menu

嘘はつけない(3)

 しばらくの間、静かな時が流れていた。
 潮騒と風の音だけが聞こえる部屋は読書に集中するのにいい環境だった。一冊読み終えたところで俺は息をつき、本を閉じながらふと気づく。
 書室にある高窓から差し込む光がこっくりとした飴色に変わりつつあった。肌に触れる潮風も少し冷たくなっている。どうやら本を読み耽るうち、大分時間が過ぎてしまったようだ。
 雛子はどうしているだろうと視線を巡らせれば、すぐ近くに彼女はいた。まるで影法師のように俺の傍に張りついていた。それでいて本を持っているということもなく、その視線は随分と前から俺を見ていたようだ。目が合うとゆっくりはにかまれた。
 その笑顔に心臓が跳ねる。
 いつから見られていたのだろう。と言うより、彼女は本を読まなかったのだろうか。俺は平静を装いながら口を開く。
「お前、何をしていたんだ? ずっとそこで突っ立っていたのか?」
「はい、少しぼんやりしていました」
 雛子の答えはその行動と同じく謎めいていた。
 少し、と言っても見たところ、ここへ来てから二時間は過ぎているように思う。その間、本も読まずにただぼんやりとして過ごすのは簡単なことではあるまい。
 そもそもお前が本を読みたいと言うから、この部屋にも案内したのに――ここの蔵書には雛子が読みたがるような古典文学もいくつかあったのに、どういうことなのかと思う。
「本でも読んでいればよかったのに。黙って立っているのも退屈だったんじゃないのか」
 俺が尋ねると、雛子の唇には控えめな微笑が浮かんだ。それでいて眼鏡の奥の瞳はきらきらと輝いている。
「そうでもないです。楽しかったですよ」
 彼女の答えを聞き、そして俺を見つめる彼女の顔つきを見た俺は、今朝方二人で電車に乗っていた時の出来事を思い出す。
 あの時も雛子は、ちょうど今みたいな顔をして、隣に座る俺ばかり眺めていた。
 彼女の物好きさは今に始まった話ではなく、本の世界よりも面白いことが俺の顔に書いてあるわけでもないと思うのだが、彼女にとっては違うのだろう。
 ただ、観察されていた方としては居心地が悪かった。気を許した相手とは言え、本に夢中になっているところを見られていたとなると、おかしな顔をしていなかったかがいささか気になる。しかしそれを問い質すのも気が引けて、俺は話題を変えるように腕時計を見た。
 午後三時を過ぎたばかりだった。
「もうこんな時間か」
 俺は読んだ本を棚に戻してから、雛子に声をかけた。
「夕飯の支度をする。手伝えるな」
「はい――え? 夕ご飯、ですか?」
 雛子が頷きかけて、慌てて聞き返してくる。腕時計の文字盤を見せてやると、それと俺の顔とを大きな瞳で代わる代わる眺めていた。
「そうだ、言わなかったか。この家の夕飯は午後四時だ。今から用意しなくては間に合わない」
「う、伺っていました」
 電車内で説明していたことを思い出したのか、ようやく彼女も納得したようだ。驚いてはいたが異存はない様子を見せた。
「昼食を早めに摂っておいてよかったな」
 雛子は先程和菓子を食べてはいたが、きんつばたった一つきりでは満腹ということもないだろう。俺もそう告げてから、今後の為に重要になる点を彼女に尋ねた。
「ところで雛子。料理はどのくらいできるようになった?」
 すると彼女は目に見えて狼狽した。
「え、わ、私ですか? できる、というほどではないです……」
 答えの終わりの方は尻すぼみで、消え入りそうな声をしていた。あまり自信がないそぶりに見えた。
「以前から練習を始めていると言っていただろう。多少は戦力になりそうか?」
 俺としても雛子に何もかもやらせようというつもりはなかった。せいぜい野菜を洗ったり、ちぎったりといった作業を手伝ってもらえればいい。だが彼女が料理の腕を上げていた場合、あまり簡単な作業ばかりやらせるのではかえって失礼だろう。そう思って尋ねたのだ。
 そして雛子の答えは、やはり力がなかった。
「ええと、ほどほどには」
 そう答えたのも、どちらかと言うと俺の期待を裏切りたくないからだろう。言葉を選んだのが慎重な口ぶりから窺える。
 しかし俺としてもさほど期待していたわけではない。
「ほどほどならまだ使いでがあるな。手伝えよ」
 俺は言い、雛子を連れて書室を出た。
