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形に残るもの(3)

 迎えた翌週、どうやら北海道方面の天候はまずまずのようだ。
 東高校の修学旅行も予定通りに開始されたことだろう。俺は二年前の記憶を思い出しながら、今頃雛子はどの辺りにいるだろうと時計を見る度に思った。
 当たり前だが彼女は学校行事として旅行へ行くので、無事に出発したことを知らせる連絡などはなかった。そこは便りのないのがよい便りと思い、土産話を楽しみにするつもりでいる。
 携帯電話を持っていれば便利かもしれない、そう感じることもたまにある。こうしてどちらかが多忙な時、どこかへ出かけている時にメールなどで連絡を取り合えるからだ。雛子からは何度か『先輩は持たないんですか?』と尋ねられていたし、大槻に至っては君のような人間こそ是非持つべきだとセールスマンのように始終勧めてきた。俺もその利便性が理解できないわけではないのだが、携帯電話を持つことで生じるデメリットも看過できない。
 俺の元へ届く連絡は、決していいものばかりではなかった。

 その晩、俺の部屋の電話が鳴った。
 自室の電話が鳴るといつも、ひとりでに背筋が震えてしまう。テレビやオーディオのない室内はいつも静かだったから、電話の音が響くとまるで自分の領域に無断で踏み込まれているような気分にさせられた。元来俺は電話というものがあまり好きではない。携帯電話を持ったところで鬱陶しくなって、置いて歩くようになるかもしれないという懸念もあった。
 部屋に引いている電話は安い型落ち品で、誰から電話がかかってきたのかわからない代物だった。わざとわからないようにしているのもある。かけてきたのが誰か判別がついたら、受話器を取る気が失せてしまうからだ。
 俺に電話をかけてくるのはもっぱら雛子と大槻だった。大学の文芸サークルのメンバーからの連絡も何度かあったし、澄江さんが未だに俺を気にかけて、電話をくれることもある。しかし中には歓迎できない電話もあり、それらはいつも俺の気分を憂鬱にさせた。
 現在時刻は八時半を過ぎたところで、どんな可能性も推測できた。父か、実母からのものであることも考慮して、対応に備えなくてはならない。とは言えそんなものにいちいち臆するのも嫌だった。
 俺はためらうことなく受話器を取り、警戒しながら声を発した。
「もしもし」
『……あっ、先輩。こんばんは』
 電話の相手は、どうやら雛子のようだ。
 彼女はいつも自らかけてきたくせに、俺が出ると少し驚き、小さく声を上げてみせる。それでなくてもこの声は十分聞き慣れているから、名乗らなくてもすぐにわかる。
 いつもなら彼女からの電話は歓迎するところだったが、今回ばかりはその声を聞いた途端、ほっとすると同時に奇妙にも思った。修学旅行で北海道にいる人間が、わざわざ遠く離れたところへ電話を寄越す理由は何か。まさかトラブルでもあったのかと気がかりにもなる。
「雛子か。何の用だ」
 即座に尋ねると、雛子は電話の向こうで照れたように笑った。
『いえ、特に用はないんです』
 ふざけたことを言う奴だと俺は呆れた。楽しいはずの旅行中に、特に用もないのに電話をかけてくる奴がいるだろうか。時間、そして電話代の無駄だ。
「用もないのにかけてくる奴があるか。切るぞ」
 何かあったのかと心配もしたのに。呆れ返った俺は彼女にそう告げた。
『先輩、待ってください』
 雛子は慌てたようだ。切羽詰まった制止の声が聞こえてくる。
「何だ。急ぎの用なら聞いてやる」
『用というほどのことはないんですけど』
「それなら切る」
『で、ですから、待ってください。用というより、急に電話がしたくなったんです』
「こんな時にか? 電話代の無駄だ」
『私にとっては無駄じゃないです』
 旅先から電話を寄越してまで押し問答を繰り広げなくてもいいだろうに。消灯時間も近いはずだが、彼女は一体何を考えているのだろう。それも修学旅行の初日、長距離移動で疲れているはずの晩にだ。
