恋愛小説気分
「さっきから熱心に、何を読んでるんだ」机に向かっていた鳴海先輩が、こちらを振り返って尋ねた。
私は顔を上げ、読んでいた文庫本の表紙を先輩に見えるよう掲げた。
「この本、クラスの友達に借りたんです」
「へえ。随分と夢中になっているようだが、面白いのか」
「まだ途中までしか読んでいませんけど、とても切ないお話です」
そう告げると、先輩は表紙と私の顔とをまじまじと見比べる。私の説明とタイトルだけで内容を察したのか、すぐに眉根を寄せた。
「恋愛小説か」
「そうです」
私は頷き、恐る恐る聞き返してみる。
「先輩も読みますか?」
「興味がない」
先輩はすげなく言い切ると、再び机に向かい始めた。床に座った私からは先輩の背中しか見えなくなる。
寂しい気持ちで溜息をつき、私もまた小説の世界へ戻る。
寂しく思うのは、鳴海先輩が興味を持ってくれなかったことについてではない。
先輩の趣味は熟知している。小説作品の中に要素として含まれる恋愛はともかく、それそのものを主題とした作品はどうにも好みではないようだ。恋愛小説と聞くだけで今のように眉を顰めてみせた。
私は恋愛小説は嫌いではないし、友人にこういった小説を好む子もいて、貸してもらう機会もよくある。一口に恋愛小説といってもいろいろあるものだけど、私はハッピーエンドの物語が特に好きだった。今日借りた本は最近映画化が決定したという話題作で、実際読み進めるのがとても楽しかった。
ただ、読み耽った後でふと我に返れば、いつも無性に寂しくなる。
恋愛小説の世界と比べて、現実ははなはだだ糖度に乏しい。
もちろん現状に不満はない。
付き合い始めた頃に比べたら、鳴海先輩は優しくなったと思う。言葉の足りなさは相変わらずだけど、私を細やかに気にかけてくれるようになった。私が落ち込んでいる時は気遣ってくれたり、励ましさえかけてくれるようにもなった。この間だって――。
現状に行き詰まり、更には車に水をかけられて、まるでこの世の終わりのような気分でいた私を救ってくれた。
あの日の出来事は私の中で、温かくも、ほんの少し甘酸っぱくもある記憶としてくすぶり続けている。
鳴海先輩に抱き締められた。
キスも、してもらえた。
どちらも初めてではなかったけど、あの時の私たちは、それこそ恋愛小説に出てくる恋人たちのようだった。それが幸せだった。いきなりのことでどぎまぎしてしまったし、先輩の言葉には上手く答えられなかった。私の反応がその空気を壊してしまったような、うっすらとした予感もあった――あの時、どう答えれば正しかったのか、今でもよくわからない。
ただ私はあの日のほの甘い空気に憧れを抱いていた。自分自身の実体験に憧れるというのも妙な話だと思うけど、また先輩が、気まぐれにでも私を彼女扱いしてくれたらいいのにと願っている。そもそも恋愛関係にあるというのはそういうものではないだろうか。先輩の方は普段、私に触れたいとか、抱き締めたいとか、キスをしたいなどと思わないのだろうか。
そう、知りたいのはそこだった。
先輩にとっての私は、果たしてよき彼女として存在できているだろうか。
鳴海先輩は自らに害が及ぶ事柄を除いては、私に対して寛容だった。私が先輩に会う際、どんな服を着てこようと文句を言いはしなかったし、ネイルをしたりマスカラをつけたりグロスを塗ったりというささやかな化粧に対しても言及しない場合がほとんどだった。もしかしたら気がつかなかっただけかもしれないし、たかだか十七の私がおしゃれや化粧をしたところでさして代わり映えしないと思っているのかもしれないけど。
どんな思いも口にされない限りはわからない。先輩も、もしかすると私に対し、何らかの不満を多かれ少なかれ抱いているのかもしれない。そのせいで私たちの関係に糖度が欠乏しているのだとすれば、それは私の責任ということになる。
恋愛小説には、恋人の為にきれいになろうとしたり、振る舞いを律したり、より一層の愛を傾けようと尽くしてみせる少女たちが登場する。
