嘘はつけない(6)
団扇を動かしながら暗い部屋に留まるうち、次第に目が慣れてくる。室内を満たす闇はよく見ると黒一色ではなく、青に近いようだった。薄いカーテンの生地を通して外の光が透き通る。見覚えのある部屋をぼんやりと、頼りなく照らしている。
目の前には布団がある。シーツの白さは暗い中でもよくわかる。その上にかけられたタオルケットは確かピンク色をしていたはずだが、今はシーツと同じ白さに見える。その中にいる彼女の姿は見えない。タオルケットが人の形に膨らんでいるおかげでそこに存在していることだけは確認できたが、だからと言ってしげしげと見るのはよくない。
視線を外すと、壁際にある机が目に留まった。闇に溶け込んで全体の輪郭は曖昧だったが、弱々しい月の光が脚の一つに当たり、光沢を放っているのが見えた。もっともそれが机だとわかるのは目が慣れたせいではなく、俺の記憶の中にその机の形がしっかりと残っているからだろう。恐らく頭で理解しているだけで、視覚ではっきりと捉えているわけではないのだ。現に部屋の隅に置かれた雛子の旅行鞄は、色と重さばかりが記憶に残っているせいか形がよくわからない。壁際に澱む闇の中にすっかり呑まれている。
こうして闇に目を凝らしていると、ふと、ある仮説が浮かんできた。
雛子が眼鏡を外した時、世界はこんなふうに見えているのかもしれない。
全てのものの輪郭は曖昧でぼんやりしていて掴みづらく、しかし見覚えのあるもの、記憶に残っているものは頭で理解できる。目に見えるもの全てが覚束ない世界を、彼女はあの眼鏡一つで渡り歩いているのだろう。そうなると普段から手放せないのも、滅多に外してみせないのも頷けた。俺なら、自分の視覚すら信用できない世界なんて耐えられない。
とりとめもないことを考えながら、俺は彼女を扇ぎ続けていた。
扇ぎながらも耳は澄ませていた。彼女が寝入るのを待っていたからだ。自分から言い出した譲歩案ながら、彼女がこうして目の前で横たわっていること、初めて見るパジャマを着ていること、そして眼鏡を外して目を閉じていることなどの現実と向き合うのは大変な苦痛を伴った。ともすれば吸い寄せられそうになる視線を虫でも追い払うようにあちこちへ飛ばし、頭の中では常にとりとめのない思索を展開させていた。そういう努力が遂に実を結んだようで、やがて微かな寝息が聞こえてきた。
彼女の寝息は静かで、規則正しく、とても安らいでいた。きっと穏やかな眠りが訪れたのだろう。
「雛子?」
念の為に呼びかけてみたが、返答はなかった。彼女はただ呼吸だけを続けていた。
思わず安堵の息が出る。全く、眠れないとあれほど駄々を捏ねていたのは何だったのか。拍子抜けするほどあっさり寝ついてみせた彼女に、内心呆れた。これでどうして、俺が思うほど子供じゃないなどと言い張れるのか。
人の気も知らないで。
俺は団扇を布団の脇に置き、音を立てないように立ち上がる。雛子はおとなしく眠っている。俺が立ち去ろうとしているのにも気がつかないままだろう。これ以上引き止められずに済むのはありがたかったが、同時に切なくもあった。
雛子はやはり、時々わがままなくらいがいい。先程の押し問答にはかなり手を焼かされたが、こうして静寂の中に身を置くとあの無駄な時間すら恋しくなる。こんなに静かにされては一人でいるのと何も変わらない。いつもなら口ほどに物を言う目も、今はすっかり閉ざされていてこちらを見ることもない。
あと何年経てば、彼女は大人になるのだろう。
どのくらい待っていれば、二人で夜を過ごせるようになるのだろう。
過ぎった思いは、しかしすぐ打ち消した。
今夜、俺のつまらない話を黙って聞いてくれたのは、受け止めてくれたのは、今の彼女だ。まだ十七歳でしかない雛子だ。俺はそのことを忘れてはならない。大切にしなくてはならない。
