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瑣末な隠し事

 夏の夕暮れ時。駅前広場は普段よりも大勢の人で混み合っていた。
 だけどそんな人混みの中でも、鳴海先輩の姿を見つけるのはたやすい。歩く速さも姿勢のよさも、真っ直ぐ前を見る眼差しも、まるで他の人とは違うからだ。何か重大な使命を背負う人のようだといつも思う。
 背筋を伸ばした先輩が、雑踏をすり抜けてこちらへと歩いてくる。遠くからでもわかる不機嫌そうな顔。私は思わず笑んで、声をかけた。
「先輩!」
 聞こえたのだろう、先輩がはっとしたように目を瞠った。
 それから足を止め、前を行き過ぎる人の肩越しにこちらを見る。目が合った、と私が思った瞬間、先輩はもう一度瞠目した。
 私は急いで先輩に駆け寄る。歩きにくい履物がかつかつと音を立てる。脚に裾がまとわりつき、辿り着くまでに少しもたついた。
「こんなところでお会いできるなんて、偶然ですね」
 先輩の前に立つと、急き込んで私は告げた。
 もっとも、住んでいるところは離れていてもお互いの行動範囲はほとんど同じだ。偶然も何もない、当たり前だと、先輩なら呆れたように言うだろう。
 だけど、先輩はそう口にしなかった。
 代わりにまじまじと私を見て、たっぷり三分間眺めてから、ようやく口を開いてくれた。
「雛子か?」
「おわかりになりませんでしたか」
 私は笑った。いつもと装いが異なるとは言え、それほどまでに様変わりしたつもりはない。ただ、先輩にこの格好を見せ、そして驚いて貰えたことはうれしかった。
「いや、わからなくもなかった」
 曖昧な口ぶりで言った後、先輩は眉を顰める。
「見たことのない格好だったから、いささか驚いただけだ」
「ええ。今日は花火大会ですから」
 頷いて、私は袖を広げてみせた。
 あじさい柄の浴衣は、去年の夏に購入したばかりのものだ。こっそり買って、先輩には秘密にしていた。不意を打つ為の、瑣末な隠し事だった。
 いつか先輩の前で着る日が訪れたら、先輩に見て貰えたらと思っていたのに、結局今日まで機会に恵まれなかった。今日もこの偶然がなければ、先輩には見せられないままで終わっていたはずだ。偶然の出会いに感謝しつつ、私はそっと先輩の表情を窺う。
 先輩は渋い顔をしていた。どこか面食らったようにも見えていた。
「いい柄行だな」
 そして重い口を開いて、浴衣の柄を誉めてくれた。――言及されたのが柄だけとは言え、やはり嬉しかった。
「ありがとうございます」
 私もすぐに頭を下げ、それから先輩に視線を返した。
 鞄を提げただけの軽装。普段着姿の先輩は、ごった返す人混みの中でも存在感を発揮している。今夜催される花火大会の会場へ向かう人が多い中、先輩だけが確実に、目的を異にしているからかもしれない。
「先輩は、今日はお買い物でしたか?」
 尋ねると、先輩はすぐに頷いた。
「そうだ」
 頷いて答えはしたものの、どこか上の空のように聞こえる。先輩の目はじっと私を眺めている。物珍しそうに、訝しげに、それからどこか驚いた様子で。
 あまりにしげしげと見られるもので、私はいささか照れてしまった。小声で尋ねてみる。
「気に入っていただけましたか、先輩」
 途端に先輩は不機嫌そうな面持ちになり、決まり悪そうに視線を逸らす。
「気に入るも何もない。お前が俺の知らないところでどんな格好をしていようがどうでもいい」
「そうですか……」
 たちまち、私も落胆する。
 先輩の口からわかりやすい誉め言葉を引き出すのは難しいことだ。だけどこれは、先輩のことを思いながら選んだ浴衣だった。見せる機会のないまま一年が過ぎ、ようやく巡ってきたこの時に、あまり快い反応を貰えないのも寂しい。物珍しがられただけで、似合うとは思って貰えなかったなら、尚のこと寂しい。とは言え確かめる気にもならず、自信もなかったので、結局私は諦めた。柄を誉めてもらえただけでも満足すべきだと思い直した。
