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葉月(2)

 ずっと外を歩いてきたせいか目が慣れない。薄暗く見える室内にそっと視線を馳せれば、居間の奥にある台所で二つの人影が見える。先輩と、澄江さんだ。
 コップにお茶を注ぐ音と、抑えた声の会話が微かに聞こえてきて、私は落ち着かない気分になる。何かお手伝いをした方がいいのだろうか。来たばかりでそう申し出るのはかえって失礼に当たるだろうか――。悩んでしまう。
 結局台所へは踏み込めず、私は散々逡巡した挙句、床の上に座ったままでいた。先輩がずっと運んできてくれた旅行鞄を視界の隅に捉え、ぼんやりするふりをしていた。
 ここからは居間と台所、それに奥の畳の部屋がおぼろげに見える。室内には飾り気がなく、シンプルな木造の家具が揃っていて、その点は先輩の部屋によく似ていると思った。でもテレビは置いてあったから、先輩の部屋ほど無機質な印象はない。ベランダの傍にはプランターが二つ並んでいて、マリーゴールドの黄色い花が咲いていた。
 居間と畳の部屋との境目には階上へ続く狭い階段がある。二階があるのは外観からもわかったけど、人の気配はないようだ。澄江さんは一人暮らしなのだろうか。

 しばらくして先輩と澄江さんは、私のいる居間へと戻ってきた。
 コップを載せたお盆を持ってきたのは先輩の方で、お茶と氷の入った見るからに冷たそうなそれを、テーブルの上に静かに置く。私の前に一つ、向かい側に一つ、それから私の前のコップのすぐ隣に一つ。置き終えてから先輩が、ためらわず私の隣に腰を下ろした時、なぜだか奇妙にほっとした。
 テーブルを挟んで向かい側に澄江さんが座った。猫背気味だったけど、足を崩さず座っていた。
「暑い中を歩いてきて、疲れたでしょう。道に迷いはしなかった?」
 澄江さんが尋ねると、姿勢のいい座り方の先輩が、淡々とした声音で応じる。
「いえ、ちっともです。この辺りはいつ来ても、何も変わっていない」
「そうでしょう。相変わらずの、のんびりしたところでねえ」
 品のいい微笑を浮かべ、澄江さんはガラスのコップに手を伸ばした。そして、私が手をつけていないのを見るや、慌てて言葉をかけてくれた。
「どうぞおあがりになって。冷たい物で一休みなさいな」
 それで私も焦りながらいただきますを言って、コップを手に取った。
 ひんやりと冷たいガラスの表面に、早くも汗が滲んでいた。一口飲んだお茶はとても美味しくて、途端に気分がすっとする。荷物も持たずに歩いてきたくせに、意外とくたびれていたのかもしれない。
 だとすると、私の鞄まで運んできた先輩は、さぞ疲れていることだろう。だけど目の端に見た先輩の表情はいつもとあまり変わらない。――いや、いつもよりも穏やかなようにさえ見える。
「若い人たちが来るって言うから、何か用意しておこうと思ったんだけど、何がいいものか全くわからなくってねえ」
 テーブルの下から澄江さんが取り出したのは、籐で編んだ小さなかご。その中には個包装のおせんべいや和菓子がぎっしりと詰まっていた。卓上にそれを置き、澄江さんは私に尋ねる。
「こんなものしかないけれど、よかったら召し上がって。若いお嬢さんなら甘い物は好きでしょう?」
「え、あの……よろしいんですか?」
 私はまだ、どう応じていいのかわからない。すぐに手を出したらはしたないと思われないか心配だった。かと言って遠慮するのも失礼な気がするし――。
「いいから貰っておけ」
 と、横で先輩が口を挟んできた。私より先にかごへと手を伸ばし、中から甘い和菓子ばかり三つほどを選んで、私の手のひらに載せていく。先輩はさすが私の好みを熟知している。
 すぐに私は頭を下げた。先輩に、その次には澄江さんへと。
「ありがとうございます、いただきます」
「ええ、どうぞ」
 にこやかに頷く澄江さんの前で、私は早速きんつばの包装を解いた。視線を向けられているのに照れながらも、そっと一口噛りつく。甘くて、とても美味しかった。
「美味しいです」
 私はようやく笑んで、告げた。澄江さんも笑い返してくれた。
「そう、よかった。若いお嬢さんが来るって聞いていたら、もっとお菓子をたくさん用意していたのにね」
 そう言ってから、冷やかすような視線を先輩の方へと向ける。