まだ見ぬ未来の彼女を待ちわびているようでは、現在の彼女に失礼だ。たった十七歳の、子供のままの雛子も俺を十分すぎるほど幸せにしてくれる。孤独など感じる暇もないほど、この世界を賑わわせてくれる。こんな日が来るなんて、俺はずっと思いもしなかった。だから。
彼女が眠る部屋を離れる為、俺はドアに近づく。鈍く光るドアノブに手を伸ばす。触れる直前でふと、彼女の方を振り返る。
青ざめた薄闇の中に眠る彼女の、白い寝顔がふと目に留まる。
記憶には完璧に残っているはずだった。写真よりも精密に胸に焼きつけて、残しておいてあるはずだった。だがドアの前から見下ろした彼女の寝顔は、俺の目にはっきりと映らず、人の顔であることがかろうじてわかる程度だった。目を閉じているのかさえ判然としない。
他でもない雛子の顔がわからないというのは俺にとって屈辱だった。少し悔しくなり、俺は一度だけためらってから踵を返す。
彼女の寝顔を見てやろうと思った。
布団の傍まで戻ると、彼女の顔立ちが次第にはっきりと浮かび上がってくるようだった。当たり前だが眼鏡をかけておらず、そのせいで離れた位置からはわからなかったのかもしれない。だがいい機会だ、眼鏡をかけていない彼女の顔も、目に、記憶に焼きつけておこう。
仰向けに横たわっているせいか、前髪が少し横に零れて、合間には真っ白な額が覗いている。その下にある形のいい眉はいつもと変わらないが、臥せられた瞼からはあの黒々とした瞳は窺いようがない。睫毛の長さは見下ろした位置からではわからず、もう少し近づきたくなる。
彼女の傍に膝をついた。
上から覗き込もうとしたが、自分の影が彼女の顔にかかると急に動悸が速くなる。悪いことをしているような気分になる。しかし恋人の寝顔を覗くのは罪に当たらないはずだ。込み上げる罪悪感を退けながら、自然と息を潜めながら、俺は彼女の肩に手を置く。そのままゆっくりと腕を下ろし、肘をつく。無理な体勢をとっているせいか、意識せず息を止めてしまうせいか、そうやって身体を支えていないとよろけてしまいそうだった。
更に近くから、前髪が触れ合うほどわずかな距離から見下ろした彼女の寝顔は、思いがけず大人びて見えた。普段彼女が見せるような子供じみた表情はかけらも存在しておらず、女らしいなめらかさだけでできていた。そのくせ寝顔はこちらが空恐ろしくなるほど無防備で、目を開けたらすぐ正面に俺がいることなど知らないそぶりで、ひたすら規則正しい呼吸を繰り返している。彼女の睫毛はこうして見ると一層長く、触れてみたくなるような衝動に駆られる。いつもより白く見える柔らかそうな頬も、薄く開いた柔らかい唇も、つい触れてみたくなる。
ここまで来てようやく俺は、今の自分を動かしているものが何かを悟りつつあった。彼女の顔がわからなかったことへの屈辱感や、彼女の寝顔に対する純粋な好奇心、あるいは傍を離れることへの寂しさ切なさすらとうに胸を通り過ぎていて、代わりに身体の奥底で生じた熱がせり上がり、やがて全身に延焼し始めていた。それは抑えがたい衝動となってその他のあらゆる感情を燃やし尽くし、息を潜めていた理性すらも蹴り飛ばした。
触れたいと思ったら、もう抑えが利かなくなった。むしろ、なぜ抑える必要があるのかとさえ思う。彼女には拒まれたことがない。そして俺も、彼女以外にこんな衝動を覚えたことはない。
唇を重ねる。
彼女の唇は熱くも冷たくもなく、そして柔らかかった。だが感触そのものよりも、これが彼女のものであることに気が狂いそうなほどの幸福を覚えた。全身に寒気とも緊張とも異なる震えが走り、少し力を抜いて身体を下ろせば、俺の胸に彼女の柔らかい身体が触れる。タオルケット一枚を隔ててもはっきりと伝わってくる。だがこれがなければもっと近づける。
唇を触れ合わせるだけでこれほど幸せになれるなら、いっそ全身で触れ合いたいと思う。何にも隔てられたくはない。彼女に直に触れてみたい。彼女が欲しい。それが叶えば俺は今よりも更に満たされ、もはや他には何も要らないくらいの幸福感を得られるだろう。