私も先輩の為なら多少の努力は惜しくない。彼女として何か至らないところがあるのならば、克服してみせよう。そうすれば今よりいくらかは恋愛小説のようなときめきに浸れるかもしれない。
私は読んでいた小説にしおりを挟むと、先輩の背中に尋ねた。
「先輩、質問があります」
「何だ」
鳴海先輩は書き物の手を止めず、こちらを向くこともなく応じた。
「大したことではないんですけど……」
「だから何だ」
「先輩は、どういう女性が好みですか」
「――何だって?」
デスクチェアが軋む音が部屋に響き、先輩は勢いよく振り向いた。その顔には濃い困惑の色が浮かんでいる。
「いえ、ですから」
反応の過敏さに私の方も戸惑った。
「先輩の好みを聞いてみたいんです」
「一体何が聞きたいんだ、雛子」
「ですから、いわゆる好みのタイプ、という奴です」
私は恐る恐る先輩を見上げる。
大学でそういうことを聞かれる機会はないのだろうか。およそ無愛想な鳴海先輩にも親しい友人はいるし、恋愛絡みの話をするらしいことも聞いている。その延長線上で好みのタイプの女性を尋ねられる可能性だってあるはずだ。
そんな時、先輩はどう答えているのだろう。
少しも考えもせずに、先輩は口を開いた。
「考えたこともない」
眉間の皺を寄せて言い切った後、また机へと向かう。
一蹴された私は思わず目を瞬かせた。あまりにもすげない返答で、ショックを受ける暇もなかった。ほとんど予想通りだったのも事実ではあったものの。
鳴海先輩はそういう人だ。好みのタイプの女性なんて恐らく考えることもないのだろうし、もし万が一何かの間違いで考えてしまったとしても、わざわざ他人に打ち明ける人でもないだろう。
だけど、考えたことがないのならせめてこの場で考えてみて欲しかった。
自分で言うのも照れるものだけど、今のは他でもない、れっきとした彼女からの質問だ。少しくらい甘い言葉をくれてもよかったのではと思ってしまう。嘘でもいいから、取り繕うような言葉でもいいから、一言答えて欲しかった。
私が先輩の好みに合っているのかどうか、知りたかった。
「じゃあ、質問を変えます」
「今度は何だ」
うんざりした声が返ってきたけどそれは聞き流して、私はもう一度尋ねる。
「先輩は、私のことをどう思っていますか」
ぎいっと、さっきよりも大きなデスクチェアの軋む音がした。
ゆっくりとこちらを向いた先輩が訝しげな顔をしてみせる。
「何だと?」
「あの……私について、です。一体どんな風に思ってくれているのかなと……」
質問を重ねるうち、何だか気恥ずかしい心持ちになってきた。
この質問には意味がある。とても深い意味と、思い出がある。
過去に、同じ問いを先輩からされたことがあった。
二度、違う局面で尋ねられた。
一度目は問い掛けられた意味がわからず、私は不用意な回答をして先輩を傷つけた。
二度目は、本心から答えた。先輩にとって望む回答であったかはわからなかったけど、あれから私たちの心は離れることなく、傍にある。だからきっと正答だったのだと思う。
三度目は――それなら、私から尋ねてみたかった。
鳴海先輩がどう答えてくれるのかは想像もつかない。そわそわと落ち着かない気分で待つこととなった。
デスクチェアから私を見下ろす先輩は、じっと冷静な眼差しをこちらに向けていた。
思慮深さが窺える細い双眸に見つめられると、自然と頬が熱くなる。
生真面目そうな面持ちで、今は私のことを考えてくれているのかと思うと、にわかに鼓動が速まった。
こんな緊張感は素敵だ。まるで、恋愛小説の一場面のようだ。
「雛子」
先輩が私の名を呼ぶ。
「……はい」
私は押し出すように返事をして、先輩の表情を見返した。
こちらを見下ろす先輩の顔はいつものような仏頂面だった。後に続いた言葉もおよそ恋愛小説らしくない冷たいトーンで放たれる。
「さっきから何なんだ、お前は」
