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師走(1)

 気がつけば、月めくりのカレンダーが残り一枚となった。
 外では時折雪がちらつくようになり、遂にはカイロが手放せなくなった。この時期は私のような目が悪い人間にとってはいささか憂鬱で、登校してきて教室に入るなり眼鏡が白く曇るのが煩わしい。クラスの子にもよく笑われる。
「大学行ったらコンタクトにすれば?」
 たまに、友人からはそんな提案をされた。大学デビューと呼べるほど大げさなものではないけど、進学を機にイメチェンするというのも珍しくない、実によくある話だ。私も眼鏡とは大変長いお付き合いをしているので、そろそろこの煩わしさから開放されたい気持ちは正直ある。ただいかに安全性が保証されているとは言え、目の中に異物を入れるという行為に抵抗もなくはない。と言うか、ちょっと怖い。
 それに今の私はまだ受験生だ。大学デビューどころか入学さえできるかどうかわからないこの時期に、眼鏡がいいかコンタクトがいいかなんて悩むのも気が早すぎる。友人の提案は心に留め置くとして、まずは受験勉強に勤しまなくてはならない。それが済んだら鳴海先輩に、眼鏡とコンタクトならどちらが好みか聞いてみることにしよう。勉強の合間を縫うように、そんな楽しい想像をしてみたりもする。
 実際のところ、受験生として迎える十二月は何とも味気なかった。
 友人との他愛ない会話も今では受験勉強と進学先の話題がほとんどを占めていたし、クラス全体の空気もさすがにぴりぴりとした緊張感に包まれていた。去年の今頃、クリスマスの予定についてああでもない、こうでもないと盛り上がっていたのが嘘のようだ。私はクリスマスに特別な思い入れがあるわけではないけど、十二月に入るが早いか街を飾り始めたイルミネーションやツリーを見ても、今年ばかりは気分は沈むばかりだ。一向に楽しくなれない。
 去年はとても素敵なクリスマスイブを過ごしていた。鳴海先輩がコンサートに誘ってくれたからだ。先輩がコンサート、しかもジャズを聴きに行くと言い出した時は思わず耳を疑ったけど、大槻さんと知り合った今ではその経緯が目に浮かぶように想像できた。私もジャズに馴染みがあるわけではないけど、耳に馴染んだクリスマスソングばかりのコンサートは初心者にも親しみやすく、楽しい時間を過ごせた。
 今年も大槻さんの楽団はコンサートを開くのだろうか。そうであれば先輩は今年もチケットを購入するのだろうけど、さすがに私には声をかけてくれないだろう。夜の外出、人混み、冬らしい冷え込みと、どれをとっても受験生には避けるべき要素しかないからだ。
 今年のクリスマスは特別なイベント事もないまま過ぎていくことになりそうだった。それもやむを得ないのだろうけど、寂しくないと言えば嘘になる。あのイルミネーションやツリーの一つ一つに『受験生お断り』と注意書きでもされているような気がして、疎外感にも似た感情を抱いていた。

 私の、今年の十二月が味気ない理由は他にもある。
 文化祭も無事に終わった先月末、私はついに文芸部の部長を引退した。
 大会やコンクールのある部活動とは違い、我が校の文芸部にはこれといった区切りがない。ただ進学を見据えたならこの時期の引退が最も現実的だろうし、先輩がたも皆そうしてきたので、私も例に倣うことにした。
 しかしいざ引退してみると、妙に手持ち無沙汰な気分になってしまった。放課後になると部室に足を向ける習慣がなくなってしまったのは寂しいし、図書室の隣にあったあの部屋の、独特の匂いが恋しかった。
 部室ではしょっちゅう顔を合わせた後輩たちも、いざ部活動を離れるとなかなか会う機会がなく、すっかり見かけなくなってしまった。同じ学校に通っているというのに、学年が違うだけでこうも会えないものなのだろうか。
 趣味の読書もする暇がなくなった今、引退した途端に文芸部に関わる全ての要素から切り離されたような気持ちになり、殺風景な日々に拍車をかけた。

 そんな中でも後輩たちは私を気遣ってくれて、十二月頭の期末考査が済んだ後で一度部室に招いてくれた。
 訪ねていったところ、いつになく畏まった二人に今までありがとうございました、と小さなブーケを手渡された。丸くて可愛い、黄色いラナンキュラスの花束だった。
「一足先に春、みたいなチョイスにしてみました」
 荒牧さんがはにかみながらそう言うので、私もつられて微笑んだ。
「ありがとう。何だか本当に、春が来たみたいだよ」
 十二月の味気なさの中にあって、ラナンキュラスの鮮やかな黄色は目に眩しい。後輩たちの心遣いがとても嬉しく、私はしばしその花束に見とれた。
