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今はまだ知り得ぬ未来

 学校で、作文の宿題が出た。
 テーマは『十年後の自分』だ。

 もちろん、既に東高校を卒業している私の話ではない。
『――それで是非、柄沢先輩からお話を伺えたらと思いまして』
 と電話越しに語るのは文芸部の後輩、荒牧さんだ。
『うちの高校の三年生は毎年、このテーマで作文を書いたと聞いたんです』
「うん、確かに去年書いたよ」
 これは我が校の恒例行事の一つで、提出された作文の中から優秀なものを選考して、市の教育委員会が作る文集に載せることになっている。
 去年、私もやはり同じテーマで作文を書いた。残念ながら文集に掲載されることはなかったけど、うちのクラスから選出された子の作文がとても素晴らしかったので当然だと思っている。
 それに私の書いたものは鳴海先輩曰く『主題がやや矮小で視野も狭く、教師受けする代物ではない』のだそうだ。
『やっぱりそうなんですね! お忙しいところすみません、助言をいただきたくて……』
 荒牧さんはこのテーマにとても難儀しているようだった。声がすっかり弱気になっている。
『十年後の自分なんて途方もなくて……何を書いていいのか』
 実際、去年のC組でもテーマの難しさを嘆く声は多く挙がっていた。今を生きる高校生にとって、十年後なんて想像もつかない遠い未来の話なのだろう。十年後の自分をおじさん、おばさんと評し、歳は取りたくないなどと嘆く子すらいたほどだ。
「わかるよ、私のクラスでも不満が噴出してたからね」
『先輩の時もですか……うちのクラスも同じですよ』
「そうだろうね。有島くんは書けてそう?」
 私が彼に言及すると、荒牧さんは短い溜息をつく。
『その日のうちに書き上げて提出してました。新聞記者になって、手始めにロズウェル事件の謎を追うって』
 こちらは想像に難くない答えが返ってきて、私は何となく安堵する。有島くんも相変わらずのようだ。
 正直に言えば私も、かつてのクラスメイトと同様に二十八、九の自分を想像するのは難しい。未来を思い描く時、そこにいるのはいつも今と変わらぬ姿の私だった。今はまだ知り得ぬ未来を、想像力だけで書き上げるのは労力の要ることだ。
 ただ、そんな想像力に欠ける私であっても、未来に成したいことはとうに決まっている。
『柄沢先輩はどう書いたんですか?』
 荒牧さんの問いに、私は記憶を手繰り寄せながら答えた。
「私はね、これからの十年でもたくさんの本とめぐり会いたい、って書いたよ。文字を読めるようになってからずっと、たくさんの本を読んできたけど……」
 物心ついた頃から読書を趣味としてきた私は、これまでの十八年間で数え切れないほどの本と出会った。そしてこれからも出会うだろう。私がまだ読んだことのない本の中に人生における最高の書が潜んでいるかもしれないし、それはまだ上梓されていない、これから生み出される本かもしれない。本の世界の無限とも思える可能性に、今からとてもわくわくしている。
「私がまだ読んだことのない本にも、これから書かれる本にも、この先出会えるのが嬉しい。できればその本と携われるような仕事がしたい……って」
 そう打ち明けると、荒牧さんは先程とは違う深い溜息をついた。
『わあ……とっても素敵ですね』
「ありがとう、叶えたい夢でもあるんだ」
『柄沢先輩ならできますよ、きっと』
 荒牧さんは力強く言ってくれた。
 私が思わず微笑むと、電話の向こうからも少し笑ったような声が続いた。
『それと、私、柄沢先輩がこれから出会う本の中には、鳴海先輩が書かれたものもあるだろうって思うんです』
 その言葉を、私は素晴らしい予言を受けたような気持ちで聞いた。
「……うん、私もそう思うよ」

 本当は、作文にもその通りに書くつもりでいた。
 十年後の未来で鳴海先輩は夢を叶え作家になっていて、私はその本が書店に並んでいるのを見たり、図書館に置かれているのを見ては幸せな気持ちになるだろう。先輩が綴る物語を多くの人に読んでもらいたい。多くの人と先輩の作品について語りあいたい。そして本を通して、鳴海寛治という作者の人柄そのものにもほんの少し触れてもらえたら――私はそんな未来が訪れることを望んでいる。
 だけど鳴海先輩は私がそのままの希望を作文に書くことを許してはくれなかった。当然と言えば当然ながら『糟糠の妻希望』という文言も拒否された。全く残念なことだ。