 ふと気が付けば、駅前の広場には随分と人が増えてきていた。私は仕方なく、黙り込む先輩にお暇を告げた。
「あの、私、約束がありますので。これで失礼しますね」
「あ……そうか」
 小さく声を上げた先輩が、眉根を寄せる。
「はい。クラスのお友達と約束しているんです。花火を見に行くって」
 私はそう言ってから、
「よろしければ先輩もいかがですか、花火見物」
 さりげなく尋ねた。もちろん先輩が何と答えるかはわかった上での問いだ。気安く花火見物に出掛けてくれるような人ならそもそも真っ先に誘っている。
 案の定、先輩はかぶりを振った。
「俺はいい。人の多いところは苦手だ」
 予想通りだ。私は笑って、会釈をする。
「では、失礼します」
「ああ」
 素っ気ない返答にはとっくに慣れてしまった。私は笑んで、歩き出す。顎を引いた先輩の横を通り過ぎる。
 浴衣の裾に気をつけながら、友人との待ち合わせ場所へと向かおうとして――。
「雛子」
 ふと、先輩が私を呼び止めた。
 まだ何か用があったのだろうか。怪訝に思いながら振り向くと、先輩は仏頂面でこちらを見ていた。
「どうかしましたか、先輩」
 私は尋ね、先輩は一呼吸置いてから言った。
「帰りは何時頃になる?」
「はい……? 私ですか?」
「他に誰がいる」
 声に苛立った様子が窺えたので、訳もわからず答える。
「恐らくそんなに遅くまでは……私も含めて、皆受験生ですし」
「そうか。じゃあ、終わったら連絡しろ。お前を迎えに行く」
 当然のように先輩は言った。
 今度は私が目を瞠る。予想外の申し出に驚かされた。
「え……あの、ええと、よろしいんですか」
 迎えに来てもらうこと自体に不都合はない。今日約束をした友人たちは、皆徒歩で待ち合わせ場所までやってくる予定だ。私一人だけが電車に乗らなくては帰れないので、帰路、駅までの道を一人で歩くのには不安もあった。先輩が迎えに来てくれるならとても心強い。
 だけど花火大会には微塵も興味のない人に送り迎えだけしてもらうなんて、手間をかけるようで申し訳ない。帰り道だって人が多いかもしれないのに、先輩は、それはいいのだろうか。
「たまたま、暇だからな」
 先輩は素っ気なく言った。
「それに近頃は物騒だ。お前を一人でふらふら歩かせておくには不安もある」
「私、ふらふらなんて歩きませんけど……」
 まるで子供扱いされているようで、少しばかり不満に思った。せっかく浴衣を着ているのに子供扱いでは、何となく悔しい。
 でも先輩は、私の不満なんてどこ吹く風だ。
「返事をしろ。迎えに来て欲しいのか、来て欲しくないのか、どっちだ」
 急かされて、正直に答える。
「それは、来ていただきたいです」
 私の回答は先輩を満足させたようだ。表情にわずかな動きがあった。
「わかった。迎えに行くから早目に連絡しろよ」
「はい」
 先輩と約束をしてから、私はその場を離れた。
 いくつか釈然としない思いもあったものの、とりあえず先輩が迎えに来てくれるのは、素直に嬉しかった。


 日がすっかり暮れてしまった、神社の鳥居前。花火を堪能し、友人たちとはその場で別れてから、私は先輩に連絡をした。
 先輩の住む部屋からそう離れていない場所とあって、先輩はものの十五分ほどで到着した。そして鳥居前に立つ私を見るなり、眉間に皺を寄せた。
「疲れたか」
「少しだけ。慣れない履物でしたから」
 私は苦笑して、素直に答える。
「そうか」
 心配させてしまっただろうか。どこか気落ちした様子の先輩が、溜息をつく。私は慌てて先輩の隣に並ぶと、手にしていた冷たい瓶を差し出した。
「先輩、よろしければいかがですか」
「何だ?」
