弥生(2)
卒業式が過ぎると、私の部屋からはいくつかの物が消えた。例えば制服だ。東高校の紺セーラーは三年間着倒したせいでややくたびれていたけど、それでも貰い手は見つかるもので、近所に住む在校生の元へと引き取られていった。
引き取られる直前、クリーニング店でかけられた透明ビニールの中にある制服を見た時、さしもの私も多少の感慨を抱いた。もうこの服を私が着ることはないという事実が自身の成長を垣間見られたようで嬉しくもあったし、何かはわからないけど何かを失ったのだという自覚はあって、それが少しばかり寂しくも感じた。
それから大学受験で使用した参考書も、やはり近所の受験生に差し上げることになった。こちらは割ときれいに使っていたものなので先方にも大変喜ばれたようだ。お礼にと母経由で手渡されたそこそこの額の図書カードに、私の心はこの上なく浮かれた。もっとも私の趣味をわかっている母からは、先んじて『半分は学校用に使うこと』と釘を刺されてしまった。それでも、受験勉強中に発売されていた読みたかった本たちを購入するには十分な額が手元に残った。
そして、これは卒業とは直接関係のないことだけど、日増しに暖かくなっていく気温を受け、クローゼットの中身も入れ代わりつつあった。冬用のコートやマフラーや手袋は洗濯をされた上で次の冬までの眠りに就き、代わりにスプリングコートがお目見えした。まだ朝晩は冷え込みが厳しいけど、色のきれいな服を着たくなるのは春が来た何よりの証拠だ。両親から気が早いと言われても、私のクローゼットは一足早く春らしい彩りを迎えていた。
春物の服に着替えた後、私は参考書の分だけ空きができた自室の本棚を眺めやる。
本棚の空間はぽっかり穴が開いたみたいで寂しすぎた。参考書の隣に並んでいた本たちが、支えを失くして力なく倒れているのも悲しい光景だった。参考書の他はほとんどが文庫本ばかりという私の本棚に、隙間があるのはいただけない。せっかく背表紙を揃えてきれいに並べてあるのだから、景観を損ねる空間は早々に埋めておくべきである。
めでたく受験生としての日々も過ぎたことだし、好きな本でも買いに行こうと思っていた。ちょうど手元には図書カードもある。なかなか使う機会がやって来なかったお年玉もある。
寒さがほんの少しだけ緩み、街の風景がくすんだ冬色からパステルカラーに切り替わる春先は、買い物をしに歩いて出かけるのに最適な季節だ。
もちろん、デートに出かけるのにもいい季節だと言える。
三月十四日も、実に天気のいい日になった。
きれいな青空とぷかぷか浮かんだ白い雲が電車の窓から見えていた。駅へ着き、改札を抜けて出口へ向かうと、降り注ぐ日差しが頬に触れて暖かかった。春風に乗ってどこからか沈丁花の香りが漂ってくる。桜が咲くのはもう少し先だけど、木の芽は確かに膨らみつつある。
私は駅の出口に正面に立ち、駅舎の外壁に備えつけられた丸時計で現在の時刻を確かめる。
十時二十分だった。
約束の時間は十一時だったから、早く着きすぎたかもしれない。待ちきれなくてつい、早めに家を出てきてしまった。今日は春用のブーツも磨いてきたし、前髪だってしっかりブローしてきた。スプリングコートも晴れた日にはちょうどいい軽さで、私は先輩と会う前から既に浮かれていた。
心が弾みすぎてどこかへ飛んでいってしまいそうだ。春だから、だろうか。
それとも今日がホワイトデーだからだろうか。
鳴海先輩はこの日を口実にしたいと言っていたけど、今の私たちに会う為の口実が必要だとは思えない。ただ先輩は私にバレンタインデーのお返しをしたいようだったし、私としてもそういう意味のある日を意識した上で会う約束ができるのは、何だかいかにも付き合っているという感じがして素敵だと思う。ついおめかしだってしてしまう。
私は先輩を待つ間、見慣れた駅前の景色をぼんやり眺めていた。三年間通学に使ってきた駅だから、近隣の店舗もビルの広告も覚えてしまうほど見慣れている。そしてここは四月から通う大学への最寄り駅でもあるので、これからまた数年間はお世話になることになる。先輩の部屋にも程近いことだし。
