真実は言わない
日増しに暖かくなってきた春半ば。外はしとしとと降る雨模様で、だけど肌寒さは感じない。窓を隔てた水音が、室内の静けさをより際立たせていた。
その穏やかな静寂の中で、鳴海先輩はやぶからぼうに言った。
「甘い物は好きか、雛子」
「え?」
座卓の上にノートと教科書を広げていた私は、思わず顔を上げた。今日も今日とて先輩の部屋にお邪魔して、受験勉強に励む最中のことだった。
「先輩、あの……どういうことでしょうか」
いきなり水を向けられても何のことだかわからない。確かに私は根っからの甘党だったけれど、なぜそんな問いを、脈絡もないこのタイミングでぶつけて来たのだろう。
大体、私の嗜好を先輩が知らないわけがないのに。私たちはこれでも、それなりの年月を共有してきた間柄だ。私は先輩が甘味は苦手なのだと知っているし、同じように先輩も私について知っているはずだった。
「だから、甘いものは好きかと聞いているんだ」
先輩は苛立った様子で先の問いを繰り返す。
既知のはずの事実確認に、私はおずおずと首肯した。
「それは……好きです。けど」
「けど、何だ」
「いえ、好きです。甘いものは大好物です」
座卓を挟んで向かい側に座っていた鳴海先輩は、私の答えに満足げに顎を引く。
「そうか」
そしておもむろに立ち上がり、
「なら、和菓子も食べられるな?」
もう一つ尋ねてきた。
「はい……」
もちろん大好物だ。
だけど、何かが引っ掛かる。先輩の問いがあまりにも唐突過ぎたせいかもしれない。どうしてそんなことを聞くのだろうと疑問ばかりが先行する。
「わかった。葛餅があるから食べてくれ」
そう言った先輩の所作はいつものように無駄がなかった。音もなく立ち上がり、きびきびとした足取りで台所へと消えていく。少しの間も置かずに食器棚を開く音、そして冷蔵庫の開閉音が聞こえてきた。どれもが雨音に混ざるように、ひっそりと。
いつものように、私の疑問は置き去りのままだ。
葛餅ももちろん好きだ。
でも私が引っ掛かっているのはそのことではなく、甘い物が好きではないはずの先輩の部屋に和菓子があるということ、かもしれない。いつも私がケーキやらパフェやらを食べていれば、その様子をまるで物珍しげに、なぜそんなものを好んで口にするのかと言いたげに見守っている先輩だ。その結果、私が体重の増加を嘆けこうものなら『気にするくらいならいっそ、甘い物を断てばいい』とためらいもなく勧めてくる。断とうと思って断てるような生易しい代物ではないのに、先輩はつくづく厳しい人だ。
先輩の机の上では、デジタルの置き時計が午後三時を示していた。だから先輩は私に和菓子を出そうとしてくれたのだろうか。おやつの時間も規則正しく、というのはいかにも、らしい。
程なくして先輩は布巾を手に戻ってきた。
私が慌ててノートと教科書を畳むと、座卓の上をざっと拭き、また台所へ消える。すぐにガラスの深皿とデザートスプーンを持ってきて、私の前に置いてくれた。
淡いピンク色のガラスの器。その中に薄い乳白色をした真四角の葛餅が三つ積み重なっている。微かな振動にもふるふると揺れる葛餅には黒蜜ときな粉も添えられて、とても美味しそうに見えた。
「い、いただいてもよろしいのですか」
デザートスプーンを手に取ってから、はたと気づいて私は尋ねた。
先輩が無愛想に頷く。
「どうぞ。俺は食べる気もない」
「では、いただきます」
スプーンで美しい立方体の一角を削ぎ取る。
黒蜜と黄粉を絡めてから口に運ぶと、程よく冷やされた期待通りの甘さが口に広がった。柔らかくも弾力のある葛餅は、食感も喉越しも良く、勉強の合間に食べるにはぴったりだと思う。
「口に合ったか」
座卓の向こう側から先輩が聞いた。
「はい、とても美味しいです」
「そうか。よかった」
私の答えに、仏頂面の先輩はほとんど表情を変えない。本当によかったと思っているのかどうかはわからない。それもいつものことながら、今日はことのほか無関心なように映る。
表情が変わったのは、
「あの、ところで先輩」
葛餅を少しずつ切り崩しながら、私が口を開いた時だった。
「こんなことをお聞きするのも変ですけど、この葛餅は一体どうされたんですか」
途端、先輩の眉間に深く皺が刻まれた。予想以上に厳しい眼差しをこちらへ向け、即座に聞き返してくる。
「どうしてそんなことを聞く」
聞いてはいけないような話題だろうか。反応の激しさに私の方が困惑する。
「いえ、ほんの些細な疑問です。けど」
「何だ」
「先輩は甘い物がお嫌いなのに、葛餅を買われることがあるのかな、と思いまして……」
嫌いなのにわざわざ購入することもないだろう。普通ならば。
それに、この葛餅はスーパーなどで売られているものとは明らかに味が違った。葛餅自体の甘さはごく控えめで、上品な味わいだった。片栗粉で作ったものとは違い、ちゃんと葛粉の風味もする。
私の疑問は先輩にとっては気まずいものだったようで、眉間の皺はますます深くなる。
「俺が和菓子を買うのはおかしいか」
「え……ど、どうでしょう。先輩こそ、和菓子はよく買われるんですか」
「いや。今回はたまたま、気が向いただけだ」
そう言って先輩はふいと顔を逸らした。
「気が向いただけ、ですか」
私はその言葉を反芻する。
