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いち早く指先は知る

 十七歳になったばかりの雛子を部屋に招いた俺は、初めて彼女に紅茶を入れてやった。
 座卓の前に彼女を座らせ、卓上に紅茶を注いだ真新しいティーカップを置く。傍らには部屋に来る途中で購入したケーキも添えておいたが、雛子が目を瞠ったのは初めて見るはずのティーカップの方だった。すぐに彼女は勢いよく面を上げ、その拍子に首にかけていたペンダントがちり、と微かな音を立てる。
「この紅茶、先輩が入れてくださったんですか」
「俺以外に、他に誰がいる」
 答える代わりに聞き返すと、彼女はたちまち困ったように眉尻を下げる。
「いませんけど……、もしそうならお手間を取らせて悪いなと思って」
「客がいちいちそんなことを気にするな」
 俺は無用の気遣いを一蹴すると、座卓を挟んだ反対側に腰を下ろし、雛子を促した。
「いいから飲め。感想を聞いて今後の参考にしたい」
「は、はい。ではいただきます」
 雛子がおずおずとティーカップに手を伸ばす。湯気が立ち上るカップの縁から二、三度息を吹きかけ、そっと唇を寄せた。
 ちょうど秋も深まり、夕方になると温かい飲み物が恋しくなるような時期だった。雛子は睫毛を伏せてカップをわずかに傾けると、眼鏡のレンズを曇らせながらも行儀よく紅茶を味わった。下校するところを捕まえて連れてきた雛子は紺のセーラー服姿で、しかし細い首にかけられた細い銀色のペンダントがどうにもちぐはぐな印象を与える。今日は十月二十二日、雛子の誕生日当日だった。それを今日、しかも当人からではなく人づてに聞かされた俺が動揺するのも致し方ないことであり、そのせいであれこれと気が回らなかった点もあったかもしれない。アクセサリーを買ってやるなら休日の方がよかったようだ、と今頃思ったところで遅い話だろう。
 もっとも、本人が気に入っているようだから部外者が口を挟むのも野暮なことだ。東高校のセーラー服には不似合いなペンダントを、雛子はあれきり外すそぶりも見せずに身に着けてくれている。女物の装飾品を購入したのは初めてだったが、どうやら失敗はせずに済んだようだ。
 そんな思いを巡らせながら雛子を見守っていると、やがて彼女は唇をカップの縁から離した後、はっとしたように声を上げた。
「この紅茶、茶葉から入れたんですか?」
「わかるのか」
 さすがは普段から、まるで飲み物はそれしか知らないみたいに紅茶ばかり飲んでいるだけはある。俺は甚く感心した。
 だが雛子はなぜか戸惑っているようだ。曇りが引いていくレンズの奥で、長い睫毛を瞬かせながら続けた。
「香りが全然違いますから。あの、とても美味しいです」
「濃さはどうだ。注文があるなら今のうちに言え」
「な、ないです。このくらいがちょうどいいです」
 慌てたように答えた雛子が、その後で俺をじっと見る。彼女はよくこうして俺を見つめてくることがあるが、今の眼差しは謎解きに挑むような熱心さを帯びていた。
 その視線から逃れるように俺が目を逸らすと、すぐに彼女の声が追い駆けてくる。
「私の為に用意してくださったんですよね」
「当然だ。ここにお前以外の客がいるか?」
「いえ、そうではなくて……茶葉とか、このティーカップもです」
 目が悪いくせにたまに目敏い雛子は、カップの真新しさにも気がついたようだ。
「今まで客用のものがなかったからな。いい機会だと思って揃えた」
 そもそもこの部屋に人を招くことがあるとは、一人暮らしを始めた当初は考えもしなかった。食器類は必要最低限のものしか備えていなかった為、雛子がたびたび部屋を訪ねてくるのなら何かしら用意しなくてはならないと思っていた折だった。
 喫茶店などに入ると、雛子は必ず紅茶を注文する。それを何度となく目にしていたから、俺は思い立ってまず安物のティーセットを購入することにした。ついでに紅茶の入れ方も図書館で調べて、何度か自室で練習もした。経費をかけてまで不味いものを彼女に飲ませるわけにはいかないと考えてのことだったが、どうやら今日はその成果が出せたようだ。
 そういった水面下での動きを知らないはずの雛子は、しかし俺を見て控えめに微笑んだ。
「ありがとうございます、先輩。お蔭で最高の誕生日になりました」
「そうか」
 彼女の為にしたことではあるが、面と向かって礼を言われると居心地が悪くなる。俺は短く応じた後、特に言うべきことも思い浮かばずに口を閉ざした。
 俺自身は誕生日というものにさしたる思い入れもなく、ここ数年は祝ってくれる人もいなかった為、ともすれば忘れがちだった。
