文月(4)
鳴海先輩に指定された喫茶店は、商店街によくあるような落ち着いた雰囲気の店だった。外装も内装もまさに昭和レトロといった感じで、制服を着ていたらちょっと立ち入りにくい大人っぽさもあったけど、幸い今は夏休み中で、今日は私服だった。先輩に会いに行くのだからとおめかしもしていた。おかげで可憐な文学少女とまではいかないまでも、ほんのちょっと背伸びをした高校生、という程度に見えるはずだ。
喫茶店でアイスティーを注文した後、私は先輩に勧められた文庫本を読んだ。一冊を通して読む時間はなさそうだったので、三冊をつまみ食いみたいに冒頭部分だけ読んでみた。どれも私の好みにぴったりと合い、一気に最後まで読んでしまいたくなるほど引き込まれた。
小説だけに限定しても星の数ほど存在しているというのに、鳴海先輩はこうして私の好みに合う本を見つけて、取っておいてくれた。それだけ先輩は本を見る目があるということだ。そして私の好みを熟知しているということでもある。それらがとても嬉しく、私はしばらくの間幸せな読書時間を過ごした。
そして、三冊目に熱中しつつも止め時に迷っていた頃、ようやく先輩が喫茶店に現われた。
私は手持ちのしおりを本に挟み、テーブルを挟んで差し向かいの席に着く先輩を出迎える。先輩はアイスコーヒーを注文すると、少し疲労を感じさせる声で言った。
「待たせたか」
「いいえ、本を読んでいましたから気になりません」
「大槻を追い払うのに手間がかかった。あいつはどこにでもついて来ようとするから面倒だ」
言われて初めて、私は店内にある振り子時計に目をやった。いつの間にか午後四時になろうとしている頃だった。先輩のバイトは午後三時で上がりだと聞いていたから、予定より遅くなったのだろう。
「大槻さんもここへ来たいって言ってたんですか?」
私が問うと、先輩は答える代わりに溜息をつく。いかにも鬱陶しくて困っているという態度だったけど、それは百パーセントの本心ではないだろうと私は思う。先輩は、本当に鬱陶しい相手に対しては容赦なく切り捨てる人だからだ。
そして大槻さんも、先輩のことがとても好きなのだろうなとお会いする度に思っている。仲良く同じ店でバイトをするくらいだから、お二人は本当にいいお友達なのだろう。
「私は、大槻さんならご一緒しても平気ですけど」
微笑ましく思いながら私は言い、すぐに先輩から物好きだと言わんばかりの顔をされる。
「何でわざわざあいつを帯同させる必要がある。いてもどうせうるさいだけだぞ」
「先輩と大槻さんはとても仲がいいから、傍で見ていて、いいなって思います」
「お前の価値観は時々わからんな」
先輩は率直にぼやくと、テーブルの上に重ねて置かれた三冊の文庫本に視線を落とした。それぞれにしおりが挟んであることにも気づいたのだろう。しばらくしてから尋ねてきた。
「読んだか」
「はい」
私は頷き、意気込んでお礼を述べる。
「ありがとうございます、先輩。先輩の見立ては完璧でした。私好みの本ばかりです」
「それはよかったな」
「先輩が私の嗜好を知っていてくれたこと、とっても嬉しいです」
いい本との出会いは、恋にも似ている。
星の数ほど多くの対象から好きになるものを探すには、きっと努力だけでは足りないだろう。引き合う運命があってこそ良書にだって巡りあえる。本日購入した三冊の本はまだ読み切っていないから、運命の相手かどうかまではわからない。だけど今のところは大変いい出会いをしたと思っているし、さしずめ鳴海先輩は、私と本を結びつけてくれたキューピッドだ。
そんなことを考えていたせいで、私は先輩に白い天使の羽が生えてくる想像をして、思わず笑ってしまった。そして先輩にはむっつりと睨まれた。
「なぜ笑う」
「す、すみません。違うんです、これは」
一方、先輩は私の笑いを別の意味合いで解釈したようだった。私が笑うのを止められずにいると、やがて慌てたように、不機嫌そうに弁解された。
「別に、おかしなアピールのつもりはなかった。それに俺がお前の好みを知っているのは当然だろう。そんなのは、大体、他人に自慢できるようなものでもないし、あいつの言うようなつもりなど毛頭ない」
どうやら鳴海先輩は、大槻さんにからかわれたことを引きずっているらしい。私としては、そういうアピールをされたってちっとも構わないどころか、嬉しいくらいだけど。
「大槻め、全く余計なことを……!」
この場にいない人を低く罵ってから、笑いを堪える努力をしていた私にも言う。
