帰結としての頭痛
頭痛が酷い。誰しも体調の悪い時は黙って寝ていたいと思うはずだ。できる限り煩わしいことからは逃れたい。他人に気を遣うなんてもってのほかだろう。痛みを堪える傍であれやこれやとうるさく言われるより、放っておかれて一人でいる方が楽に決まっている。
それを、彼女にはいまいち理解してもらえていないようだ。
「先輩、お加減はいかがですか」
横たわる俺の傍らに雛子が座っている。やけに深刻そうに俺の顔を覗き込んでいる。その顔を見上げていると苛立ちを通り越し、罪悪感さえ湧いてきた。
なぜ俺が、こんな気分にならなくてはいけないのか。
「お前は何しに来たんだ」
俺はそう尋ねた。頭痛のせいで声を発するのも億劫だった。薬はまだ飲んでいない。食欲がなく、そもそも今日は朝食すら取っていない。
朝、起床した時から既に痛みの兆候があった。雛子が訪ねてくる予定があったから、一応は寝具を片づけ、身支度を整えた。だがその頃には本格的にずきずきと脈打つように痛み出し、やむなく雛子には約束をキャンセルする電話をかけたはずだった。
そして少し休もうと、床に横たわった――この時もはや、布団を敷くのもままならないほどだった。だから玄関のチャイムが鳴っても応対には出られなかったし、それが三回繰り返されても黙って居留守を決め込んだ。
するといくらかもしないうちに、鍵穴に鍵を差し込み回す冷たい音が響き、俺は雛子に合鍵を渡していたことを今更のように悔やんだ。
「だって、先輩があまりに具合の悪そうな声をしていたから、いても立ってもいられなくなったんです。あんな電話を貰ったら、心配するのは当然です」
眉尻を下げた本人の弁明はこの通り。悪びれるそぶりはなく、それどころかうろたえてでもいるみたいに落ち着きがなかった。春らしい水色のカーディガンを羽織っていて、それが不調の目には眩しく、思わず目をつむりたくなった。
「そしたら先輩……お布団も敷かずに床で寝てるんですから。私、先輩が倒れたんじゃないかってとても驚きました。そうじゃなくてよかったですけど……」
雛子は胸を撫で下ろす。そして薄目を開ける俺に対して、気遣うように尋ねてきた。
「よかったら私がお布団、敷きましょうか。先輩も床の上では寝づらいですよね?」
「いや、いい」
俺は布団があるなら早急に被りたい気分でいたが、雛子を一刻も早く帰したいとも思っていたから彼女の申し出を拒んだ。いくらある程度付き合いの長い相手とは言え、見せたくないものはたくさんある。こうして弱っている時の顔はその好例だ。彼女には特に見られたくはなかった。
押しかけられるとわかっていたら、合鍵なんぞ持たせなかったのに。
「これはただの頭痛だ。何ともないからお前は帰れ」
寝不足で頭が痛い。電話口でもそう言ったはずだった。顔を背けて俺が告げると、すかさず反論の声を後頭部めがけてぶつけられた。
「何ともないようには見えません。頭痛と一口に言っても、風邪の場合もありますし、もっと重い病気のこともあります」
頭が痛いと言っているのに、また長々と話す奴だ。耳障りだとは言わないがもう少しトーンを落として欲しいものだと思う。
「調子が悪そうなら、黙って寝かせておこうとは思わないのか」
「何か、私にできることはありませんか」
微妙に噛み合わない言葉を口にして、雛子が肩に手を置いてきた。思ったより小さく柔らかい手は、近頃随分と俺に対して気安い。外を歩く時に手を繋ごうとしてきたり、腕を組もうとしてきたり、何かと厄介な手だった。
今も労わるように肩をさすられ、俺は居心地の悪さを覚える。こうも優しくされるとさすがに跳ね除ける気にはなれない。あえて静かに懇願した。
「特にない。帰ってくれ」
「でも、先輩を一人で寝かせておくわけには」
「いいから帰れ。今日一日寝ていれば治る」
「……心配なんです、私」
ぽつりと一言呟いて、雛子はそれきり黙り込む。
俺は顔を顰めた。そういう物言いをされるのが一番苦手だった。