そういえば、来月には鳴海先輩の誕生日がある。
四月二十九日、先輩は二十一歳になる。
去年の誕生日は何をしようか、何を贈ろうかずっと悩んでいた。先輩は私に散財させるのを嫌がっていたし、それ以前に自身の誕生日を祝ってもらいたがっているそぶりすらなかった。おかげで私は四月中ずっとあれこれ考え、悩む羽目にもなったけど。
さて、今年はどうしようか。あれこれ考え始めるにはまだ少し早いかもしれないけど、今から考えておいたって問題はないだろう。恋人の誕生日を祝うのは義務であり、権利でもある。今年は去年以上にその権利を、存分に行使したいところだ。
やがて、通りの向こうに鳴海先輩の姿が見えた。
私は先輩の姿ならどんなに遠くからでも見つけられる。あのすらりと立ち姿、距離があってもわかる姿勢のよさ、きびきびした歩き方、周りにどれだけ人がいようとすぐに目についてしまう。そして春先だろうと先輩はモノトーンが大好きなようで、今日は白い襟付きシャツの上に黒いカーディガンを羽織っている。鳴海先輩なら何を身に着けても格好いいはずなのに、着る物に関しては全く冒険をしない人だった。
横断歩道の手前で信号待ちをする先輩に向かって、私は大きく手を振った。
先輩もすぐにこちらに気づき、驚いたような顔をする。残念ながら手を振り返してくれることはなかったものの、信号が変わり人波が動き始めると、こちらへ駆け寄って来てくれた。
「もう来ていたのか。まだ三十分前だぞ」
挨拶より何より先に、鳴海先輩はそう言った。ふう、と一つ息をついてから私を見て、私が浮かれているのを一目で察したのだろう。呆れたような目をされた。
「気が逸ったみたいで、つい早く来ちゃったんです」
私は照れながら答える。
すると先輩は呆れながら眉を顰めた。
「だったら連絡くらい寄越せ。何の為に電話を持ち歩いているつもりだ」
「そんな、先輩まで早く来てもらうのは悪いですよ」
「俺だって大分前から支度はできていた」
先輩が鼻を鳴らす。
「お前が早く来ていると一言寄越せば、こちらももっと早くに出てこられたのに」
むっつりと不機嫌そうに言われたけど、要は先輩も私と同じように気が逸っていたらしい。こうして外で待ち合わせてデートをするのは本当に久し振りで、お互い随分と浮かれているみたいだ。
私がちょっと笑ったからか、先輩には睨まれた。
「まさか、来てからずっと外で待っていたわけではないだろうな」
「外で待ってました。先輩がすぐに見つかるようにと思って」
現に先輩は三十分も前に来てくれた。外で待っていたのは正解だった。
だけど先輩はまるでお説教の口調で語を継ぐ。
「三月と言えどまだ風は冷たい。こんなところで突っ立っていたら風邪を引くぞ」
「今日は大丈夫ですよ。日が差してて、ぽかぽかと暖かいです」
外は春らしい陽気に包まれていた。歩いているうちにコートすら要らなくなるかもしれない。それに私は先輩のことなら、たとえ寒い中でも、あるいは炎天下だろうと、いくら待ったってちっとも気にならなかった。
とは言え、到着をメールででも知らせておけばもう少し早く会えたのだろうし、そういう意味ではもったいないことをしたかもしれない。
「なら、次からは着いた時点でメールしますね」
そう告げたら、先輩も妥協するみたいに頷いた。
「ああ。どうせなら早く会える方がいい」
嬉しい言葉だ。
私は込み上げてくる笑みを噛み殺しつつ、先輩に手を差し出してみる。
先輩は一度瞠目してから、しょうがないという態度で私の手を取り、繋いでくれた。何も言わないで行動に移してくれるところが一層嬉しかった。
「しかし、今更ながら子供っぽくはないか? こういうのは」
「そんなことないです。大人から子供まで、皆やってることですよ」
「どうせ店に入ったら外すんだろう。その都度繋ぎ直すのがまた気恥ずかしい」
「何ならずっと繋いだままでもいいですよ」
私の言葉を聞き、先輩はばつが悪そうに目を逸らす。
