同じ時を生きる幸福(2)
先輩とは、大学前のバス停で待ち合わせをした。きっと急いできてくれたのだろう。二十分も経たないうちに、バス停に近づいてくる人影が見えた。黒いスーツを着ているからか、夕闇から溶け出してきたみたいにすうっと現れた。
見慣れない服装をした、見慣れた顔の鳴海先輩が口を開く。
「すまない、待たせたな」
普段と違う格好をしていることについて、先輩自身も何か思うところがあるのかもしれない。その言葉の後で照れ笑いを隠すように唇を引き結んだ。
私の方はと言えば、ある程度の心構えをしていたつもりにもかかわらず、目にした姿に圧倒されていた。
黒一色に見える細身のスーツは三つボタンで、先輩は上二つのボタンだけを留め、一番下は外していた。痩せた先輩の身体のラインを引き立てる、すらりとした仕立てのスーツだった。ジャケットの下には白いシャツとレジメンタルストライプのネクタイが見える。ネクタイに歪みはなく、スーツを着た立ち姿はいつものように姿勢よく、着られているという不自然さも全くなく、そして言葉を失うくらいとても似合っていた。
「ずっと外にいたんだろう、寒くはないか」
先輩は呆然とする私に尋ねながら、左手で私の頬に触れた。
駅からずっと歩いてきたにもかかわらず、鳴海先輩の手はひんやりと冷たかった。
「いや、寒くは……なさそうだな」
私の頬を一撫でしてから先輩は手を引っ込めた。その時、ジャケットの袖口からは先輩らしい骨張った手首と、そこに巻きつけられた古い腕時計がちらりと見えた。
そしてそう言うからには、先輩は私の頬の熱さに気づいたことだろう。
私は見惚れるを通り越し、鳴海先輩のスーツ姿にすっかり打ちのめされていた。動揺のあまり息苦しさを覚えながら、先程撫でられたばかりの頬に自ら手を添えてみる。やはり熱い。
「そ、そのスーツ、先輩にすごくよくお似合いです」
収まらない動揺の中、それでも何か言わなければと思い私は告げた。
「何だかすごく……いつも以上に、大人の男の人に見えます」
「それは誉め言葉として受け取っていいのか」
「は、はい。語彙が貧弱ですみません、でも素敵だと思ってます」
「そうか。着られているように見えていなければ十分だ」
鳴海先輩のような几帳面な人であっても、ネクタイをずっと結んでいるのは苦しいのだろうか。先輩は襟元に指を差し込み、少しだけ緩めてみせながら続けた。
「お前が疲れていなければ、行きたい場所がある」
「私は平気ですけど、どちらですか」
「海が見たい」
「海?」
思わず聞き返してしまった私に、先輩は真剣な面持ちで応じる。
「臨海公園まで行こう。バスでならそう時間もかからない」
「はい……」
私は先輩と行くのなら、行き先はどこであろうと構わない。
だけどなぜ海なのだろう――もしかしなくても、あの町を思い出しているのだろうか。
大学前のバス停から、臨海公園行きのバスに乗った。
海沿いにある公園は以前先輩と行った海水浴場よりも手前にあり、眺めがいいことで知られている。市内では有名なデートスポットの一つだ。ただ私はデートでは訪れたことがなく、当然ながら鳴海先輩と来たのも初めてだった。
午後七時を回った今、海へ向かうバスの乗客は私達だけだった。私達を公園前で降ろすと、運転手だけのバスはエンジン音を響かせて走り去り、その音が遠ざかるに従い微かな波の音が聞こえ始める。
「潮騒が聞こえるな」
鳴海先輩もぽつりとそう言った。
それから先輩は帰りのバスの時間を確かめ、その後で私の手を引いて公園に立ち入った。
人影まばらな公園内は水銀灯で照らされており、石畳の遊歩道は歩きやすかった。遊歩道の脇には石でできたベンチが置かれており、そこに座っている仲睦まじいカップルの姿も二組ほど見かけた。
もっとも鳴海先輩は、ベンチにも他のカップルにも見向きせず歩き続けた。私の手を引いたまま、海を目指すみたいに。
やがて私達は海が臨める辺りまで歩を進めた。
公園の海に面した側には転落防止の柵が立てられている。
「この辺りでいいか」