「いいや、お前にとっても無駄だ。疲れているだろうから早く寝ろ」
 忠告のつもりで言ってやったのだが、雛子はそれが不満のようだ。言い訳するように反論してきた。
『ただ先輩の声が聞きたくなって……。それも、先輩からすれば用のないことになりますか』
 馬鹿な話だ。こんな声を聞いてどうなると言うのか。
 俺は思わず嘆息した。
「くだらないことを言うな」
 すると彼女はいよいよ勢いを増し、
『くだらなくないです。私はいつだって先輩の声が聞きたいと思っています』
 毅然として言い放ってきた。
 それもまた馬鹿な話だと思う。しかしそれはさておき、雛子はよくも平然とそんなことを口にするものだ。俺は急に、彼女がどこから電話をかけてきているのかが気になり始めた。
「おい、何を……」
 咎める声がなぜか上擦る。忌々しい思いで一度唇を結んでから、俺は彼女に確かめた。
「お前、今は一人でいるのか? あまり人前でそういうことを口走るものじゃない」
『平気です。ちゃんと人のいないところで話をしていますから』
 そう言うからには雛子は今、ホテルの客室にいるわけではないのだろう。つくづく度しがたい奴だ。消灯間際に部屋を出ているなんて教師に見つかれば叱られるだろうに、何と軽はずみなことか。
「……何をやっているんだ、お前は。話なら帰ってきてからすればいいだろう」
 俺はもう一度溜息をついた。
「せっかくの修学旅行中だというのに」
 電話の向こう、数百キロの距離を隔てた遠い地で、雛子は少し笑ったようだ。
 彼女の微かな笑い声は、電話が嫌いな俺の耳にも不思議と馴染んだ。

 雛子は修学旅行を楽しんでいないわけではないらしい。その電話で交わした会話と、声の端々から伝わってくる浮かれようでよくわかった。向こうは予報通りに天気がよかったようで、彼女は友人たちといくつかの観光地を歩き回り、順調に初日の予定をこなしたようだ。
 それなら旅行初日の晩という貴重な時間と電話代を、わざわざ俺に浪費することもないはずだった。なのに彼女は俺との通話を続けたがった。
『今度は二人で旅行、なんてどうでしょうか。北海道じゃなくてもいいですから』
 話の途中で雛子が、楽しげにそんなことを言い出した。
 それは今でなければできない話なのかと思いつつ、俺は答える。
「旅行なら去年出かけた」
 少し遠出をして、近郊にある森林公園まで行った。俺が言及すると、雛子はどこか不満げにしてみせる。
『でも、あれは日帰りでした』
「だとしても旅行には違いあるまい」
『私は別に、日帰りじゃなくたって……』
「駄目だ」
 間髪入れず、俺は拒絶の意思を示した。
 真っ当な家に育った女子高校生が、男と外泊するなど軽佻浮薄にも程がある。たとえこちらにやましい意図がなくても、彼女を連れ出してしまった時点で俺は非常識の謗りを免れないだろう。雛子も常識がわからない人間ではないはずなのだが、やはりまだ子供なのだと思わざるを得ない。時々こういった浅はかな発言をするので手に負えないとも思っている。俺のいないところでも軽はずみな行動を取って、悪い男に騙されていなければいいのだが。
 いや、現状でも既に、性質の悪い男に捕まっていると言えるのかもしれない。
 彼女はなぜ、俺みたいなのがいいと思ってくれているのだろう。
「それより、そろそろ消灯の時間じゃないのか」
 しつこく食い下がられる前に、俺は話を打ち切ることにした。腕時計を見ればあと十分で九時というところだった。時間的にも頃合いだろう。
「お前ももう気が済んだだろう。教師に見つかる前にさっさと部屋へ戻れ」
『まだ、平気です』
 雛子は語気を強めてそれを拒む。
 彼女がこういう生意気な物言いをする時は、大抵梃子でも動かないものだった。
