灯火の熱量(2)
大学を出てすぐのところで、雨脚は次第に強くなってきた。俺は自分の紺色の傘を差して大槻を入れてやった。雛子よりもわずかに背が高い程度の大槻は、まるで空を見上げるように首を伸ばして傘の内部を眺めていた。
「無地の紺色かあ。渋い趣味だね、鳴海くん」
「そうか? こんなもの、どこでも売っているじゃないか」
「何かリーマンのおっさんが持ってそうじゃん、こういうのって」
直後、大槻はなぜか得意げな顔をする。
「俺の傘はもっとすごいよ。日本刀仕様だからね」
「何だそれは」
「え、知らない? 持ち手のとこが刀の柄みたいになってんの」
「聞いたこともない。ちゃんと傘として使えるのか?」
「もちろん。他のバージョンもあってさ、海賊のサーベル風とか、ライフル風とか」
「子供のおもちゃみたいだな」
大学生にもなってそんなものを持ち歩く奴の気が知れない。俺はそう思うのだが、大槻はその傘をいたく気に入っていたようだ。人に貸したことを今更後悔するように一人でぶつぶつ言っていた。
「あの傘、ちゃんと返してくれるかな……まだ買ってから二回くらいしか差してないんだよな……」
しかし、こうして見ると傘という品は人の趣味嗜好をわかりやすく反映しているのかもしれない。
ふと俺は、雛子がいつも水色の傘を差していたことを思い出す。他人の傘の色など気に留めたこともなかったが、彼女については何でもよく覚えていた。
彼女は水色が好きで、持ち歩くものは大抵その色をしていた。髪を結わえるゴムも冬に着る通学用のコートも春先の羽織りものも全て水色だった。
そして雨の日に差す傘もやはり水色で、広げた傘の下にいる彼女は、雨の日でもまるで一人だけ晴天の下にいるように明るい顔色をしていた。
「梅雨の季節って憂鬱だよねえ」
ぼやく大槻は、紺色の傘のせいですっかり暗い面持ちになっている。
それが面白く思えて俺が笑うと、奴も気を取り直すように肩を竦めた。
「ま、憂鬱なら明るい話でもすりゃいいか。――鳴海くん、夏休みの予定はもう立てた?」
にしても、大槻が持ち出したのは少々気の早い話に思えた。
「もう夏休みの話をするのか? まだ六月なのに」
「別に早くないだろ。もう夏なんだから」
そう言うと大槻は探るような目を俺に向けてくる。
「鳴海くんは夏休み、何か楽しい予定はないの?」
既に気もそぞろなのだろうか。歩く大槻の足元で水溜まりの水が跳ね、ぴちゃんと音が響いた。奴が慌てて水溜まりを飛び越えるのを、傘を持って追い駆けながら俺は答える。
「特にない」
楽しくない予定ならある。盆には一度、実家に帰らなくてはならない。
もっとも今年は日帰りで済むだろう。父たちも俺の帰省を望んでいるわけではないし、義母も妹も俺を恐れているようだから、用だけ済ませてさっさと帰る方がお互いにいい。
「嘘だろ? 雛子ちゃんと海に行ったり、雛子ちゃんとプールに行ったり、雛子ちゃんと旅行に出かけたりしないの?」
大槻が疑わしげに食い下がる。しかも奴が挙げた項目にはことごとく雛子の名前が付随していて、何を聞きたがっているのか把握できた。
奴のやり方はいつもこうだ。矢継ぎ早に様々な可能性を挙げて、俺の顔色を窺う。俺がいずれかの項目に心当たりがあればてきめんに表情が変わるのでわかる、ということらしい。このやり方で俺は、これまでに雛子についての話を幾度となく追及されてきた。そもそも大槻に雛子の話をする必要はなかったし、話したいとも思っていなかった。なのにいつの間にやら奴は、俺から彼女についての情報を一通り引き出してしまった。実に恐ろしく厄介な男だ。
しかし今回の場合は特に心当たりもなかったので、俺は平然としていられた。
「夏だからってどうして泳ぎに行く必要がある」
俺が聞き返すと、大槻は信じがたいというように目を剥いた。