 手渡した細いガラス瓶の表面には、水滴がびっしりと付着している。曇ったそのガラス越しには、透明な液体とビー玉とが見えていた。私は自分の瓶を手に、不審げな先輩に答えた。
「ラムネです。ご存知ですよね?」
「当たり前だ。これは、どうした?」
「露店で買いました。帰り道に、一緒に飲もうと思いまして」
 迎えに来ていただくのに、何のお礼もしないのは悪い気がしていた。だからと言って、花火大会に合わせて立ち並ぶ露店の、どんな食べ物も先輩の好みではないように思った。先輩はジャンクフードの類はほとんど口にしない。悩んだ末に私が選んだのが、よく冷えたラムネだった。これなら余程のことがない限り、口に合わないということもないはずだ。
「好きなんです、私。ラムネの味もそうですけど、中のビー玉を集めるのも好きで、縁日では必ず買って、つい歩きながら飲んでしまいます」
 だけど先輩は手にした瓶を見下ろすと、鼻を鳴らしてみせた。
「余計な気を遣うな」
「お好みに合いませんか?」
「あまり飲まないな。それに、歩きながらでは行儀が悪い」
 それは確かに、先輩なら言い出しそうなことだ。買い食いなんて先輩の好かないことには違いない。でもお祭りの日くらいは看過してくれてもよさそうなものだけど。
「でも露店の食べ物は、歩きながら食べるものでもあると思います」
 私はすかさず反論したけど、言い負かす自信は端からない。
「歩きながらの飲食はみっともないし、落ち着かない。持ち帰って家で飲むことにする」
 頑なに言って、先輩はラムネの瓶を開けなかった。
 そうまで言われてしまった手前、私も瓶を開けることができなかった。既に汗を掻き始めているガラス瓶を手に、ひとまず並んで歩き出す。

 花火大会の後で、大きな通りは人が多かった。人混みを嫌う先輩の為、人の少ない路地を選びながら、駅までの道を辿る。
「花火、きれいでしたよ」
 道すがら、私は先輩に見てきた花火の感想を語った。毎年開かれる市主催の花火大会は、大玉揃いのなかなか見応えのあるものだ。目映い花火を堪能してきた後は、耳の奥にじんとした響きが残る。
「音は聞こえていた」
 何気ない口調で先輩は応じ、続けた。
「さすがに部屋の窓からは見えなかったがな。うちの大学からは、毎年よく見えるそうだ」
「そうなんですか」
「大槻たちが見に行っているはずだ」
 先輩が言い添えたので、私は思わず尋ねた。
「どうして先輩は行かなかったんですか? 会場まで行って見るよりも、人が少なくてよかったのでは?」
 大槻さんのことだ、まず間違いなく先輩にも声をかけただろう。だけど先の物言いでは先輩自身は出向かなかったのだろうし、こうして私を迎えに来てくれた。
「そうだな。半ば強引に誘われて、断るのも面倒だと思っていた」
 薄暗い夜道を、水銀灯の明かりが通り過ぎる。先輩はあまりこちらを見ない。どこか険しい眼差しが、真っ直ぐ前だけを見据えている。
「だが夕方、駅前でお前と約束をしてから、断りの電話を入れたんだ」
「え、そんな……」
 私は絶句した。
 では先輩は、私と会わなければ花火を見に行っていたはずだ。それを、私を迎えに来る為に断ったというのだから、私のせいで行けなかったということにならないだろうか。
「余計な気を遣うな」
 こちらの胸中でも読んだみたいに、先輩はまた鼻を鳴らした。
「俺は俺で気の向いたようにしただけだ」
「でも」
 反論しかけると、先輩はちらと私を横目で見た。
「お前を連れていくわけにはいかなかったからな」
 私は口を閉ざし、代わりに瞬きをした。
 手元のラムネの瓶から雫が落ちる。指先を伝ってぽたりと。
「来年は、お前もうちの大学で見るんだろう」
 既に決まっていることのように先輩は言う。
 そう言われてしまうと、私はたちまち受験生の気分に引き戻されてしまう。もちろん望んでいることでもあったから、異論は全くないものの。