片手で、彼女を覆うタオルケットの端を掴む。剥ぎ取ってしまおうと考えた。しかし、次の瞬間だった。
とっくに焼き尽くされたと思った理性が、俺の、熱に浮かされ暴論を展開する思索に小さな穴を穿つ。
――それは、彼女にとっては、果たして幸せなことだろうか。
唇を離した。
彼女の身体からも、タオルケットからも手を離した。
考えるより早く行動に出た。俺はよろめきながら起き上がり、逃げるように彼女の傍を離れた。さっき開けようとしてやめたドアを今度こそ開き、差し込む眩しい光に顔を顰めつつ廊下へ出る。背後のドアは後ろ手で閉め、すぐに隣の書室へ飛び込んだ。
冷たい板張りの床に座り込み、荒れ狂う感情を抑える為に膝を抱える。
俺は、何度同じことを繰り返せば気が済むのだろう。
これで何度目だ、彼女に欲情したのは。
いつから俺は、自分の欲求も満足に管理できないような人間に成り果てたのか。寝顔を覗くだけならさしたる罪にもならないだろうが、俺が先程彼女にしようとしたことははっきりとした罪だ。それがわからないのであればもう、頭を丸めて出家する方がよほどいい。雛子の為にもなる。
何よりも彼女の幸せを。そう思っていたのも、嘘ではないつもりだったのに。
俺は柄沢雛子が好きだ。彼女の存在の全てが好きだ。彼女のいない人生はもはや考えられず、彼女に幾度救われたか、支えられたかもわからない。だがその好きという気持ちから、どうしても不要な欲求、衝動を切り離せない。
どうにかして誤魔化そうと策を講じてきたつもりだったが、自分の心に嘘はつけないようだ。
「馬鹿みたいだ……」
声に出して呟いても、動悸の速さと頬の熱さ、荒い呼吸は隠しきれない。
死にたくなるような罪悪感が襲いかかってくる。そんな中でも俺は、先程覚えた幸福感を忘れられずにいる。いよいよ本当に出家すべきかもしれない。
嘘はつけないというのなら、そうするしかない。
いきなり神仏を信じるのが無理だというなら、それに準ずる手段をとるしかない。
その晩、俺は一睡もできなかった。
元々眠らないはずだったとは言え、本も読まずに蹲ったりのた打ち回ったり、突如思いついて真夜中に水風呂に入るくらいなら、いっそ寝てしまった方がまだましだっただろう。だが眠気は一向に訪れず、昂った感情はそうたやすくは治まらず、罪悪感は寄せては返す波の如くたびたび俺を打ちのめした。
そして夜が明けるか明けないかのうちに澄江さんが起床したらしく、階下で物音がし始めた。それを見計らって俺は書室を這い出ると、下へ降り、何事もないそぶりで澄江さんに挨拶をした。
「おはようございます、澄江さん」
台所に立っていた澄江さんが振り向き、
「あら寛治さん、おはよう……どうしたの、その顔!」
俺の顔を見た途端に目を剥いた。
どうやら相当酷い顔をしているらしい。俺は気まずい思いで応じる。
「本を読んでいたのであまり寝ていないんです」
「もう。一人で来たのではないんだから、無理をしては駄目よ」
澄江さんは俺をやんわり咎めると、洗面所の方を手で指し示した。
「さ、雛子さんが起きてくる前に顔を洗っていらっしゃい。ちゃんと男前になっておかないとね」
言われるがまま洗面所に入ると、洗面台の上、鏡の中には確かに酷い顔の男がいた。目は赤く、そのくせ爛々としており、目の下にはどす黒い隈がある。寝不足だと顔にしっかり刻印されているようだ。
顔を洗ったくらいでまともになる気はしなかったが、ひとまず冷水で洗ってから洗面所を出る。
すると、ドアを開けてすぐのところに、いつの間にか雛子がいた。既に服を着替え、眼鏡をかけ、髪も二つに結んだ彼女は、俺を見るとびくりとしてからこちらに向き直る。
残念ながら俺は、彼女の顔をまともに見られなかった。目を逸らしてから言った。
「おはよう」
「……おはようございます」
