間なら皆がそう思うだろう。彼女らしい生真面目さと優しさで俺を気遣い、励ましてくれるはずだと。
 そういう彼女だからこそ、こんな汚らわしい感情では触れたくない。
 結局俺は、誰よりも彼女に失望されたくなかった。彼女が寄せてくれる純粋な好意と尊敬を、俺が理想なのだと言ってくれたその想いを守り抜きたかった。生まれて初めて、俺を好きだと言ってくれたその相手を、これ以上二度と裏切りたくなかった。
 それならば、取るべき手段は一つしかない。
「俺は、彼女と会うのを控えるべきだと思っている」
 迷いを振り切るつもりで決意を口にする。
 大槻が呆れたように天井を仰ぐ。
「また君は、どうしてこう極端で頑ななんだか」
「折りしも彼女は受験生だ。もう遊び歩いている暇もないだろうから、その間に俺も頭を冷やしておくことにする」
 いい機会だ。彼女が受験勉強に励む間、俺は彼女に対する自分のありようを見つめ直しておこう。そして後日、彼女の家を訪ねてご両親に挨拶をする時の為に、心を入れ替え真っ当な人間になっておかなくてはならない。
「俺は雛子ちゃんが受験生だからこそ、君くらいは窓口開けとくべきだと思うけどね」
 四杯目――かどうか自信もなくなってきたが、とにかく大槻が泡盛を自分のグラスに注ぐ。俺のグラスも空けろと促してきたので無視したら、無断でお替わりを注がれた。
「頼んでないと言っているのに」
「いいからいいから。氷は要る?」
「……ああ」
 大槻は俺のグラスに氷を放り込む。それから咎めるように言った。
「まあ会う会わないは君たちが決めることだけどさ。だったら連絡不精はどうにかしなよ」
「わかっている。会わない間も定期的に連絡は取り合うつもりだ」
 俺は頷く。彼女を寂しがらせるわけにもいかない。受験勉強にあたっても相談に乗れることはあるだろうし、先輩としてもできるかぎりのサポートはしていこうと思っている。
「だったらさ、いい機会だしケータイ買えば?」
 思いついたように大槻が手を叩いた。
「雛子ちゃんは持ってるんだろ。だったら君もこれを期に持てばいいよ」
「俺はいい。連絡なら手紙でする」
「何時代の人間だよ! せめて電話にしろよ!」
 そこで大槻は久方ぶりに吹き出したが、俺にも事情がある。電話では駄目なのだ。
「電話は駄目だ。声を聞くと、顔が見たくなる」
 俺は大槻にそう反論した。
 大槻が笑うのをやめる。瞬きを繰り返す。
「え?」
「雛子の声を聞いたらきっと、会いたくて堪らなくなる。しかし顔を見に行けばそれで済むというものでもなく、会えば会ったでもう少し長く傍にいたいと思うだろう。きりがないから、電話はしない方がいい」
 本音を言えば俺はいつでも雛子の声が聞きたかった。会いたくて堪らなかった。彼女に対する欲求はそれこそきりがない底なし沼のようなもので、どこかで歯止めをかけなければならない。
「元々電話なんて好きではなかったんだ。話している間はいいが、切る時が辛くて仕方がない。ずっと前からそうだった」
 呟くように言った俺は、その後で呆気に取られている大槻の顔に気づき、思わず額を押さえた。
「……俺は、酔っ払っているのかもしれない」
 心なしか頭がふらつく。それほど飲んだ気はしないのになぜだろう。床に座っているのに、どこか水の中をたゆたっているような感覚がある。泡盛にまんまと酔わされてしまったのか。
「完璧酔ってますな。すんげえ台詞聞いちゃったよ俺」
 我に返った大槻が魔女のような笑い声を立てる。
「では今のは忘れてくれ」
「嫌だね」
 魔女さながらの意地悪さで拒んだ大槻がそこで、にんまりと笑んだ。
「だから君はケータイ持つべきなんだよ。雛子ちゃんとメールでやり取りができるよ。手紙は届くのに時間かかるけど、メールなんて一瞬だよ! 素晴らしいだろ」
