形に残るもの(5)
修学旅行後の休みが明けてすぐの夕刻、雛子は俺の部屋を訪ねてきた。休みの間も遊び歩いていただけあり、疲れの色もなく非常に元気そうだった。既に授業も再開したようで、放課後に立ち寄ってくれた彼女は紺のセーラー服を着ていた。
「今年もきれいに咲きましたね」
部屋に立ち入ると、彼女は室内に置かれた鉢植えに目を留める。
白い紫陽花の鉢は去年購入したものだ。地植えの方が育てやすいと専門書には書かれていたが、試行錯誤しつつも育ててみたら思いのほか見事に咲いてくれた。今時分は西日を避けて、机の上に置いてある。
「手をかける余裕があったからな」
俺は何でもないことのように答えた。
実を言えば、一人きりで花を育てたのはこれが初めてだった。澄江さんはあの港町の古びた家でいくつか季節ごとの花を育てていたから、その手伝いをしていた経験が活きたのかもしれない。
俺の部屋は飾り気がなく通年殺風景だった為、たった一つきりの鉢植えが内装に馴染んでいるとは言いがたい。ここまで狭い部屋でなければまるで孤立無援という印象を持ったことだろう。だが雛子がその鉢植えを眺めて嬉しそうにしているから、俺もある種の達成感を抱くことができた。満ち足りた思いで、鉢植えに見入る彼女をしばらく観察していた。
それから少しの間、彼女と、彼女によく似たお兄さんについて思いを馳せる。
兄妹とは本来ならあんなふうに連れ立って歩くものなのだろう。遠目から見れば親密な関係に映るくらいに仲がよくても、何もおかしなことはないのだろう。誤解をするのも当然だと思う一方、そういう兄妹の在りようが今一つ掴めないのも事実だった。
俺と、名前を呼んだことがない小さな妹は、そういう関係にはなりようもない。だがもしかしたら、俺がもう少し可愛げのある子供だったなら、例えばあの家の花壇で一緒に花を育てるような兄妹になれていたのかもしれない。こんな小さな鉢植えを一人寂しく世話することもなかったかもしれない。それが叶ったところで果たして幸せでいられたかどうか、今の俺には考えもつかないが。
一つ言えるのは、俺は少しばかり雛子のお兄さんを羨ましく思っているということだ。
白い紫陽花を慈しむように見下ろす彼女の顔は、その色に引けを取らないほど白く、透けるような肌色をしていた。紺一色の、地味で堅苦しいセーラー服が彼女を一層色白に見せるのかもしれない。旅先で日に焼けてきたということもなく、さながら丹精尽くして育てられた花のように、いつでも守られ大切にされている印象があった。俺もこんな妹がいたらさぞかし大切にしていただろう、と柄にもないことを考えてみる。
「……先輩?」
ふと、彼女が俺を呼んだ。
目が悪いはずの彼女は、こちらの視線にはやけに敏い。どうやら観察していたことを感づかれていたようだ。白い頬にほんのり血の色が通ったかと思うと、彼女は俺の視線の意味を知りたがるように微笑んだ。
思わず目を逸らせば、逃がすまいとばかりに間髪入れず問いかけられた。
「先輩、紫陽花の花言葉、覚えてますか?」
俺は気まずく思いながら答える。
「言いたくない」
それは白状したのと同じだった。去年の記憶は当然のように、まだ色鮮やかに残っている。だからこそ俺はこの鉢を大切に思い、育ててきたのだ。
視界の外で彼女がくすくす笑うのを聞きながら、彼女のお兄さんはこの妹に手を焼くことはないのかと考える。兄ではない俺はこうして翻弄されてばかりなのだが、実のきょうだいとなればまた違うのだろうか。
以前電話で話していた通り、彼女は修学旅行土産も携えてきた。
俺が要望に応えてお茶を入れてやると、美味しい美味しいと言いながら次々にそのお菓子を平らげていった。俺も一つ二つ貰ったが甘すぎて口に合わなかったし、雛子が頬を緩めてお菓子を食べる様を見ているだけでも十分に腹が膨れた。だから残りは彼女に任せてしまうことにした。
「兄にはあの後、正直に打ち明けてしまいました」
お菓子を食べながら、雛子は不意にそんな話を始めた。
俺はつい眉を顰める。
「つまり、俺の小芝居も無意味なものになったということか」
我ながらあれは機転を利かせたと思っていたが、全く意味をなさなかったのでは決まりが悪い。
こちらの複雑な胸中を推し量ってか、雛子も申し訳なさそうにしていた。
「すみません。先輩の心遣いはすごく嬉しかったんですけど」
もっとも、仲のいい兄妹であれば嘘をつく必要もない、ということなのだろう。雛子はあの後お兄さんと、俺についていくつか話をしたらしい。
