私情までの境界線
館内には場違いな声が響いていた。「どうせならもうちょい薄い本紹介しろよ」
「十分な量じゃないか。一日あればお前でも読み切れる」
「読めねえっつってんだろ」
どこからか聞こえてくる騒々しい会話。耳障りだ。思わず眉を顰める。
普段は静かで利用者のマナーもいいこの図書館に、今日は場にそぐわない連中が踏み入っている。声からして若い男のようだが、常識を持ち合わせていない輩なのか。全く、どうしたものだろう。
「大体、読書感想文なんて宿題、訳わかんねえし」
「お前な、村上先生を怒らせてみろ。間違いなくうるさいぞ」
「知ってるって。だからお前に頼んでんだろ、面白い本教えろっての」
「だから、この本が面白いって言ってるんじゃないか。読んでみろよ」
――東高校の連中なのか。村上の名前が出て、もう一度眉を顰める。
ということは後輩か。ますます捨ておけない。これ以上騒ぎ立てるようなら一言注意をしてやるべきかもしれない。そんな思案をしながらふと、気付く。
近代文学が並ぶ棚付近に、先程までいたはずの姿がない。視線を巡らせて見ても、雛子が辺りに見当たらない。あいつはどこへ行ったのだろう。
図書館で本を選ぶ時は、大抵別行動を取っていた。読み物の趣味が偏っている俺と比べて、雛子は多種多様なジャンルを読む。そうなると行動を共にしている必要もないので、お互い好きに歩き回り、本を選ぶことにしていた。
しかしいざという時、すぐに姿が見つからないのは厄介だ。今も、特に用がある訳ではなかったが、傍を離れる時は声くらい掛けて欲しいものだと思う。いつものことだが、ふらふらといなくなるあいつを探し回るのも癪だ。
さっきまで傍で室生犀星を手に取っていた雛子は、次は何に関心を示すのだろう。見当もつかず、俺は溜息をつきながら歩き出す。
海外文学のコーナーへと近付いた時だった。
「図書館で会うなんて、偶然だね」
聞き慣れた声が、聞き覚えのない口調でそう言った。
はっとして足を止めると、別の声が続いて聞こえてくる。
「だよな。村上が妙な宿題出さなけりゃ、こんな辛気臭いとこまで来なかったってのに……」
この声は、先程の騒がしい連中の一人のもの。
「ああ、感想文の宿題?」
それからこの声は、――雛子だ。
「そう。匠の奴、全く書けてないどころか本すら選んでないんだ」
騒がしい連中の、もう片方が呆れたような口調で言ったが、呆れるのはこちらの方だ。
雛子はこの連中と知り合いなのか。だったらどうして、早いうちから注意をしてやらなかったんだ。図書館で騒ぎ立てることがどれほど迷惑なものかを知らないはずもないのに。
「柄沢はもう書いただろ?」
「うん。提出しちゃった」
「いいよな、文芸部員」
本棚を一つ隔てた向こうから、気安い会話が聞こえてくる。内容から察するに、連中は雛子の同級生なのだろうか。
普段、俺にはしかつめらしい話し方をする雛子も、同年代の人間とはこんな風に会話を交わしているのか。そう思うと、何とも奇妙な心持になる。知らない顔を見ているようで、落ち着かない気分に囚われた。
「普段いろいろ書いてんだし、感想文を適当にでっち上げるくらい簡単だろ」
「そうだね。でっち上げた訳じゃないけどね」
ふざけたような男の言葉に、雛子が笑う声が聞こえた。失礼千万な物言いだと思ったが、それでも雛子は怒らない。この男に言われ慣れているのか、そのくらい普段より親しい相手なのか――こちらの知ったことではないが。
「酷い言い方するなよ、匠」
「知るか。出来る奴にはわかんねえよ、俺の苦しみなんて」
「俺にもわからないけどな。せっかく一緒になって本を選んでやってるのに」
俺にもわからない。この場違い連中が図書館まで出向いてああだこうだと騒ぎ立てる神経が理解不能だ。とっとと本を選んで出て行けばいいものを、駄々を捏ねるような会話を続けて、ぐずぐず居座っているのが気に入らない。相変わらず、耳障りだ。