雛子の返事は少し恥ずかしそうに聞こえた。寝起きの顔を見られるのが嫌だったのだろう。
「あら、おはよう」
台所から、再び澄江さんが声をかけてきた。笑みを浮かべて覗かせた顔が、雛子を見た途端に曇る。俺の顔と見比べながら、
「二人とも、随分と眠たそうね」
「え? いえ、そんなことは……」
雛子がうろたえたようだ。
昨夜は彼女も眠れなかったのだろうか。俺が知る限りではぐっすり寝入っていたし、途中で起きた気配もなかったようだったが――考え始めると余計なことまで思い出しそうになったので慌てて中断する。
「枕が合わなかったかしら。ごめんなさいね」
澄江さんが気遣わしげにしたからか、雛子は少し俯いた。
「それとも、波の音がうるさかった? よくいるのよ、夜になると静かになって、波の音が耳につくから眠れないっていう人。昨日の晩は蒸し暑くて、窓を開けていたら尚更だったでしょう」
俺はここで眠るのも慣れていたが、昨夜は眠れる気が全くしなかった。いつになく長い夜だった。
だがその夜も明け、こうして朝がやってきた。
そして、
「電車の中ででも、少しは休めるといいわね。あまり寝不足の顔だとご家族が心配するでしょう?」
澄江さんの言う通り、帰る時間も刻一刻と近づきつつある。
俺も頭を切り替えなくてはならない。昨夜の出来事は猛省すべきだが、それは一人になってからいくらでもできる。
この旅の終わりくらいはきれいに締めくくりたい。それこそが彼女の為だ。
「顔を洗ってこい」
俺は雛子の肩を叩く。なるべく何でもないように、軽く。
雛子が顔を上げると、すかさず澄江さんも言った。
「そうね。少し早いけど、朝ご飯にしましょう。それと、お弁当を詰めるのを手伝ってくれる?」
それで雛子も頷き、俺たちはまず朝食を取ることにした。
帰る時間までにするべきことはたくさんあった。
澄江さんが用意してくれた弁当を詰め、荷物をまとめ、部屋の掃除をした。少しくらいゆっくり話す時間ができるかと思ったのだがそんなことはなく、あっという間に発つ時刻を迎えてしまった。
「本当に、お世話になりました」
玄関で靴を履いた後、雛子が澄江さんに深々とお辞儀をする。
「いいえ。何のお構いもできなくて……また是非、いらしてね」
澄江さんが言葉をかけると、雛子はきょとんとしてから、
「よろしいんですか?」
「ええもちろん。絶対にまた来てちょうだい。雛子さんとはまだまだ、じっくりお話したいことがあるのよ」
「……嬉しいです。ありがとうございます」
雛子はそこまで言うと、後はもう言葉にならなかったようだ。少し、目が潤んでいる。澄江さんを見つめる彼女の横顔を、俺はそっと盗み見た。
「せっかくだから、駅までお見送りしたいところだけど……」
澄江さんが言いかけたので、さすがにそれは制した。
「日差しが強いですし、止めておいた方がいいでしょう。無理はしない方が」
「そう……ね。腰を痛めて、あなたに心配をかけてしまうのは本末転倒ね」
自分の身体のことはよくわかっているのだろう。澄江さんは頷き、
「道中、お気をつけてね。向こうに着いたら必ず連絡をちょうだい」
「わかっています」
あとは電車に乗って帰るだけだ。心配されるようなこともないと思いつつ、俺は苦笑した。
「でも言っておかないと、寛治さんは連絡をし忘れるでしょう。電話だってたまにしかくれないし」
澄江さんは言うが、電話をしたところでかえって心配をかけることもある。いい報告でもない限りはいつも連絡しづらかった。
だがこれからは雛子の話も、嘘をつかずにできることだろう――その為にも俺は、少し心を鍛え直さねばなるまい。
「本当にあの人にそっくりなんだもの。釘を刺しておかなくてはね」
最後に澄江さんが口にしたのは、俺が知らない祖父の話だった。
どう応じていいのかわからず、黙って俺は笑みを返した。それから頭を下げ、玄関の扉を開けた。