 俺としても彼女の声が聞けたことで気分がよかったし、遠方から、旅先からの無駄な電話とは言え、こうして連絡をくれたことにも感謝はしている。それなら最後まで押し問答で終わりたくはなかったし、少し折れてやろうという気にもなる。
 せっかく、彼女と話せているのだから。
「見つかったらすぐに電話を切れよ。詮索されると厄介だからな」
 なるべく素っ気なくならないように、俺は彼女に許可を告げた。それから受話器をしっかりと握り直す。
『わかりました』
 雛子も承諾した後、すぐに語を継ぐ。
『……あの、先輩』
「何だ」
『先輩は、海と山ならどちらがお好きですか』
 唐突な質問だと感じた。俺と彼女は他愛ない世間話もする間柄ではあるが、だとしても随分と脈絡がない。
「今度は何の話だ」
 俺が追及すると、雛子は少し早口になって釈明を始める。
『いえ、もし旅行に行くとしたら、どちらがいいのかなと思って』
「その二択しかないのか」
『先輩なら、騒がしいところには行きたがらないでしょうから』
 一年以上の付き合いのせいか、彼女は俺の性質をよくわかっているようだ。先日も大槻の誘いを同じ理由から断っていた。旅行までして騒がしいところを練り歩くなど、わざわざ疲れに行くようなものだと思う。どうせ行くならもう少し静かな場所がいい。
 海も山も、静かでさえあればどちらでもいいのだが――。
『それとも行く先々の図書館探訪、なんていう旅行の方がいいですか?』
 ふと、雛子が愉快そうに言い添えてきた。
「日帰り旅行ではそう多くは回れまい。それならば俺一人で行く方がいい」
『……そうですか』
 正直に答えれば彼女はなぜか落ち込んだようだ。彼女も図書館が好きだから、どうせなら二人で回りたいと思ったのだろう。だが雛子は俺よりも歩くのが遅く、またくたびれるのも早かった。彼女を連れ回すならそういう気配りも頭に入れておかなければならず、いくつもの目的地を渡り歩くのは向いていない。やはり二人で行く場合も、静かな場所がいいだろう。
 そんなことを考えるうち、俺の脳裏には懐かしい風景が蘇ってきた。古い家の中を通り抜ける潮風の匂いと、遠くから聞こえる波の音。涼しい二階の書庫で本を読んだ、あるいは読書に耽る澄江さんの傍らに座っていた、あの頃の記憶。
「先程の質問に答えるなら……」
 不思議と、その言葉が口をついて出た。
「そうだな。好きではないが、海がいい」
『海ですか? へえ……』
 雛子は意外そうにしてから、
『先輩は海のどこがお好きなんですか?』
 興味深げに尋ねてきたから、おかしなことを知りたがる奴だと俺は笑った。
「好きだとは言っていない」
『あ、そうでしたね。でも、海の方がいいんですよね?』
「どちらかと言えばな。波の音を聞きながら本を読むのも悪くない」
 あの港町にいい思い出などほとんどなかったが、しかしわずかにだけ存在する幸いなひとときの記憶は、今でも胸に残っていた。当時から俺は静かな時間が好きだった。他人に踏み込まれることのない静寂に、安息と救いを見出していたのかもしれない。
 雛子は、波の音は好きだろうか。尋ねてみたくなった。
『素敵ですね』
 しかし彼女が嬉しそうに誉めてきたので、急に居心地が悪くなる。
「そうでもない」
『そうでしょうか? 私は今のお言葉、心の琴線に触れました』
「大げさな。お前は事あるごとに感銘を受けすぎだ」
『先輩の言葉はいつだって私の心に響きます。私は先輩のファンでもありますから』
 簡単に言うものだ、と俺は唇を引き結んだ。
 人の心に響くような言葉が、こんな他愛ない会話に容易く飛び出してくるはずもない。雛子はまだ子供だから、いちいち俺の言うことに感銘を受けたり、単純に誉めてこようとする。俺からすればこんなもの、大して深い意味などないのに。
 彼女が大げさな反応をしたせいで、俺は尋ねてみたい質問を喉の奥へ呑み込む羽目になった。そして腕時計を見れば、いよいよ午後九時まで残り五分を指していた。
「時間だ。いい加減部屋へ戻れ」
