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卯月(4)

 こつこつと、不意に傍で硬い音がした。
 目の前で伏している大槻さんから、音のした方へと私は視線を動かし――そして見た。
 喫茶店の、通りに面した窓ガラスの向こう、この上なく険しい表情の鳴海先輩がいた。
 店内からでもわかる、眉間に深く刻まれた皺。ガラスを叩いた拳は今でも固く握られ、窓がなければ、今にも怒鳴り出しそうなほどの面相をしていた。
 ――そうだ、うっかりしていた。元々、待ち合わせの時間には三十分ほど遅れるだけだと聞いていたはずだ。
 慌てて時計を確かめれば既に予定の三十分は過ぎていて、つまり、先輩は大学での用を終え、待ち合わせ場所にやって来たのだろう。そして駅前に私の姿がないことに驚き、捜し回っていたのかもしれない。やっと見つけたと思えば喫茶店でのんびりお茶していたというのだから、先輩からすれば腹立たしかったに違いない。
「おっかない顔だなあ」
 大槻さんがおかしそうに言った。
 私は笑うどころではなく、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。失念を悔やんだけど今更どうしようもない。
 先輩が足早に喫茶店へと足を踏み入れ、ウェイトレスさんに一言断って、こちらのテーブルまで歩いてくるのを見守っていた。
 先輩は私たちのテーブルの横に立つなり、
「何をしてるんだ、お前ら」
 低い声でそう言った。
 心なしか呼吸が乱れ、肩も上下している。随分と走り回らせてしまったのだろうか。私は縮み上がりながら応じる。
「ごめんなさい、先輩」
「お前、何であの場所にいなかった」
 私に目を向けた先輩は、心底忌々しげに言い放つ。
「三十分ほど遅れていくから待っていろ、と伝言を頼んだはずだった。それがどうしてこんなところにいる。大槻がいい加減なことを言ったのか、それともお前の理解力が足りなかったのか、どちらだ。手短に説明しろ」
「それは……」
 理解力よりは記憶力、あるいは集中力の欠如だと思われる。しかしもちろん、そのとおりには答えられない。
「や、だって三十分も外で待ちぼうけてるのって辛いでしょ?」
 そこで大槻さんが口を挟んだ。
 怒り心頭の先輩を前にしても笑んでいる大槻さんは、よほど物怖じしない人と見えた。
「だからせっかくだし、雛子ちゃんをお茶にでも誘おうなと思って、連れ込んじゃった。いろいろ話したいこともあったしさ。いや、お蔭で楽しい時間過ごせたよ。彼女借りちゃって悪いね、鳴海」
 軽い調子で応じる大槻さんを、鳴海先輩はきつく睨みつけた。
「放っておけばいいものを。雛子は三十分待たせたぐらいで不満を持つ奴じゃない」
「そりゃ口にはしないだろうけどさ。普通に長いよ、三十分は」
「長くない」
「女の子には長いって。そこはさあ、ちゃんと思い遣ってあげないと」
 そう言って、大槻さんは残っていたカフェラテを飲み干すと、勢いよく立ち上がった。
「じゃ、俺はお暇するんで。後はごゆっくり」
「待て、まだ話は終わってない」
 先輩が制止しようとしても、大槻さんはそれを振り切るように私の方を見て、手をひらひらさせる。
「俺は済んだから。……雛子ちゃん、いろいろありがとう。楽しかったよ」
 それからにっこり笑んで、小声で言い添えてきた。
「さっきの頼み、是非よろしく」
 恐らく、紹介の件だと思われた。
「どこまでご期待に添えるかわかりませんが、ためしに友人にも当たってみます」
 声を潜めて、私も応じる。アイスティーのご恩もあるし、先輩の大切なお友達の頼みだ。努力はしてみるつもりだった。――私がそんなことを切り出したら、高校の友人たちは何よりもまず驚くだろうから、説明からして困難を極める作業になりそうだ。
「期待してるよ」
 機敏な行動だった。楽器を奏でる人の大きな手が、卓上に置かれていた伝票を掴む。
 とっさに気づき、私は大急ぎでお礼を告げた。
「あ、ありがとうございます」
 大槻さんは無言で手を振るとそのままレジで会計を済ませてくれた。
 店を出る間際には一度だけこちらを、明るい顔つきで見た。
「あ、言い忘れてた。――鳴海、二十歳おめでとう」
 一言だけ、その後でくるりと踵を返す。