「兄から、次に会った時はぜひ紹介して欲しいと言われたので、してもいいでしょうか」
そう尋ねられた俺は、複雑な思いで答える。
「俺は構わんが」
一度顔を合わせた相手だ、今更こそこそするのは失礼だろう。恐らく雛子は俺について過剰なほどの誉め言葉を並べ立てているだろうから、実際に会って失望されないかどうかは気になるところだが。
「しかし俺はこの通り、他人に好かれない性質だ。お前のお兄さんがどう思うか、保証はできんぞ」
俺が尋ね返すと、雛子は眼鏡の奥の瞳を細めた。
「それなら大丈夫です。兄は先輩のことを、優しそうな人だと言っていました」
「まさか」
そんな評価を他人から賜ったのは初めてのことではないだろうか。俺が疑念を示すと、雛子は堂々とセーラー服の胸を張る。
「本当ですよ」
どうやら嘘でもお世辞でもないようだ。
「失礼だが、目が悪いところはよく似たご兄妹と言わざるを得ないな」
そう言ってから、俺は雛子の顔を改めて眺めた。彼女の兄と彼女は揃って眼鏡をかけていたが、それも遺伝なのだろうか。しかし眼鏡の奥の感情豊かな瞳や、見た目は繊細そうに映る顔立ちも、そういえばよく似ていたように思う。
「いや、よく見れば顔も似ていたな」
俺が声に出して納得すると、たちまち雛子はむくれた。
「それはないです。似ているのは眼鏡をかけてるところだけです」
むきになって反論してくる彼女の表情は普段よりもあどけなく、それを目の当たりにした俺は、笑わずにはいられなかった。
あんなに仲のいい兄妹なのに、似ていると言われるのは嫌なものなのか。こちらとしても誉めたつもりはなかったが、彼女の過剰にも思える反応が愉快に思えた。もしかすると俺に言われるよりも前、ずっと昔から、会う人会う人に言われ続けてきた言葉なのかもしれない。
雛子はその後もしばらくは不満げにしていたが、やがて思いついたように居住まいを正した。
それから、笑う俺に対して切り出す。
「まだずっと後の話ですけど、いつか、私の両親にも会ってくれますか」
ぎくりとして、俺は笑いを引っ込めた。
そういう話も、持ち上がってもおかしくない間柄ではある。いつかはそうしなければならないだろうし、その過程でこちらの事情も打ち明けなくてはならないだろう。
俺の父は、挨拶など来なくてもいいと言うだろう。そのくらいなら卒業後は一切家によりつかず、いっそ俺はいないものになってくれた方がいいと思っているはずだった。今の俺はあの家に暮らす家族たちにとって、平和と財産を脅かす存在でしかないのだ。俺には帰るべき実家もなくなること、だから挨拶の必要もないことを、いつかは雛子にも話さなくてはならない。
だが雛子の家はごく普通の、真っ当な家庭だと聞いている。彼女のご両親は当たり前のように彼女を大切に思っているだろうし、そんな愛娘がどんな男を連れてくるのかという点は大層気がかりだろう。俺は身の上に関して言えばマイナスしか持ち合わせていないような男で、おまけに俺自身の性格もおよそ非社交的と来ている。それらの欠点を覆す為には相応の努力が必要だと考えている。
「それは当然、いつかは……ご挨拶に伺うのが礼儀だと思っている」
俺は彼女を見据えながらそう答えた。
「だがな、雛子。俺はまだ学生だ、自立もしていない身分でご挨拶に上がるのはさすがに尚早だろう」
雛子は時々頷きながら、俺の話を聞いていた。しかし瞳には楽しげな光が躍っていたし、唇は明らかに笑んでいる。そのことに気づいた時、真面目に答えている自分が急に気恥ずかしくなった。
「お前のご両親も、こんな男が相手では娘を任せられないと言うだろうし――」
そこまで言ってから俺は口を噤み、話の続きをねだろうとする彼女を制するように言い渡す。
「笑うな」
「笑ってないですよ」
即座に彼女は否定したが、どう見ても嘘だった。それも思いきり嬉しそうに笑んでいた。
「嘘だ、お前の目が笑っていた。俺がせっかく真面目な話をしているのに」
「それは笑っていたんじゃなくて、幸せだと思っていたんです」
その言葉は嘘ではないのかもしれない。
だとしても気恥ずかしいのに変わりはない。俺も雛子に対していい加減な気持ちで付き合ってきたわけではないが、こんなふうに先の話まで考えていることこそ尚早だったのではないだろうか。彼女はまだ高校生なのだから、もう少し適当に答えておく方が無難だったのかもしれない。
「うちの両親も兄と同じく、きっと先輩が優しい人だって思ってくれるはずです。心配要らないですよ、きっと」
雛子は俺を宥めるつもりか、そんなことを言ってくる。