「嫌だ。それこそ子供っぽく浮かれているみたいじゃないか」
そうは言っても現実に、私たちはお互い浮かれている。手だけ繋いでみたものの、顔を見合わせては先輩は気まずそうにし、私ははにかむばかりで、何だか話が先に進まない。
「とりあえず、どこから行く気だ」
埒が明かないと見てか、やがて観念したように先輩が言った。もちろん手は繋いだままだ。
「まずは服を見てもいいですか?」
私は聞き返す。
今日は駅前で買い物をする約束だった。制服を着なくなる私には大学へ通う為の服が必要だったから、何着か仕入れてこようと思っていた。それでなくても季節は春、新しい服が欲しくなる時期だ。
「わかった、付き合おう」
先輩が快く了承してくれたので、私はうきうきと続ける。
「その後で本屋さんに行きましょう。私、ずっと行きたかったんです」
「買いすぎないようにな。本は持ち帰るとなると重いぞ」
「そうします」
私は先輩の忠告を素直に聞き入れた。せっかく先輩といるのに早くくたびれてしまうのはもったいない。疲れないよう、程ほどの買い物で済ませるつもりでいる。
すると先輩もようやく、少しだけだけど笑ってくれた。
「随分はしゃいでいるな。そんなに買い物が好きか、お前は」
「買い物も好きですけど、今日はデートですから特別です」
繋いだ手をぎゅっと握ってみる。
「そんなに強く握らなくてもいい。血が頭に上ってしまう」
先輩はいつものように、冗談でもない口ぶりでそんなことを言う。
それにしても先輩の方こそ、私の買い物に付き合うだけなのに随分と機嫌がいいようだけど――指摘するとせっかくのご機嫌を損ねそうなので黙っておいた。
よく晴れた春の日は、まさに絶好の買い物日和だった。
駅前通りをぶらぶらと気まぐれに散策し、いくつかのお店を見て回った。私が服を選ぶのを先輩は黙って見守っていてくれた。せっかくなので先輩の好みを尋ねてみたら、先輩は淡い色の服ばかり勧めてきた。
「いい色だ。お前は明るい色が似合う」
私に春らしいシフォンブラウスをあてがい、先輩は自信を持った様子で言い切った。
先輩は思ったよりも女の子らしい服が好きなようだ。もっとかっちりした服が好きなのかと思っていたので意外だった。でもそれ以上に私は、先輩が私にはモノトーンを勧めて来ないことに驚いている。
「先輩なら、黒とか白が好きなのかと思ってました」
私がつい思ったことを口走れば、先輩も目を丸くしていた。
「なぜそう思う? 俺がいつもそういう服ばかり着ているからか?」
「はい。まさにその通りです」
「考えてもみろ。俺がこんな色合いの服を着てきたらおかしいだろう」
それで私は鳴海先輩がパステルカラーを着た姿を想像してみた。先輩なら何でも似合うはず、と言いたいところだったけど、おかしいとはいかないまでもあまりしっくり来なかった。
「先輩は大学でも、いつもそういうモノトーンな格好なんですか?」
「ああ。服装の規定があるわけでもないしな」
「それもそうですね。じゃあ私も、好きなものを着ていきます」
私は先輩に勧められたシフォンブラウスを見下ろし、頷く。私としてもこういう可愛い服は好きだし、その上で先輩好みだというなら選ばない理由がない。
ところがそこで、鳴海先輩は渋い顔をした。
「普段からあまりめかし込んでくるなよ。俺が心配になる」
「……考えすぎですよ、先輩」
私はその心配を軽く笑い飛ばした。
とは言え、せっかくなのでこのブラウスはデートの時専用にしようかな、とも思う。
前に先輩が、あるいは大槻さんが言っていたように、私は大学生になったらきれいになれるだろうか。今のところはそれらしい前兆もなく、先日も母と入学式用のスーツを買いに行った際、スーツのあまりの似合わなさに軽く絶望しかけていた。私と来たらまだ高校生らしさから抜け出せておらず、まるで子供が無理してスーツを着ているように見えた。