 そのまま階段を下りていくと、階下ではタイミングを見計らったように澄江さんが待っていた。どこか嬉しそうに微笑んで俺を出迎える。
「あなたが来てくれると何もしなくて済むから、楽でいいわ」
 足腰の悪い澄江さんは、一人での暮らしにおいて何かと不便があるはずだった。日頃からそういった不満を口に出す人ではないから、こうして尋ねた時くらいは楽をさせたいと思っている。
「お任せください」
 頷いた俺は、その後で澄江さんに頼んだ。
「それとすみませんが、エプロンをもう一枚貸していただけますか」
「構わないけど……もしかして、雛子さんも?」
 眉をすっと寄せた澄江さんが、階段を下りきったばかりの雛子を見る。すぐに気遣わしげな顔をした。
「ずっと歩いてきてお疲れじゃないのかしら。雛子さんはお客さんなんだから、あんまり無理させるものじゃないわよ」
「いえ、平気です。私もお手伝いします」
 間髪入れず、雛子が答えた。先程までの自信のなさはどこへ消えたのか、きっぱりと言ってのけたので俺の方が驚いた。
「そう? でも、気は遣わなくてもいいのよ」
 澄江さんはまだ心配そうにしている。
「寛治さんが無理にあなたを手伝わせようとしているんじゃない?」
 おまけにあらぬ疑いさえかけられたので、俺は否定しようとして、
「そんなことは……」
「そんなことはありません」
 ほぼ同時に、雛子も否定の言葉を口にしかけていた。揃えたわけでもないのに重なった声が気まずく、俺は思わず彼女の顔を見る。雛子も俺を見て、気まずげに、何か言いたそうにしている。
 そのうちに澄江さんが笑い声を上げた。
「なら、喜んでお二人にお願いしようかしら。待ってね、エプロンを持ってくるから」
 言い終えると澄江さんは、いつになく軽やかに身を翻した。あの人がこんなに楽しそうにしているのを、俺は初めて見たように思う。

 古い造りの台所で、二人並んで夕食を作る。
 この家の台所は俺のアパートの台所と大差ないほど狭い。子供の頃はよく澄江さんと一緒に台所に立ったものだが、その時から少々窮屈だと思っていた。
 だからなのだろう、ここに雛子と二人で立つと、彼女との距離が一層近づいたように感じられた。俺が野菜を切っている間、雛子は米びつから三人分の米を計ってざるに移す。その作業の間に四回肩がぶつかり、三度ほど足を踏まれた。二人が行き交えるほどの幅もなく、俺は移動の度に彼女の肩を掴んで退かしてやらなければならなかった。
 だがそういう手間を差し引いても、彼女と二人で台所に立つのは悪い気がしなかった。
「先輩、何を作るんですか」
 流しで米を研ぐ彼女が、あどけない声で尋ねてくる。
「筑前煮ときゅうりの酢の物、それに茄子の味噌汁だ」
 俺がすらすら答えると、雛子は目を丸くしていた。
「そこまで決めていらっしゃるんですか」
「いつもの献立だ。全て、澄江さんの好物だからな」
 この家を訪ねた際はいつも同じ献立を作る。初めのうちは何が食べたいかをいちいち聞いていたのだが、澄江さんの答えは大抵同じだった。煮物と酢の物、そして季節に応じた味噌汁。今では俺が訪ねていくと知れば、その献立にあった材料をあらかじめ買い揃えておいてくれるようにもなった。俺としてもどうせ作るのなら喜んでもらえる献立の方がいいから、異存はない。
 ただ本日の夕飯は雛子の口にも入るものだ。なるべくいい出来に仕上げたいと思う。
 彼女だって、せっかく手伝うのなら成功を収めたいと思うに違いない。
「ほら、次のお前の仕事だ」
 米を研ぎ終えた雛子に、俺は煮物に使う蒟蒻とスプーンを手渡した。
 雛子がきょとんとしているので、何をするのか説明してやる。
「お前に包丁を持たせるのは危険だからな。これで、蒟蒻を適当な大きさにしてくれ。そのくらいはお前でもできるな?」
 失敗のしようがない仕事を任され、彼女はがっかりしていたようだ。
「できます……」
 もっとも、旅先で怪我をさせたとあっては大事だし、包丁の扱いなら俺の方が遥かに手慣れている。これは当然の役割分担だ。
 雛子もそのことはわかっていたのか、やがて黙々と蒟蒻をちぎり始めた。
 俺はその様子を目の端で見ながら、ごぼうを洗い、皮をこそげ落としていく。