 その荒牧さんは、文芸部の次期部長となっていた。私は次の部長は有島くんがするものだとばかり思っていたので、そうと知らされた時は少し驚いた。荒牧さんはいい子だけど、リーダーシップを取るタイプではないと思っていたから――私だって似たようなものだし、私に務まったのだから荒牧さんにも問題なく務まるだろうけど。
「荒牧は細々したこと考えるの好きなんで、そういう面倒くさいことは一手に引き受けてもらおうと思って。俺はまあ、文芸部の切り込み隊長的なポジションです」
 有島くんは選任の経緯をそんなふうに話していた。
 実際に二人の間でどういった話し合いが持たれたのかはわからない。でも二人は普段から仲がいいようだし、きっとお互いのこともよく理解しているのだろう。納得し合って決めたのだったらそれが最良だと思う。
 ただ、そういう二人の間の空気は少し羨ましい。去年の私は話し合いができる相手もいなくて、ただ一人の先輩だから部長になったようなものだった。向いているかどうか、なんて関係なかった。そのせいで悩むことも落ち込むこともあったけど、それは鳴海先輩のおかげでどうにか乗り越えられた。
 私に先輩がいたように、荒牧さんにも有島くんがいる、ということなのかもしれない。
「私、柄沢部長みたいな優しい部長さんになりたいです」
 花束贈呈の後、ジュースで乾杯をしながら、荒牧さんは私に言った。
 私はその言葉に面食らう。優しい、なんてことはなく、私の場合はただ単に『怖くない』部長だっただけだ。後輩を叱れるほどの資質はないと常々思っていたし、そもそも二人を叱る必要なんて一度もなかった。それでなくてもたった三人だけの部活動で空気を悪くする必要もないだろうし、なるべく平穏に過ごせたらと考えてきた。そしてその為に何かするまでもなく、荒牧さんや有島くんとは実に和やかな時間を共有できた。
 それは私がしたことでも何でもない。あるがままに過ごしてきた、それだけの結果だ。
 でも、
「春になって入部希望者が来てくれたら、部長の真似をして、できるだけ優しく話しかけてみるつもりです。もちろん勧誘も頑張ります。立派に後を継がないと、部長にも申し訳ないですから!」
 明るく語る荒牧さんを見ていると、卑屈な考えを持つのさえ恥ずかしくなる。
 私にも、何か残せたものがあったのかもしれない。ごくごく些細なものではあるけど、そのくらい誰にでもできるようなことだろうけど、だからと言って私が部長として存在していた意味が全くないわけじゃない。少なくとも私がここにいた時間は、私と後輩たちの記憶にはきちんと残っている。
「ところで部長、来年度の文集の話なんですけど」
 しみじみする私に、ふと有島くんが水を向けてきた。
「是非OGとして寄稿をお願いしたいんです。今から検討してもらえませんか」
「いいけど……新入部員がたくさん入ってきたらどうするの? すごい分厚い文集になっちゃうかもしれないよ」
 私が聞き返せば、すかさずにんまりされる。
「それでいいんです。来年は今年度越えを目指してるんで、部長もよかったら協力してください」
 花束もそうだけど、後輩たち二人のいきいきとした姿もまた、私には眩しくてしょうがない。
 ちょうど鳴海先輩にも続けてみたらどうだと言われていたし、いい機会だ。来年もまた頑張ってみよう。

 贈られたラナンキュラスのブーケがとても嬉しかったので、少しでも長く楽しめるよう、ドライフラワーを作った。冬場とあって乾燥も早く、受験勉強をする机に飾ると途端に空気が華やいだ。味気なかったはずの十二月が鮮やかに彩られたようで、とてもいい心地だった。
 ないものやなくなっていくものを嘆いたところで仕方ない。
 この十二月を私なりに、勉強の合間を縫ってでも楽しんで過ごそうと心に決めた。

 私がこの季節に光明を見出したちょうどその頃、鳴海先輩からも電話があった。
 先輩は相変わらずまめにメールをくれていた。近頃はほぼ毎日といってもいいほどで、毎晩夜になるとあの手紙のような整った文面で近況報告をくれた。もっとも、報告と言っても先輩のメールには先輩自身のことはあまり書いておらず、私の身体を案じたり、私がメールに書いたことへの反応をくれるばかりで、先輩がどうしているのかはなかなか伝わってこない。鳴海先輩はとかく私の近況を知りたがるけど、私が同じように思っているという点には考えが至らないようだった。
 だからこうして電話を貰えるのも嬉しかった。先輩が元気そうだとわかるとほっとする。先月の文化祭以降、一度も顔を合わせていないから尚更だった。
『風邪を引いていないか』