先輩はその柵の上に肘をついて、真っ暗な海に視線を投げた。
私も隣に並んで、同じように海を眺めることにする。
夜空には月が浮かんでいた。海の上にあるからだろうか、今夜の月はどこか青みがかって見える。その月明かりは波間に青く輝く道筋を描いており、その上を歩けばやがて月まで辿り着けるのではないかという気がしてくる。美しい夜だった。
私のすぐ隣では、鳴海先輩がじっと海を見つめている。
絶えず吹きつける潮風が先輩の前髪を揺らし、その度にきれいな額が露わになる。いつも険しい先輩の顔立ちを怖いと評す人もいるけれど、私は月明かりの下で見るこの横顔もまた美しいと思う。海を見据える鋭い瞳と引き結ばれた薄い唇は、まさに今の服装に見合う風格を備えていると思う。単に大人であるというだけではない、揺るがぬ意思を感じさせる横顔だった。
私の盗み見に気づき、その横顔が苦笑を浮かべる。
「そうしげしげと見て、飽きないか」
「駄目、ですか?」
聞き返すと、スーツ姿の先輩は首を傾げて私を見下ろした。
「駄目ではないが面映い」
「先輩が素敵だと思うからこそですよ」
「お前だって、俺が見ていればすぐ恥ずかしがるじゃないか」
「それは先輩の目が、くすぐったいからです」
比喩ではなく本当にそうだった。鳴海先輩が私を見る目は時に柔らかく、羽毛で肌の表面をそっと撫でるようでもあり、時に熱く、じりじりと太陽の光に焼かれているようでもあった。
私は先輩に見つめられるのが嫌なわけでは決してない。だけど嬉しいだけではなく、翻弄され、心が掻き乱されるのも事実だった。
「お前はいつも、くすぐったいのに弱いな」
先輩は眉一つ動かさずに言い放つと、私が声を発する前に語を継いだ。
「大槻が何か余計なことを言っていなかったか」
「……余計なことは何も。お会いして、話はしましたけど」
今日出会った時、大槻さんとは鳴海先輩について話をした。その会話に余計な事柄は何一つとしてなかった、と思う。
「ただ先輩がスーツでお出かけしたと聞いて、私も見てみたくなりました」
私がそう続けると、先輩の薄い唇に何とも言えない微笑が滲んだ。
「大槻も同じことを言っていた。お前が見たがっていると」
どうやらあの会話の後、先輩と大槻さんはまた話をしたらしい。私について話題に上ったと思うと、私の方こそ何か余計なことを言いはしなかったかとうろたえたくなる。
「それで俺も、お前と今日のうちに会っておこうと決めた」
鳴海先輩が私を静かに見据える。口元がほころんでいる。
「お前が見惚れてくれはしないかと、そう思ってのことだ」
思いもよらない言葉に、私は瞬きを繰り返した。
「先輩も、そんなふうに思うことがあるんですね」
私が先輩のことを考えながら、浴衣や水着を選んだみたいに。
「ある。お前だけは特別だ」
言いながら、先輩は私に手を伸ばして私の髪を撫でた。指の長い手が私に触れると、告げられたばかりの言葉も相まって動悸が激しくなる。
どぎまぎする私の顔を、鳴海先輩がそっと覗き込む。
「俺にはお前がいてくれる。それが何より幸せなことだと思う」
気のせいだろうか。いつもの先輩と雰囲気が違うように感じる。先輩の方から私に歩み寄ってくれているような、私に寄りかかってくれているような距離の近さを感じている。
見たことがないスーツ姿のせいだろうか。夜の臨海公園という、大人っぽいデートスポットのせいだろうか。それとも。
「墓参りに行ってきた」
鳴海先輩は、私を見つめたまま切り出した。
私も目を逸らさずに聞き返す。
「どうでしたか」
「墓前では何も話さなかった。どう話しかけていいのかわからなかった」
昨日と同じく、淡々とした口ぶりだった。
「生前だってろくに口を利かなかったのだから、当然と言えば当然だな」
先輩はそこで肩を竦める。
「澄江さんは俺に、墓参りついでにスーツ姿を見せてくるよう言った。俺がスーツを買ったと報告したからだ」
断片的な情報しかないけど、澄江さんにとって先輩のおじいさんは今でも大切な人なのだろう。