 だが雛子は――彼女は家へ帰れば家族に誕生日を祝ってもらえるのだろうし、恐らく学校でも友人から祝福されたのだろうが、それでも俺が祝えば喜んでくれるであろうことはわかっていた。俺も、今日のこの日に彼女が、この世に生を受けたという事実に何も思わないわけではない。できることがあればしてやりたかった。
「プレゼントだけでもすごく嬉しかったのに、先輩が美味しい紅茶を入れてくれるなんて……」
 雛子は興奮気味にまくし立てると、買ってきたケーキには見向きもせず、再びカップを持ち上げる。
 彼女の唇がカップの縁に触れるのを、俺は意味もなく眺めていた。屋内に閉じこもって本ばかり読んでいるせいで、柄沢雛子は出会った頃からずっと色が白い。同様に唇も色素が薄く、いつも寒そうな淡い桃色をしていた。
 だが温かい紅茶を飲んでいるせいか、今の彼女の唇には血が通ったような赤みが宿っていた。なめらかで柔らかそうで、いつも艶やかだった。ふと気づいた時には目が離せなくなっていた。
「……じっと見つめられると、飲みづらいです」
 不意に、雛子がカップを持ったまま俯いた。
 また眼鏡を曇らせているので表情はわからなかったが、テンプルを載せた小さな耳がほんのり色づいていた。
 指摘されて初めて、俺は本人に気取られるほど熱心に見つめていた事実に気づく。内心ぎくりとしたがおくびにも出さず、話を逸らした。
「紅茶についてもう少し感想が聞きたい。何かないか、雛子」
「はい。とっても美味しいです」
「具体的に言え。美味しいだけでは次回の参考にならん」
「ええと、そう言われましても……美味しいとしか言いようがなくて……」
 小説の感想ならすらすら口にする彼女も、紅茶の感想となると途端に言葉を詰まらせていた。彼女なりに一生懸命考えていたようだが、赤みを帯びた唇はなかなか動き出そうとせず、結局『美味しい』以外の言葉を紡ぐこともなかった。
 そして俺は、一向に動こうとしない彼女の唇を見つめていた。高い枝に実った果実を見上げるような、焦がれる思いで注視していた。

 その唇の感触を、俺はまだ知らない。
 夢には見たことがある。あれは夢だった、のだと思う。飛び起きた直後もまだ触れられた実感が残っているような質の悪い夢だった。だがはっきりと彼女の夢を見ていたわけでもないのに、俺はその唇を彼女のものだと思った。それは単なる願望か、それとも俺に触れられるのは雛子の他には誰もいないとする倫理観からか、果たしてどちらだろう。何にせよそんな夢を見てしまったせいで、近頃は彼女の唇が気になって仕方がなかった。
 考えてみれば奇妙なものだ。唇は誰の顔にも必ずあるパーツの一つに過ぎず、色や形は人それぞれ微妙に違うものだが、雛子のそれが特別目立つような形をしているということもない。また他の部位のように男と女で明確な差異があるというわけでもない。なのになぜ俺は彼女の唇が気になるのだろう。触れたいと思うのだろう。そこに触れることで一体どんな得るものがあるというのか、まるでわからない。
 口づけるという行為が愛情表現の一種であることは当然知っていたし、俺も実際に試してみたことがある――その時はまるで伝わらなかったようだが。しかし今の俺は彼女に何かを伝えたいと思っているわけではなく、本当に純粋な欲求からその唇に触れたいと思っているだけだった。いや、それを『純粋』と表するのは詭弁だろう。その欲求が何に端を発するものかは自分でもおおよそ察しがついている。
 だが、なぜ身体の他のパーツではなくあえて唇に執心してしまうのか。
 そもそも人々が口づけを愛情表現としたのはなぜで、どのような経緯があって現代にまで定着し続けているのか、考えてみるべき段階にいるのかもしれない。

「――先輩は、紅茶を入れるのもお上手なんですね」
 半分ほどまで減らしたティーカップを置き、ようやくケーキに手をつけ始めた雛子が言った。
 直径十センチほどの小さな丸いケーキは、赤いイチゴと白いホイップクリームでシンプルに飾りつけられていた。誕生日なら蝋燭をつけることもできると店員は言っていたが、雛子は恥ずかしそうにそれを拒んでいた。ケーキは真ん中で包丁を入れ、半分を彼女が、残り半分を不本意ながら俺が受け持つことになっていた。お祝いだから形だけでもと言われて、不承不承一口、二口食べておく。甘かった。
「客に不味いものを出すわけにはいかないだろう」
 顔を顰めて俺が応じると、雛子はこちらを見てくすっと笑った。
「それって、私の為に入れ方を練習してくださったってことでしょうか」
 ご明察だったが、馬鹿正直にそう告げればまたうるさく言われ続けるに決まっている。俺はまたしても話を逸らした。
「あの紅茶というやつは、一度缶を開封したらどのくらい持つものなんだ」