「大体ねえ、寛治さんも一言、女の子を連れて行くからと言っておけばいいのに。肝心なことは何も言わないで、ただ『後輩を連れていく』とだけ言うものだから、私はてっきり男の子を連れてくるものだと思って」
 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、先輩がお茶でむせ始めた。
 私はぎょっとしながらも、背中を擦ってあげようとして、片手で要らないと拒まれてしまった。
「言うまでもないことかと思ったんです」
 若干落ち着きを取り戻した先輩が答えると、すかさず澄江さんがやり返した。
「あら、大切なことじゃない。あなたがうちに男の子を連れてくるのと、女の子を連れてくるのでは、全く意味合いが違うでしょう」
 先輩は何も答えない。気まずそうに目を逸らしている。
 私は、いかにも先輩らしいと思った。女の子を旅行へ連れて行くのだと、先輩のような人が正直に説明できるわけがない。
 でも私の為を思うなら、そこはちゃんと言っておいて欲しいとも思った。現れたのが私のような女子高生で、澄江さんもびっくりなさったのではないだろうか。よく快く招き入れてくださったものだ。
「それにしてもねえ。あの人見知りだった寛治さんが、ちゃんと女の子を連れてくるようになるとはね。長生きはしておくものね」
 口ぶりは若々しい澄江さんが、再び私へと視線を戻す。細い瞳は優しく、じっと私を見つめてくる。
 この人はお幾つくらいなのだろう。六十か、七十くらいだろうか。あまり年齢が上の人だと、見た目だけでは判別つきがたい。ただ顔立ちは先輩とはさほど似ていない気がする。似ているのは唇の薄さと、瞳が切れ長であることくらいだ。
 そんなことを考えていたから、
「可愛らしいお嬢さんね」
 澄江さんの言葉が、何を指し示しているのかについて、気がつくのにやや時間がかかった。
 気づいてからどぎまぎした。
「え? い、いえ、そんな、それほどでも……」
 私は否定したいのか、喜んでお礼を言いたいのか全くわからないまま、大急ぎでかぶりを振った。可愛いなんてことはない。滅相もない。だけど澄江さんの目に、せめて無難な、先輩の隣にいても差し支えのない人間であるように映ったなら嬉しい。そういう相手が来ると知らなかったご様子だから、一層そう思った。
「あら、可愛らしいわよ。ねえ?」
 ごくさりげない口調で澄江さんは、先輩へと同意を求める。
「可愛いお嬢さんでなければ、わざわざここになんて連れてきたりはしないでしょう、寛治さん」
「いえ、……どうでしょうか」
 先輩は困り果てた様子で言葉を詰まらせた。俯き加減で視線を彷徨わせているから、私まで照れて目を伏せたくなる。
 いつものことだから肯定してくれなくても構わない。あっさりと一蹴してくれる方がよほどいいのに、言葉に詰まられるとかえって面映い。
 しばらく答えを躊躇い続けていた先輩は、やがておもむろに立ち上がった。
 明らかに慌てふためきながらも、いかにも今思いついたと言うように、
「すみません、雛子に部屋を案内してきます」
 早口で言い出した。
 微かに苦笑いした澄江さんが、頷く。
「ええ、どうぞ。案内するほど広いお家ではないけどね」
 それを聞いて先輩は、素早く置いてあった二つの旅行鞄を掴んだ。そして私に対し、ちらとだけ視線を投げてきた。
 言葉はなく、すぐにそのまま階段を上がり出す。足音も立てずに、静かに上がっていく。床の軋む音だけが高い位置から聞こえてきた。
 今の目配せは、黙ってついてくるように、との合図だろう。私もそういう態度には慣れているので、急いで席を立つ。
「では、ちょっと失礼します」
 澄江さんには一言断ると、愛想のいい承諾を貰えた。
「どうぞごゆっくり。自分の家だと思って、くつろいでちょうだいね」
「ありがとうございます」
 会釈をしてから、私も居間を離れて、階段を上がり始めた。

 狭い階段を、手すりに手を掛けながらゆっくりと進む。先輩の姿は既になく、二階へ辿り着いているようだ。そして私も階段を上がり切った時、頬に潮風が触れた。
 二階にはどうやら二部屋あるようで、今はその両方のドアが開け放たれていた。窓が開いているのか風通しがよく、とても涼しい。私は先輩を捜して右手側の部屋を覗く。