言わなくてもいいことまで言わされたような気がしてならず、何とも腹立たしかったので、それには返事をせずそっぽを向いておいた。
だが、雛子の今の言葉もまた、嘘ではないのかもしれない。俺が考えすぎているだけで、いざとなれば何の心配も必要なく事は運ぶものなのかもしれない。
俺はずっと、雛子を物好きで、奇特な感性の持ち主だと考えてきた。何せ俺のような人間の傍に好んでいたがるような奴だ。俺のどこがいいのだろうと幾度となく考えもしたし、その答えは未だに出ていない。
それでも、彼女は当たり前のように家族のことを信じている。自分が連れて行く相手を、家族たちが気に入り、諸手を挙げて歓迎してくれるものと信じて疑わずにいる。それは俺からすれば想像もできない家族の姿なのだが、雛子にとっては普通のことなのだろう。
「……しかし、俺はお前のことを随分な物好きの変わり者だと思っていたが」
俺はしみじみと、その考えを口にした。
「今のような話を聞くと、お前が普通の、まともな家庭で育ってきたのだと実感させられるな」
別に嘆くつもりも、自らを卑下するつもりもなかったが、俺の言葉を聞いた彼女はあからさまに表情を強張らせた。何か言わなければいけないという使命感と、でも何を言っていいのかわからないという動揺とがわかりやすく彼女の顔に表れている。俺は彼女に家族について話すのを避けてきたが、そのせいで雛子の方もいくらか察するところがあったようだ。たまにこうして、気遣わしげな反応を見せることがあった。
気を遣わせるのも本意ではなく、俺は話題を変えるつもりで立ち上がった。机の上の本立てに差し込んでいたクリアファイルを抜き出し、そこから一枚のはがきを取って彼女に見えるよう翳した。
「そういえば、届いていたぞ」
岸から繋いだ船が並ぶ、港の風景写真を使用したポストカードだ。表面に記された彼女からのメッセージは、もう何度も眺めていたので一字一句正確に覚えている。全く、あんな文面をよくも恥ずかしげもなく送りつけてくるものだ。
と思っていたが、どうやら彼女は今になって面映くなったらしい。すっかり縮み上がりながら恨めしげにはがきを見ていた。そして俺にもおずおずと尋ねてきた。
「あの……迷惑じゃなかったですか」
「それは出す前に聞け。今聞かれたところで送りつけられた後ではどうにもなるまい」
俺が実家暮らしだったら歓迎しかねるはがきだったが、そうではないのが幸いした。
こんなもの、他の誰にも見せられないし、見せたくもない。
「あ、それもそうですね……」
雛子はまだ恐縮しきっている。後で悔やむくらいなら出さなければいいのにと俺は呆れたが、俺としては彼女のそういう思いつき、気まぐれに感謝していた。
きっと雛子は、俺が海に行きたがっていると思ってこのはがきを選んだのだろう。単に北海道の風景写真を選ぶなら、もっと自然豊かなものも、あるいは名だたる建築物の写真などもあったはずだ。その上で彼女が海は海でも港町の写真を選んだのは全くの偶然というところだろうが、俺は奇妙な偶然の一致を感じずにはいられない。
「だが、この写真は嫌いではない」
呟いてから、俺ははがきの裏面いっぱいに広がる港の風景に視線を落とす。
俺が知る海のイメージはまさにこれだ。光る波間に浮かぶ船、空を滑るように飛ぶ海鳥、からからに乾いた岸壁沿いの道、そして吹き抜ける潮風の匂い。
いつか、彼女を連れて行くことになるだろうか。
「俺にも……」
はがきと、こちらを見上げる彼女の顔を交互に見ながら、俺は静かに打ち明けた。
「俺にも、いるのを思い出した。お前を紹介しなければならない相手が」
一人だけ、いる。
家族ではない。あの人自身が、そうではないと言っていたから。
だが俺にとっては実の家族以上に大切な人だ。そしてあの人なら、雛子を気に入ってくれると思う。案じる必要も疑う必要もなく、あの人のことなら心から信じられた。
ただ、俺はまだ澄江さんに雛子について打ち明けたことがなかった。高校時代の後輩と卒業後も交流を持っていること、よく話し相手になってもらっていることだけは言ってあったが――それがどういう相手か、という点にはなかなか踏み込めなかった。隠すような話ではないとわかっているし、大切な話だからこそ急ぐべきだとわかってもいるのだが、いざ口にするとなるとどうにも、上手く言えそうな気がしない上にくすぐったい気分になってしまう。おかげで澄江さんと俺との間には、多少の誤解、行き違いが生じている有様だった。
それでふと、合点がいった。
恐らく雛子も同じ思いで、俺の話を家族にはできずにいるのだろう。