いや、違う。むしろ俺は、雛子が口にする言葉のほとんどが苦手だった。時々対処に困る。彼女の言わんとしていることに理解が及ばず、困惑させられることもしばしばあった。
大抵の場合、客観的に見れば間違いなく俺の意見の方が正しい。雛子の言うことは理屈に合わないものもよくあったし、感情的でもあったし、非合理的な場合も多かった。こちらの方がよほど理に適っている、と何度思ったかわからない。
なのに雛子は、まるで筋の通らない、理に適わないような事柄でも、無理を通してみせることを得意としていた。柔らかく丁寧な物言いで、しかし驚くほど頑固に主張を繰り返し、そのうち俺に諦念を抱かせる。押し問答の不毛さと策略的な沈黙の用い方をよく教えてくれる。
今日みたいな日は押し問答になるのも辛い。雛子が梃子でも動かないというなら、飽きるまで好きにさせてやった方がお互い楽だろう。
「わかった」
結局、今日も俺は白旗を揚げた。
「ここにいたいならいても構わない。が、黙って寝かせておいてくれ」
心配されることは何もない。しつこいようだがよくある、ただの頭痛だ。しかしそう言い聞かせたところで理解してもらえるものでもないのだろう。
実際、独り暮らしの身では万が一の事態が起こった場合に連絡の取りようがない。雛子がそれを案じているのなら、懸念はわからなくもなかった。
「いいんですか?」
許せば許したで、確かめるように尋ねてくる。
元はと言えばお前が言い張ったんじゃなかったのか。言い返してやろうかと思ったが、いい加減うんざりしたので止めておく。頭痛の時は何もかもが面倒くさくなるものだ。
「好きにすればいい」
投げ遣りに応じた瞬間、俺の頭上に影が落ちた。
わざわざ身を乗り出して、雛子がこちらを覗き込んでいた。眼鏡越しに見える双眸には今、無闇な不安を湛えているのがわかった。こんなふうに近くで見つめられると、こちらまで落ち着かない気分になるから困る。
だから、顔を見られたくないというのに。
「見るな」
俺の抗議も聞こえないそぶりで、雛子は検分するようにしげしげと俺を見下ろした。
「先輩、顔色がよくないですね。お薬は飲みましたか?」
「いや、まだだ」
「私、家から頭痛薬を持ってきたんです。よかったら飲んでください」
「ありがたいが、朝食もまだなんだ。胃が荒れるから止めておく」
「朝ご飯、まだだったんですか」
眼鏡越しに見える双眸が、驚いたように瞠られた。
雛子はその後でふと表情を和らげ、
「では、何か作りましょうか」
「お前が?」
俺は呻くように問い返した。
自己申告によれば、雛子の料理の腕はあまり芳しくないと聞く。
以前、遠出をした時に作って貰ったサンドイッチはまずまずの出来だったが、言ってしまえばあれは料理の内には入らない。その他のものは全て未知数だ。こういう時に病人向けの食事が出てくるかどうか、過度な期待は持つべきではないだろうが、さてどうするか。
俺の懸念を読み取ったか、控えめな主張が返ってくる。
「お粥くらいなら私だって作れますから」
「……それなら」
粥で大きな失敗を起こすこともないだろう。恐らく。
俺は台所の権限を彼女に委ねることにした。
「待っていてくださいね、先輩」
雛子はそう言って一度立ち上がったが、再びこちらに影を落として、そっと手を伸ばして来た。
今度は何事だと思う間もなく、何か柔らかい布地に肩口を包まれた。思わずびくりとしながら目をやれば、彼女は羽織っていたカーディガンを俺にかけてくれていた。その時、雛子は伏し目がちにしていて、その顔を窺う俺には気づかなかったようだ。
こんな時に、随分と穏やかな表情をするものだ、と思う。
「寝ていて下さってもいいですよ、ちゃんと起こしますから」
雛子はそう言い残し、台所へと去ったようだ。微かな足音でわかった。
初めに感じた罪悪感が甦る。俺は頭痛を堪えながら密かに嘆息した。
物好きだと思っていた。
俺自身が言うのも何だが、俺のような人間とまともに付き合っている時点で変わり者だと言わざるを得ない。
初めは、何がきっかけだったか。