 私は立ち上がりお辞儀をしてから、こっそりと先輩の方を盗み見た。
 苦虫を噛み潰した表情の先輩も、ドアベルが鳴った店の入り口から、私の方へと視線を戻していた。
「話したのか」
 その問いが誕生日のことだとはすぐに察せず、私は一瞬うろたえた。察してからも後ろめたさは消えず、恐る恐る首肯する。
「はい、あの……すみません」
「他に余計なことは話していないだろうな」
 確かめるように先輩は、尚も尋ねてくる。
「多分、『余計なこと』に当たるような内容はお話していないと思います」
「多分では困る」
 溜息をつきながら、鳴海先輩は椅子に腰を下ろした。さっきまで大槻さんのいた席に座り、タイミングを見計らい歩み寄ってきたウェイトレスさんに、アイスコーヒーを注文する。
 注文を終えるともう一度息をつき、ハンカチで額の汗を押さえる。いつものように姿勢よく座っていたけど、少し疲れた表情をしていた。罪悪感は募る。
「大体、どうして言われた場所で待っていなかったんだ」
「それは、すみません。三十分経つ前に戻って来ようと思っていたんですけど、うっかりしていて……。ごめんなさい」
 弁解のしようもなかった。
 私は俯き、差し向かいの先輩から厳しい声をいただく。
「たかが三十分ぐらい、黙って待っていられると思っていたがな。大方、あいつが無理に誘ったんだろうが、はっきり断らなかったのならお前にも責任はある」
「そんな、大槻さんは一緒に先輩を待っていてくださったんですよ」
 自分の立場は理解している。
 しているけど、ここは主張しておかなくてはならない点だ。
「私が一人で待っているのも退屈だろうと、私を誘ってくださったんです。大槻さんは悪くありません。むしろ先輩の大学での様子をいろいろ話してくださって」
「俺が走り回ってる間、お前らは人の噂話に花を咲かせていたと言うわけか」
「……すみません」
 先輩は、ようやく呼吸も落ち着いてきたようだ。不機嫌な仏頂面が私をじっと見ている。
 率直にものを言うようで、本当のことはなかなか言ってくれない人だ。言葉の裏を読む必要が常にあった。私はまだその技術に長けているとは言えなかったけど、先輩の言葉を、内心を、きちんと推し量れるように努めているつもりだ。
 今も、だから尋ねた。
「急いで来てくれたんですか」
「多少はな」
「捜し回らせてしまったんですね」
「当たり前だ」
 素っ気なく言って、先輩は横を向く。
「今日に限って珍しく、臍を曲げて帰ってしまったのかと思った。お前は機嫌を損ねると面倒だからな。電話をかけてやろうかと考えたが、近頃は公衆電話もそうあるものではないし、まだこの辺りにいるかもしれないと捜し歩いた――電話をだ」
 機嫌を損ねるとこの上なく手のかかる人に、面倒だと言われるのは心外だ。
 私は、でも、そんな先輩が可愛くて仕方がない。本当は多少なりとも慌てていたに違いなかった。私を待たせていたことを気にしていたのも間違いないと思う。だからこそ、随分歩かせてしまったことを申し訳なく思ったし、これからの時間は先輩の為だけに使いたいと考えている。
「ご心配をおかけしました」
 私は頭を下げて、それから心を込めて言い添えた。
「せっかくのお誕生日なのに、走り回らせてしまったようで申し訳ないです」
「それは別にいい」
 そっぽを向いたままの先輩は、まだまだ機嫌を損ねているようだ。
 もっとも、横顔が困惑していたから、怒っているばかりでもないらしい。先輩なりの気配り方で、私を許そうとしてくれているのかもしれない。
「先輩、お誕生日おめでとうございます」
 背筋をぴんと伸ばして、私ははっきりと告げた。
 さすがに口にした時は緊張したけど、言われた方の緊張の比ではないと思う。先輩はぎくしゃくとこちらを向いてくれたものの、視線が宙を泳いでいた。面食らった表情。
「お詫びの意味も込めて、ちゃんとお祝いをさせていただけませんか」
 先輩を走り回らせ、捜させてしまったことが、それだけで帳消しになるとは考えていない。ただ、今日を祝いたいという気持ちはもう隠さずにいたかった。
「気を遣うなと言ったはずだ」
 鳴海先輩は深く嘆息した。
 だけどそれこそ、気遣われる必要なんてない。
「お金のかからないお祝いですから」
 アイスコーヒーが運ばれてきたので、控えめな声で打ち明けた。