「えっ、どうでしょう。いつも早々と飲み切ってしまいますからわからなくって」
 雛子は答えに詰まっていた。
 紅茶が好きならたやすく答えられるだろうと踏んでの問いだったが、好きだからこそわからないこともあるようだ。
「わからないのか」
「はい、すみません……。缶に書いてある期限よりは早く飲まないと駄目ですよね」
「当たり前だ。あれは未開封の状態の期限だからな」
「そうですよね。じゃあ、どのくらいなんでしょう。今度調べておきましょうか」
 彼女が眉根を寄せて考え込み始めたので、俺はそれを制止した。
「風味を損なう前に飲み切ってしまえばいい話だ。俺一人では無理だから、お前が手伝え、雛子」
 雛子は一瞬きょとんとしたが、すぐに聞き返してきた。
「いいんですか?」
「何がだ。そうしてくれなければ困ると言っているのに」
「でしたら、そうします。またお部屋に呼んでください」
「ああ、また時間ができたらな」
 俺は胸中を面に出さないよう答えた。
 だが雛子は含んだような微笑を浮かべ、無言でケーキを口に運ぶ。フォークで切り分けたスポンジは彼女の口にはやや大きかったようで、唇を閉じた時、口の端に白いクリームがわずかに残った。
「口についてる。子供かお前は」
 指摘した途端、雛子は目を白黒させて慌てふためいた。
「えっ、ど、どこですか。やだ、恥ずかしい……!」
 先程俺が見つめていた時以上に赤くなってうろたえ始めたので、そこまで恥ずかしがるのならなぜ気をつけないのかと呆れたくなる。雛子は落ち着きのない動作で自分の口の周りに触れていたが、うろたえるあまりかクリームを上手く拭えていない。
「いいからじっとしていろ、俺が取る」
「せ、先輩、そんなっ」
 雛子は声を上擦らせたが、俺は手を伸ばして彼女の唇に触れた。親指の腹で下唇から口の端へ、白いクリームを掬い上げるように拭うと、指の先に柔らかく沈み込む感覚があった。クリームそのものと錯覚しそうなほど柔らかい唇だった。
 次の瞬間、かっと体温が上昇するのがわかった。慌てて手を引っ込めたが、指先に残る感触が熱に置き換わりじわじわと蝕むように広がっていく。ひときわ熱を持つ右手親指に、拭ったばかりの白いクリームが付着していて、どうしていいものかと迷う。
「すみません、先輩すみません! 今拭きますから」
 彼女の声に我に返った時、雛子は俺の手を掴んでハンカチでごしごし拭っているところだった。そうしてあっという間に俺の指をきれいにしてしまうと、上目づかいに俺を見る。
「本当にすみませんでした。まさか先輩が拭ってくださるなんて思わなくて」
「……ああ」
 俺もとっさに手を出してしまったが、考えてみれば出すぎた振る舞いだった。
 触れたいと思う気持ちはあっても、まだ触れられないと思っていた。そうするのは自分の中の数々の疑問に答えが出てからだ。なぜ彼女の唇に触れたいのか、それをじっくり熟考して明確かつ得心のできる解答を導き出すまでは堪えるべきだった。だが彼女の唇は思いのほか近くにあり、俺が一瞬の気の緩みから手を伸ばして触れてしまえるほどに無防備だった。迂闊だったと思う。
「先輩の指を汚してしまってすみません。あとでちゃんと、手を洗ってくださいね」
 雛子は気に病んでいるようだったが、唇に触れられたことを気にしているようには見えなかった。
 どう返事をしていいのかわからず、俺はきれいに拭われた彼女の唇を改めて見つめた。
 ごく当たり前のように、手を伸ばせば触れられる距離にある。
「これからは気をつけて食べますから」
 はにかむ雛子の唇がそんなふうに動くと、俺は熱に浮かされた気分でそれを目で追うしかなかった。
 次に触れたくなる時までに、俺はその欲求に対する明確な答えを出せているだろうか。出せなかった時、俺は触れたい欲求を抑え込んで手を伸ばさずにいられるだろうか。あるいは手を伸ばすだけで済むかどうか、それすら自信がなかった。
 一つだけ言えるのは、彼女の唇までの距離がいつの間にか縮まり、手を伸ばせば触れられるところにあるということだ。もしかすると、俺が純粋な欲求から触れてみたとしても、雛子は――。
「先輩はもう食べないんですか?」
 雛子がちらりと俺の皿に目をやった。
 その言葉に俺はようやく気を取り直し、少し笑って皿を押しやる。
「食べたいなら食べていい。俺はもう十分祝った」
「ありがとうございます、いただきます!」
 食べかけのケーキを受け取る雛子が嬉しそうに笑むと、彼女が細い首にかけているペンダントが、また微かな音を立てた。
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