「雛子ももう笑うな、こっちがいたたまれない」
「すみません。どうにか、落ち着きました」
まだ笑いの余韻は残っていたけど、先輩が気まずげにしていたので無理やり唇を引き結んでおいた。そうじゃないと先輩は、そのうち『帰る』と言い出しそうだ。
ちょうど注文したアイスコーヒーが運ばれてきたので、鳴海先輩の気持ちも落ち着いたようだった。いつもの淡々とした声に戻る。
「しかし、お前の好みというのもなかなか理解しがたいな」
先輩がすらりとした手を伸ばし、文庫本を一冊拾う。
いつ見ても指が長くて、手のひらが大きい、とてもきれいな手だ。骨ばった手首には使い込んだ革の腕時計が巻きつけられている。夏らしく半袖姿の先輩が腕を晒していると、どうしてもそこに浮き出る血管に目が行く。痩せぎすの先輩は腕だってまるで無駄のない細さをしていたけど、それでも間違いなく男の人の腕だと思う。
ふと、先月の雨の日の出来事を思い出し、私は急にどぎまぎしてきた。あの腕に抱き締められた記憶と、その後に続いた思いがけない甘い時間は、この一ヶ月で何度も反芻してきたとても貴重な宝物だった。
だけど先輩は私の胸中など知るよしもなく、あくまで平坦な調子で語を続ける。
「こういう話を読んで、都合がよすぎると思うことはないのか? 世の中、そんなにいいことばかりあるわけではないと俺は思うが」
私と先輩は本の好みも違う。私が喜んで読むような、ハッピーエンドが約束された優しい物語を、先輩はあまり好ましく思っていないようだった。先輩が愛読している作家の物語はほとんどが薄暗く、重い現実が切々と迫ってくるようなものばかりで、私は苦手だとまではいかないけど、あんまり立て続けに読むと読了後もしばらく沈鬱な気分を引きずってしまう。甘いものと辛いものを、三対一くらいの割合で読むのがちょうどいい、と私は思う。
「物語の中くらいは、都合がよすぎたっていいと思います。つくりものですから」
私が答えると、先輩は本を戻して眉を顰めた。
「つくりものであっても、物語の中に描かれるのは人生だ。それはただ一人、その人生を割り当てられた当人だけのものであるべきだ。だというのに、ご都合主義というやつはその人生に誰か他者の意思が介入したように思わせるから、俺は好きではない」
ハッピーエンドの物語の全てがご都合主義ではないだろうし、私は先程述べた通り、都合がよすぎる話でも幸せな結末でさえあれば一向に構わない。そこはまさしく好みの問題であり、互いの主張をぶつけ合ったところで隔たりがそうたやすく埋まるものではない。
ただ、私は先輩の今の言葉を受け入れるまではいかなくとも、感じ入るものが確かにあった。
物語には人生が描かれる。誰一人として同じものはない、それぞれに与えられた人生が。
「先輩も、物語の中に人生を描こうとしているんですね」
私は先輩の書く物語をいくつも、いくつも読んできている。それらは全て、架空の登場人物がつくりものの人生を背負う物語だった。だけど先輩が硬質な筆致で描くその世界には、突飛な展開も奇を衒った設定も存在しない。あるのは人生に起こりうる現実的な出来事と、あくまでも現実的な顛末だった。そんなありふれた物語を美しくも静謐な感性で描くのが、鳴海先輩の作風だった。
あれが先輩の思う、ただ一人、その人の為だけの人生――私が感銘を受けるのを、鳴海先輩は例によって冷静に見下ろしている。
「そうだな」
「その考え方はとても素敵ですね」
「どこが。当たり前のことを言ったまでだ」
よくわからないそぶりで先輩は首を竦めた。そしてコーヒーを一口飲んでから、不意に何か思いついた様子で私を見た。
先輩の双眸はいつでも鋭く、目が合うと射抜かれたような感覚さえ過ぎる。だけど今、喫茶店の温かみのある照明の中では、黒々とした瞳に光がたゆたい、まるで宇宙を覗き込んでいるように思えた。静かで、美しくて、ただただ広い世界がその向こうにはあるような気がした。
「この世が、自分だけのものではないと気づいた時のことを覚えているか」
私を見つめながら先輩は言った。
ぼんやりしていた頭には、なかなか難しい問いかけだった。
「えっ、自分だけのもの……ですか。そもそもそんなふうに思ったことがないような……」
「多かれ少なかれ誰にでもあるはずだ。幼少期の、他者認識の過程でだ」
「ええと……」
もっと難しくなった。戸惑う私に、先輩は言い含めるようにして続ける。