おまけに雛子も雛子だ。先程から連中に注意一つする気配もない。それどころか一緒になって騒いでいるのにはさすがに失望した。親しい仲にも礼儀あり、同級生なら尚のこと厳しく言い含めておき、それからとっとと戻ってくるべきだ。
棚の陰で顔を顰めていれば、不意に、片方の男が言った。
「柄沢、もし良かったら何か本を紹介してやってくれないか」
何を言うか。俺は思わず歯噛みした。どうして雛子が、お前らのような非常識な連中の為に本を選んでやる必要がある。
「私が?」
問い返した雛子の声もいささか困惑しているようだった。当然だろう。
「ああ、そりゃいいな。笹の趣味は黴臭そうなのばっかで駄目だし」
「お前の趣味に合う、簡単で読み易くて分厚くない本を探すのは大変だろうな、匠」
つくづく勝手なことばかりを言う連中だ。人にものを頼む態度か、それが。
もっとも、雛子が連中の頼みを唯々諾々と了承するはずもない。何の為に今日、この図書館まで足を運んだのか、考えるまでもなくわかっていることだろう。他所の連中に手を貸すような暇など持ち合わせていないし、それより他にすべきこともある。
何より雛子は、同道した俺を長らく放っておいて、他の連中に付き合うほど薄情な女でもない。俺はそう信じて疑わなかった。
しかし、
「私で良ければ、協力するけど」
彼女の答えは想像を絶するものだった。
――どうしてそうなる。そう答えるとはよもや思わず、ただただ愕然とした。
雛子はとんだ薄情者だったようだ。連中の頼みを唯々諾々と了承し、躊躇いも見せずにいるとは。まさか、俺と来ていることを忘れた訳ではあるまいな。
衝動的に、本棚の陰からそちらを覗く。ちょうど雛子は、二人の男と踵を返して、どこかへ去ろうとしているところだった。向けられた背に声を上げそうになり、咄嗟に口を噤んだ。
全く、どういう了見だ。俺のことを放り出してまであの非常識な連中に手を貸すとは、信じがたい。それならこちらにだって考えがある。連中と一緒になって騒いでいる雛子にも、ここは厳しく言ってやらねばならない。知人が相手だからこそ、時に強く諌める必要もある。この場合、容赦も不要だろう。
しかし――去り際の姿をしばし見送り、俺はふと、思い留まる気になった。
連中と並んで遠ざかる雛子が、ちらと笑顔を見せたからだ。いつもは傍で見ている控えめな笑み。他の二人と比べても、歳よりやや大人びた笑い方をしている。
遠くにあるその笑みを目にして、少し気持ちが落ち着いた。大人げもなく頭に血が上っていたようだ。連中の非常識さはともかく、雛子に対して腹を立てることと、去来する複雑な感情とを取り違えてはならない、と思う。
複雑には、違いない。せっかく連れてきてやったというのに、俺の存在を放り出して、他の連中の元へ行ってしまう雛子のことを、複雑だと思う。しかし、あれのお節介焼きは今に始まったものでもない。級友に何か頼まれれば出来る限りのことは断らないだろうし、余程のことでもなければ他人を強く突っ撥ねる性格でもないだろう。仕方がない。
雛子の、学校での生活態度はよく知らない。どんな友人がいて、どのように学校生活を送っているのか、あまり話にも聞いていない。一年間、文芸部にて活動を共にしていたが、それだけでは窺い知れない顔もあったようだ。あんな風にくだけた、気安い口調で話す雛子のことを、今日になって初めて知った――やはり、いささか複雑だ。
三人の姿を、すぐに追い駆ける気にはならなかった。
連中が更に騒ぐようであれば、そして雛子に注意をするそぶりがないようならば、その時こそきちんと注意をしてやろう。それまでは気を落ち着けておくことにする。
公共道徳を説くのに私情を混ぜ込むことほど、大人げないものはない。決して、くだらない感情から連中を疎ましく思っている訳ではないのだと、自分自身でも納得のいくような態度を示さなくてはならない。だからしばしの間、様子を窺うだけに留めておく。
目の前の、海外文学の棚に手を伸ばす。一冊を選んで抜き取ろうとしたら、手が震えているのに気付いて、さすがに苦笑した。
俺は今でも十分に大人げないようだ。