「どうしてって、そこは彼女ができたらまず押さえとくとこだろ!」
「行ったことはないな。そもそも行きたいとも思わない」
「マジで? もったいねえの! 雛子ちゃんの水着姿見たくないの?」
くだらない問いかけには言葉で答えるのも億劫だった。思い切り顔を顰めたら、大槻は苦笑しながら首を竦めた。
「はいはい。君は本当に堅物だねえ」
俺は海水浴自体にさほど興味がなかった。仮に俺と雛子が海へ出かけたところで、砂浜の上で縮こまって座り、互いに読書をする姿しか想像できない。俺は泳ぐのが好きなわけでもないし、眼鏡を手放せない雛子が体育のプール授業を疎ましく思っていることも知っていた。俺たちに海水浴やプールといった夏らしい行楽が似合うとも思えない。
だが、雛子は過去に言ってくれていたはずだ。波の音を聞きながら読書がしたい、と。
それを叶えるのであれば、海水浴へ行くよりも、むしろ――。
「……それに、雛子は今年受験生だ。貴重な夏休みに遊び歩かせるのはよくない」
ともかくも今年度はそういう事情がある。俺は考えを中断して言い添えた。
別に問題のない模範的な回答のはずだったが、大槻は途端に力の抜けた顔になる。
「相変わらずっすね。そういうの、彼氏に言われて嬉しいもんなのかな」
「は? どういう意味だ」
「雛子ちゃんだって絶対、周囲に散々言われてんだろ。勉強しろ勉強しろって」
同じことを大槻も、繰り返し言われてきたのだろうか。語りながら鼻の頭に皺を寄せている。
「家とか学校でもしつこく言われてることを、君にすら言われたらさすがにうんざりするんじゃないかって思うよ」
しかしそういった言葉はあくまでも案じているからこそ出るものだ。何とも思っていなければ叱咤だってしない。
「俺は心配した上で気を遣っているんだ」
「そりゃわかってるけどさ」
大槻は人懐っこく目を細めた。傘の下からはみ出た右肩が雨に濡れていたが、気にする様子もなく朗らかに続ける。
「受験生にも息抜きは必要だって。君くらいは甘やかしてあげるのもいいんじゃないの?」
「甘やかす……あいつをか?」
聞き返しつつも、俺は大槻の意見を鵜呑みにする気はなかった。
それでなくても雛子は受験生という己の身分をまだ自覚しきれていないそぶりがある。何かと言うと俺と会いたがるし俺の部屋にも来たがる。無論、友人の多い彼女は俺ばかりに時間を割くわけではなく友人とも遊び歩いているようだし、今年度からは東高校文芸部の部長まで務めている多忙の身だ。勉強する暇があるのかと案じたくなるのもやむを得ないことではないだろうか。
雛子がうちの大学を受けると聞いた時は、正直、嬉しかった。彼女とまた同じ学び舎に通う未来を想像すると、不思議と温かい気持ちになれた。それならば、言い出したからには結果を出して欲しいと思うし、そもそも彼女が落胆する顔は見たくない。だからこそ俺は彼女を甘やかさず、そして彼女と休日に会うことも控えるようにしてきたのだ。
「少しくらい厳しくしてやった方があいつの為だ」
思案の末、俺は本音を口にする。
すると大槻は呆れたような、乾いた笑い声を立てた。
「君の為でもあると思うんだけどなあ、息抜きは。海はいいよ、開放的な気分になるよ」
「どうしてそんなに水辺にこだわる。泳ぐのが好きなのか?」
俺が尋ねると奴は鼻息も荒く、
「違うよ鳴海くん。俺は水着が好きなんだよ。可愛い女の子とビーチで日焼け止めの塗りあいっこをするのが夢なんだよ!」
と語った。
随分と低俗な夢だ。今度は俺が脱力する番だった。
大槻を大学近くの奴の部屋まで送り届けてから、俺は自分のアパートへと足を向けた。
日が長くなってきたおかげで辺りはまだ暗くはない。だが雨は止む気配もなく、それどころかいよいよ勢いを増してきたように感じられる。すだれのような雨が視界を遮り、少し先の道も見えにくくなるほどだった。お喋りな大槻と別れてようやく静かになると思ったのに、雨音は激しさを増す一方でかえってやかましい始末だった。