その雛子は、今度は不安そうに俺を見ていた。俺が語った『紹介しなければならない相手』を彼女なりに想像してみた、というところだろうか。臆したように眉を下げながら、こわごわ言った。
「その方に……私、気に入ってもらえるといいんですけど」
彼女の物言いに、俺は少々落胆した。随分と頼りないことを言うものだ。俺はいざとなれば何を擲ってでも、彼女の家族の理解を勝ち取ろうとすら考えているのに。
「仮に気に入られなかったら、どうするつもりだ。俺は誰が何と言おうと――」
だが本音を言いかけて、それもまた気恥ずかしい言葉だと思えてきて、結局口を噤んだ。
雛子は続きを聞きたそうにしていたが、それならお前が先に言えばいい。
こんな本音を俺ばかり言わされるというのは気に食わない。
はがきを再びクリアファイルにしまうと、雛子は安堵した様子で言った。
「ポストカード、気に入ってもらえてよかったです」
すっかり冷めてしまったはずのお茶を飲みながら、少し嬉しそうに笑んでいる。
「海の写真を探したんですけど、なかなかなくて。やっと見つけたのがそれだったんです」
その言葉を聞きながら、俺はクリアファイルを本立てへと、はがきが折れたり撚れたりすることがないよう慎重に戻した。しばらくは読み返すだろうから手元に残しておくが、近いうちにもっといい保管方法を考えなくてはならない。
「形に残る土産というのも悪くない」
俺が言うと、雛子は一度きょとんとしてから照れたように首を竦めた。
「お土産というにはちょっと安上がりですけど」
「それでいい。しつこいようだがお前が俺の為に散財する必要はないからな」
「でも、私だってたまには先輩に、プレゼントとかしたいんです」
彼女は不満そうに言い募ったが、それなら彼女は何もわかっていないのだろう。
プレゼントならこれまでにもたくさん貰っている。俺の中に記憶として、いくつも積み重なっている。そしてこの部屋に増えつつある彼女にまつわる品々が、その記憶を形あるものとして残してくれている。
白い紫陽花の鉢植えも、彼女がこれまでに勧めてくれた何冊もの本も、彼女の為に買い置きするようになった紅茶の葉も、そして貰ったばかりのはがきも全て、俺は持つ記憶と密接に絡まりあい、目に留める度に思い出させてくれる、言わば形に残る記憶だ。
俺の中には彼女以外の記憶もたくさんある。その多くが二度と思い出したくもない、忌々しく辛い記憶ばかりだ。そういうものが蓋を抉じ開けるようにして、いつ飛び出してくるかわからない。今後、生きていく上でもいくつか抱え込むことになるかもしれない。
だが形に残る記憶は、形のない記憶よりも鮮明に息づくものだ。
この数日間、雛子から届いたはがきを時間のある度に眺めて過ごした。そうしている間は他の憂鬱も悩みも忘れていられた。代わりに彼女のことばかり考えていたが、どうしようもない家族関係について思案の時間を割くくらいなら、よほど前向きな時間だったと思う。
これからも彼女と共にある限り、形に残る記憶は増え続けていくことだろう。
そしてこの部屋が彼女にまつわる品で溢れ返るようになった時、俺は、形に残らない瑣末な記憶たちを遠くへ押しやり、ただただ幸せな日々を送れるようになるのかもしれない。
どうせ、記憶の容量には限りがある。自分自身に起きたことの全てを覚えていられる人間などいない。
ならば俺は形に残る記憶を、何よりも大切に持ち続けていきたい。
「お替わりを入れてやろうか」
彼女のカップが空になったところで、俺は声をかけた。
「いいんですか? じゃあ、是非お願いします」
雛子は嬉々としてティーカップを差し出してくる。俺はそれを手に立ち上がり、ついでに座卓の上に残っている土産のお菓子に目をやって、彼女に念を押しておく。
「その甘いやつも食べてしまえよ。どうせまだ入るんだろう」
「……今日は体育がありましたから。お腹が空いてるんです」
言い訳をしながら、彼女は残りのお菓子に手を伸ばした。やっぱり際限なく食べるじゃないかと言ってやりたくもなったが、黙っておくことにする。黙って、彼女がお菓子を食べている姿を見ている方が、余程腹が膨れるからだ。
「あれ、先輩。ウェストールの本、気に入ったんですか?」
台所に立った俺へ、雛子が疑問の声を投げかける。恐らく本棚に新しく増えた本を発見したのだろう。
湯が沸いてお茶が入ったらその話もしよう。
それからお菓子を食べる彼女を存分に眺めてやろう。
今の俺にはささやかな楽しみと幸いがある。
それをくれるのはいつでも、彼女という存在だった。