 そして電話でも、先輩が真っ先に尋ねてきたのはこの問いだった。
 私は笑いながら答える。
「おかげさまで元気です。先輩は大丈夫ですか?」
『ああ。しかし流行っているようだから油断はするな。気をつけた方がいい』
 毎年そんな感じだけど、今年もやはり風邪のシーズンが始まったようだった。東高校でもじわじわと流行の兆しがあるらしく、クラスの子が高熱を出して欠席したりしている。私もよく食べよく眠る生活を送るようにして、重々気をつけているつもりではあった。
『お前が元気そうならよかった』
 本当に心底安堵した声で、先輩は言った。
 それから改まった様子で続ける。
『今日は話したいことがあって電話をかけた。少しでいい、時間はあるか?』
「もちろんです」
 即座に私は応じた。ちょうど先輩の声が聞きたいと思っていたところだ――聞きたいと思うのはいつも、毎日そうだけど、先輩は受験生の私を気遣ってくれているのかなかなか電話はくれなかった。そうなるとこちらとしてもなかなか電話しづらく、何か口実はないものかと常に探している有様だった。
 ところで話したいこととは何だろう。怪訝に思う私に先輩が語りかけてくる。
『先月貰った文芸部の文集を、澄江さんに送っていたんだ。一度お前の作品も読みたいと言っていたから、少しの間貸していた』
 そういえば、八月にお邪魔した際にそんな話もしていたのを思い出す。鳴海先輩は自分の書いたものを澄江さんに全て読んでもらっているらしい。作品の良し悪しはわからないと澄江さんは仰っていたけど、あの家にあった膨大な量の蔵書を見るに、恐らく相当な読書家でいらっしゃるのではないかと踏んでいる。
 そんな方に私の、趣味の域を出ないような作品を読んでもらうのは畏れ多い。それでなくてもお年を召した方のお眼鏡に適うものか自信はなかった。私はびくびくしながら聞き返す。
「だ、大丈夫でしたか? 澄江さん、つまらなくなかったでしょうか」
 文化祭で展示する文集として作ったものだから、当然のように誰の目に留まる可能性だってある。だから読まれるのは別にいいのだけど、どんな反応が来るかというところはいつまで経っても慣れない。
 私のおっかなびっくりな反応を聞いて、鳴海先輩は軽く鼻を鳴らした。
『何を怯える必要がある。あの人が辛口の批評家に見えるか?』
「いえ、見えませんけど……」
『心配は要らない。とても清々しく、爽やかな文章だと誉めていた』
 そして誉められたら誉められたで反応に困る。電話口で顔を見られていないのをいいことに、私はほっとしつつも大いに照れた。
「嬉しいです。澄江さんにも私がお礼を言っていたと、ありがとうございましたとお伝えください」
 伝言を頼むと、先輩の声もどこか穏やかになる。
『ああ、伝えておく。澄江さんもまたお前の顔が見たいと言っていた』
「私もです。また是非お会いしたいです」
 澄江さんにはもっと先輩の話を聞いてみたかった。先輩自身には尋ねにくい、答えを期待できそうにない話でも、澄江さんを通してだったら案外すんなりと教えてもらえるかもしれない。
『だったらまた、来年の夏にでも行くか』
 鳴海先輩はそう言ってから、まるで自分に釘を刺すように言い添える。
『もちろん、お前のご両親への挨拶が先だ。澄江さんにまた叱られてしまう』
「そうでしたね」
 あの時の先輩の慌てようはおかしかった。彼女を連れて行く、という説明を全くしなかったところが先輩らしいけど、次に訪ねていく時はちゃんと言っておいてくれるだろう。
『正当な手順を踏んで、後ろ暗いところがなくなってからだ。次にお前を連れて行く際は、胸を張っていられるようにしなければならない』
 先輩は生真面目な口調で続ける。
『そういう手順が全て済んだら……次も、一緒に来てくれるか』
「はい。是非連れて行ってください」
 問われたから即答した。すると先輩は微かに、息をするように笑った。
『そうか。実は、澄江さんも電話の度にお前の話をするんだ。また会いたいとか、次の機会にはもっとたくさん話したいとか、このご縁を大切にしなくては駄目だとか』
 それから今度ははっきりと溜息をつく。
『他のことに関しては、あまり口を出してこない人なんだが。なぜかお前についてはしきりに口を挟んでくるから困っている。とにかくお前を大切にしろと言われ続けているが、そう言われてどう返事をしていいのかわからん。大切にしていますと断言できるような状態ではないからな』
 電話でも先輩は澄江さんに言い負かされているのだろうか。本当に困り果てた様子で先輩が零すから、私は笑いを噛み殺しながら答える。
「大丈夫ですよ先輩。十分、大切にしてもらってます」
『だといいんだが』
