文月(2)
数日後、私は教えて貰った先輩のアルバイト先へと出かけた。いつも通学に利用している駅を出ると、たちまち午後の焼け焦げるような日差しが降り注いでくる。帽子を被ってくるんだったと思っても後の祭りで、私は影踏み鬼のように日陰だけを辿りながら駅前のアーケード街を通り抜ける。
どこもかしこも時代を感じさせる、年季の入った店ばかりが揃った町並みの中で、件の古書店は雑居ビルと二階建ての洋品店の間に挟まれるようにして建っていた。
隣がビルだからというのを差し引いても、一見して小さく、寂れた佇まいをしていた。店名の記されたガラス戸は開けっ放しで、道路を挟んで向かい側に立っていても古い書籍の匂いが感じ取れるようだった。本でいっぱいのスチール棚が店内からはみ出し、歩道を侵食している。雑然とした店構えから、店内の様子も容易に想像できた。
温い風が吹き込むアーケードの下に立ち、私はハンカチで額の汗を押さえる。そして先輩との約束通り、道路越しにその古書店を観察していた。
先輩が電話で言っていたように、ほとんどお客さんの来ないお店のようだった。
少なくとも私が見守っていた三十分間のうち、店を訪ねてきた人間は皆無だった。
それだけならまだいい。先輩との約束を守ろうとしていた私を困惑させたのは、この三十分のうち、古書店自体に何の動きも見られないことだった。例えば店員さんが中から出てきたり、ずっと開け放たれたままの戸口の向こうで人影が動いたりということもないようだった。まるでお店の中に誰もいないみたいだ。
もしかするとお昼休憩の時間なんだろうか。三十分待ってみて、私の頭にはようやくそんな考えがひらめいた。
時計を確かめてみると、時刻は午後一時半を過ぎたところだった。それなら休憩時間中だという可能性もなくはないだろう。だけどそうだとすれば、一体あとどれほど待てば先輩の勤労青年ぶりをお目にかかれるのか。晴天の真夏日に戸外で立ち尽くす私は、既に喉の渇きを覚えていた。帽子も忘れてきたことだし、このまま待ちぼうけていたらろくなことにならない。
迷った末、私は先輩との約束をほんのちょっとだけ破ってみることにした。つまり、お店に近づき店内をこっそり、覗いてみようという魂胆だ。もし鳴海先輩の姿がなければ恐らく休憩中だろうということで、また時間を置いてやってくればいい。もし先輩の姿があったなら、気づかれない程度の距離から観察してみよう――そう思い、私は道路を渡って古書店の前まで移動した。
店のすぐ傍まで近づくと、古い本の郷愁的な匂いはより強くなる。風が吹く度にスチール棚に貼られた『どれでも一冊百円』という張り紙が揺れ、忍び歩きの私を警戒するような音を立てる。日差しの強い午後の時間帯にあって、敷居の向こうは本棚が作る影のせいで薄暗い空間となっていた。中はよく見えない。
夏の眩しい日光に晒され続けたからか、暗さに目が慣れていないようだ。それでも凝らして、レンズ越しに店内を見遣る。そこに誰かいないか、人影はないかと思って――。
「わかったって! 今やる、今からやるから!」
その時、男性の声が店の中から響いた。
店内の奥の方で人の気配が動く。さっきまでの静寂が嘘のように、早口気味の声とがたがたいう物音とで一気に賑やかになる。
「何言ってんの、サボりじゃないよ人聞きの悪い! ちょっとメールしてただけだって!」
この声には覚えがある。鳴海先輩の大学のご友人、大槻さんの声だ。
「仕事中に電話を弄るな! 全く、静かにしていると思えばこれだ!」
それを追うように響いた怒声は、間違いようもない、鳴海先輩のものだった。
思わず立ちすくむ私の耳に、古書店には似つかわしくない二人のやり取りが次々聞こえてくる。
「いや、だってお客さん来ないしさ、ちょっとくらいならいいかななんて……」
「そういうことは休憩中に済ませておけ! そしてお前の休憩はもう終わっているはずだ!」
「あ、そうそう! 鳴海くんは休憩中じゃん、ほらほら早く中に戻ってほら!」
「誰のせいでゆっくり休めないと思ってる!」
七月の暑い最中だというのに、鳴海先輩はフルパワーで怒っている。
一方、大槻さんも弁解したり宥めたりと必死のようで、そのうちどうにか鳴海先輩を休憩へ戻らせることに成功したようだ。
「じゃあ俺、外の本棚整理してくるから!」
大槻さんが店の奥に向かって叫ぶと、またがたがたいう物音が聞こえてきた。
店内を覗き込んでいた私は慌てて戸口を離れようとしたけど、さすがに反応が遅すぎた。薄暗がりの中から浮かび上がるように現われた大槻さんは、外へ出る前に私を見つけ、目を丸くした。
「あれ、雛子ちゃん?」
「あっ……こ、こんにちは」
慌てて挨拶をする。