 後日、鳴海先輩に荒牧さんから相談を受けたことを伝えてみた。
「以前、私も書いた『十年後の自分』という作文についてです」
 そう言い添えると、鳴海先輩は当時のやり取りを思い出したようだ。
「あれか。今年も書かされているのか、ご苦労なことだ」
 苦笑する先輩に、私は隣を歩きながら相槌を打つ。
「去年のことを思い出しますね、先輩」
「そうだな。お前は学校に提出する作文だというのに随分な内容に仕立てようとした」
「自分の心に嘘偽りなく書こうとしただけです」
 私は本心からそう思っていたし、実を言えば今もありのままを書かなかったことを少し残念に思っている。自らの夢をはっきり書面に残しておけば、より実現が近づくような気がしたからだ。もっとも夢を叶えるのは自分自身に他ならず、たとえ書面に残したところで努力しなければどうしようもない。作文に書かなかった分まで頑張ればいいというだけの話なのだろう。
 あれから一年が経ち、私は晴れて大学生になっていた。今は高校時代は叶わなかった夢を少しずつ実現しているところだ。その一つが大学からの帰り道、鳴海先輩と待ち合わせて帰るというもので、先輩はそれに快く付き合ってくれている。
 今日もこうして帰り道を歩いている。駅までの道はこの時分、いつも人影まばらだった。
「確かに、作文とは嘘偽りなく書くものだ」
 鳴海先輩がどこか得心した様子で呟いた。
「俺も嘘が書けたら、あの時、作文を提出できていたのかもしれない」
 続く言葉に、私は黙って先輩を見上げた。
 春の夕暮れは静かだった。霞んだ空は淡い橙色をしていて、街灯が点く前のほんのひとときだけ、街並みをうすぼんやりと照らしていた。先輩の横顔も同じように、淡く穏やかな色に染められている。
「おかしいと思わないか」
 先輩は黙り込む私を気遣うように、薄い唇を少しだけ歪めた。
「俺は物語の中で嘘を書く。実在しない、作り物の人生を書いてきた。なのに作文の中では嘘も、作り物も書くことができなかった。やろうと思えばでたらめを書き綴って仕上げることもできただろうに」
 そうしなかったのは鳴海先輩が嘘を嫌う人だからだろう。
 先輩はいつもそうだった。私に対しても事実を打ち明けられない時は沈黙を守るか、話を逸らそうとするかで決して嘘はつかない。
「私は、作文を書けなかった先輩のことが好きです」
 だから私が想いを告げると、鳴海先輩は眼光鋭く私を見た。
「物好きだ」
「そうでしょうか」
「だが、嬉しくないわけではない。お前がいてくれてよかったと思う」
 それから先輩は鋭かった目元をわずかに和らげて続ける。
「物語の世界は特別だ。自分がまだ知り得ぬことも、あるいは現実に起こり得ぬことすら書くことができる。自分で見聞きしたもの以外を語れる世界――その可能性に、俺は惹かれたのだろう」
 鳴海先輩がペンを手に取った理由、それを私はもう知っていた。
 先輩の身に起きた辛いこと、悲しいことが、先輩に数々の物語を作らせた。
「しかし経験に裏打ちされた知識があれば、これまでは書けなかった世界を表現できるようになるのかもしれない」
 先輩の言う通り、私達が愛してやまない物語の世界は想像の産物だ。現実ではなく、けれど現実に生きる人々が生み出すものだ。現実世界で先輩が得たものが、先輩の物語世界を変えてしまう可能性もあるだろう。現に澄江さんは先輩の文章が変わったと言っていた。
 私はそんな変わりゆく先輩の物語にも触れたいと思う。
「雛子」
 歩きながら、先輩が私の名前を呼んだ。
「はい」
 私が返事をすると、先輩は私をじっくりと見つめてきた。
「俺はお前のお蔭で、これまで知り得なかったことを知ることができた」
 その眼差しからはいつものような鋭さはなりを潜め、代わりに先輩らしいひたむきさが窺えた。
「誰かと共にある幸いと、未来を思い描く楽しさと、何より他人に理解され、耳を傾けてもらうことの喜び。全てはお前が教えてくれたものだ」
 その言葉が、嬉しくなかったわけではない。
 でもそう言うからには先輩は、私と出会うまでそれらを知らなかったのだろう。胸が疼くように痛んだ。
「一人でいる時にお前のことを思い出す、その時間の楽しさもな」
 鳴海先輩が続けたので、私は抱いていた少しの切なさを振り払って微笑んだ。