自然と早足になりながら歩を進めるうち、ようやくアパート近くまで辿り着いた。安堵したのも束の間、俺は前方に目を凝らして思わず足を止めた。路上に何か落ちているのを見つけたからだった。
見覚えがある水色の傘だった。
開いた状態で、水浸しで真っ黒になったアスファルトの上に転がっていた。
思わず近づいて拾い上げると、大分長いこと開きっ放しになっていたのか、傘からざあっと水が流れ落ちた。握った柄の根元には目印代わりと思しきマスキングテープが巻きつけてあり、その不規則な水玉模様にも覚えがあった。
これは雛子の傘だ。
なぜ彼女の傘がこんなところに放置されているのか。それも開いたままで。それも随分長い間。
悪い予感にぞっとするような寒気を覚え、俺はすぐさま視線を巡らせた。傘の持ち主を見つけてやろうと雨の降りしきる辺りを見回す。相変わらず視界は悪かったが、住宅街の狭い路地の端に立ち尽くす人影はすぐに発見できた。
彼女も俺に気づいたようだ。少しばかり顔を上げたが、雨を吸い込んだ髪は彼女の顔に張りつき、その表情をほとんど覆い隠していた。服のまま水に飛び込んだ後のようにずぶ濡れだった。傘も差さずにこんな雨の中、突っ立っているのだから当然だ。問題は、なぜこんなところで、黙って雨に打たれているかということだろう。
「雛子か?」
俺が確かめると、彼女は返事をしなかった。だが間違いなく雛子だった。
傘を持ったまま急いで駆け寄ると、俺は雛子に彼女の水色の傘を差しかけた。それから顔を覗き込むと、ようやく彼女の今の表情がわかった。
元々色白の雛子は寒さのせいか蒼白で、唇も紫がかってがたがた震えていた。血の気のない顔にぺったりと張りついた黒髪から絶え間なく水が流れ続けている。そのせいで彼女の頬は濡れ、水滴を浮かべた眼鏡の奥でまるで泣いているように見えた。
だが、彼女はまだ泣いているわけではなかったらしい。
「どうした。こんなところで、傘も差さずに何をしている?」
顔を覗く俺が問い詰めようとすると、雛子は改めて身を震わせ始めた。レンズ越しに見える瞳にみるみる涙が盛り上がったかと思うと、留まることなくすぐに零れ落ちた。色の悪い唇の隙間から絞り出すような泣き声も聞こえてきて、彼女はたった今、泣き出したのだとわかった。
「先輩……」
雨音と震えのせいで非常に聞き取りにくい、かすれた声で彼女が俺を呼んだ。
悪い予感は確信へと変わりつつあった。彼女の身に何かあったのだろう。俺の顔を見ただけで泣き出してしまうような何かが。
そこで初めて、俺は雛子の顔だけでなく、全身を観察するに至った。彼女は頭のてっぺんから爪先までずぶ濡れだった。夏用の白いセーラー服は肌色が透けるほど水を吸っていたし、紺色のスカートの裾からも水滴がぽつぽつ垂れている。長いこと雨に曝されていたのだろう、普段の落ち着いた雰囲気は消え、別人のように痛々しく儚げに見えた。水色の傘の下にいるというのに、ずっと雨を浴びているみたいに全身から水滴を滴らせていた。
彼女の酷い姿を確認すると、胃の底まで冷え込むほどの悪寒を覚えた。同時にかっと焼きつくような憤りも込み上げてきた。何に怒ればいいのかまだわからない。だが彼女が理不尽な目に遭ったというなら、許せない。
いてもたってもいられなくなり、俺は彼女に重ねて尋ねた。
「何かあったのか、雛子」
まるで食ってかかるような口調になってしまったが、頓着してもいられなかった。
「どうしたんだ、本当に、何かあったんじゃないのか。話してみろ」
尋問しようとする俺に、彼女は泣きながらも少し驚いたようだ。涙を溜めた目を瞠って、直にかぶりを振った。
「い、いえ、違うんです」