 そこは日当たりのいい部屋だった。六畳ほどの広さの畳敷きで、がっしりした木製の机と大きめの窓が二つ、それに押入れの襖以外は何もなかった。居間と同じく飾り気こそないけれど、生成り色の壁紙が目に優しく、殺風景という印象はない。白いレースのカーテンが風に揺れている。
 その部屋の隅に、先輩は私の旅行鞄を置いた。そしてこちらへ振り向いた。
「お前の部屋はこっちだ」
 機嫌を損ねているような無愛想な口調だった。だけど実際に機嫌を損ねているわけではない。何かを誤魔化す時のよくある態度だ。
 私も先程の、澄江さんとのやり取りなど忘れたふりで応じた。
「はい、わかりました」
 それからふと、先輩の部屋はどこなのだろうと思った。もう片方の部屋だろうか。
「先輩はどちらでお休みになられるんですか」
 戸口から尋ねると、先輩は相変わらずぶっきらぼうに答える。
「俺は向こうだ。書室で寝る」
 廊下を挟んで向かい側の部屋は薄暗かった。木の床が黒ずんで見える部屋はほとんど陽が射し込まず、中がよく見えないけど、壁際に棚が並んでいるらしいのはわかった。あれは――本棚、だろうか。風に乗って微かに古い本の匂いがする。
 私が床張りの部屋を覗き込もうとすると、先輩がその横をすり抜けるように室内へ入る。抱えた自分の鞄は床に置き、すぐに本棚の一つに歩み寄る。私が追って脚を踏み入れた時には、既に数冊の本を手にしていた。
「随分たくさんの本がありますね……」
 室内をぐるりと見回せば、つい溜息が出た。八畳くらいの部屋の壁一面を覆うように本棚が並んでおり、その本棚には隙間なく本が整列していた。慣れない目を凝らして見れば、整列する本はどれもが古く、背表紙の色が変わっているものばかりだ。タイトルと著者名が消えかかっているものまである。
 この部屋には窓が一つしかなかった。それもごく小さく、高い位置にある明かり取りのものだけだった。元々、書室にする為に作られた部屋なのかもしれない。
「そうだな」
 先輩が目の端で私を見て、顎を引く。
「この家は蔵書が豊富だ。ここに入り切らない分が、まだ物置にもある」
「へえ……素敵ですね」
「来る度に読み進めているんだが、全て読了するのは当分先だろうな。数ヶ月は滞在しても退屈しそうにない」
 確かに、この書室にある分量だけでも読破するのは大変なことだろう。私も数ヶ月間、本に囲まれて読書に没頭できる生活をしてみたいものだけど、受験勉強がある以上、それは当面叶いそうにない。
 足の裏に木の床が心地良い。私は本棚をじっくり観察しながら、おとなしい先輩に尋ねた。
「あの、こちらの本は、全て澄江さんが集められたものなんですか?」
 背表紙の状態を見ても相当古いものばかりだとわかる。近年発刊されたものはなさそうだ。となると、昔に買い揃えられてここに置かれたものなのだろう。先輩のおばあさんか、それよりも前の世代の方か。
 私の問いかけに、先輩からの返答はなかった。
「先輩?」
 怪訝に思って顔を上げると、本棚の前で読書に耽る姿が見えた。器用そうな指で古びた本を読み進めていく動作。相変わらず姿勢はよく、わずかに窺える眼差しは真剣そのものだった。すっかり没頭しているようだ。
 鳴海先輩は旅先でも実に先輩らしかった。わざわざ旅行に出てまで読書に夢中にならなくてもいいのに。
 だけど私は嫌な気分にならない。こうして本を読んでいる姿を眺めているだけでも飽きなかった。ページを静かに繰る指先や、真っ直ぐな背筋や、文章を追う目の生真面目さが好きだった。そこに私の入る余地はなく、本ばかりに惹きつけられてちっともこちらを向いてくれない。だけどそういう時の先輩には冷たい印象がなく、私も傍にいて、この穏やかな空気を楽しんでいたい思いに駆られる。

 ふと、部屋の外で床の軋む音がした。階段を上がってくる静かな足音が、ゆっくり慎重に近づいてくる。
 やがて、澄江さんが書室の戸口に顔を覗かせた。室内を一瞥し、先輩が読書を始めているのを見るや苦笑いを浮かべる。それから私に手招きをしたので、私も足音を忍ばせ、一度部屋の外へ出た。
「静かにしてるから、もしかしてと覗きに来てみたの。そうしたら案の定ね」
 囁き程度の声で澄江さんが言う。
「あの子、一旦本を読み始めると夢中になって、誰の声も聞こえなくなっちゃうの」