これからはもう少しお化粧にも力を入れたい。高校時代みたいに校則に配慮して髪型を決める必要もないから、ヘアアレンジだっていくらでもできる。私自身は何もせず、自然ときれいになれるとは思っていない。努力して、工夫して、ちゃんと大学生らしい姿になりたい。
鳴海先輩の隣にいてもおかしくないくらい、大人っぽくなりたい。
「心配の種は尽きないほどあるからな。新歓だのクラコンだのと……」
私の決意とは裏腹に、先輩はふつふつと不安を煮えたぎらせているようだ。やがて念を押すように言われた。
「いいか雛子、大学へ入ったら、特に年上の男には警戒しろ。差し当たって履修登録の相談は俺が引き受けるから、他に相談に乗ると言い出す男がいても簡単についていくなよ」
「はあ……ありがとうございます。よろしくお願いします」
私はお礼を言いつつも、先輩が抱く危機感がいまいちぴんと来ない。
大学とはそんなに危ないところなのだろうか。それとも、先輩自身が何かしら危機的状況に立たされた経験でもあるのだろうか。何にせよ、いざという時は鳴海先輩に頼れば安心だと思っているから、私自身は大学生活に対してそれほど不安はない。
服を一通り買い揃えてから、私たちは書店へ向かった。古い本の匂いも心が安らぐものだけど、新しい紙の匂いにも胸がときめく。私が早速、文庫本の新刊コーナーへ足を向けると、先輩も黙ってついてきた。
「先輩は好きな本を見てきてもいいですよ」
気を遣って声をかけると、先輩はそれが気に入らなかったのか眉根を寄せる。
「久し振りに来たから、お前の好みの本も見ておきたい。迷惑か?」
「い、いえ、そんなことは全然ないです」
鳴海先輩はもともと、私の読書傾向を驚くほどよく把握している人だ。以前古書店でアルバイトしていた時も私好みの本を何冊も取り置いてくれたし、だから今更改めて知ってもらうこともないはずだった。
でもそれは、先輩なりの気配り、もしくは好意の示し方なのだと思う。一緒にいたいと言ってもらったのだ、むげにすることなんてできない。
「じゃあ、一緒に見ましょうか。私が選び終えたら、今度は先輩の買い物にお付き合いします」
私の言葉に先輩は満足げに頷き、それから私たちは並んで本を見た。私が受験勉強に打ち込んでいた間にも、お気に入りの作家の新刊や文庫本化した作品がたくさん発売されていた。一部は既に新刊コーナーを離れ、同じ作家の古い作品と共に並んでいたりもした。時の流れの速さを感じた。
読みたかった本を片っ端からかごに収めると、たちまちかごは重くなる。
「だから言っておいたのに」
先輩は呆れたように言い、私の手から書店の買い物かごを取り上げた。
「すみません。重くないですか、先輩」
「お前が持つよりはましなはずだ。ほら、用が済んだなら次に行くぞ」
素っ気ないながらも先輩は、私の遠慮を断ち切るように言い切って、書棚の並ぶ店内を歩き出す。私は喜びを噛み締めながら、先輩の後についていく。
その後は先輩がこのなく好んでいる作家の棚を覗き、古い文学作品のコーナーも見て、雑誌も一通り眺めた。先輩が読むのは決まって文芸雑誌で、真剣な面持ちで誌面を吟味する先輩を、私も熱心に観察させてもらった。しばらく見つめていたら、やがて困ったような顔をされたけど、特に咎められることもなかった。
買い物を済ませて書店を出たのは午後二時になろうかという頃だった。
ついつい夢中になって歩き回ってしまったけど、時刻を意識すると途端にお腹が空いてくる。私は勢い込んで先輩に進言した。
「先輩、そろそろお昼にしましょうか」
「そうだな」
先輩は即答した後、足を止めた。一瞬間を置いてから、何を食べようか考え始めた私にこう告げてきた。
「いつ言おうかと思っていたんだが、ホワイトデーのお返しを用意していた」
「あ。えっと……嬉しいです。ありがとうございます」
前もって予告もされて、期待していなかったと言えば嘘になるけど、改めて切り出されると照れてしまう。私はもじもじしながらお礼を言い、先輩は肩を竦めて応じる。
「何がいいのかわからなかったから、俺も菓子類にしておいた。いくつか買い揃えておいたが、お前は甘い物なら際限なく食べるだろうし、ちょうどいいはずだ」
