彼は崇高なる恋文の大家
「私の白馬の王子様は、鳴海先輩に違いありません」機を見計らい、私は告げた。
通い慣れた先輩の部屋にて、隣り合って床に座る鳴海先輩が、はっとしてこちらを見る。話題振りが唐突すぎたせいだろう、何の話かわからないという顔をする。
「何だって?」
「王子様についての話です。先輩はそういうものを読まないでしょうけど、女の子の物語には、白馬の王子様が欠かせないものなんです」
私はそんな先輩をからかうつもりで、でも多分に本音も含ませながら話し続けた。
「ジェーン・エアにロチェスター氏がいたように。アンにギルバートがいたように。あるいはジュディの前にジャーヴィーぼっちゃまが現れたように、白馬の王子様が訪れる物語は胸高鳴るときめきとほのかに甘い幸せに溢れています」
「へえ」
先輩が気のないそぶりで相槌を打ち、手元の文庫本に視線を戻す。
他人事のように思われている気がした。だからすかさず水を向けてみる。
「それならば私の物語に現れた王子様は、鳴海先輩であるはずです」
すると先輩は再び面を上げ、まるで不機嫌そうに眉を顰めた。
「……何を馬鹿げたことを」
もっとも本当に機嫌を損ねたわけではなく、恐らくは困り果てているだけなのだろう。その証拠に先輩の頬には赤味が差していたし、私を見る目はどこか拗ねたようでもある。まんまとからかわれた気分になっているのかもしれない、と私は察した。
「だってそうですよ。先輩は私にいつもときめきと幸せをくれます。先輩だって私に、時として甘くも美しい言葉をかけてくれたりもするでしょう。私はそういう言葉から、あるいは言葉になる前の、表情や態度から読み取るしかない先輩の心から、恋とは何であるかを教わりました」
先輩と出会わなければ、私は恋を単なる絵空事だと思っていたかもしれない。もしくはただ誰かを遠くから見つめるだけの、味のしないつまらないものだと思っていたかもしれない。
私に恋の甘さ、素晴らしさ、そして直に触れられる、熱を持ち血の通った現実感を教えてくれたのはまさしく鳴海先輩だった。
「先輩だって、ただの気まぐれで私に恋を教えてくれたわけではないでしょう?」
逆に拗ね返してみたら、先輩は困惑した様子で答える。
「そもそも教えたつもりもない」
「冷たいことを言うんですね。私はこの恋を生涯最後の恋にする覚悟さえあるのに」
「さっきから何だ。熱でもあるのか、雛子」
ついに先輩が非難がましく尋ねてきた。恋の口説を聴く最中とはとても思えぬ態度である。
「恋の病がもたらす熱にはいつも浮かされています。私の王子様の傍にいるんですから」
私は素直に答えて、隣に座る先輩の顔を見上げてみる。
それを先輩は例によって、鋭い眼差しで検分するように受け止めていた。
静かで穏やかな日曜の午後、私たちは恋人同士らしく先輩の部屋に二人きりでいた。
今は並んで座りながらお互いに読書をしたり、時々取り留めなく話をしたりと、実に和やかな時間を過ごしていたところだ。
そんな空気の中で私が口にしたありったけの愛の言葉を、先輩は享受する気がないらしい。これまでの空気に逆らうような、剣呑な態度を取られてしまった。
「今の、おかしかったでしょうか?」
肯定的に受け取ってもらいたいものだと私は思い、尋ねた。
先輩は真顔で答える。
「脈絡もないことを言われると、勘繰りたくなる。何か裏でもあるのではないかと」
恋人の言葉の裏を勘繰るのも鳴海先輩くらいではないだろうか。普通であればたとえ他の魂胆がうかがえようとも、でれでれと目尻を下げて聞いてくれてもいいような言葉だ。そして私の先程の言葉はただのからかいではなく、まごうことなき真実でもあるのだから。
「彼女の言うことを信じてくれないんですか、先輩」
こちらが口を尖らせ拗ねてみせれば、
「いや、信じていないわけでは……」
多少は慌ててくれる辺りは、以前よりも進歩したと言えるかもしれない。私としてはもう一声と言いたいところだけど。
私が軽く睨むと、先輩は咳払いをしてから続ける。
「お前の主張はわかった。王子様についての論説はそういうものだと納得してやってもいいし、その上でお前の俺に対する過大評価ぶりについては別の機会に話し合うことにしよう。だが――」
流れを仕切り直すかのように間を置く。その後で先輩が眉間に皺を寄せた。
「お前だって、理由もなく歯の浮くようなことを言い出す人間ではないはずだ」
「私にもそういうことを言いたくなる気分の日があるんです」
「では、お前をそういう気分にした作品の名を答えてもらおうか」