 普段から自炊をしているのでこういう作業にも慣れている。だが自分の為だけに料理を作るというのも、時として味気なく、空しいことでもあった。同じく一人暮らしの大槻がよく言うのだが、自分しか食べないのに手間をかけて料理を作り、食卓を設えることに言いようのない空しさを覚えるのだそうだ。そういう時、奴は外食やファーストフードに走るのだと言っていた。俺は店で食事をするのがあまり好きではないが、大槻の言葉には大いに共感できた。一人の食卓はどんなに出来のいい料理を並べたところで、時として少し寂しい。
 だが今日は澄江さんもいるし、雛子もいる。三人で食卓を囲むのはきっと楽しい時間だろう。一人で食べる時よりもずっと温かい気持ちになれることだろう。
 支度の間、早くも食卓の光景に思いを馳せていた俺の耳に、
「あっ」
 雛子の場違いな悲鳴が聞こえてきた。
「どうした」
 スプーンで手を切るということはないだろうし、恐らく蒟蒻かスプーンのどちらかを床に落としてしまったのだろう。俺が尋ねると、雛子はまな板の上にスプーンを置いて屈み込んだ。
「すみません先輩、蒟蒻が逃げ出してしまいました」
「逃がすな」
 案の定か。俺が呆れている間にも、雛子は落とした蒟蒻を捜して床の上に這いつくばっていた。
 それならそれですぐに拾えばいいものを、何がどうしたかはわからないがもたもたと手間取った挙句、
「先輩、動かないでくださいね」
 彼女の声が突然、すぐ足元で聞こえたから驚いた。
「うわっ、お前、何やってる!」
 ただでさえ狭い台所だ。足元で屈まれたら彼女を踏みつけかねない。思わず俺は飛び退いたが、着陸した先の床で、何か柔らかくも冷たい小さなものを踏んづけた。
 彼女ではなさそうだった。
「……雛子」
 その、心地よくはない感触に俺が思わず唸ると、雛子は頭も上げずにこわごわ応じる。
「は、はい、でも動かないでくださいって私、一応は……言いました」
「元はと言えば逃がした奴が悪い」
「本当にそうですね……。ごめんなさい、先輩」
 思いがけない騒動もあったが、これもまた一人で食事の支度をする場合には起こりえないことだ。さすがに楽しかったとまでは言わないが、申し訳なさそうに流水で蒟蒻を洗う雛子を見ていると、こっそり笑ってやるくらいの余裕は持てた。
 先に尋ねておいた通り、雛子の料理の腕はまさにほどほどだった。誉められるのは火を恐れないことくらいで、後は何をするにもまごついていた。
「雛子、あくを取ったら酒を入れていいぞ」
「お酒? ええと、ど、どれでしたっけ」
「何と間違えるんだ。そっちの、小皿に入った透明な奴」
 教えてやると彼女は、小皿に入れておいた料理酒を手に取る。
「あ、これですね。これと……」
 そして酒を入れてから、別の調味料を入れておいた小皿に目をやり、
「お醤油もよろしいですか?」
 と聞いてきたので俺はかぶりを振った。
「馬鹿、砂糖が先だ。醤油を先に入れる奴があるか」
「そ、そうなんですか? 知らなかったです」
 雛子は初耳だというように瞬きをしている。
「お前は今まで料理の何を学んできたんだ」
「すみません、勉強不足でした……」
 俺の言葉にすっかり項垂れていたが、普段から料理をする必要がない人間は皆こんなものなのかもしれない。いっそ独学で料理を習うより、俺が教えてやった方が手っ取り早いのではないだろうか。
 こうして台所に立っていると、そういうのも悪くないと思えてくる。雛子は手際よくはないし、今のところ大したこともできないが、聞き分けがいいのは確かだ。それに俺も、一人で作るなら黙々と作業をするだけだが、彼女と二人でいると自然と口数が増える。いつになく賑々しい台所にいると、家庭とは本来こういうものなのかもしれない、とさえ思えてくるから不思議だ。
 日々の生活に彼女がいる未来を、ほんの一瞬だけだが想像してしまう。
 すると、それを見透かしたように背後で笑い声がした。
「仲が良くていいわね」
 いつの間にか、澄江さんが台所の戸口に立っていた。
 冷やかしめいた言葉を聞くといたたまれなくなり、俺は慌てて視線を落とす。
「若い人たちがいると、家の中が明るくなっていいわ。今日はまるで私の方が、あなたたちのお家にお邪魔したみたいね」
 澄江さんは更にそう続けて、俺は一瞬の想像を言い当てられたことに深く恥じ入った。
 隣に立つ雛子も、何かしら思うところがあったのだろう。先程までの賑々しさはどこへやらで黙り込んでいたが、眼鏡を支える小さな耳まで真っ赤になっていた。