おぼろげに記憶しているのは控えめな微笑だ。満面の笑みではなく、とりあえず礼を失しない程度の微笑みだった。昔の記憶を辿ると、雛子はいつも控えめに微笑んでいた。
見かけた時にやけに印象に残ったのは、とっさの時にもそんな風に笑えるような彼女の気質が気に入ったからかもしれない。部の会報用に撮影した写真のうち、あまりに写りのよかった彼女の写真をこっそり持ち帰ったこともあった。
二年後輩の雛子とは、同じ文芸部員であってもそれほど話す機会はなかった。クラブ活動の時間に、主に創作や読書について意見を交わすことはあっても、それ以外の話をするような関係ではなかった。
俺が卒業を間近に控え、文芸部に顔を出すことが少なくなってきた頃だ。
彼女との別れが、どうしてか惜しいと思うようになったのは。
あの頃はそういう感情の起因するところを突き止めようとも思わなかったし、要は彼女を手元に置いておければそれでいいと考えていた。他の誰のものにもならないまま、俺の話し相手兼相談相手を務めてくれればいい。そしてあの控えめな微笑が時々こちらに向けられたら、それだけで何となく満足できた。
しかし付き合ってみてから知ったことがある。
まず、彼女は笑い方こそ控えめだが、気質そのものは大して控えめでもなく、むしろ苛烈なまでに自己主張をする場合もあるということ。それから、思っていたほど従順な女でもなかったし、たまに酷くわがままな振る舞いをするということ。時折訳のわからないことを言い出し、噛み合わない議論を展開させてこちらを困惑させることもある。そうかと思えば今のようにやたらと世話を焼きたがる一面もあるし、俺の言動に類稀なる勘の鈍さを見せることも多々あって、難しい人間と付き合うことになったものだとしみじみ思う。
だが奇妙なことに、そうした多面的な理解を経ていくごとに離れがたい思いも募った。
愛着なのか、それとも執着なのかはわからない。ただ酔狂なほどの思慕であるのは間違いなかった。
今となっては彼女が他の誰かのものになる可能性を想像したくもなかったし、俺は自らの呆れるほどの独占欲を思い知らされる羽目となった。嫉妬心も人並みに持ち合わせているつもりでいたが、まさかそれを、彼女に係わる人間に対して向ける日が来るとは思わなかった。
結局のところ、物好きなのも変わり者なのも、酔狂なのもお互い様なのだろう。
一度誰かに執着を持てば冷静でいられるはずもなく、自らを律するのも難しい。相手の一挙一動が気にかかり、そのくせつまらない自尊心や臆病さが邪魔をして、本人に直接尋ねることもできなくなる。不毛なことで思案に暮れるうち、一睡もできないまま夜が過ぎることも頻繁にある。
そんな不安定な感情を抱え込んでも尚、この関係の維持しようと考えるのは、余程の物好きだけだろう。
俺にとっての唯一の幸いは、その考えが決して一方通行ではないという事実、たったそれだけだった。だからこそ――。
「……先輩、先輩」
身体をごく軽く揺さぶられて、それで気づいた。
どうやらいつの間にやら寝入っていたらしい。
目を開ければ、俺の頭上にはまた影が落ちている。視線を動かせば、穏やかな微笑を浮かべた雛子がこちらを覗き込んでいた。
「お粥、できましたよ」
彼女は言って、気遣うように小首を傾げてみせた。
「少しでもいいので召し上がってください。……起きられます?」
霞がかったような頭で思う。やはり、俺は酔狂だ。
あれほど一人でいい、黙って寝ていたいと思っていたくせに、この時ほど彼女の存在がありがたいと感じたことはなかった。体調の悪い時に誰かがいてくれるというありがたみ。眠りから覚めて、誰かの顔を、それも自分を案じる表情を見つけた時の、何とも言えぬ幸福感。相当弱っているのだろうか、今は正直に自覚した。
手を伸ばせば触れられる距離にいる彼女を、強く抱き寄せたいとさえ思った。
寝起きの顔では格好もつかないと、すんでのところで思い留まったが。
幸い、少しでも眠ったせいか頭痛は多少和らいでいた。俺は起き上がり、食事の前に冷水で顔を洗った。その間に雛子が食事の用意を整え、座卓の上に鍋と、スープ皿と、スプーンを並べておいてくれていた。