つまり鳴海先輩は、私が熱烈な口説き文句を並べ立て、先輩を王子様扱いした理由を知りたいらしい。しかもその理由が、私の読んだ本にあるらしいというところまで推理できているのがさすがだ。
「よくわかりましたね。私がそういう本を読んだって」
驚く私に、先輩は呆れたように嘆息してみせる。
「いつもそうじゃないか。また恋愛小説でも読んでは一人でのぼせあがっていたんだろう。そのくらいは俺にでも察しがつく」
どうも細部に渡ってお見通しのようだ。
それならばと私も、洗いざらい打ち明けてしまうことにする。
「実は昨夜、『シラノ・ド・ベルジュラック』を読了したばかりなんです」
長きにわたる受験生活を終えた私は、晴れて趣味の読書に耽るようになっていた。
机に向かえば勉強をするより他なかった灰色の日々を塗り直すが如く、この三月はひたすら薔薇色の創作世界に浸る毎日を送っている。それは言うまでもなく幸福な時間だった。
そんな折、文芸部の後輩であり現部長でもある荒牧さんが、世間話のついでにいくつかの本を薦めてくれた。彼女とは私が東高校を卒業した今でも交流があり、主に現在の愛読書やその感想、そしてほんのちょっとだけ恋の話題などを交換し合っている。
その彼女が現在最も夢中になっている作品が、『シラノ・ド・ベルジュラック』だった。
有名な作品だし、私も子供向けの文学集に載っていた小説なら読んだことがある。だけど今回荒牧さんが勧めてくれたのは戯曲の方で、そういう作品にはあまり馴染みがなかった私はどんなものだろうと興味を持って読み始めた。そして一晩ですっかりシラノの魅力に取りつかれてしまったというわけだ。
私が興奮気味に本の感想と、この素晴らしき作品にめぐり合わせてくれたことへの感謝をメールで伝えたところ、荒牧さんからはそれを上回る熱狂ぶりで返信があった。その中では彼女がシラノにどれほどのめり込み、虜にされたかが熱烈な文章と読み応えのあるボリュームで書き連ねられていた。
鳴海先輩もいつも手紙のように長いメールをくれるけど、荒牧さんも時として非常に長いメールを書いてしまう人のようだ。有島くんとは普段どんなやり取りをしているのか、少し気になる。
ともあれ私がタイトルを口にした途端、それまで興味なさそうにしていた鳴海先輩が微かに目を瞠った。膝を進めて食いついてくる。
「それはいい趣味だ」
「先輩も読んだことあるんですか?」
思ったよりもいい反応が返ってきて、私は嬉しくなった。前述の通り有名な物語だからもしかすればとは思っていたけど、先輩ともあの物語の素晴らしさを分かち合えるなら一層幸いだ。
「もちろんだ。シラノの生き様に心を打たれぬ人間はいまい」
先輩は大きく頷いた。
「あれは妥協を許さず自らを貫き通した男の物語だ。人生とは得てして理不尽なものだが、矜持を汚さず、手放さずに守り通して生きられるものなら、俺も是非そうありたい」
そして澱みのない口調で語った後、ふと、訝しそうに首を傾げた。
「しかし、あの男を『白馬の王子様』と呼ぶのはどうだろうな」
「なぜですか?」
尋ね返した私にすかさず疑問を呈してくる。
「あれは言ってしまえば王子になれなかった男だ。シラノは醜い鼻の持ち主で、それゆえに女には見向きもされなかった。お前があの男を理想的な異性像とするのも、結局はその顔を見たことがないからじゃないのか」
「そうでしょうか。シラノのように粋な男の人が現実にいたら、惚れない女の子なんていませんよ。彼こそ理想の王子様であると私は思います」
私は答える。
もちろん私が彼を王子様と呼べるのは、物語を外側から眺める読者としての意見だ。
仮に私が彼の愛しき従妹殿であったとして、窓の下から語りかけられた恋の口説の声の主に、戦地から送り届けられた恋文の書き手に、そして十余年の年月の間友であり続けてくれたその人の心意気に気づけたものか、はなはだ疑問である。まして自らの醜さを恥じるあまり、その想いをひた隠しにし続けたシラノが相手なら尚のことだ。才女と謳われたロクサーヌさえ見落としてきた真実を、たかだか平凡な女子高生、もとい、もうじき平凡な女子大生となる私が見抜けるものだろうか。
しかし物語の主人公としてのシラノは大変魅力的な人物だし、理想的な王子様でもある。文武に優れ才気に溢れた殿方が、ロクサーヌに一途な忍ぶ恋を貫く様は、何ともじれったく胸焦がれるものだった。これがハッピーエンドであったなら尚よかったのに、と野暮なことすら言いたくなる。
「ではお前は、男の外見には全く頓着しないとでも? 醜い鼻の持ち主であっても、その言葉が巧みで美しく心のこもったものであれば惹かれるというのか」