 先程、先輩へのメールを送った携帯電話をちらつかせ、大槻は尚も語る。
「それにほら、雛子ちゃんがうちの大学入ったらもっと必要になるんじゃないの?」
「なぜだ」
「あのね君、俺が君に用ある時、いっつも構内あちこち探し回ってんの知ってるだろ!」
 そういえばそうだった。大槻には以前から携帯電話を持つよう勧められていたのを思い出す。今朝は出がけに連絡を取れたからよかったものの、そうでなければ大槻はまた俺を探し回る羽目になっていたのかもしれない。
「雛子ちゃんだって入学したら、それこそ俺みたいに君を探してうろうろするだろうさ。彼女にそんな思いさせたくないだろ?」
 想像する。木々が生い茂る構内の道をさまよい歩く雛子がいる。木漏れ日があるうちはまだよく、日が暮れてくると不気味に影を伸ばす背の高い木々の間を歩かなければならない。彼女は構内を、俺を捜して歩き回る。やがて思いついてサークル室へ向かうものの、開けようとしたドアは施錠されており、ドアノブは途中までしか回らない。肩を落とした彼女が次に向かうのは閉館間際の寂しい図書館だが、ひっそり静まり返った中に差し込む赤い夕日は彼女を震え上がらせるのに十分だ。もう人気もなくなった教室棟に自分の足音だけを響かせながら、きょろきょろと、不安そうに俺を捜して歩く彼女――酔いのせいだろう。想像は果てもなく広がり、俺は不覚にも胸を痛めてしまう。
「確かに、必要かもしれないな」
 一通りの想像が明けた後、俺は自分でも口にする日が来るとは思わなかった言葉を口にしていた。
「だろ? この機会に持てばいいよ。何なら機種とか相談に乗るからさ」
 大槻が嬉しそうに語るのを、夢から覚めた後のような気分で聞いている。

 俺は電話が好きではなかった。
 彼女の声を聞けば顔が見たくなる。会いたくなる。たまに望まない相手からの電話も来る。そんなものを肌身離さず持ち歩くなんて正気の沙汰ではないと思っている。
 なのに、今、それもいいかと不意に思えた。
 これは酔いのせいばかりではないだろう。俺の中で何か、変革が起きようとしている。それまで持ってきた価値観が少しずつではあるが変わろうとしている。もしかしたらそのうち、大槻の言うように、殻を打ち破る日がやってくるのかもしれない。
 しかし、何の殻を?

「俺は、何を打ち破るべきなんだろう……」
 言葉と共についた息は、酒のせいで熱を持っていた。
 大槻は普段とそう変わりない口調で答える。
「とりあえずその頑なさと、凝り固まってる考え方ってとこ?」
 それから神妙な気分になっている俺に、軽く笑って言い渡した。
「まずは元気出しなよ。俺だって本当は、しょげてる君を慰めるよりいつもの君をからかって遊ぶ方が楽しいんだよ!」
 正直聞き捨てならない部分もあったが、今日ばかりはそれも気にしないでおこう。
「心配をかけて悪かったな」
 俺は大槻に頭を下げる。まだ答えは出ていないが、何かしなければと思う。
 まずは雛子と話さなくてはならない。今後のこともそうだが、まずはぽっかり空いてしまったこの三週間を埋め合わせなくては。きっと連絡を取るまでにまた逡巡するのだろうが、電話の声を聞けば今より一層会いたくて堪らなくなるのだろうが、それでもだ。
「困ったときはお互い様だよ」
 大槻が頷く。
「俺も今後、すっげえ可愛い女の子とめぐり会って、でもままならない恋だったりして悩むこともあるかもしれない。その時は君が、恋のキューピッドになってくれるもんだと信じてるよ!」
 そう言い添えると大槻は、自分の言葉が面白いとでもいうように大笑いし始めた。
 全くよく笑う奴だ。羨ましいくらいだった。
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