ぎしっとデスクチェアが軋んだかと思うと、先輩が立ち上がった。私の目の前に腰を下ろし、この上なく冷ややかな目を私へと向けてきた。
私は俯く。どうも、先輩の気分を害してしまったようだと察していた。
「訳のわからないことばかり言って」
先輩の大きな手が、私の頬にそっと触れた。そのまま上を向かされて、先輩の苛立つ表情が視界に飛び込む。
「訳のわからないことって……私はただ、先輩の気持ちを知りたくて」
おずおずと言い返せば、鳴海先輩は溜息をついて視線を落とす。
「お前も案外、感化され易い人間だな」
「え……」
「それを読んで、熱に浮かされたんじゃないのか」
先輩は冷ややかに私の持つ文庫本を見下ろす。
例の、恋愛小説だ。現実よりもずっと甘くて、夢見心地な世界がその中にはある。
ここには、ない、はずだった。
「いちいち影響されるくらいなら、読むな」
そう言って先輩は、私から文庫本を取り上げると、そっとテーブルの上に置いた。
それから、やはり不機嫌そうに私の顔を覗き込んできた。
「好みのタイプを聞かれても、俺には答えようがない。考えたこともないからな」
「そうですか……」
望む回答が得られなかったことと、先の指摘が図星だったことで、私は俯きたくなった。確かに私は熱に浮かされていたのだと思う。ただしこうしている時に脳裏を過ぎるのは、読んでいた小説の中身ではなく、ついこの間の出来事だったけど――。
先輩の手は私の頬に触れている。俯くことを許してはくれない。そうして至近距離から、温かくはない、ひたすら理知的で鋭い眼差しが私を見据えている。
「そうだ。お前以外の存在を想定したことがない」
更にそう告げられたので、私は思わず息を呑んだ。
今のは、いい意味で受け取ってもいい言葉だろうか。
「ない……んですか」
「ああ」
「つまりそれは、あの、自分で言うのも何ですけど、私以外の女性には興味がないということですか」
この問いかけはまるで自惚れのような気がして、言ってしまった後で何となく居心地悪くなった。
ただ先輩は気にしたふうもなく頷いた。
「かもしれないな。お前ですら十分面倒な、扱いに困る女だというのに、それ以上面倒かもしれない他の女と関わりなんぞ持ちたくもない」
どう考えてもいい意味や前向きには捉えがたい物言いの後、先輩は今思いついたと言うように続ける。
「そういう意味で言うなら、お前は間違いなく俺にとっての指標だ」
「し、指標……?」
相変わらず、回りくどい言い方をする人だと思った。
先輩の言葉を反芻してみたものの、喜んでいいのか、自惚れていいのかわからない。いい意味での指標なら自信を持ちたいところだけど、先輩の言うことだからやっぱりよくわからない。先輩はそもそも世の女性たちを疎ましく思っているようだから、もしかするとよくない意味での『指標』かもしれない。考えれば考えるほど気分が沈む。
大体、あまりロマンを感じない単語だと思う。
「あの、もう少し噛み砕いてもらえませんか」
私が懇願すると、鳴海先輩はいかにも忌々しげな顔をして、
「嫌だ」
一刀の下に切り捨てた。
「でも、今の言い方ではさっぱりです」
「それはお前の勘が鈍いからだ」
「そんなことはないと思います」
「そんなことはある」
「先輩の表現が婉曲的過ぎるからです」
「だったら理解できるように少しは努力しろ」
至近距離で睨み合いながら交わすのは、何とも不毛な水掛け論だった。私たちの主張はどこまでも平行線だ。私は自らの主張が間違っているとはとても思えないのだけど、先輩は先輩で自論を曲げようとは絶対にしないだろう。
私が聞きたいのは、そんなに難しい言葉じゃない。
「先輩は、私のことが好きですよね」
何だかそれさえ自信が失せてきて、勢いに任せて私は尋ねた。
鳴海先輩には思い切り目を逸らされた。
「聞くな」
「聞きたいです。私をお傍に置いてくれていると言うことは、少なくとも嫌いではないということですよね?」
「当たり前だ」
「じゃあ、どう思っているんですか」
「聞いてどうする」