 さすがにこの時刻では雛子も食い下がってこなかった。
『わかりました。お休みなさい、先輩』
 ようやく素直に応じてくれた。
「ああ。明日に備えてゆっくり休め」
 切る直前に告げた忠告に、彼女はまた笑ったようだ。微かな笑い声はノイズ混じりに聞こえたが、それすら耳障りではなかった。

 受話器を置くと、一人きりの室内は耳が痛くなるほどの静寂に包まれた。
 一人暮らしは高校入学前からの願いであり、ようやく手に入れた平穏でもあった。だから静寂も孤独も苦痛ではないはずなのだが、時々物足りなくなる。好きだったはずの静けさが空ろなだけのように思えて、わざと音を立てて溜息をつきたくなる。
 彼女と電話をした後、あるいは彼女がここを訪ねてきて、門限通りに帰ってしまった後は、いつもそうだった。
 だが、彼女は俺のどこがいいのだろう。電話をしても特に会話が弾むことはなく、この部屋だって何か面白いものがあるわけでもないのに、どうして彼女は俺と話をしたがり、俺の傍にいようとしてくれるのだろう。
 気がつけばそんなくだらない思索に耽り始めていて、俺は思わず顔を顰めた。
 その答えはとうに知っている。修学旅行先からも電話をかけてくるような彼女の本心を、わざわざ勘繰る必要もない。
 ただ、彼女の本心を知れば知ったで、それはいつも俺の手に余る。
 受け止めきれずにこうして、後からくだらない自問自答を繰り返すこともよくあった。

 数日後、雛子は無事に修学旅行から帰還したようだ。
 しろと言った覚えもないのにわざわざ電話での報告をくれた。それによれば彼女はやはり旅行を楽しんだようで、しかし北海道の寒さは身に堪えたらしい。疲労が蓄積したところに身体を冷やして、風邪でも引いたら困る。俺は彼女に養生を厳命した。
『ところで先輩、私、お土産を買ってきたんです』
 電話越しの雛子の声は、自宅からでも北海道からでも、大して変わりはなかった。
「土産だと? 余計な気を回すなといつも言っていたつもりだったが……」
 俺は唖然として応じる。
 土産については事前に買ってくると宣言されていなかったので、てっきり彼女もこちらの意思をわかっているものと思っていた。先に言ってくれれば強く念を押しておいたものを。
 雛子は高校生としては平均的な額の小遣いをご両親から貰っているらしい。そして東高校はアルバイトが禁じられているので、彼女は文庫本一冊購入するにも小一時間逡巡するほど慎ましい生活を送っている。そういう姿を散々傍で見てきたので、俺は雛子に余計な金を使わせたくなかった。それを彼女は理解していない。
『もう買ってきてしまいました。そのうちに持っていきますね』
 こちらの気も知らずに暢気なことを雛子が言うので、つい舌打ちした。
「先月も言ったがもう一度言うぞ。いいか、お前が俺の為に散財する必要は全くない」
『買いたいから買ってきただけです。いけませんか?』
「小遣いの浪費だ、そして無駄な行動だ。一体何を買った?」
『お菓子です。お土産屋さんによると観光客にとても評判のいい、美味しい品だそうです』
 しかもよりによってお菓子とは。彼女が選んできたのだから恐らく甘くて食べごたえがあって、しかし歯応えはさほどないふわふわした類のお菓子だろう。想像するだけで胸焼けがする。
「なら、お前が一人で食べてしまうといい。よく食べるのも養生のうちだ」
『箱で買ってきたので、私一人では多すぎます。先輩、是非一緒に食べてください』
「何を言う。お前は甘い物なら胸焼けも起こさず、際限なく食べるじゃないか」
 俺の嘘偽りない指摘に対し、雛子は一瞬言葉に詰まったようだ。
『そ、そんなには……際限ないほどは食べてないつもりでしたけど』
「食べているから言うんだ。そのくせ後になってから最近太っただのダイエットだの言い出すから俺には理解できん」
 全く愚かで矛盾した言動だと思う。