「私に、先輩に教えられることがあったなんて光栄です」
「たくさんある。読んだ本について感想を交換しあう有意義さを教えてくれたのもお前だ」
「そうだったんですか……」
「それから、他人の幸せを願うと、自分まで幸せになれるということも教わった」
「先輩……!」
 鳴海先輩が私の幸せを願ってくれている。その事実だけで私も幸せだった。
 感激する私に、先輩は尚も語を継いだ。
「まだある。人の体温の心地よさもお前から学んだことの一つだ」
「え……わ、私からですか?」
「ああ。お前はいつも温かくて、柔らかくて……幸せな気持ちになれる」
「そ、そうですか」
 今更ながら恥ずかしいことを言われてしまった気がする。嫌な気はしないけど、どぎまぎした。
「それと、お前は時々俺の予測もつかないようなわがままを口にするが、そういうものを聞いてやるのも悪い気がしないというのも意外な発見だったな。それまでは他人の無茶な要求を聞き入れるのは不愉快でしかないものだったが、お前に限っては喜びにほころぶ笑顔を見ると、何だか満たされるような気分になるから不思議なものだ。お前を笑顔にできるのなら、たまには甘やかしてもいいのではないかとさえ思うように――」
「先輩、あの、よくわかりましたので程々でお願いします……!」
 少々どころかすごく恥ずかしいことを言われてしまった気がして、私は先輩の言葉を遮った。
 鳴海先輩は訝しそうにしつつも、すぐに気を取り直してしみじみと締めくくる。
「今なら俺も、あの時の作文を仕上げられそうな気がする」
 目の前にいる鳴海先輩に不安の色はない。それどころか、とても幸せそうに見えた。
 個人的には作文よりも、今の先輩は恋愛小説さえ書き上げられそうだと思う。先輩自身は恋愛小説に意味を見いだせないと考えているそうだけど、今の思いの丈を原稿用紙にぶつければ恋愛小説の名手になれそうだ。もっとも私がそれを読んだら、赤面せずにはいられないだろう。
 しかし先輩の変化は喜ばしいことだ。今なら書けるという作文のその中身も非常に気になるところだった。
「では今の先輩なら『十年後の自分』、どう書きますか」
 私は興味を持って先輩に尋ねた。
 ところが、つい今し方自信たっぷりに断言したはずの先輩はわかりやすくうろたえ始めた。
「それを、ここでお前に話すわけにはいかない」
「どうしてですか」
「つまり、時期尚早だからだ。冗談にもならないしな、こんなところで何の下準備もなしに話しては後々悔やむ。こういうことは段取りが肝要だ」
 先輩が弁解するようにまくし立ててきたので、私は先程より一層恥ずかしい思いでその内容を言い当てることにした。
「それって要は、私に話すとプロポーズみたいになるから、ということですか」
 途端に先輩は夕暮れの空を仰ぎ、観念したように嘆息した。
「そういうことだ」
「あ……当ててしまって、すみません……」
 言い当てたなら当てられたで私の方がくすぐったい。
 鳴海先輩はプロポーズの際に入念な下準備をするつもりのようだ。その日が訪れるのはまだ当分先の話だろうけど、なるべく私にわからないように準備をして欲しいなと思う。わかってしまったら、きっと私の方が挙動不審になってしまうだろうから。
「じゃあ、いつか聞かせてください」
「言われなくとも、そのつもりだ」
「それってやっぱり十年後ですか?」
「十年後では遅いな、そんなに待てる気がしない」
 鳴海先輩はそう言うと、急かすように私の手を取った。
 指の長い器用そうな手が私の手をしっかりと捕らえて握る。指の関節の硬さに、今では慣れた感触にもかかわらず心臓が高鳴った。
「もうじき暗くなる。今日のところは帰るぞ、雛子」
「はい」
 私は二十歳の先輩の横顔を見上げ、今から十年後の姿を想像してみたくなる。それは十年後の自分自身と同じように難しい想像だったけど、たとえイメージできなくなって確実に見られるのだ。心配は要らない。
 今はまだ知り得ぬ未来に、私は何の不安もなかった。

 先輩と私は駅までの道を歩く。
 急ぐこともなくゆっくりと、二人で歩幅を合わせて歩く。
 暮れてゆく春の空の下、ぽつぽつと街灯が点り始めて、私達の行く道を照らしていた。
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