「至らない点があるのなら直します。私が指標だと言うのなら、より先輩の好みに近づけるようになりたいです」
背けられた、先輩の横顔を見ている。
大好きな人の顔だ。
そこに浮かぶどんな表情もいとおしいと思っているけど、先輩は私と同じようには思っていないかもしれない。ただでさえ言葉の少ない鳴海先輩は、胸中では私にもどかしさや苛立ちを感じているのかもしれない。
だから確かめたかった。
先輩の口から一言、恋愛小説のような台詞が飛び出してきたら、それがどんなに素っ気なくて短いものでも満たされて、安心できるに違いないのに。
ほんの少し甘い言葉。ロマンチックで、だけどありふれているような言葉だ。
たったの短い一言だけでも聞けたら、それだけでいい。
しばらくの間、鳴海先輩は私に横顔ばかりを見せていた。
私の頬は捕らえたまま、私の方を見てはくれないなんてずるい、と思う。
不満を抱きながらも黙っていると、やがて先輩は瞳だけをこちらに、ぎこちなく動かした。
薄い唇が静かに動いて、低く言葉を発した。
「前に言わなかったか」
「はい……? 何を、でしょう」
内心、首を傾げながら聞き返す。
その反応がお気に召さなかったのか、鳴海先輩が拗ねたような顔をした。
「お前のことを考えてる、と言った」
「……あ」
確かに聞いた。
私と先輩が、初めて諍いを起こした時に、先輩の口から聞かされた。
聞いたけどそれは、もう少し違う文脈で用いられた表現だったような気がする。私が知りたいと思っているのはそういうことではなくて、あの時あの場面だけの心情というわけでもなくて――。
「さっきも言った」
拗ねた表情のままで先輩が嘆息する。
「お前以外の存在を想定したことがない、と」
「はい」
聞いた。でもそれだって、私の聞きたかった言葉とは意味合いが違うように思う。好みのタイプについて考えたことがないと言われても、そんなに嬉しくはない。
私が腑に落ちない思いながらも頷くと、ようやくこちらを向いた先輩がその顔を顰めてみせた。
「お前、まだわかってないな」
「あの……そうでしょうか」
「そうだ」
先輩は明らかに苛立った様子で、私の頬を掴む指にも力が入った。痛いくらいだ。
「お前は本当に勘が鈍くて、察しが悪い」
その指が、不意に離れた。
頬を包んでいた手と熱とが遠ざかると、次の瞬間、視界が傾ぐ。
背中に回された腕の感触でわかった。
抱きすくめられている。
自分のものではない心臓の音が耳元で聞こえた。速いかどうかはわからない。
ぎゅっときつく抱き締められて、呼吸が苦しい。
先輩の手が私の髪を撫でる。梳くように撫でるその動作だけがすごく、優しい。
暑いと感じるのは、夏の気温のせいだけではない。先輩の体温にすぐ近くで触れているから、だけでもない。眩暈のように頭がくらくらとして、思考が上手く働かなくなる。
「お前のことは、始終考えてる」
私を腕の中に閉じ込めてしまった先輩が、言った。
「たまに他のことが考えられなくなるくらい、考えてる。……今も、そうだ」
愛を語るというにしては、いささか乱暴な、突き放すような口調で。
「大体、お前は勝手だ。あれこれと訳のわからないことを言って、俺にややこしいことを考えさせておきながら、俺の言葉は理解しようとしない。こっちはお前の一挙一動に振り回されて、何も手につかなくなってるというのに!」
頭上で怒鳴られて、私は首を竦めた。抱き締められているその最中に出して欲しい声じゃない。
でも、今の言葉は先輩の本心だ。言葉が無愛想で、表情からでしか本心を教えてくれなかった鳴海先輩の、貴重な愛の言葉だ。
先輩は私のことを考えてくれている。何も手につかないくらい、らしい。それは彼女として少々申し訳ないけど、同時にとても光栄なことではないだろうか。私にも多少なりとも、先輩を惹きつける魅力がなくはない、ということだ。
ちゃんと先輩の口から聞いたのだから間違いない。