「食器、どれを使っていいのかわからなかったんです。これでよかったでしょうか」
不安げに尋ねてきた彼女に、とりあえず頷いておく。
茶碗もれんげもきちんと探せば食器棚の奥にあったが、いちいち指摘することでもない。俺にとってもどうでもいいことだから黙っておいた。
「熱いですから気をつけてくださいね」
警告つきで振る舞われた粥はまずまずの出来だった。失敗のしようもない献立でもあるが、いい具合に五分粥として完成していた。
「お口に合いますか?」
「なかなか美味い」
「よかったです。ちゃんと食べて、早くよくなってください」
湯気の向こうでも控えめに微笑む雛子は、やはり不思議と印象深い。
他の表情と比べても抜群にいい。何が違うのかと問われれば答えようもないが、恐らく頭で理解することでもないのだろう。
彼女を傍に置いておきたいと、改めて思い直した。
あの微笑がいつも傍らにあれば、頭痛に悩まされる時も、その他の理由で体調の悪い時にも、浅い眠りの後で目覚めた時にも、ずっと安らげる気分でいられることだろう。
あるいは昨晩のように、彼女のことを考えて眠れぬ一夜を過ごすことも、その帰結として頭痛に悩まされることもなくなるだろう。
彼女さえ、傍にいてくれたら。
「雛子」
罪悪感に背を押されて、俺は彼女の名前を呼んだ。
「今日は悪かった。会う予定がふいになって」
「いえ、気にしないでください」
真実を知らない雛子は、本当に気にしたふうもなくかぶりを振る。
知らないままでいてくれた方がいい。
今はまだ、教える気にもなれない。酔狂さに身を預けられるほどの覚悟はまだなかった。いっそ物好きの極みとして溺れてしまうことができたら楽になるのかもしれないが――そうなれば俺は、今以上の無様さを彼女の前で晒すことになるだろう。それで彼女に愛想を尽かされては元も子もない。
「私の方こそすみませんでした、結局、押しかけちゃったみたいで」
雛子も申し訳なさそうに詫びてくる。
「そうだな。自覚はあったのか」
「ええ、まあ……」
お互いに苦笑いが浮かぶ。
「こういう時こそ、先輩を放っておけないって思ったんです。先輩に頼ってもらうチャンスですから」
頼りにしていないつもりはなかった。
むしろこんなにも寄りかかっている自分が怖いくらいだと思う。支えを失う痛みを知らないわけでもないのに、気がつけばごく近いところに彼女がいる。無意識のうちに縋ってもいる。
だが、そういった現状も本人にはわからないものだろう。ただでさえ察しの悪い鈍い奴だ。はっきり言ってやるまでは――俺が言えるようになるまでは、こうして押し問答の日々が続くのかもしれない。
「先輩、お粥はもういいんですか?」
「ああ、十分だ」
薬を飲めるほどには食べられた。食後には雛子が持ってきてくれた薬も飲んだ。しばらくすれば痛みも和らぎ、もう少し穏やかな時を過ごせることだろう。
「じゃあもう少し休みますか? 薬が効くまでは安静の方がいいですよ」
「そうする」
俺が再び横になると、雛子もまた、俺の肩にカーディガンをかけてくれた。
そして頭上から俺をじっと見下ろす。彼女の影に包まれたようで、やはり居心地が悪い。
「お前は……退屈なら本でも読んでいるといい」
落ち着かない気分で勧めてみる。だが彼女は微笑んでかぶりを振った。
「いえ、先輩の傍にいたいんです。ちっとも退屈じゃありませんから」
「おかしなことを言う奴だ」
「そうでしょうか? 先輩と一緒にいるのに、退屈なんかするはずないです」
いつもの控えめな笑みとは対照的な、自信に満ちた断言だった。
おかげでこっちはその後、薬が効くまでずっと寝つけず、黙って横たわっていなければいけなかった。少なくとも今のは体調不良の人間の心臓によくない言葉だ。そして寝不足の人間にも、ことその原因を作った当人が口にすべきではない言葉でもある。
俺が昨夜眠れなかった理由が誰にあるか、いっそ打ち明けた方がいいのだろうか。