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皐月(2)

 修学旅行から帰ってきた翌日、私はやはり鳴海先輩に電話をかけた。
 今回はちゃんと用があっての連絡なので、すぐに切られる心配もない。
「……というわけで、無事に戻って参りました」
『わざわざ報告か。しろと言った覚えはないが』
 先輩は呆れた口調ながらも、いつぞやのように即刻『切るぞ』とは言わなかった。
 それどころか帰ってきたばかりの私をあれこれと気遣ってくれた。
『旅行中は意外と疲労が溜まっているものだ。今のうちに身体を休めておけ』
「はい、そうします」
『向こうは寒かっただろう。風邪を引かなかったか?』
「大丈夫です。でも本当に寒かったですね、五月なのに風が冷たくって」
『気候が違うんだからもっと厚着をしていくべきだったな』
 そう言って先輩は少し笑った。
 向こうで想像していた通りだ、と私もこっそり笑っておく。
「ところで先輩、私、お土産を買ってきたんです」
 報告が一段落した辺りで、私は本日の電話の用件を告げた。
『土産だと? 余計な気を回すなといつも言っていたつもりだったが……』
 これについても先輩の反応は予想の範囲内だった。だから私は、事前にどんなお土産がいいのかを聞いておかなかった。聞こうものなら先輩は、土産は要らない買ってこなくていいの一点張りだろうからだ。
「もう買ってきてしまいました。そのうちに持っていきますね」
 私の言葉に先輩は舌打ちまでしてみせる。
『先月も言ったがもう一度言うぞ。いいか、お前が俺の為に散財する必要は全くない』
「買いたいから買ってきただけです。いけませんか?」
『小遣いの浪費だ、そして無駄な行動だ。一体何を買った?』
 散々な非難をされながらも、私は自室の隅に置いた大きめの紙袋に目をやる。中身は北海道銘菓だ。
「お菓子です。お土産屋さんによると観光客にとても評判のいい、美味しい品だそうです」
『なら、お前が一人で食べてしまうといい。よく食べるのも養生のうちだ』
 鳴海先輩は素っ気なく応じた。
 先輩はお菓子の類をほとんど食べない人だ。特に甘い物は私に付き合ってほんの少し口にする程度で、私がいなければお目にかかる機会すらないと言っていた。
 ではなぜ、先輩へのお土産にお菓子を選んだのかと言うと――先月も誕生日のプレゼントで散々頭を悩ませたけど、鳴海先輩は食べ物以外についても非常に好みのうるさい人だった。観光地のストラップやキーホルダーなどを買っていったところで喜ばれないのは目に見えている。先輩が暮らすあのモノトーンの部屋にだって観光地仕様のお土産はそぐわない。
 それならまだお菓子の方が、一緒に食べましょうと誘って会いに行く口実にもなる。食べながら旅の思い出を話すこともできる。
「箱で買ってきたので、私一人では多すぎます。先輩、是非一緒に食べてください」
『何を言う。お前は甘い物なら胸焼けも起こさず、際限なく食べるじゃないか』
「そ、そんなには……際限ないほどは食べてないつもりでしたけど」
『食べているから言うんだ。そのくせ後になってから最近太っただのダイエットだの言い出すから俺には理解できん』
 まさに一刀両断だった。
 先輩の言うことは正論だけど、正論をぶつけられてもそうそう納得できるわけがない。甘い物を好むのは十代の女の子なら珍しくもない特徴だし、その特徴を捨てきれない私くらいの年頃の子は程度の差こそあれ、青春期間のうち一度はダイエットに勤しむものだ。私は根っからの文化系人間の為、何もせず甘い物を好んでいるとそれこそ際限なく体重が増えてしまう。いつでもすらりとしている先輩の隣に立つならば、時々はダイエットを心がけなくてはならないと思っているし、実際に何度か実行してもいる。成果の程はともかくとして。
 そういった乙女心を先輩は理解してくれない。それどころか私にダイエットは必要ないとさえ考えているようで、何度かそれらしいことを言われた。その言葉が本音なのか、私への優しさなのかはまだわからない。
「私が食べすぎて後悔しないよう、一緒に食べていただく、というのは駄目ですか」
 持ちかけてみると、先輩は根負けした様子で溜息をつく。