「ええと、頑張ります」
 気を引き締め直した私の答えに、
「期待している」
 先輩は頷き、それから一度、息をついた。
 わずかにためらうような間があった。先輩の歩みがゆっくりになる。
「ならばその時は、また浴衣を着て来い」
 おもむろに、先輩が言った。
 私は立ち止まった。思わず、足を止めていた。アスファルトに響いていた下駄の音が、湿った空気にすうっと消える。
 先輩は一歩先で立ち止まり、気まずそうな顔でこちらを向いた。
「何だ。何か言いたいことがあるのか」
「いえ……もしかしたらこの浴衣を、気に入っていただけたのかなと思いまして」
 恐る恐る私が口を開けば、先輩の視線がぎくしゃく逸れる。
「気に入るも何もない。ただ、こういう機会でもなければ見られないだろうからな」
「先輩のお望みとあらば、いつでも着て参ります」
「そんなことは頼んでない。たまに見られるくらいがいいんだ」
 無愛想に訳のわからないことを言い放った後、先輩はまた嘆息した。
 それからぼそりとこう言った。
「女が、着る物で様変わりして見えると言うのは、実にその通りだな」
 誉め言葉、だろうか。
 私は慎重に尋ねた。
「今日の私は、様変わりしたように見えましたか、先輩」
「……子供じゃないように見える」
 答えた先輩が、私を睨むように見る。
 その答えは意外なものだった。迎えに来てくれたことと言い、てっきり子供扱いされているのだと思っていた。今が子供じゃないように見えるのなら、普段の私は、先輩の目にどのように映っているのだろう。
「私、いつもは子供っぽいでしょうか」
「そうだな」
「先輩は、どちらの私がお好みに合いますか」
「どちらも、同じくらい扱いに困る」
 相変わらず言葉は優しくない。だけど、心の内はどうなのか。困り果てたような先輩の目が宙を泳ぐのを見つけて、思わず私は笑いを堪える。
 やがて、先輩はじろりと私を見た。
「どうしてその柄にしたんだ」
 私の答えは決まっていた。
「先輩に見ていただきたいと思って、あじさいの柄を選びました」
「かえって、見づらくなるようなことを言うな」
 その割に、しげしげと見入っているような気もするけど。
 どちらにせよ、来年もと思ってもらえたのは嬉しい。瑣末な隠し事の甲斐があったというものだ。
「来年は、もう少しじっくり見ることにする。……花火のついでにな」
 今の先輩は、随分と歯切れの悪い口調をしていた。のぼせてしまったように暑そうな顔。額には汗も滲んでいる。
 私のことを子供だと言うけど、先輩だって大人になり切れないところがあるのかもしれない。主に、私に対する態度では。
 その歯切れの悪さに、何やら隠し事をされた気分で、私はそっと微笑んだ。
 それから辺りを見回して、静かな路地に他の人影がないことを確かめると、切り出してみる。
「先輩、ここなら人気がありませんよ」
「だからどうした」
 幾分かぎょっとしたような先輩に、手の中のガラス瓶を掲げてみせた。
「歩きながらラムネを飲んでも、誰にもお行儀が悪いなんて言われないと思うんです」
 のぼせてしまったのなら、冷たいラムネはちょうどいい。温むまえに飲んでしまうのがいいと、私は思う。
「よろしければ、いかがでしょう。それも先輩の為に買ったものなんです」
 私の言葉に、先輩は答えなかった。
 黙ったままで、私の手の空いている方を取った。それも人気のない夜道だから、なのかもしれない。

 その後、先輩がお行儀の悪い真似をしたかどうかは、私だけが知っている。花火大会の夜の瑣末な隠し事だ。
 ただ、現在私の手元には二つのビー玉がある。透明なガラスの中を覗き込む度に、私は一年先の約束を思い出して、たちまち受験生の気分を取り戻すのだった。
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