「はい。存じてます」
 私も笑いながら頷く。
「柄沢さんの前でもそうなのね。何も旅行に来てまで本を読み出すことはないのにねえ。放っておかれて、あなたも退屈でしょう?」
 気を揉んでいるのか、澄江さんはそわそわと尋ねてきた。
「いえ、そんなことはないです。いつもは私も一緒になって本を読んだり、ぼんやりしたりしながら過ごしているんです。だから退屈はしません」
 私はかぶりを振る。
 先輩の傍にいられれば、いつだってそれだけでよかった。さすがに澄江さんに対して、先輩の姿を眺めているのが好きなんです、なんてことは気恥ずかしくて言えなかったけど。
「そう……」
 澄江さんの細い目が、一度ゆっくりと瞬きをした。
 それからふっと微笑んで、
「ねえ、柄沢さん。あなたのこと、お名前でお呼びしても構わない?」
 私は答えに詰まった。もちろん嫌だったわけではないけど、どぎまぎした。先輩のご親戚に名前で呼ばれるなんて、なんとも言いがたい感覚だった。
 たちまち頬が熱くなるのを自覚しつつ、急いで顎を引く。
「はい、あの、喜んで」
「よかった。じゃあ、雛子さん」
 澄江さんは全く躊躇せず、自然に私の名前を読んだ。温かな眼差しを書室にいる先輩のへ向ける。こちらには気づくそぶりもない先輩を、慈しむように優しく見遣る。
「あの子は小さな頃から部屋に閉じこもって、本を読んでばかりいたのよ。姿が見えないと思ったらこの部屋にいて、まだろくに字も読めないうちから本ばかり開いていたの」
 それはとても先輩らしい幼少時代だと思った。先輩の幼い頃の姿は想像できないけど、昔から本が好きだっただろうことは想像するまでもなくわかる。
「だからね、私は……」
 澄江さんが睫毛を伏せた。
「少し、心配していたの。寛治さんはあの子のおじいさんにそっくりで、頑固だし、気が強いし、そのくせ不器用なところもあるでしょう?」
「そうですね。――あの、ちょっとだけですけど」
 全面的に肯定するのも失礼かと思い、私はぼかして答えた。なるほど、先輩は先輩のおじいさんに似ているらしい。
 私の答えを聞き、澄江さんはまた笑った。
「そうでしょう。だから心配していたんだけど……あの子もあの子なりにちゃんと人との関係を築けているみたいで、ほっとしたわ。最近になって、電話をかけてくる時にあなたの名前を口にするようになったから、きっといい話し相手ができたんだと思って」
「私の名前ですか?」
「ええ。柄沢さんっていう、高校時代の後輩がいるって。趣味や感性が似ていて、とても話し易い相手なんだって、寛治さんがそう言っていたの。だから私もそれを聞いた時にはうれしくて。こちらへ一緒にやってくるんだと聞いた時は、その柄沢さんって子に会って、お礼を言わなくちゃと思っていたのよ」
 表情を綻ばせた後で、細く骨ばった肩が小さく竦められた。
「それがまさか、女の子だとは考えもしなかったけども。彼女を連れてくるようになるだなんて、昔からは考えられないほどの大進歩よ」
 くすくすと品よく笑う澄江さん。私は面映さに意味もなく眼鏡をかけ直す。
「ありがとう、雛子さん」
 澄江さんは笑んだまま、不意に言った。
「あのとおりふつつかな孫ですけど、これからもどうぞよろしくね」
 その時の私は、多分驚きに固まった顔をしていただろう。さっき、初めて名前を呼ばれた時と同じように、どぎまぎして落ち着かなくなった。嫌だったからではなく、とてもうれしかったからだ。
「――はい」
 詰まりそうになる声を必死に押し出して、私は答えた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 黙って大きく頷くと、澄江さんはもう一度だけ書室に視線を投げてから、踵を返した。手すりに手を置きつつ、腰の曲がった後ろ姿がゆっくり階段を下りていく。
 私が書室へ戻ると、先輩はまだ読書に没頭していた。私が戻ってきたことも、私と澄江さんの廊下でのやり取りにも気づいていないのかもしれない。
 だから私は黙って、先輩が文章を目で追う姿を眺めていた。ここにある穏やかな空気を心から楽しむことにした。
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