 大体、彼女が少し太ったと言い出しても、俺の目にはさしたる変化もないことが多い。彼女の言う『少し』は五百グラムからせいぜい三キログラム程度であって、そのくらいなら簡単に戻せるだろうと俺は思う。いちいちダイエットだ間食抜きだと喚く必要もない。
 それに、俺は雛子の決して細くはない体型を少し羨ましくも思っている。おかしな意味ではなく、見るからに柔らかくて触り心地がよさそうだ。俺は痩せぎすの自分の体型がいかにも貧弱で、みっともないと思っていたから、彼女はいっそ痩せるべきではないと断言したいところだ。その方が見栄えもいい。
『私が食べすぎて後悔しないよう、一緒に食べていただく、というのは駄目ですか』
 さておき、雛子は俺に甘い物を食べさせようと必死のようだった。俺が苦手なのをわかっていてそんなふうに言うのは、嫌がらせというわけではない。彼女の魂胆は単純すぎて見え透いている。
 そこまでして会いたいものか、と思わなくもないのだが。
「先に言っておくが、俺は戦力にはならんぞ。せいぜい一つ二つ食べられたらいい方だ」
『構いません。日持ちのするお菓子を選びましたし』
 彼女は抜かりなく応じると、すぐに明るい声で付け加えてきた。
『それに私、先輩にお茶を入れてもらってお菓子を食べるのが好きなんです』
「物好きな奴だ」
 意識しないうちから笑いが零れていた。
 雛子は確かに物好きだった。俺のような男と一緒にいたがる時点でそれは疑いようもないだろう。こんな物好きは世界に二人といないだろうし、そういう人間とめぐり会えたことは幸運だと思う。
 それを素直に受け止められず、いちいち押し問答を繰り返す俺も俺だが――しかしこんな物好きがそもそも存在するとは思えなかったのだ。未だに信じがたい思いがあってもおかしなことではないだろう。
 もっとも、彼女の本心を知りたがるこちらの魂胆も恐らくは見え透いているだろう。いや、彼女は勘が鈍いから見抜けていないかもしれないが、傍から見ればこんなやり取りはさぞかし滑稽に違いない。
「……わかった、そのうちに持ってくるといい」
 結局、俺は彼女の土産を受け入れることにした。
『ありがとうございます、先輩』
「ただし、もう少し先の話だ。今は疲れもあるだろうし、黙って養生に努めろ」
 もちろん釘は刺しておく。遠出をし、慣れない土地で過ごした後は体調を崩しやすい。確か修学旅行の後は数日間の休みがあり、その間の外出は控えるようにと言われていたはずだ。十分な休息を取り、次に会う時には元気な顔を見せてもらいたい。
 ちょうど、俺も彼女から薦められた本を読了していた折だった。それについての話もしたかったが、昨日帰ったばかりで長電話は身体に障るだろう。次に会った時にしようと俺は暇を告げかけた。
「では、そろそろ切るぞ。お前もちゃんと油断せず休めよ」
『あ、先輩』
 しかしそこで雛子は俺を呼び止め、
『はがき、届きました?』
 そんな質問を投げかけてきた。
「はがき? いや、今日は届いていない」
 郵便物は毎日確認しているが、覚えはない。俺の答えを聞いた彼女は恥ずかしそうに言った。
『まだ届かなくて当然だと思います。北海道にいる時、ポストカードを送ってみたんです』
「変わったことをするな、お前も」
 俺が感心すると、雛子もどこか誇らしげに応じる。
『これもいい旅の思い出です。届いたら知らせてくださいね、先輩』
「わかった。届くのを楽しみにしておく」
 旅先からの手紙というのも風情があるものだ。彼女はとっくに帰ってきているのに、彼女が書いた手紙はまだ届いていないというのも奇妙で、愉快なことに思える。楽しみにしておくというのも本心からの言葉で、口にしてから何となく気まずさを覚えた。

 彼女がくれるものなら、電話も手紙も、何でも嫌ではなかった。
 俺は彼女ほど子供ではないが、単純さではお互い大差ないようだ。
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