「何が違うんだ」
「何かあったというわけでは……」
雛子は俺の不安を否定しながらも、涙を止められないようだった。言った傍から声を詰まらせている。
そんな姿を見せておきながら、何もなかったはずがないだろう。とっさに説明もできないほど余程酷い目に遭ったのだろうか。見た目には出血しているようではないが、どこか怪我でもしているのかもしれない。一体何があったのか――。
彼女の身に起きた出来事を想像しようとすると、悪い方にしか考えられなくなる。そうして膨れ上がった不安と恐怖に押し潰されそうになるのを堪え、俺は大きく息をつく。
「何もないならどうして泣く」
「わかりません」
泣いている最中だからというのもあるのだろうが、雛子の説明は全く要領を得なかった。
「わからないのは俺の方だ。ちゃんと説明しろ。どうしたって言うんだ」
繰り返し尋ねても彼女は泣き止まず、かぶりを振るばかりだった。
「何でもないんです、何でも」
たどたどしい口調で主張する彼女は、どうやら俺に心配をかけまいとしているらしい。
馬鹿な振る舞いだ。こんな姿でいるのを見かけただけで、もう十分に心配している。焼けつくような焦燥を抱えている俺に、そういう気遣いは無意味どころか逆効果だった。
俺は彼女の全身をもう一度眺め、目立った怪我がないようなのを確かめてから、改めて嘆息した。
そして水色の傘を持った片腕で、彼女を強く抱き寄せた。
水に浸したような彼女の身体が触れると、俺の服まで水を吸い始め、たちまち冷たく染み込んでいった。だがその冷たい布地越しに、彼女の体温がはっきりと感じ取れた。震える身体は冷え切っていたが、何一つ欠けることなく彼女の形をしていた。
腕に力を込めても痛がらない様子から見て、本当に怪我はないようだ。少しだけ安心できた。
しかしほっとした俺の腕の中、雛子ははたと気づいたようにもがき始める。
「あ、だ、駄目です先輩! 服が汚れます!」
今更遅い。既に俺の服まで濡れてしまっているし、ここで身を離したところで手遅れだ。
「そんなことはどうでもいい」
俺は言い切ると彼女を抱く腕に更に力を加えた。貧弱な俺の腕であっても、更に非力な彼女を捕まえておくのにそう苦労はなかった。
「どうでもよくないです。風邪を引いてしまいます!」
尚も雛子は反論してくる。どうやら他人に気を遣えるだけの余裕はあるらしい。先程までめそめそ泣いていたくせに忙しい奴だ。
「お前が言うな」
短く言って彼女を黙らせた。
すると、雛子も諦めたのだろう。やがて身体の力を抜き、俺の胸に持たれかかってきた。彼女の長い黒髪はたっぷり水分を含んでいて、着衣に触れるとやはり冷たかった。だが腕の中で彼女がつく息は熱く、彼女の体温と共に、俺がそれまで感じていた寒気を追い払ってくれた。
無事ならよかった。本当に。
「それで、結局何があったんだ。言え」
俺は傘を持ち直し、ようやく落ち着いてきたらしい彼女に事の次第を尋ねた。
泣き止んだらしい雛子は、唇の震えも止まっていた。だがこの期に及んで言いにくそうにしてみせる。
「本当に大したことではないんです」
「いいから言え」
「その、笑わないでくださいね、先輩」
「わかったから早くしろ」
しつこく前置きを繰り返されると苛々してきた。ただでさえこちらは事情もわからぬまま、さっきから焦らされてばかりだ。早く彼女の無事を確かめたい。それに、もう少し彼女を温めてやらなければならない。
雛子の口は未だに重かったが、俺の機嫌が悪くなってきたのを察したのだろう。
「瑣末なことなのですが、車に水を撥ねられてしまいまして」
取り繕ったような、大人びた口調でそう述べた。
「なるほどな」
それは確かに瑣末なことだ。そんなことでめそめそ泣くのは子供くらいのものだろう。