先輩の問いに私は頷く。
「もちろんです。男の人は、外見なんて二の次です」
「へえ。意外だな」
鳴海先輩は驚いたようでも、どこか疑わしげでもある反応を見せた。
こちらからすればその反応の方が驚きだ。私が外見で人を選ぶような女の子だとでも思っていたのだろうか。それは確かに、私は鳴海先輩の容姿に関しても何一つ不満は抱いていなかったし、むしろ全てが好みだと考えていたけど、それらはどちらかと言えば後から好きになったようなものだった。先輩だから、何もかも素敵に映るのだと思う。
「逆に聞きますけど、そう言うなら先輩は、私が先輩の顔や姿に惹かれて好きになったのだと思っているんですか?」
私は笑いを噛み殺しながら尋ねた。
先輩が私の言葉を疑うというのなら、つまりはそういうことになるだろう。初め、ロクサーヌがクリスチャンに恋をしたように、私もまた先輩のその容貌にまず惹かれたと――そういう恋の始まりも悪いものではないだろうけど、あいにくと私と出会った頃の先輩は、女の子を惹きつけられるような柔らかい雰囲気など微塵も持ち合わせていなかった。だからそれは、ありえないことだ。
今の問いはさすがに先輩の意図するところでもなかったようで、たちまちふんと鼻を鳴らされた。
「そんなことは言ってない。と言うより、今は俺の話ではないだろう」
「いいえ。ロクサーヌの王子様がシラノなら、私の王子様は先輩ですから」
「またそれか。いい加減、現実に立ち返ってはどうだ」
全く、鳴海先輩は女の子の夢に冷たい人だ。
そろそろ自分自身が、一人の女の子をこれほどまでに夢中にさせているという事実にも気づいて欲しいものだけど。それともわざと気づいていないふりをしているだけだろうか。こう見えても先輩は照れ屋と言うか、堅物なところがあるから。
「私だって、先輩の魂の崇高さに惹かれたんです。先輩の綴った物語を初めて読ませてもらった時から……」
澄み切った冬空のような、冷たくも美しい物語世界に私は惹かれた。
鳴海先輩を悪く言う人はいたけど、私は、こんな物語を綴れる人がただの冷たい心の持ち主ではないはずだと思っていた。そしてそう思い信じ続けてきたことを、一度として悔やまなかった。
「一度、感想を伝えられたらと思っていました。あなたの物語が好きです、と」
私は過去を思い出しながら続ける。
「ですから先輩に声をかけてもらった時は私、とても嬉しかったです」
先輩は黙っている。頭一つ分くらい高い位置から私を、目の端で睨むように見つめていた。私がその目に微笑みかけると、まるでくたびれたような溜息をつく。
私は先輩の反応に少々落胆しつつも、更に語った。
「同じことじゃありませんか? シラノは世にも美しい恋の玉章でロクサーヌを戦場まで駆り立てるほど惹きつけました。先輩も、世にも美しい物語で、今も私の心を惹きつけ、捉えて離しません。それって、同じことだって思いませんか?」
すると、先輩はまた息をついてから目を伏せた。
手にしていた文庫本を完全に閉じ、近くの座卓に置いてから、やがて私に向かいゆっくりとかぶりを振ってみせた。
「同じ、ではないな。肝心なところが違う」
「え? そう、でしょうか」
否定された私が反論の構えを取るより早く、先輩の口が再び開かれる。
「シラノの手紙はロクサーヌに宛てたものだが、俺の書いたものは、お前だけに読ませる為のものじゃない。読んでくれるなら誰でもいいと思い、書き散らかしただけのものだ」
それから薄い唇に自嘲めいた笑みを浮かべ、
「もう知っているだろう。俺はお前に対してはろくな言葉も浮かばなければ告げられもしない、言わばクリスチャンと同じ側の人間だ。シラノと同列に並べて語るなどふさわしくない」
と言った。
私が言葉を失うと、先輩はやはり拗ねたような顔つきになる。
「お前に対しては言葉の綾も役立てず、普段なら馬鹿にするような陳腐な言葉でさえ自尊心が邪魔をして口にもできない。俺はそういう男だ。お前の理想からは程遠い」
「そうでしょうか」
改めて反論しようとしても、こういう時の先輩は頑なだ。またしても首を横に振られた。
「そうだ。お前がシラノを王子様と呼ぶなら、俺は……」
それから私をじっと、この場に縫い止めるくらい強く見て、何度かためらうようなそぶりをしてから、
「……敵うはずがないじゃないか。お前の王子様には」
刺々しさと悔しさ、いくらかの笑いを含ませながら呟いた。
私は先輩がいつも繰り返し口にするほど勘の鈍い人間ではないので、今の先輩の言葉が嫉妬、やきもちであることにも気づいていた。