 先輩はどこか自信なさそうにしている。
『時々わからなくなる。お前の為を思ってしたつもりの行動が、実は裏目に出ていたということもあったからな……。何をすればお前を大切にしたことになるのか、よく考えてはいるんだが、俺が一人で考えて正しい答えが導き出せるかと言えば、そうでもなかった』
 私からすれば、そうやって私について考えてもらえるだけでも十分だった。
 考えすぎる先輩が思い込みだけで行動する前に、きちんと説明してもらえたらなという希望もあったりはするけど。それで何度か、必要もないのにお互い悩んだりもした。ついこの間だって私たちは、素直に胸中を打ち明けあう必要性を学んだばかりだ。
「わからなくなったら、また私に聞いてください」
 そう告げたら先輩は言葉に詰まったようだった。少ししてから言いよどむような気配と共に、答えが聞こえた。
『わかった、そうしよう。だが……』
「何ですか、先輩」
『……最近は、寝ても覚めてもお前のことばかり考えている』
 耳元で、吐息混じりの声でそんなふうに言われて、私は跳び上がりそうになった。最近の先輩は別の意味で言葉を選ばない。
『直接尋ねた方が早いとはわかっているが、しばらくは会えないからな』
 独り言のような呟きの後、先輩は思いついたように続けた。
『初詣くらいは、一緒に行けるだろうか。来年の話だが』
 来年と言われて、わかってはいたけど今度は少し落胆した。もちろん鳴海先輩のせいではなく、むしろ私のせいだからがっかりするのもおかしい。先輩だって本当は私と会いたがってくれている、そのことは今のやり取りからちゃんと読み取れるというのに。
 でも今年のクリスマスは、やはり、何もないようだ。
「いいですよ。行きましょう、初詣」
 なるべく明るい口調で私は答えた。何もないならないで、別の楽しみ方を見出せばいいだけの話だ。それにこれだってデートのお誘いには違いない。
「先輩はいつなら都合いいですか?」
『そうだな……三が日のうちなら、三日がいい。元日は用事がある』
「わかりました。じゃあ三日に行きましょうか」
 私は早速、先輩と初詣の約束をした。
 ついでなので吹っ切れるべく、クリスマスの予定も確かめておくことにする。
「先輩、今年も大槻さんのコンサートに行くんですか?」
『ああ、今年は二十四日だ。またチケットを買わされた』
 若干言い訳めいた言い方で、先輩は私の問いを肯定した。それからすぐに言われた。
『お前が受験生でなければ、今年も付き合わせたところなんだが』
「……いいんです。そうだろうなって思ってました」
 今度はさすがに落胆もなかった。覚悟をしておいたおかげだろう。
「私の分まで楽しんできてください、先輩」
『そうしよう。俺はクリスマスのありがたみというやつが今一つわからないから、楽しめるかどうか怪しいものだが』
 鳴海先輩もクリスマスに特別な思い入れがある人ではないらしい。そういうふうに言われて、でも今年は、先輩にも楽しい気分になってもらえるような何かをしたいと私は思う。
 そうそう出歩けない私にもできることと言えばあまりないけど、例えばクリスマスカードを送るなんてどうだろう。メールのやり取りも悪くない、でもたまには手書きの手紙というのもいいものだ。先輩ももしかしたら喜んでくれるかもしれない。
「先輩、今年も年賀状を出しますね」
 確かめるつもりで私は、別のことを尋ねた。もし喪中ならクリスマスカードだって出せないだろうし。
『そうだな。俺も、そろそろ書こうと思っていた』
 先輩がそう答えたのでひとまずほっとする。
「お待ちしてます。……あ、澄江さんにもお出ししていいでしょうか」
 思えばあれきりお会いしていないし、先輩がいかに私を大切にしてくれているか、一言でもお伝えしておくべきかもしれない。それに、あの時お世話になったお礼も言っておきたい。私が問えば、先輩も快い返答をくれた。
『負担でなければ頼む。あの人もきっと喜ぶだろう』
「わかりました。では、澄江さんのご住所を教えてください」
 先輩は口頭で澄江さんの住所を読み上げ、私はそれを一字一句誤りのないようにメモを取る。こちらからも読み上げて確認した後、先輩は安堵の口調で言った。
『お前がそう言ってくれて嬉しい。俺から頼むのも、押しつけがましい気がしていたからな』
 その声が心から喜んでいるように聞こえたから、私まで嬉しくなる。
 先輩にはいつでも嬉しそうに、幸せそうにしていてもらいたい。その為にも私は、受験生にできる範囲内でクリスマスを堪能しようと考えていた。  
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