「だから俺も見せてきただけだった。手も合わせてはきたが――」
生前、あまり話をしなかった人のお墓参りでは、確かに話すこともなさそうだ。澄江さんの頼みを断れず、だけど墓前で戸惑う先輩の気持ちが、うっすらとながらもわかる気がした。
「祖父もそれで満足だろう、俺が幸せでいるとわかれば」
先輩の手は私の髪を撫で続けている。まるで私を離すまいとしているみたいだった。
私も今は、鳴海先輩の傍にいたかった。それを幸せだと思ってくれているなら尚のことだ。
「先輩……」
呼びかけると、鳴海先輩は小さく頷いた。
「気を遣わせてしまったな。だが、ありがとう」
「いえ、いいんです。先輩のことはいつも考えてます」
私はかぶりを振って答える。
「もし私にできることがあれば、何でも言ってください。お話だっていつでも聞きます」
すると鳴海先輩は私を見つめた後、不意に優しく目を細めた。
それから満ち足りたように息をつく。
「今更、どうにもならないことあえて言えばな……俺は祖父と、話をしてみたかった」
そして、険のない柔らかい声音で語った。
「あの蔵書についてだけは、生前のうちに聞いておきたかった。どういう目的で、どれほどの年数をかけて集めたものなのか。あの中で一番気に入っていた本はどれか。好きな作家はいたのか――そういうことを」
私の胸裏にも去年の夏の小旅行が蘇る。
潮風の吹く寂れた町、海の傍に建つ小さな家。そこの二階に設けられた本でいっぱいの書庫。鳴海先輩はすぐに読書に没頭してしまって、私はその傍らで先輩を眺めて過ごした。
あれだけたくさんの本を集めた人ならば、書物蒐集狂というのでもない限りはきっと読書家なのだろう。そして鳴海先輩とは趣味が合ったはずだ。もし生前に話ができていたなら――そういうことを、私も同じように考える。
だけど先輩のおじいさんはこの世を去り、その機会が訪れることは二度とない。
「こんなふうに思うようになったのは最近のことだ」
先輩は、最近になるまでおじいさんとは話をしたいとも思っていなかったようだ。
私は鳴海先輩の家族について、その寂しい幼少期と少年時代について多くを知らない。だから先輩のその思いと、最近の心変わりについても推し測ることしかできない。
一つだけ言えることがあるとすれば、鳴海先輩は以前よりも大人になったのだろう。
これまで話をしてこなかった人とも、話をしたいと思うくらいに――かつての苛烈な人柄からは想像もつかないほど、先輩は、変わったのだろう。
「やっぱり先輩は、スーツがとてもよくお似合いです」
鳴海先輩の言葉が途切れたところで、私はそう切り出した。
「随分誉めてくれるんだな」
先輩が面映そうに笑う。その顔も昔とはまるで違っていた。
「東で制服を着ていた頃の先輩も素敵でしたけど、今のスーツ姿の方がより素敵です」
私は、今の私よりも幼かった、高校時代の鳴海先輩を知っている。
あの頃から先輩は私の憧れで、すらりとした姿勢のいい人で、所作の一つ一つが美しく私の目を惹きつけてやまない存在だった。当時の私は鳴海先輩を手の届かない人だと思っていたし、たった二つしか違わないのにとても大人びていると思っていたけど、今の鳴海先輩はそれ以上に大人になっている。
これから先輩はどんな男性になっていくのだろう。大学を卒業し、社会に出て、歳を重ねて、どんなふうに変わっていくのだろう。私はそれを余すことなく見たい、見届けたいと思う。
「私は先輩と同じ時を生きられて、先輩が変わっていく過程を見ていることができて、とても幸福です」
今、胸にある全ての想いを、私はそんなふうに口にした。
私も鳴海先輩も、これからいろんな人と出会い、別れていくだろう。その人達とどれだけ同じ時を生きられるかは誰にもわからない。ただ私は、出会ってから今まで先輩と共にいられたことを幸せに思うし、あとで悔むことのないようにこれからも共に過ごしたいと思う。同じように鳴海先輩にも後悔はさせない。
「先輩の幸せも私が支えます。誰が見ても、先輩が幸福な日々を過ごしているとわかるように」