 時刻が午後四時を過ぎた頃、食事の支度が全て整った。
 今のテーブルに俺と雛子は並んで座り、澄江さんはその向かい側の席に着いた。皆で手を合わせてから食べ始める。
 柄沢家の普段の夕飯の時刻について、これまで聞いたことはなかったが、恐らくいつもより二、三時間は早い夕飯だろう。だが雛子はお腹が空いていたようで、箸の進みも速かった。何を食べても美味しそうな顔をして、熱心に食事をし、そして時々俺に話しかけてきた。
「美味しいですね、先輩」
 こういう食卓の風景を夢描いていたものの、いざ迎えてみるとどうにもくすぐったくて堪らない。とてもではないが平然としていられなかった。
 そのせいで俺はつい、愛想のない言葉を返してしまう。
「いや、煮物はいまいちだな。いつもより少し甘くなっている」
 だが首を捻る俺を、すかさず澄江さんが見咎めてきた。
「あらそう? とっても美味しくできてるけど」
 実際、煮物の出来は完璧ではなかった。不味いと言えるほどではないものの、普段より味が甘く仕上がっていた。恥ずかしい話だが、俺も浮かれていたのかもしれない。
「それに蒟蒻に味が染みていない。ちぎり方が大き過ぎたんだ」
 俺がそう続けると、隣に座る雛子がびくりとした。
「もしかしなくても、私のせいでしょうか」
「どうだろうな」
 蒟蒻はもう少し小さくちぎってもらうべきだった。そうは思うが、その場で言わなかった俺にも責任がある。次の機会にはもっと事細かに指示をしよう。
 ――などと、次の機会を作る気でいることも、自覚するといささか恥ずかしかった。彼女は受験生なのだから、しばらくはそんな暇すらないだろうに。
「気にしなくていいのよ。ちょっと薄味なくらいの方が飽きが来なくていいんだから。それに若いうちは、そんなにお料理なんてしないものでしょう? 必要に応じて覚えていけばいいのよ」
 澄江さんが雛子を慰めにかかる。
 雛子もそれですぐさま立ち直ったと見え、やがて食卓を見下ろしながら溜息をついた。
「先輩はすごいですよね。私とあまり違わないのにちゃんとお料理が作れて」
「そうねえ……」
 相槌を打つ澄江さんがふと、表情を曇らせる。
「寛治さんには昔から、そんなことばかりさせていたものね。お料理が得意だなんて男の人らしくないかしら」
 昔から、澄江さんはよくそういう類のことを口にした。本当なら男が台所に立つものではないとか、料理を覚える必要はないのにとか――年寄りだけあって古い考えを持っているせいだろう。だが俺は料理を教わる機会があってよかったと思っている。自分の食べたいものを好きに作れるようになったし、一人暮らしにもすぐに慣れることができた。高校時代、実家で暮らしていた頃も、自分の食事だけは自分で作っていた。澄江さんから料理を習っていなければ、俺はどこかの時点で体調を崩し、倒れていたかもしれない。
「いえ、そんなことないです。素敵だと思います」
 雛子が澄江さんの懸念を否定してくれた。
 誉めすぎだ、と俺は内心思った。
「そう言ってくれるお嬢さんがいると、ありがたいわね」
 澄江さんは表情をふっと解き、優しい顔つきになる。そして思い出を蘇らせるようにしみじみと語る。
「私がもう少し若かったら、小さかった頃の寛治さんを外で遊び回らせたり、あちらこちらへ連れて行ったりできたんでしょうけどね。私は昔から腰が悪くて、家に閉じこもってばかりいたのよ。お蔭で寛治さんもすっかり、お家の中が好きになってしまって」
 さすがに今の俺を見て、『これでも小さな頃はわんぱくで、やんちゃな子供だった』などと思う人間はいないだろう。陰気で閉じこもりがちな子供時代を送った俺は、それ相応の成長を遂げていると自分でも思う。
 だがそれを澄江さんのせいにする気にはなれない。澄江さんは俺に十分よくしてくれたし、この人がいなければ俺はどうなっていたかわからない。
 そして今更、その責任の所在を追及するつもりもなかった。
 今が幸せなら、過去のことなどどうでもいい。
 雛子は澄江さんの話を、神妙な顔をして聞き入っている。彼女にこの後話さなければならないことを考えると、身の引き締まる思いがした。
 だがそこへ、 
「ところで、結婚はいつ頃になるのかしら?」