『先に言っておくが、俺は戦力にはならんぞ。せいぜい一つ二つ食べられたらいい方だ』
「構いません。日持ちのするお菓子を選びましたし」
 私は見えもしないのに頷くと、駄目押しのつもりで言い添えた。
「それに私、先輩にお茶を入れてもらってお菓子を食べるのが好きなんです」
 すると先輩は、また笑ったようだった。次の言葉は不思議と機嫌よく聞こえた。
『物好きな奴だ。……わかった、そのうちに持ってくるといい』
「ありがとうございます、先輩」
 いつものことながら、結論に辿り着くまでの押し問答がおかしくてしょうがない。先輩は食い下がる私の相手を面倒だと思ったりしないのだろうか。それともまさか、鳴海先輩もこのやり取りにある種の楽しさを覚えていたりするのだろうか。
 私が笑いを噛み殺しているのを察知でもしたか、すぐに先輩が釘を刺してきた。
『ただし、もう少し先の話だ。今は疲れもあるだろうし、黙って養生に努めろ』
 その勧めには残念ながら従わざるを得ない。元々それを見越して、賞味期限の長いお菓子をお土産として購入してきた。
 もっともそれは鳴海先輩に言われたからではなく、両親に言われたからだった。私の両親は十代の娘を持つ親としては珍しくない程度の心配性で、修学旅行帰りの娘が体調を崩さぬよう、当面は遊びに行くのを止めておくようにと言い渡してきた。だからしばらくは先輩に会いに行くこともできそうにない。それはそれで仕方がないと思っている。
 ただ私は、両親の心配性に関しては不満を唱えたい部分もある。門限が早すぎるのと、私に彼氏がいるかどうかやたらと詮索をするのは止めてほしい。特に後者は、いると正直に言えば言ったで根掘り葉掘り聞き出そうとするのだろうし、父は確実にショックを受けるだろうから言いにくい。鳴海先輩のことだっていつかは打ち明けるつもりでいるけど、今はまだ気恥ずかしさの方が先立って、話せそうになかった。
『では、そろそろ切るぞ。お前もちゃんと油断せず休めよ』
「あ、先輩」
 電話を切ろうとする先輩を私は呼び止め、
「はがき、届きました?」
 そう尋ねてしまってから、送ったのが昨日、そして北海道からだったのを思い出す。同じ市内からならともかく、どう考えても届いているはずがない。
『はがき? いや、今日は届いていない』
 先輩が訝しそうにするので、私は慌てて続けた。
「まだ届かなくて当然だと思います。北海道にいる時、ポストカードを送ってみたんです」
『変わったことをするな、お前も』
「これもいい旅の思い出です。届いたら知らせてくださいね、先輩」
『わかった。届くのを楽しみにしておく』
 もっと冷たい反応をされるんじゃないかと思ったけど、この件に関しては浪費だ無駄だと言うこともなく、先輩はそう言い残して電話を切った。
 届いてみたら、何と言われるかは想像がつく。
 でも、少しくらいはうろたえてくれればいいなと思っている。

 私が先輩に思いを馳せながら自宅での養生に努めていたのと同時期、私の兄が実家である我が家へと戻ってきていた。
 兄は私より五つ年上で、今年度社会人になったばかりだ。職種は小売業で、この手の仕事は暦通りの休みなどないものらしく、兄は社会人になって初めてのゴールデンウィークを帰省もできずにひたすら働き続けて過ごした。そして五月の終わりになってようやくまとまった休みを貰い、初めての帰省を敢行したとのことだった。
 そんな時期の里帰りでは同期の友人たちと休みが合うはずもなく、うちの両親ですら仕事に出払ってしまって兄を思うようには構えなかった。そんなわけで必然的に、兄の相手は養生中の私が努めることになった。
「ヒナ、これの続き貸して」
 短いノックの後で、兄が文庫本片手に私の部屋に入ってくる。どうやら退屈しのぎにと貸してあげた本を読みきってしまったようだった。
 私も机に頬杖をついて読書をしていたところだった。すぐに振り向き答えた。
「いいよ、勝手に持ってって」
 それで兄はのそのそと私の本棚の前に立ち、眉間に皺を寄せながら目的の本を探そうとする。だけどしばらくしてから声を上げた。
「あれ、続きないぞ。ここで終わってる」
「そう?」
 私は兄が手にしている文庫本の背表紙に目をやり、そこに記された巻数を確かめる。