彼女が余程酷い目に遭ったのではないかとやきもきさせられた身としては、何とも拍子抜けな回答だったが――まあいい。
「起きたことはそれだけなんです」
小さく頷きながら雛子は説明を終え、
「それだけか。それだけでどうして泣く必要があるんだ」
俺が当然の疑問をぶつけると、どうしてか悔しそうな顔つきをしてみせた。
「先輩が通りかかって、私に気づいてくれたからです」
「意味がわからん」
それでは、雛子を泣かせたのは水を撥ね上げた車ではなく、通りかかっただけの俺ということになる。
全くもって腑に落ちない、理不尽な話だ。
「ええと、私も、上手く説明できそうにないです」
彼女もまだ動転しているのだろう。困った様子でまくし立ててきたから、俺もこの件はひとまず置いておくことにした。
「事故に遭ったわけでないなら、まあいい」
俺は彼女から少しだけ身体を離し、もう一度彼女の全身を見下ろした。傘の下にいるだけで乾くはずもなく、夏の制服を着た彼女は相変わらず濡れ鼠のままだった。
「風邪を引かれると困る。タオルくらいは貸してやるから、寄っていけ」
帰るつもりだったアパートは既に目視できるほどの距離にある。俺は有無を言わさず彼女を連れ帰ることに決めた。
部屋に辿り着いた俺がまず取った行動は、玄関付近に新聞紙を敷きつめることだった。
何せ雛子の有様と言ったら、搾る前の雑巾のようだった。濡れた制服から滴る水が、玄関の三和土にいくつも水溜まりを作っている。このまま部屋に上げては、室内が大変なことになってしまう。
「新聞紙の上なら上がっていい。今、タオルを持ってくる」
俺が言い渡すと、雛子は気後れしたようにかぶりを振った。
「いえ、あの……ここで、玄関先で結構です」
「しかし、その格好では帰れないだろう」
「ですから、ここで着替えをさせてもらえたらと……。ジャージは持っているんです」
雛子は東高校の指定補助鞄を開け、そこから青いジャージを取り出した。色合いを見るにそれほど濡れているようではなく、着替えにするには適切かもしれない。
「ここで着替えてもいいですか」
だが雛子にそう尋ねられた時、俺はさすがに戸惑った。
子供とは言え、一応は年頃の女である雛子を玄関先で着替えさせるというのはどうなのだろう。鍵をかけておけば急にドアが開くような心配はないが、それでも少々気にかかる。
それに俺としては、タオルで髪や身体を拭いた後は部屋に上げ、紅茶でも入れてやろうと思っていた。受験生に風邪は大敵だ。少し温かいものでも摂った方がいい。
「遠慮はするな。上がっていけ」
俺が諭そうとすると、雛子はおずおずと続けた。
「でも、私、頭から水を被っていますから」
「頭から?」
彼女が全身ずぶ濡れなのは言うまでもないことだが、俺はずっと、雨を浴びてそうなったものだと思っていた。
しかし言われてみれば、雛子は『車に水を撥ねられた』と述べていたはずだ。では彼女の髪や制服には、一度地面に落ち、砂埃と混ざった水が浴びせかけられたことになる。
俺は彼女の黒一色の髪をしばらく眺めた。いつものように二つに束ねた雛子の髪は、墨を吸わせた毛筆のようにひとかたまりになって彼女の肩に乗っていた。彼女の髪はこうして見ても艶があってきれいだったが、泥水を含んでいるとなれば彼女自身はとても不快だろう。
「風呂場を貸してやってもいい」
不意にひらめいて、俺は彼女に告げた。
告げた瞬間は適切な提案だと思った。これから電車に乗って帰る彼女はできるだけ清潔にしておきたいと思うだろうし、何より彼女自身の気分が悪いだろう。幸いこの部屋にはごくありふれたバスルームがついているし、まめに掃除をしているから他人を通しても問題はない。熱い湯を浴びれば彼女も気分も晴れるだろうし、冷えた身体も温まる。この上なく適切な条件が揃っている。
だが雛子の方はいまいち反応が鈍かった。しばらく理解が追いつかないという顔で俺を見上げた後、何かに気づいて目を瞬かせる。