恋愛小説に登場するような台詞ではないけど、私には十分甘くとろかすように聞こえた。ロマンチックだ、と思えた。多分この後しばらくは言ってくれないだろうから、ありがたがっておこう。
「すみません。私、先輩を困らせてるんですね」
腕の中から私が声を上げると、先輩はすぐに応じた。
「全くだ」
「でも、私のことをそんなに考えてくれてるとは思いませんでした」
嬉しい気持ちで告げると、直後、耳元に深い溜息が響いた。
「知らなかったのか」
「存じませんでした」
「……本当に勘が鈍いな」
先輩は呆れたようだったけど、あれだけの情報量で察していたら、逆に恐ろしく敏い人間だと思う。
「ところで、先輩」
「何だ」
「ついでですから、具体的な内容もお聞きしたいです」
「何についての『ついで』か、わからないのだが」
「私のことを考える時、どんなことを、どんなふうに考えているんですか」
せっかくだから聞いてみたい。先輩の中で、私は、どのように捉えられている存在なのだろう。先輩が私を想う時、一体どんな思案をするのだろう。
きっと私には考えも及ばないような崇高な考えに違いない。もしかすると先輩らしい感性豊かな筆致で、克明に描写されているのかもしれない。それこそとてもロマンチックだと思う。そうであれば先輩にも、美しい恋愛小説が書ける才能があるだろう。
期待に胸を膨らませていた私を他所に、先輩は黙り込んでしまった。無言のまま、私の髪を撫でていた手も動きを止めている。
あまりに長く沈黙が続き、痺れを切らした私は、先輩の顔をそっと覗き見た。見上げる顔が、今は何だか酷く気まずげで、困惑しているようでもあった。
ややあってから、ようやく先輩は絞り出すような声で答えた。
「どんな……と言われても困る」
それから不意に私の両肩を掴むと、身体から引き剥がすように離してみせた。先輩の腕の長さの分だけ私たちの間には距離が生じ、突然の行動にうろたえる私以上に、先輩自身が酷くうろたえ始めた。
「いろいろだ。そうとしか言えない。これ以上は聞くな」
「え、あの」
「大体、そんなことを追及する奴があるか。プライバシーの侵害だ」
額に汗を浮かべた先輩が、苦々しげに私を見下ろす。
私は苦笑するより他ない。
「先輩、差しさわりのない程度でいいですから、具体的にお願いします」
「聞くなと言っている」
「どうしてですか」
私が問い詰めると、先輩はこの上なく困り果てた顔をした。
「……言えば、お前に失望されるような気がするからだ」
言うまでもなく私は鳴海先輩を尊敬していたし、滅多なことで失望するつもりもない。先輩が私を落胆させる、イメージとは違うようなことを考えていたとしても、見放したりなどしない。私にとって先輩は、単なる彼氏というだけの人ではない。辿り着きたい目標でもあるのだから。
――と言うよりも、私を失望させるような、私についての思案とは何だろう。たとえ先輩が年頃の男の子らしい考え事をしていたからと言って、それで失望するほど私は潔癖でも、無知でもないつもりだけど。先輩はそういうことだって口にしたがる人ではないから、結局わからなくて対応の取りようがない。
腑に落ちない思いで見上げれば、先輩はすっかりくたびれた様子で私の肩から手を離した。もう抱き締めてくれるつもりはないらしい。
ただ、その時、どうしてか少し笑っていた。
「馬鹿げているな、こんなやり取りは。それもお前がそんな小説など読むからだ」
「でも、すごく面白いんですよ。先輩もどうですか?」
勧めてみれば先輩は強くかぶりを振る。
「面白いはずがない。恋愛の実情とは所詮、苛立ちと忍耐しかないようなものだ」
「そうでしょうか。何だかんだで楽しいものですよ、恋愛って」
「それはお前の勘が鈍いから、ただただ能天気でいられるんだろう」
あまりに繰り返し言われるので、自信がなくなってきた。
本当に私の勘が鈍いのか、鳴海先輩が難しく考えすぎなのか、真実は一体どちらだろう。
これが恋愛小説の一場面なら、もう少しわかり易い回答が文中に提示されているはずなのに。