「あ、それね。まだ文庫になってないから、続き買ってないよ」
「ないの!? 嘘だろ……すっごいいいところで終わってんだけど」
「その巻出たのも先月だし、近いうちに出ると思うよ」
「今読みたいんだよ俺は」
 兄は不満たらたらだ。それでなくても実家ではすることもないまま時間を持て余しており、私の蔵書を読破せん勢いで読書を続けているありさまだった。
「そんなに面白かった?」
 思わず私が尋ねると、兄は眼鏡の奥の瞳を細める。
「まあまあ。ちょっと女子向けな感じはしたけど、読めなくもなかった」
「なら、無理して最後まで読むことないんじゃない」
「ここまで来たら結末も見届けたいから」
 うちの兄も鳴海先輩と一緒だ、変なところで素直じゃない。男の人は皆こういうものなんだろうか。そういえばうちのクラスの男子にも、時々素直ならざる人がいる。
 閑話休題、この素直ではない兄と私は仲良し兄妹というほどでもなければ、喧嘩が絶えないというほどでもない間柄だった。恐らく五歳の差が影響しているのだと思う。小さな頃こそおもちゃを取り合って大喧嘩したことはあったけど、一足先に大人になった兄は私と一定の距離を保って接してくれるようになり、おかげで近年では目立った喧嘩をした覚えがない。今年度からは兄も遠方で一人暮らしをするようになったから、諍いの機会はますますなくなることだろう。それはそれで少し寂しい気もするのが奇妙だった。
「続きないのか……」
 未練がましく本棚を物色していた兄は、ふと何かを思い出したような顔でこちらを見る。
 不本意ながら私と兄は顔立ちがとても似ているらしい。お互いに眼鏡をかけているせいかもしれないけど、我が家を訪ねてきた兄の友人たちも、私の友人たちも、兄妹が並び立つところを見ると百パーセントの確率で『似てる』と言った。私はそう言われるのが内心気に食わなかったけど、そういう時、兄も同じようなふくれっつらをしていた。
 ともあれ、他人が言うには私によく似ているらしい兄が尋ねる。
「まだ文庫になってない、って言ったか?」
「ああ、うん。そうだよ」
「じゃあ文庫じゃない……別の版でならこれの続き読めるってことか?」
「そうだけど」
 答えた途端、兄の顔がぱあっと輝いた。どうやら何だかんだ言いつつ、件の本を相当気に入っているようだ。
「ならお兄ちゃんがヒナに、その本を買ってあげよう」
「別にいいよ」
 遠慮のつもりもなく私は即答した。
「何でだよ」
 兄が不審そうな顔をするので説明する。
「せっかく文庫で揃えてるのに、一冊だけ単行本だと本棚に並べた時格好つかないもの」
 私は読書家であるけどビブリオマニアではないので、本の収集に当たっては見栄えとお値段、更には読みやすさを大変重視していた。文庫本は背表紙の統一感といい、高校生にも月数冊買える手ごろな価格といい、そして文化系人間の貧弱な腕でも読み続けられるサイズといいまさに最適な形態だ。
 同じく読書家である鳴海先輩は、本棚の見栄えはさして気にしていないようだった。先輩の部屋の本棚は室内でそこだけがカラフルな色彩に彩られている。もっとも先輩にも蒐集の趣味はないらしく、手元に置いておく本は厳選していると過去に語っていた。そのせいで先輩の本棚はここ一年間、ほとんど入れ替わる様子がない。書店へ行っても真っ先に新刊コーナーへ足を向ける私とは違い、いつも特定の作家ばかり探し歩いている。
「格好つかないって言うけど、それってそこまで大事なことなのか?」
「私にとってはね」
「駄目か……。しょうがない、違うの読むか」
 私の返答を聞いた兄は読了済みの文庫本を棚へ戻し、別のシリーズを物色し始めた。だけど帰省中の楽しみが目下読書だけという兄はとうとう目ぼしい本をあらかた読み終えてしまったようで、やがてがっくりと肩を落とす。
「俺が読めそうなのはほとんど読んじゃったな。何かお勧めない?」
「お兄ちゃんは素直に誉めないから、好きな本は勧めたくない」
 そう告げたら兄は閉口したようだった。
 それからも黙って本棚を眺めていたけど、読書の手を止めて見守る私の視線が気になったんだろう。しばらくしてから愛想笑いを浮かべた。
「ヒナ。乗せてってやるから、ちょっと買い物でも行かないか。お前も退屈してるだろ」