「この世界は自分の為のものではなく、自分の思う通りには動かない。自分以外の人間もただの書き割りではなく、各々が独立した思考を有している。当然、自分の思い通りにはならないし、逆も然りだ。誰もがそれを、成長する過程で知り、身をもって学ぶ」
それは恐らく、生まれたばかりの頃まで辿って考えなければならない話なのだろう。
物心ついた時、私の傍には両親と、そして兄がいた。両親は小さな私には甘かったけど、兄はそうでもなく、おもちゃや絵本の取り合いで随分と揉めた覚えがある。でも私も兄との触れ合いによって、自分とは違う思考を持った他者を認識し始めたのかもしれない。
そして幼稚園に入った私は友達を作るようになり、そこでもいくつかの小規模な諍いがあったり、いくつかの交友を結んだりした。小学校、中学、高校と進学していくにつれ、私は多くの人と出会い、別れ、親しくしたり疎遠になったりしながらここまでやってきた。今までに出会った人たち全てにそれぞれ独立した思考があり、そして人生がある――この歳になってみれば言うまでもない当たり前のことだけど、それが想像できなかった年頃というのもあったのだ。
「俺はそれを、本から学んだ」
先輩は特に感情を込めずに言った。
「人それぞれに違う人生があることを、本を読み、その物語から学んだ」
呆気に取られる私に、先輩はわずかにだけ表情を和らげる。
「それからだ。俺のものではない、誰かの人生を形にしてみたいと思うようになったのは」
私は今、素晴らしい瞬間に立ち会っている。
鳴海先輩が、その創作の原点である瞬間について語っている。それはきっと私がねだってみせたところで進んで教えてくれそうではない話だ。ましてその始まりが、先輩からは聞き出すことができそうにない子供時代にあったというなら尚更だった。
先輩がどうしてこの話を、今ここでしてくれたのかはわからない。でも興味は大いにあったし、この時を逃したらもう聞かせてもらえない気もしたので、私は一字一句聞き漏らすまいと身を乗り出した。
「どうして、形にしてみたいと思ったんですか」
この問いは直球すぎたかもしれない。先輩が素早く瞬きをして、小さく息をつく。
「大した理由はない。お前はどうなんだ、雛子」
「私ですか? 私は……文芸部に入って初めて、書いてみようと思ったくらいです」
元々本を読むのは好きだったし、本の感想を書くのも好きだった。だからもし、自分自身で自分好みの物語を作れたら素敵だろうと思った。動機はごく他愛ない。
だけど実際に、感想や作文などではなく、全くの創作で原稿用紙を埋めるのはとても骨の折れる作業だった。つくりものだと簡単に言っても、一から物語を作り上げるのは熱意も、根気も、時間も必要だった。文芸部に入部したての頃は何度か挫折しかけて、数行綴っただけの物語にもなれない文章の切れ端がたくさんできあがった。もし文芸部に鳴海先輩がいなければ、私は熱意を保てずに根気を失い、部活動を続けられなくなっていたかもしれない。
「でも、拙いながらも続けてくることができたのは、先輩がいたからだと思います。先輩に読んでもらえて、先輩の書いたものを読ませてもらえる機会があったから……理由は本当に、その程度です」
私は正直に打ち明けた。もちろん、先輩には『くだらないことを』と一笑に付される覚悟もできていた。私の乏しくも平坦な人生経験では、先輩に感銘を与えることなどできるはずがない。
ところが、意外にも先輩は笑わなかった。
むしろもっともだというように尖った顎を引き、言葉を継いだ。
「俺も似たようなものだ。誰かに、話を聞いてもらいたいと思った」
そしてこの時だけは、繊細な少年のような顔つきをしていた。
「話せないのならせめて、誰かに読んでもらいたいと思った。本当に、それだけだ」
先輩は、私には測り知れないくらい、寂しい時間を過ごしてきた人なのだと思う。
私は先輩が背負ってきた、先輩だけの人生の全てをまだ教えてもらってはいない。知らないままだけど、この瞬間は一つだけ願った。
鳴海先輩の物語は、ハッピーエンドであって欲しい。
それがどんなにご都合主義でもいい。誰か、目に見えない何者かの力が介入したって構わない。先輩にはこれから、片時も寂しさが胸を過ぎらないような幸せな結末を迎えて欲しい。
そしてもし叶うなら、私は、私に割り当てられたちっぽけできっとありふれているであろう人生を賭けて、先輩がハッピーエンドに辿り着く為の手助けをしたい。もっと望んでもいいなら、私が先輩を幸せにしたい。
不意に、だけどとても強く、そう思った。