デニム地のエプロンを着けた大槻さんは、本がぎっしり詰まった透明なプラスチックケースを抱え直してにっこり笑んだ。
「こんにちは。もしかして、鳴海くんの様子見にきた?」
「ええと、一応、そうなんです」
先輩との約束がある手前、どうしても曖昧な答え方になってしまう。店の前まで来たと知ったら、先輩は機嫌を損ねるだろうか。いや、それよりもこうして大槻さんと鉢合わせた時点でもう、後から何事か言われそうだけど。
「やっぱりね! 一回は来てくれるんじゃないかって思ってたよ」
なぜか大槻さんは堪らなく嬉しそうな顔をした。そして両手が塞がっているからか、視線で店内を指し示し、私に入るよう促してくる。
「とりあえず中入ったら? 鳴海くんは今休憩中だけど、呼んであげるから」
「い、いえ、お構いなく。外から覗くだけのつもりだったので」
私が両手を振ると、いかにも怪訝そうにされた。
「え? 何で? どうせ他のお客も来ないし遠慮することないよ、寄ってきなよ」
「違うんです。鳴海先輩が、仕事の邪魔になるから視界に入るなって……」
事情を正直に打ち明ける。
途端、大槻さんが脱力したように肩を落とす。
「それは彼女に言っていい台詞じゃないだろ……。相変わらずだなあ、鳴海くんは」
「でも、私も先輩の邪魔はしたくないですし、遠目に見るだけって約束してますから」
恐らく先輩にとっては初めてのアルバイトなのだろうし、責任感が強い人だから、立派にやり遂げようと思っているに違いない。邪魔をされたくないという気持ちはわからなくもなかった。
できれば『気が散るから』とか『集中できないから』とか、もう少し違う言い方をして欲しいところだったけど、それも含めて鳴海先輩だ。気になるほどじゃない。
「そして雛子ちゃんも、相変わらずけなげだねえ」
大槻さんが苦笑している。
その言葉が事実かどうかは怪しい。ちょうど先日、先輩にはわがままだと評されたばかりだったので、私も軽く笑うだけに留めた。それから逆に尋ねてみた。
「ところで大槻さんも、もしかしてこちらでアルバイトですか?」
先程のやり取り、そして抱えているケースを見るに、そうなのだろう。すぐに大槻さんが頷いた。
「鳴海くんと一緒にバイトしようってことになってさ。お互い夏休みともなれば、何かとお金がいるしね」
「そうだったんですか」
相変わらずと言うなら、肝心なくだりを説明しておいてくれないのも鳴海先輩だ。私にとって知らない人でもないのだし、大槻さんが一緒だということくらい、前もって話してくれていてもいいと思う。もしかしたらお友達と仲良くバイトをするということに照れていたのかもしれないけど。
「古本屋のバイトって言うからさ、接客と陳列くらいのものかと思ってたら、案外と肉体労働で参ったよ」
笑いながらぼやく大槻さんの顔には汗が滲んでいる。ずっと抱えていたケースを地面に下ろすと、深く息をついた。
「暑いのに、大変ですね」
本は意外と重いものだし、こうしてケースに詰めて運ぶとなれば更に重労働だろう。大槻さんは鳴海先輩より小柄だけど貧弱という印象はちっともないから、そのくたびれた様子から勤務内容の大変さが伝わってきた。
先輩もきっと大変だろうなと思う。身体を壊したりしなければいいけど。
「まあね。俺は別に本好きでもないし、こうして働いてると本がただの鉛の塊に見えてくるよ」
大槻さんは嘆くように言い、その後で店内をちらっと見やる。
「誰かさんは割かし楽しそうにやってるけどさ……趣味と実益を兼ねてるからね」
「先輩、本が大好きですから」
「本当だね。バイト代貰ったら買って帰るって、今から何冊も取り置きしてるんだよ」
どうやら鳴海先輩はアルバイトを楽しめているらしい。そのことにはほっとする。
先輩の楽しそうな働きぶりが見られなかったのは残念だけど、充実したお仕事ができているなら何よりだ。そうとわかっただけでも収穫だった。あとはバイトの契約期間が終わってから、ご本人にじっくりお話を聞くことにしよう。
「じゃあ私、そろそろ失礼しますね。お話聞かせてくださってありがとうございました」
お暇をしようと、私は大槻さんに頭を下げる。
「もう帰っちゃうの? 彼氏に顔も見せないで?」
即座にそう尋ねられたけど、せっかく先輩が頑張っているのに邪魔をするのは嫌だった。それに、これ以上の長居は大槻さんにだって迷惑がかかるだろう。後ろ髪引かれる思いもあるにはあるけど、次の機会がないというわけでもないはずだ。そのうちまた、先輩に許可を貰ってみよう。
「先輩の邪魔をしないって約束だったんです。だからこれで……」
言いながら立ち去ろうとする私の肩を、大槻さんが軽く掴んだ。
「いいからいいから。入ってきなって」
「え、でも……」