そしてその時には俺も、適切だと思った提案に含まれる適切ではない要素に気づいていた。
「いや、別に、おかしな意味で言ったわけじゃない」
おかげで早急に弁解する羽目になった。
「俺はお前が、風邪を引くといけないと思って申し出たまでで――」
言い訳のつもりはないのに言い訳めいて聞こえるのが我ながら情けない。そんな俺を雛子は、まだ水滴が付着する眼鏡を通してじっと見つめてくるので、より居心地が悪くなった。
「ご、誤解はするなよ。本当に、強制したつもりもないしな」
そうして並べ立てた俺の言葉を、雛子は漏らさず聞いていたようだ。すぐに言ってくれた。
「大丈夫です。正しい意味の方で解釈しました」
「そうか」
子供と言えど年頃でもある彼女を相手取り、風呂場を貸そうと申し出るのは、いささか不道徳的な行為であるようにも思えた。もちろんこちらにそういう意図はないが、彼女がどう受け取るかは気になっていたのだ。その返答に安堵した。
「とにかく、遠慮はするな。夏場だからと言って身体を冷やしたまま帰るのはよくない。その格好では電車に乗るのも抵抗があるだろう」
急き気味に尚も勧めると、やがて雛子もそれが適切な案だと思ったようだ。やがて言った。
「お言葉に甘えてもいいですか」
「ああ」
遠慮されなかったことに、奇妙なくらいほっとしていた。
この部屋に彼女が訪ねてくるようになってから一年近くが経っていたが、バスルームへ案内したのは今日が初めてだった。
これまではそんな機会もなかった。いや、あるはずがない。今日の措置はあくまでも緊急時の、やむを得ない状況下においてのものだった。本来なら彼女を入れてやるような場所ではないのだ。
バスルームの照明を点けると、すっかり見慣れてしまったクリーム色の壁や淡いグリーンの浴槽が目に入った。風呂場の設備は家ごとに異なるものだし、こういったアパートでは一軒家と勝手が違う箇所も多いので、雛子には事前に一通りの説明をしてやった。シャワーとカランの使い分け、湯温の調節について話すと、雛子は興味深そうに頷きながら聞き入っていた。
「何か、質問はあるか」
俺の問いにも、彼女は即座に反応してきた。
「はい。先輩、シャンプーなどはお借りしてもいいですか」
質問自体は聞くまでもないような事柄だったが、他人の家に世話になるともなれば気になるものだろう。あいにくと俺が使っているのは安い市販品だから、彼女がお気に召すかどうかはわからないが、ともあれ頷いておく。
「当たり前だ」
「ありがとうございます。それと、タオルもお借りしたいのですが」
「わかっている。用意するから、少し待っていろ」
タオルに関しても新しいものはないから、その中でもなるべくきれいなものを選んで出してやろう。そう思い、俺は早速選別にかかろうとバスルームを離れかけた。
そこへ、
「もしできれば、あの、Tシャツか何かで構わないのですが、先輩の服を貸していただけませんか?」
彼女が遠慮がちに呼び止めてくる。
俺は振り向き、問い返した。
「Tシャツでいいのか?」
すると雛子は小さく顎を引いてから、恥じ入るような声で付け加えた。
「はい、あの……できればあまり、窮屈ではないものを」
雛子は決して痩せている方ではなく、適度に肉がついている。だからそんなことを口にしたのだろうが、そうは言っても男物の服が窮屈に感じるほどではないと思われた。
だが、何気なく目をやった彼女の姿は、濡れた制服が着衣としての役割を果たさず肌に張りつき、その痩せてはいない体躯が全て透けて見えるようだった。もちろん見るべきではないものだから、俺は大急ぎで顔ごと背け、即刻その場を立ち去った。
内心ではいささかうろたえていた。
考えてはいけないことを考えてしまいそうになっていた。