亡くなった方が現世にある私達を見ることができるのかどうか、私は知らない。どちらかと言えばぼんやりと、そういうものを否定しきれない気持ちはあるけど、その辺りは有島くんの管轄であって私は突き詰めて考えるつもりもない。
もしもの話、鳴海先輩のおじいさんが先輩を見に来ることがあったら――その時が来ても来なくても、どちらでもいいように、私は先輩を常に幸せにしたいと思っている。
潮風が先輩の前髪を揺らしている。その下にある双眸は真っ直ぐに私を見つめていて、ひたむきな眼差しがくすぐったくも、嬉しくもある。鳴海先輩は私を必要としてくれている、そのことがよくわかる。
「俺も、お前と共に生きられることを幸福に思う」
やがて先輩はそう言った。
言いながら髪を撫でていた手に力を込めて、私をそっと引き寄せた。私は先輩の腕の中に転がり込み、顔を上げる間もなく後ろからぎゅっと抱き締められる。
目の前には月の光たゆたう夜の海が広がっている。
そして背中には、鳴海先輩の体温を感じた。
「これからもずっと、俺と共に生きてくれ」
温かい吐息が私の耳をかすめ、低くかすれた声が囁きかけてきた。
私は先輩の顔を見て返事をしようと面を上げかけたけど、先輩はその動きを封じるみたいに両腕に力を込めてきた。スーツのジャケットのざらりとした生地が私の頬や首筋に触れ、背負う温もりの熱さに息が詰まった。結局ろくに身じろぎもできないまま、私は先輩に抱き締められていた。
もしかすると鳴海先輩は、私に顔を見られたくないのだろうか。
ふとそう思い、それを確かめるのは無粋ではないかとも考えたけど、もしそうなら放ってもおけない。
私は海を見つめたまま尋ねてみた。
「先輩……もしかして、泣いてるんですか?」
「逆だ」
返ってきたのは笑い声に似た、深い溜息だった。
臨海公園前で停まる、本日最終のバスの時間まであと三十分。
私達はその時間を、夜の海を眺めながら過ごした。先輩は私を抱き締めたまま、私は抱き締められたままで潮風に当たっていた。
当然、海を見ているようでほとんど目に入っていなかった。
「今夜ほど、お前がいてくれてよかったと思ったことはないな」
おまけに鳴海先輩は、私の耳元で囁きかけてくる。
潮風に冷えた頬を私の頬にすり寄せ、時々こめかみに口づけながら先輩は言う。
「できればこのまま連れて帰りたい。離したくない……」
そんな言葉を耳元で言われて、黙って海など眺めていられるだろうか。私には無理だった。
そもそも外で私を抱き締めることも、こんなふうに心のうちを素直に打ち明けてくることも、いつもの鳴海先輩ならばありえないことだ。夜の臨海公園にはほとんど人気がなく、いたとしても私達と同じようなカップルばかりだから人目を気にする必要はないのだろうけど――そもそも夜の公園とはこうして過ごすもの、なのかもしれないけど。
まだ十代の私はこのロケーション、雰囲気に呑まれつつあった。どぎまぎしながら聞き返す。
「も、もしよかったら、今夜……先輩の部屋に、泊めてもらえませんか?」
すると先輩は微かに笑ってみせた。
「そんなことをさせてはお前が叱られるだろう」
確かにそれは事実なのだけど、何の迷いもなく否定されるとは思わなかった。もうちょっとためらうとか、葛藤するとかあってもよさそうなのに。
私が思わず振り返ると、鳴海先輩は穏やかに私を見下ろしていた。
「先輩、私に傍にいて欲しいんじゃないんですか?」
「もちろんだ、そして『できれば』とも言った。できないことはわかっている」
そして私を改めて抱き寄せると、この後の別離を予感させない幸せそうな口調で続けた。
「いつか、お前と同じ家へ帰れるようになる。もう少し大人になれば、必ずな」
そんな言葉で――あるいは希望で、寂しさに打ち勝つことのできる先輩は、やはり大人なのかもしれない。
私はまだ大人ではないけれど、先輩が語った希望には素直に胸が高鳴った。
「約束ですよ、先輩」
「ああ、約束だ」
その時まで、同じ時を生き続けたい。
もちろんその希望が叶ってからもずっと、私は先輩の傍にいる。