 この喫茶店を出たら、贈り物の時間が始まる。
 先輩をとびきり幸せな日にする為の時間がやってくる。

 四月二十九日は、鳴海先輩のお誕生日だ。
 恋人の誕生日を祝うのは、義務であり、また権利であると思っている。だから私はその日の過ごし方を今日までずっと考えてきた。どうすれば先輩が喜んでくれるのか、どうすれば先輩にとって幸せな日になるのか、何を贈るのが一番ふさわしいのかを。
 だけどじっくりと辿ってきて、今日になってようやく気づいた。
 先輩はもう既に、十分に幸せなのだろう。これ以上を望む心も持たないほどに、今の自分が幸せだと考えているのだろう。楽しい友人のいる充実した大学生活と、将来への希望と目標、それから、間が抜けていてうっかり屋で、先輩に言わせるととても勘の鈍いらしい年下の恋人がいれば、今のところは幸せで、誕生日にわざわざ何かを要求する必要を感じていないのかもしれない。
 思えばたったの一言だけで交際を始めた、一年と少し前のあの日から決まりきっていたことだった。先輩は、内心の感情の発露はどうあれ、ともかく私を傍に置いておきたいと考え、その為に最適な行動をした。実直で、純粋な行動の取り方だった。気取るつもりも飾るつもりもないように見えたあのひたむきさに、私は何よりも惹かれたのだと思う。
 そんな人の為に私がすべきことは、先輩がかえって気を遣うような贈り物を用意したり、先輩について頭を悩ませるようなことでもなく、先輩の為に、ただひたすらに先輩の傍にあると言うこと――先輩が幸せを抱き続けていられるようにすること、なのだと思った。

 喫茶店を出ると、日は既に傾き始めていた。
 アイスコーヒーで少しは疲労が癒えたのか、先輩は相変わらずの無愛想さで私に告げた。
「旅行鞄を探しに行くんだったな」
 お店のドアを閉めながら、私は頷く。
「はい、そうです」
 ドアベルの音がトーンを落とした時に振り返って、先輩の姿を日差しの中で確かめる。
 姿勢がよくりりしい立ち姿の先輩は、肩から斜めに鞄をかけて、そのお蔭で両腕ががら空きだった。襟つきのシャツは襟が黒、生地は白で相変わらずのモノトーンぶりだったけど、先輩にはよく似合っていた。
 私は時計をしていない右腕に近づいて、先輩に声をかけてみる。
「先輩、お願いがあります」
「何だ」
 先輩が訝しげにこちらを見る。
 すかさず少し笑って、
「腕を組んでもいいですか」
 と尋ねた。
 一瞬だけ呆気に取られた先輩は、けれどもすぐに顔を顰めてみせた。
「どうしてそんな必要がある」
「それは、今日が先輩のお誕生日だからです」
 私が申し出てからも、先輩の右腕が逃げることはなかった。だから先輩がぐずぐずしている間に、素早くその腕を取ってしまうことにした。
 緊張の走る腕を絡め取って、それから強く、手も繋ぐ。
 並ぶ距離がぐっと近づく。
「まだいいとは言っていない」
 すぐ真上から、ぼそりと聞こえてきた。
 私はここまでしておきながら顔を上げる勇気はなくて、俯き加減で応じた。
「でも、いいと言ってくれると思っていました」
 頬が熱い。誕生日の口実でもなければ、昼間のうちからこんな風に思いきった行動には出られない。だけどいつも、こうしたいと思っていた。先輩といるならできる限り、何も隔てるものがないほど近くにいたい。
 私が幸せだと思うことは、先輩にとっても幸せに感じられるのではないかと思っている。先輩が、私を傍にと望んでくれているのだから、先輩本人だってきっと。
「勝手に決めるな」
 言動自体は素直さに欠ける先輩が、うんざりした声を立てる。
「駄目でしたか?」
 腕を放さずに確かめると、しばらく沈黙があった後、ぼやくように言われた。
「わかり切っているくせにわざわざ尋ねてくる奴が一番始末に負えない」
 そうかもしれない。
 先輩の本心の一番奥深いところは、見えないようで、見せてくれないようで、時々とてもわかり易い。