 全く唐突に、何の脈絡もなく、澄江さんがとんでもないことを口走った。
 耳元に爆弾を投げつけられたような気分になり、動揺のあまり俺は箸を取り落とした。それを拾うよりも早く抗議の声を上げておく。
「澄江さん!」
 いきなり何てことを言うのだろう。俺はうろたえたが澄江さんはむしろ俺を叱るような目で見た。
「あら、時期は考えてなかったの? のんびりしてるのね」
「そういう次元の話ではありません」
 雛子の年齢については事前に話しておいたはずだ。彼女がまだ高校生だということも知っているはずなのに、今の質問はあまりにも先走ってはいないだろうか。
 俺は早口になって反論した。
「何を言うんですかいきなり。いくらなんでも突拍子もない話です」
「そんなことはないわ。だってあなたたち、婚約はしたのでしょう」
 一方の澄江さんも真面目な口調で言い返してくる。
「してませんよ。澄江さん、雛子はまだ高校生ですから」
 結婚だの婚約だのと、実際に言葉にされると身の置き所のない気分になるのはなぜだろう。
 無論、俺も全く考えていないというわけではなかった。彼女とはいい加減な付き合いをするつもりもなく、彼女がいるこの先の人生を想像してみるくらいには考えていた。だが具体的に話題として出すには俺も雛子も若すぎる。現に雛子もすっかり戸惑い、俺と澄江さんの顔をきょろきょろ見比べている有様だ。
「あら」
 澄江さんはそこで眉を顰め、
「ではあなた、婚約もしていないようなお嬢さんを旅行に連れ出したとでも言うの? それはあまりにも無責任ではないかしら」
 俺にとって最も耳の痛い指摘をぶつけてきたので、俺は言葉に詰まった。
 無責任と言われれば、まさに無責任ではあるだろう。この度の旅行においては彼女のご両親に挨拶を済ませるどころか、彼女に嘘をつかせて同行させているのだ。この点においてはどんな非難を受けても仕方がないだろう。
「雛子さんの親御さんだって心配なさるわよ、そんないい加減なことでは。ちゃんと挨拶もして、きちんとしたお付き合いをしていることを説明した上で連れ出すようにしないと」
 とうとうと諭す澄江さんに、俺はもはや返す言葉もなく黙り込むだけだった。
 それをどう思ったか、
「あの、澄江さん」
 雛子が会話に割り込んできて、弁解らしいことを始めた。
「この度の旅行は、私がどうしてもとお願いしたもので、先輩に非はないんです。ですから先輩がいい加減だということは――」
「いいえ」
 だが澄江さんは彼女の言葉すら遮り、
「こういうことはきちんとしなくてはならないの。何かあった時、無責任に放り出してしまうような人間だと思われてはいけないわ。お付き合いしている以上はその点は、誠実でなくてはね」
 全く反論の余地もない、整然とした理論を展開した後、再び俺を真っ直ぐに見据えた。
 この人に、かつてこれほど強く見据えられたこともなかったように思う。自然と背筋が伸びた。
「寛治さん。旅行から帰ってからでも時間を作って、雛子さんの親御さんにご挨拶に伺いなさい。いい加減なことをしていては、せっかくのいいご縁も立ち消えになってしまいますよ」
 強い口調で促されると、もはや年齢がどうの、学生の身分がどうのという答え方はできない。
 何より俺の罪悪感がこれ以上ないほど痛めつけられていたので、やがて俺は白旗を揚げた。
「……わかりました。考えておくようにします」
「ええ。失礼のないようにね」
 澄江さんは頷くと、これまでの剣幕が嘘のような優しい微笑を見せた。
「せっかく素敵なお嬢さんとめぐり合えたんだから、ご縁は大切にしなくては駄目よ、寛治さん」
 その言葉に異論はない。ないのだが――。
 俺は何気なく、隣にいる雛子の方を見た。雛子もやはり俺を見ており、今はどぎまぎしてるように忙しく瞬きをしていた。今まで、あえて俺たちが口にしてこなかった話が具体的に飛び出してきたことで、おどおどと困り果てているようにも見えた。

 俺も、彼女を手に入れる為ならどんな努力も厭わぬつもりでいる。
 だがその前に、彼女に人生を共にしようと告げ、彼女のご両親に挨拶をするよりも先に、打ち明けておかなければならない話があるのだ。
 今回の旅行は、告白をする為の旅でもあった。
 窓の外では夏の日がゆっくりと暮れていく。その時が刻一刻と近づきつつある。
top