際限なくはないはずだけど、それをさておいても甘い物が好きなことには変わりない。空腹のせいか先輩の言葉は一層魅力的に響いた。
「どんなお菓子なんですか?」
私が尋ねると、先輩は思い起こすような顔つきで、
「いろいろだ。菓子店でマドレーヌやクッキー、パウンドケーキなんかを詰めてもらった。お前の好きそうなものを選んでいたら、妙に数が増えてしまってな」
と語る。
先輩がどんなふうにそれらを購入したのか、是非現場が見てみたかった。
「美味しそうですね。楽しみです」
浮かれる私に先輩も気をよくしたようだ。今度は少し笑って言われた。
「今から食べに来るといい。昼食代わりになるものも買って、俺の部屋へ行こう」
それはとてもさりげない誘いだったし、実際、先輩には他の意図があったようでもなかった。気まずげなそぶり一つなかったから、きっと本当に、私にお菓子を食べさせようとそう言ってくれたのだろう。
でも、私は固まった。
自分の意識よりも先に表情が強張っていた。同時にいろいろと、考えてしまうと言うか、思い出してしまうことがあって、頬が熱くなるのがわかった。
「えっ、あの……」
返答に詰まった私を見て、鳴海先輩は一度訝しそうな顔をした。
しかし次の瞬間、何かを悟ったようだ。途端にあたふたし始めた。
「な……馬鹿、何を考えている!」
言えるはずがない。
私が口を噤むと、先輩はより一層狼狽していた。
「違うからな、俺は純粋に、お前に好物を食べさせようと用意したまでだ!」
「そ、そうだとは、もちろん思うんですけど……」
「何だ。前例があるからと言って、いつもいつも別の企てがあるなどと思うな!」
先輩は苛烈な口調で言い放つ。
「俺が疑わしいと言うなら、玄関先で済ませてやる。菓子だけ受け取って帰ればいい」
「疑ってるわけでは! 私は先輩を信頼してます」
私も先輩に下心があると疑ったわけではない。
どちらかと言うと先にそういうことを考えてしまった私の方が、何と言うか、駄目だ。
「ただ、すみません。どうしても、れ、連想するって言うか」
恐る恐る切り出せば、先輩はいよいよ真っ赤な顔になる。
「考えるな。これからずっと誘いにくくなる」
本当だ。このままではこれから先輩の部屋に誘われる度、こんなふうに思い出してはあたふたしたり、その意図がどういうものかをいちいち考えなくてはならなくなってしまう。私は先輩を心から信頼しているし、先輩の部屋に行くのが嫌なわけでもなかった。
一つだけ。こういう何とも言えない浮ついた空気に、慣れていないだけだ。
「……じゃあ、お邪魔します」
私は、やがてそう答えた。
先輩は私の答えに少し驚いたようだった。
「嫌じゃないのか」
「ちっともです。あの……余計なことを考えてしまって、すみません」
私が謝ると、先輩は目を瞬かせる。
それから大きく息をつき、肩を落とした。
「お前が詫びるようなことでもない。気にするな」
「ありがとうございます、先輩」
「いや。……確かに難しいな。記憶を、切り離して考えるのは」
いつか、こういう浮ついた空気もなくなるのだろうか。
先輩の部屋に行くことにも慣れて、余計なことを考えたり、思い出したりすることもなくなって、もっと自然な気持ちでいられるようになるだろうか。
そういう私たちは、今からでは想像もつかない。
「俺は、お前を大切にしたいと思っている」
鳴海先輩は呟くように言い、改めて私の片手を取った。
「こんなことを言うのも今更だな。だが、お前には信頼される人間でありたい」
次の言葉は、どこか寂しげに響いた。
だから私は繋いだ手に力を込めて、そうたやすくは解けないようにした。先輩の手は大きくて、今は少し熱いくらいだ。
「あまり力を込めるなと言ったのに」
そう言って、先輩は呆れたように笑った。先刻言っていたように血が上ったのか、その頬にはまだ赤みが差している。咎めた割には嫌そうなそぶりはないから、私は先輩の部屋に着くまでずっと、先輩の手を強く握り続けていた。