 腕を組んで歩き出すのは初めてだった。
 考えていたほど歩きにくくもなかった。ただ若干暑いと思った。今日は天気のいい、暖かい日だ。
「歩きにくい」
 先輩がぼそりと呟く。
 私は視線を落としたままで笑った。
「私も、ちょっと恥ずかしいです」
「だったら離せ」
「嫌です。絶対に離したくありません」
 繋いだ手にぎゅっと力を込める。てきめんに先輩の右腕は緊張し、ぎくしゃくとっている。明日、筋肉痛になっていないといいけど。
「お前、実は機嫌を損ねているんじゃないのか」
 腕を振り解こうともせずに、先輩はそう言ってきた。
「俺が待ち合わせに遅れてきたことに対する懲罰か」
「違います。これは、先輩のお誕生日祝い兼、先輩を捜し回らせてしまったことに対するお詫びです」
「そうは思えない。何たる仕打ちだ、これは」
 言いつつも先輩は、わずかに歩く速度を緩めた。
 私はちらと視線を上げて、困り果てた様子の横顔を見つける。喫茶店に辿り着いた時よりも上気した頬、額には汗が滲んでいる。視線が不安定に彷徨っているのを認めて、思わず笑いを堪えた。
 もしかすると先輩も、口実が欲しいのかもしれなかった。腕を取られたまま、振り解くこともせずに歩いていく為の口実。人の多い、日曜の午後の駅前通りを、私と一緒に歩き続ける為に。
「先輩」
 見上げた先の顔に、囁き声で尋ねてみる。
「こうしてると、幸せな気分になりませんか?」
「居心地は悪いな」
 話を逸らすような答えが返ってきた。つまり否定はしないと言うこと。
 ほっとした。幸せな時間の贈り物。その意図は、どうやら成功したようだ。
 四月二十九日はまだ終わらない。二人で過ごす時間ももう少し続いていくから、気は抜かずにいるつもりでいるけど、これは恋人としての義務であり、権利だ。
「先輩、私、考えていたんです」
 歩きながら私は打ち明ける。
「私、今がとても幸せなんです」
「そうか」
 無関心を装う声がした
「それは、先輩の傍にいられるからだと思っています」
 私は、構わずに続ける。
 先輩がどんな反応を示そうとも、聞いていてくれるだけでよかった。
「でもこの幸せは、先輩がまだ東高校にいた頃、私に声をかけてくれなかったら、存在していなかったものなんです。……何と声をかけてくれたか、覚えてますか」
「忘れた。思い出させるな」
 焦りの色を浮かべた先輩が私を睨み付けたので、堪え切れずに私は笑ってしまう。
「私は忘れられません。ずっと覚えていますから」
「駄目だ。忘れろ」
「嫌です」

 あの時の言葉は、確かに愛の言葉だった。甘くはなくても、遠回し過ぎて真意がわかりにくくても。私たちの関係を始める為の一言だった。
 俺と付き合え、と命令のようにたった一言。
 私はそれだけの言葉に長らく思い悩まされたけど、紆余曲折を経て今なら少しだけわかる。そうとしか告げられなかった先輩の弱さと純粋さ、そしてひたむきさを。
 忘れようにも忘れられない、大切な思い出だ。
 ただし、思い出はそこで終わりではない。今までもずっと連綿と続いてきた。そしてこれからも共にいる限り、私にとっては大切で、先輩にとっては胸裏を過ぎるだけでうろたえてしまうような思い出がたくさん、増えていくに違いない。

「あの時の出来事だって、先輩がいなければ起こりませんでした」
 私は腕を離さない。振り解かれることもないとわかっているけど。
「全てにおいて、そうです。先輩がいなかったら、私の今の幸せも存在してはいませんし、こうして四月二十九日を迎えて、しみじみと幸せを噛み締めることもありませんでした」
「何が言いたい」
 目を逸らし、狼狽する先輩が聞き返してくる。
 私の用意していた答えは、一つきりだった。
「今日は、四月二十九日は、私にとっても嬉しくて、幸いな日であると言うことです」
 するとその時、先輩が歩みを止めた。
 私も合わせて立ち止まり、反応を窺う。
 先輩は押し黙っていた。腕を取られたままでも姿勢はよく、何とか仏頂面を保っている。ただ彷徨う視線と右腕の硬直が、内心の動揺を如実に告げている。
 怪訝に思い、見上げていれば、やがてぎこちなく私に視線を留めた。
 少しの間を置き、薄い唇を重たげに開く。
「本当に始末に負えないな」
「何のことでしょう」
「お前だ。物好きにも程がある」
 それは先輩なりの心遣いから生まれた、許容の言葉だと、私は知っている。
「こんなに落ち着かない誕生日は初めてだ」
 先輩はぼやき、その後で更に小声で、私に向かって付け加えた。
「来年こそは余計なことをするなよ」
「一応、心に留めておきます」
 許容の余地を残せるように答えておく。
 来年のことを先輩の方から口にしてくれたのは、とてもうれしかった。けど、先輩の言葉に従うかどうかは秘密だ。

 先輩は私にとって一番大切で、いとおしい人だ。そして今日という日の幸せも、これから先の思い出も、終わらずに連綿と続いていくのだと思う。買い物を済ませたらどう過ごそうか、私はこの上なく幸せな気分で考え始めていた。
 春の日にも似た穏やかで、だけどもう少しばかり熱を伴うような時間が、ここにある。
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