旅行二日目の空もよく晴れていた。
日差しは刺すように強く、徹夜明けの頭にはそれこそ刺激が強かった。昨日も辿った海沿いの道は、陽光に炙られて遠くの景色が揺らいで見えた。岸壁の向こうには輝く海が広がっている。次にこの景色を見るのはいつのことだろう。
駅までの道を、俺と雛子は黙々と歩いていた。俺は昨夜の罪悪感を引きずりつつも、彼女にかける言葉を探していた。この旅の締めくくりにふさわしい言葉を何か見つけ、彼女に告げられたらいいと思った。
だが日が眩しい午前の道は、そうした考え事には全く不向きだった。暑さのせいか寝不足のせいか頭が働かず、俺は二人分の鞄を提げながら、鬱屈とした思いを抱えていた。
物思いに耽っていたせいだろう。
「先輩」
雛子の呼びかける声が背後から聞こえ、俺はとっさに振り返る。
「どうした」
聞き返したが答えはすぐになく、すぐさま俺は彼女に駆け寄る。
「具合でも悪いのか」
俺が尋ねると、雛子は眩しそうに目を細めた。
「いいえ、そんなことないです」
否定してみせたものの、彼女の顔はどことなく浮かない様子にも見える。それが体調のせいなのか、精神的なものなのかは窺い知れない。
それでふと、今朝方澄江さんが指摘していたことを思い出す。
「昨日の晩、眠れなかったのか」
まさかと思いながら問い質すと、雛子は眼鏡の奥で瞳を瞬かせた。一瞬うろたえたようにも見えて俺がひやりとした時、彼女が口を開く。
「いえ、ぐっすり寝ました。寝ついたのもすごく早かったみたいで……」
さすがに気のせいか。
どうも余計なことまで勘繰ってしまいそうになる。俺も本当に馬鹿なことをしたものだ。
ひとまず、彼女の眠りを邪魔せずに済んだことにはほっとしている。彼女には気分よくこの旅を終えて欲しいからだ。
「無理はするなよ。駅まではもう少しある」
俺は念の為に声をかけ、
「はい」
彼女の返事を聞いてから、また駅までの道を歩き出す。
少しも行かないうちに再び、
「先輩」
雛子が、後ろから俺を呼んだ。
「どうした」
今度は振り向かずに尋ねる。
「また、この町に連れてきてくれますか」
彼女が声を弾ませる。
予想もしなかった言葉に、俺は内心で動揺した。彼女があまりにも満足そうに、そして楽しげに言ってくれたから尚更だった。
だが俺も、そう言って欲しいと思っていたのだ。
彼女にそう思ってもらえるような旅ができていたらと――。
「お前が来たいと言うなら、いくらでも連れてきてやる」
俺は歩きながら少しだけ振り返り、そう答えた。
たちまち雛子の顔が輝く。非の打ち所のない笑みが浮かんで、はしゃいだ声が上がる。
「本当ですか!」
すると急に、安請け負いをしたような気になるから困ったものだ。
次の機会を作るなら、乗り越えなければならないことがいくつかある。彼女のご両親に挨拶もしなくてはならないだろうし、俺はもう少し、気持ちを落ち着けなければならない。
そして彼女には、この先に待ち受ける大きな関門だってある。
「ただし、受験生のうちは駄目だ。まずは勉強を頑張れ」
俺が言い渡すと、笑顔の彼女が一転して真剣な面持ちになる。
「が、頑張ります」
大慌てで答える顔にはいつぞやの気負いがまた蘇りつつあった。
それで俺は、この旅を締めくくる一番いい言葉を思いつく。ためらわずに彼女に告げる。
「待っていてやるから」
今の俺たちには時間が必要なのだと思う。
俺にとっては頭を冷やす為の時間が、彼女には大学受験と向き合う為の時間が、それぞれ必要になるのだと思う。
どうせ嘘はつけないのなら、俺は、雛子に嘘をつかなくても済む人間でありたい。
罪悪感はあえて追いやり、胸を張って歩き出す。
虚勢でも、無理やりにでも背筋を伸ばして歩きたかった。彼女が追い駆けてくるのだから、無様なところは見せられない。
雛子は俺の後からついてくる。
海沿いの道に響く彼女の軽やかな足音を、もうしばらくだけ聞いていたいと思った。