 暇を持て余した兄は、遂に退屈しのぎの対象を本から妹に切り替えたようだ。
 とは言え退屈していたのは私も同じだった。修学旅行の後の休みも一日目こそ先輩の言いつけ通りに養生していたけど、二日目にはもう養生するのに飽きてしまっていた。でも退屈だからと先輩に会いに行こうものなら手厳しく追い返されるだろうし、クラスの友人たちは私と同じく養生期間ということで、誘い合って遊びに行くわけにもいかない。そんな折の兄からの誘いはまさに天の助けだった。
「本屋さん寄ってくれる?」
 私が尋ねると、兄は嬉しそうに頷く。
「ああ、いいよ。本屋さんも寄るし、帰りに何か甘い物でも食べてこよう」
「それなら行く」
 よく食べるのも養生だとばかり、私は二つ返事で応じた。

 兄の車に乗って連れて行かれた先は、近年良くあるタイプの複合商業施設だった。
 我が町の郊外にごく最近できたばかりのその建物には、一通りのテナントと飲食施設、そしてワンフロアをまるまる使ったシネコンが誂えられている。見て歩くだけでも日が暮れそうな広い店舗の内部を、兄と二人でぶらぶら回った。兄妹だけで出歩く機会はこれまでほとんどなかったし、別に出かけたいとも思っていなかったけど、いざ出かけてみれば案外楽しいものだった。
「こういうところに彼女連れで来たら、一日楽しく過ごせるだろうな」
 兄はと言えば、妹を連れてきておきながらそんなことをぼやいていたものの、その気持ちはわからなくないので咎めずにおいた。
 私も時々、隣にいるのが鳴海先輩だったらと考えた。先輩はこういう騒がしい場所が好きではないから、たとえ全国チェーンの大型書店が入っているからと誘いをかけても来訪を渋るような気がして、まだ誘ったことはなかった。そして運よく誘えたとしても、書店を覗いたらそのまま帰路に直行しそうな気がする。
 同じく読書家の私も、主目的はあくまで書店と、甘い物だった。あちこち見たがる兄を言葉巧みに誘導しつつ、大型書店のスペースへとやってきた。店内に入ると、兄は先程読みかけだったシリーズの続きを探してみたいと言い出し、私は文庫本の新刊をチェックしておきたかったので、後で落ち合うことにして別行動を取った。
 真新しい本のいい匂いがする店内を、私はのんびり巡り始める。

 書店に足を運んでみても、私は鳴海先輩のことを考える。
 というより私の日常において、先輩について想起させない事柄などあまり存在しない。何かにつけて先輩のことを思い出す。そしていつでも考えてしまう。
 今は並んだ新刊書籍を眺めて、いつかここに、先輩の本が並ぶ日がやってくるだろうかと考える。
 私は、先輩の作品を多くの人に読んでもらいたい。それが先輩の夢だからでもあるし、それ以上に私自身が、先輩のことを多くの人に知ってもらいたいからでもある。先輩の綴る物語には、先輩自身の言葉よりも如実に鳴海寛治という人格が映し出されているように思う。
 もちろん、作品と作家自身は必ずしも同じものではない。清廉な物語を綴る人が人格的にも清廉であるとは言い切れないだろうし、逆も然りだ。物語はあくまで人の手によるつくりものだから、作者自身のそのままを映し出す鏡ではないのだろう。
 でも私は、物語とは作家のほんの一部を覗かせるような、ごく小さな窓なのではないかと思っている。先輩の綴る物語は、先輩の声と同様に硬質で、淡々としている。だけどその中に息づくストーリーは確かに血が通っていて、鳴海先輩の表に出さない温かみがそっと覗けるようだった。先輩を評して冷たいという人たちも、先輩の物語を読めばきっと、その内に潜む温かみを感じ取ることができるはずだ。そういう人たちにこそ、私は先輩の物語を読んでみて欲しいと思う。
 いつか本当に、そんな日が来るといい。
 文庫本の棚の前に立ちながら、私はすっかり想像に耽っていた。おかげでその棚と私の上に長い影が差し、隣に長身痩躯の人物が立ち並んだその瞬間も、全くぼんやりとしていた。
 だから、
「雛子」
 すぐ間近から、体温を感じさせないあの声に名を呼ばれた時、震え上がるほど驚いた。
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