私の決意を後押しするように、その時、店内の振り子時計が大きな音を鳴らした。四回だった。
普段通りの仏頂面を取り戻した先輩が、そういえばと口を開く。
「来月の、旅行の話だが」
「え? は、はい」
いきなり話が飛んだ。私の胸のうちで幕を開けた壮大になるかもしれない物語は、いきなり現実的なときめきに取って代わられた。電話ではなく面と向かってその話をされると、何だかどきどきしてくる。
「行き先が決まった。宿泊先は俺の、親戚の家だ」
「えっ……」
そして先輩の言葉によって、現実的なときめきは一層リアルな緊張感へと変化を遂げる。
鳴海先輩のご親戚、ということは。
「あの、もしかしてそれって、ご挨拶に行くということじゃ……」
私が恐る恐る聞いたからだろう、先輩もどこか焦りの色を見せた。
「馬鹿、誤解をするな。宿泊費が浮くから都合がいいというだけだ」
「そ、そういうことですか。なんだ、びっくりしました」
「それにお前を連れて行くなら、おかしなところには泊められまい」
生真面目そうな口調で先輩は言い、まるで私を叱るように睨む。
だけど私は泊まりがけの旅行に今更後ろめたさがあるわけでもないので、堂々としていることにした。代わりに大切なことを確認しておく。
「そちらに泊めていただいて、ご迷惑じゃないでしょうか」
「迷惑なら端から話を進めてない。お前が気にすることは何もないから、せいぜい気楽に過ごせ」
「そうですか……。あ、手土産とか持参した方がいいですか?」
「それも要らない。余計な気を遣うとかえって迷惑だ、身の回りの品だけ持ってこい」
話を聞いていると、件のご親戚というのが鳴海先輩にそっくりな人かもしれない、という心配が湧き起こる。本当にご厚意に甘えて大丈夫なのだろうか。最低限、挨拶はちゃんとできるようにしておかなければと思う。
「では先輩、交通費がどのくらいかかるか、ざっとでいいので教えてください」
「必要ない。俺が払う」
切り捨てるように断言された。思わず私は息を呑む。
「だ……駄目ですよそんなの、自分で払いますから」
「いやいい。こういうのは大人が支払うものだ」
「そんな、大人とか子供とか関係ないですよ。私が行きたいって言い出したんですし……」
そもそも二歳しか違わないのに子供扱いされるのも不満がある。一昨年までは同じように制服を着て、東高校に通っていたというのに。
でも先輩は言う。
「俺が何の為にアルバイトを始めたと思ってる」
それで私は――よく先輩にも『勘が鈍い』と評される私は、先輩が唐突にバイトを始めた理由についてようやく思い当たり、遅まきながら申し訳ない気持ちになった。
「先輩……」
「お前を連れ出すからには責任があるからな。そのくらいの義理は果たすべきだろう」
そう言った後で先輩は目の端で私を見て、少しうろたえた様子だった。即座に噛みつかれた。
「何だ、そのしおらしい顔は。柄でもない! この間まではわがままばかり言っていたくせに」
だって、まさか、鳴海先輩がそこまで深く考えているとは思わなかったから。
やっぱり私はまだ幼いのだろうか。考えが浅はかで、感情に任せるところもあって、そしてわがままばかり言って先輩を困らせて……こんなことで本当に、先輩を幸せにできるような人間になれるだろうか。
「気に障るとは言ってない」
心のうちを読んだようなタイミングで先輩が呟く。
それでも何とも思わずにはいられない。私は頭の下がる思いで先輩に告げた。
「ありがとうございます、先輩。私、今からすごく旅行が楽しみです」
「そうか」
先輩はそれだけの相槌さえ唸るように言った。そして次の言葉は、絞り出すように続ける。
「お前が聞かないからあえて俺から言うが、泊まるのは別々の部屋だ」
「えっ、……あ、そうなんですか」
「……こういうことを全く気にも留めないお前の神経もどうかしている。先に聞くだろう、普通」
思いっきり目を逸らした上で先輩がぼやいた。
おかげで、私が少しばかりがっかりしていたことには気づかれなかったようだ。この子供扱いが妥当なのかそうでないのかは、どうせ論じ合ったところで本の嗜好以上に平行線を辿る議題だろう。
どちらにしても先輩と二人で旅行に行けるのだし、それ自体はとても楽しみだった。
先輩のご親戚という人がどのような方々かは気になるものの――もしかしたら私の知らない先輩を見られるかもしれない。そんな期待も確かにあった。
来月が来るのが今から待ち遠しくて仕方ない。できればそのエピソードの結末だって、ハッピーエンドがいい。