物語の中の人物にさえ妬くなんて、可愛い人だと思う。もちろん逆の立場であれば、私もめらめらと澱んだ感情を滾らせていただろうけど――いつぞやの先輩の言葉ではないけれど、正直、悪い気はしない。
でも、その心配がないこともきちんと伝えておかなくてはならない。
先輩自身が先程言っていたように、同じ、ではないのだ。
「私の王子様は、先輩一人きりですよ」
拗ねてしまった先輩の腕に縋って、私は優しく告げてみる。
先輩がじろりと私を見る。
「別に気を遣ってくれなくてもいい」
「気を遣って言ってるわけじゃないです」
「だがこの流れでは、まるでお前にそう言わせたみたいだ」
「そんなことありません」
今度は私がかぶりを振った。
決然と、事実のほどを話そうと試みる。
「先輩の言葉は、それは甘くはありませんけど、でも先輩から貰う恋文はいつでも美しく、私に優しく、私を思う温かさに溢れています。愛の言葉がなくたって、それはれっきとした恋文でしょう」
私の言葉を聞く先輩が、そこで目を瞬かせた。
「恋文? そんなものを送った覚えは――」
「確かに貰いました。いえ、今でもよく貰っています」
逆に私は得意になって答えを明かす。
「手書きのものではありませんから涙の跡こそ見えませんけど、でもメールだって、愛の言葉がなくたって、真心さえこもっていれば立派な恋文になるんです。私は先輩から、そのことも教わりました」
鳴海先輩は去年の秋に携帯電話を持ってからというもの、日々メールをくれては私の心をときめかせてくれた。それは手紙のような様式に則った長いメールで、私の体調を気遣ったり、受験生だった頃の私を励ましてくれたり、私の悩み事に助言をくれるようなとても優しいメールだった。
私が受験生ではなくなった今でも、先輩は毎日のようにメールを送ってくれる。近頃は進学にあたっての相談に乗ってくれていて、メールの内容も大学についての話題ばかりだ。
親身になって丁寧な返事をくれる先輩の愛情を、文中に甘い愛の言葉がないからと言って疑うのは、あまりに愚かなことだろう。
「でも、いい機会なのでお詫びしておきます」
呆気に取られている先輩に、私は笑いながら告白する。
「先輩とメールのやり取りをすることになった時、私、きっと簡潔な、用件だけのメールが送られてくるだろうって思っていたんです。もしかすれば一言だけのメールしか貰えないんじゃないかって」
けれど、そうではなかった。
去年一年間だけでも、私は先輩の意外な一面を随分とたくさん見せてもらえたように思う。
「だからいざ、先輩からメールを貰った時は驚きましたし、でも本当に嬉しかったです。先輩は私に、心を尽くしてお手紙をくれるんだって。日々私を案じ、想っていてくれることを、読めばはっきりわかるようなメールを送ってくれるんだって」
そういう手紙を、恋文と呼ばずして何と呼ぼう。
「私の王子様も、恋文の大家でいらっしゃいます」
少しおどけて告げた私に、先輩は思いのほか赤面してみせた。
「何を……。あんな堅苦しい文章を恋文と呼ぶのはお前くらいのものだ」
まるで恋の熱に浮かされたみたいに真っ赤になって、自らの額に手を当てながら、先輩は呟く。
「しかしお前があれをそう呼ぶなら、随分と優れた読解力の持ち主だな。俺が何を考えながらメールを打っているのか、お前にはわかるのか」
「わかるというほどではありませんけど、想像ならできますし、しています」
私も今更はにかんで応じた。
「私は、先輩の作品の、一番の読者でもありますから」
しかし私の読解力、そして想像力がどれほど本質を掴んでいるかはまだわからない。それこそ直に、作者にでも尋ねてみない限りは詳らかになることもない。
「では先輩、私の想像が正しいかどうか、教えてください」
なので私は恋文の大家にその真相を尋ねた。
鳴海先輩は息を呑み、相変わらず熱の引かない顔を隠すようにそっぽを向いた。でもその熱はもう自らの意思くらいではどうにもならないものに違いなかった。私が先輩の傍にいる時がそうだから、先輩も私の傍にいる時は、そうなのだろう。
そういう原理を先輩もわかっていると見えて、やがて諦めたようにこちらに向き直ると、何か口を開く前に私の肩を掴んで引き寄せた。そうして私の唇に自分の唇を重ね合わせた後、突然のことに息もできなくなった私に対し、まるで言い訳みたいに言い放った。
「そんなもの、お前に打ち明けられるくらいならとっくに告げている。言えないから困っているんだ!」
彼は偉大なる恋文の大家にして、不器用で照れ屋で堅物な、私の王子様である。