「邪魔って言っても要は、可愛い彼女が傍にいると気が散るとか、集中できないとかって意味だろ?」
大槻さんは何もかも心得ている、という顔で語る。にやっと笑んで、
「それは雛子ちゃんのせいじゃない、鳴海くんに邪念があるってことだ」
「……邪念とまでは、いかないかもしれないですけど」
鳴海先輩に邪な感情があるかどうかはいざ知らず、そして私が実際に可愛い彼女かどうかもともかくとして、大槻さんの言うことは概ね間違っていないのだと思う。私がいれば先輩は気が散るのだろうし、仕事にも集中できないのだろう。
「それに、どんなお客様が来たって対応しなきゃなんないのが店員ってやつだから」
言いながら、大槻さんは私の肩をぐいと引く。私が一歩踏み出すと、途端に背後へ回り込んできて、店内に押し込もうとする。
「はい、じゃあお客様、店内にご案内いたしまーす!」
「えっ、あの、やっぱりいいですよ、先輩に――」
「平気平気。可愛いお客様相手にいちいちうろたえてんな、って言ってやればいいよ!」
二重の意味で、そんなこと言えるはずがない。
だけどまごまごしているうち、大槻さんは私を店内へと運び入れてしまった。
古書店の中は思いのほか涼しかった。
本棚は店内に置けるだけ並べられていて、その隙間の通路は人ひとり通るのがやっとだ。ショッピングセンターにあるような大型書店とは違い、天井も低ければ本棚の背もそれほど高くない。ただ店内には窓がなく、照明も古民家のような電球がぽつぽつとあるだけだから、慣れない目にはほんのり薄暗く感じられた。
お店の奥には小さなレジカウンターがある。銭湯の番台みたいに一段高いところにあるカウンターは、卓上にも傍の壁面にもメモ用紙がびっしり貼りつけられていて、まるでこの店の本棚と同じように雑然としていた。
そしてカウンターの更に奥にはどこかへ通じる戸口があり、四角い入り口を仕切る為に薄紫ののれんがかけられている。のれんは絶えずどこからか吹いてくる風に揺れていて、風通しがいいおかげで店内は居心地がよく感じられた。古いインクと紙の匂いに混じって、そこはかとなく夏の匂いがする。
私が慣れない目を凝らしている間に、大槻さんはカウンターの奥に潜り込み、のれんの向こうへ叫んだ。
「鳴海くーん、可愛いお客様が来てるよー!」
「……叫ばなくても聞こえる」
向こう側では先輩の声がした。
はっと背筋を伸ばす私の前で、のれんがさっと引かれた。
さすがに先輩の姿は、目を凝らす必要もなくすぐに認識できた。大槻さんと同じようにエプロンを着け、そしていつも通りの不機嫌顔で現われた先輩は、店内に立つ私を見下ろすと眉根を寄せた。
「客で来いと言った覚えはないが」
「すみません……。ご迷惑なら、すぐ帰ります」
私の言葉に鳴海先輩は止めるそぶりもなかったけど、大槻さんは素早く食いついた。
「そんな怖い顔するなよ、彼女相手に! わざわざ来てもらったたんだろ?」
それで先輩は大槻さんをじろりと睨む。
「大槻。外の本棚の整理はもう終わったのか」
たちまちのうちに大槻さんが慌て始めた。
「あ! いや、これからやりますけど!」
「さっさとやれ。とっくに終わっていてもいいくらいの時間だぞ」
「はーい。じゃあ雛子ちゃん、遠慮なくゆっくりしてって。俺もすぐ戻るから」
そう言い残して、大槻さんはあたふたとお店を出ていく。
私は頭を下げてそれを見送ってから、やむを得ず、こわごわと先輩に視線を戻す。
鳴海先輩はまだ仏頂面だ。
「こちらにわからないようにする、という約束じゃなかったか、雛子」
そのご指摘はもっともなので、私は平謝りするしかない。
「本当にすみません。先輩のお邪魔をするつもりはなかったのですが……」
「当たり前だ。説教をする時間も惜しいからこれ以上は言わんが、わかっているな?」
「はい……」
帰れということだろう。察した私はすごすごと引き下がろうとして、
「本を見ていくなら好きにしろ。うるさくするようなら追い出すぞ」
呼び止めるような先輩の言葉に、反射的に面を上げた。
私の反応が珍しく機敏だったからか、鳴海先輩は驚いたようだった。うろんげにしながらも続ける。
「客で来たということなら、そうむげにもできまい」
「い、いいんですか? 私がいたらお邪魔なんじゃ……」
「来ておいて今更何を言う」
先輩はそう言うと、どこか忌々しげに続けた。
「それに、ここでお前を帰したら大槻が喧しいからな」
思わぬ形で許可を得られて、私は若干戸惑っていた。まさか先輩の仕事ぶりを、こんなに間近で見せてもらえることになるなんて。本当にいいのだろうか。
だけどもちろん嬉しかったから、お礼は忘れずに告げた。
「ありがとうございます、先輩」
先輩は何も答えず、にこりともしないまま店内へと下りた。