甘い物嫌いの鳴海先輩がお菓子を、たまたま気が向いたという理由で購入する。しかも葛粉を使用した本格的な葛餅を。――これらの条件から導き出される真実はほぼ一つだ。
「もしかしてこの葛餅、私の為に買ってくださったんですか」
私は推測を恐る恐る口にした。
すると先輩は、指摘されたくないことを指摘されたとでもいう風に顔を顰める。
「だとしたら、どうだと言うんだ」
「いえ、どうということもありませんけど……」
だったら素直に教えてくれたらいいのに、とは思う。別に隠すような話ではない。私は単純にできているから、『鳴海先輩が私の為に』という枕詞がつくだけで浮かれてしまうほどなのに、先輩はどうしてそう言ってくれないのだろう。
「糖分を摂るのは脳にいいんだ」
この期に及んで先輩は、顔を背けながらそんなことを口走る。
私は笑いを堪えながら応じた。
「仰る通りですね。あの、ありがとうございます」
「気が向いただけだと言っている。むしろ気の迷いとでも言おうか」
「でもうれしいです。それにとても美味しくって」
「……ともかく、口に合うならよかった」
ぼそりと低い声が聞こえてくる。何から何まで素直ではない人だった。
だけど、とても優しい。
私は背けられたままの顔に、そっと声をかけてみる。
「先輩。このお菓子はどちらで買われたんですか」
「その辺だ」
「お店、是非教えてください。とても美味しいのでまたいただきたいです」
「偶然行き着いた店だ。俺もよく知らない、もう二度と行くこともあるまい」
「では今度、一緒に探しに行きませんか」
「うるさい奴だ。探しても見つかるものか」
うんざりした様子で先輩は立ち上がった。
そして仏頂面のまま一言、
「お茶を淹れてくる」
と言い残し、また台所へと消えていく。
雨音に湯を沸かす音が加わった頃、私は一旦スプーンを置き、半分ほど食べた葛餅から視線を外した。
通い慣れた居心地のいい部屋。
鳴海先輩は几帳面な人で、独り暮らしだと言うのにいつでもこの部屋をきれいにしていた。どこもかしこも整えられた室内は、雨の日の静けさが良く似合った。机の上には塵一つ落ちていないし、本棚の本は背表紙を揃え、美しく並べられている。
――と、そこに一つ奇妙なものを見つけた。
本棚の最下段、百科事典やアルバムの並びの陰に、ごく薄いムックサイズの本が隠れていた。
普通なら見逃しかねないその本に目が留まった理由は簡単だ。クラフト紙で作ったとおぼしきブックカバーがかけられていて、背表紙のタイトルが読めない状態となっている。
先輩は几帳面な性格だけあり、読んだ本を棚へしまう際は必ずブックカバーを外す人だった。なのにどうしてこの本だけ――そう、これだけだ。この薄いムックだけが、まるで人目を避けるように覆い隠されている。それが、私に対する隠匿の手段であろうことは容易に察した。目下この部屋に出入りしているのは、先輩の他には私しかいないからだ。
いつもは文庫本ばかり手にしている先輩が、こういった本を購入するというのも意外だった。中身が知りたい、気になってしまう。きっと先輩は私が気にするとわかっていて、こうしてカバーをかけたままにしているのだろう。だけど、そこまでしてこの部屋の本棚に置いておく本とは一体どんな物だろうか。
疑念と好奇心が湧き起こり、やがて躊躇を退けた。
私はその本にそっと手を伸ばす。引き抜いた時に隣の本が倒れた音は、雨音とやかんの呼び声が掻き消した。他人の趣味を覗き見るような後ろめたさもなくはなかったけど、それよりも先輩の読書における新規開拓の方向性に興味があった。
果たして、恐る恐る開いた本の中身は、
「……え」
予想に反して、いや、予想なんてつくはずもなかった。もちろん一般的なムック本のどんな内容が載っていても私はもれなく驚かされただろうけど、その可能性の中でも抜きんでて驚愕のテーマが開いたページに記されていた。
お菓子作りの本だ。
初級者用のお菓子作りと銘打たれたそのムック本は、和菓子から洋菓子に至るまで、手作りで出来るレシピがあれこれと並んでいた。
しかもあるページには付箋まで貼られていた。こわごわそこを繰ってみれば、やはり葛餅の作り方が載っている。真横に添えられた写真の葛餅は、私がいただいていたあの葛餅と、形や盛り付け方までそっくりそのままだった。
つまり――。
「見たな」
背後で、不意に声がした。
びくりと縮み上がった私はつい本を取り落とし、振り向いた瞬間に、鳴海先輩の大変気まずげな顔を見つけた。だけど私の方も気まずいと言うか、申し訳ない気分になる。
「あ、あの、勝手に読んですみません、先輩」
謝った後、疑問が私の脳裏に膨れ上がる。口にせずにはいられなかった。
「この本、先輩は、もしかして葛餅を……」
もはや疑問と言うより確認に近かった。
お茶の入った湯呑みを手にした先輩は、険しい表情で私を一喝した。
「そんなわけがない」
「でも……あの、付箋が、貼られてますし」
「お前は、俺が台所に立って、菓子なんぞを作っている姿が想像できるか」
先輩が聞き返してくる。
答えはもちろん、一つしかない。
「できません……」
それなりの年月を共有してきた間柄でありながら、台所でお菓子作りに精を出す鳴海先輩の姿は、全くもって想像できない。しかもそれが私の為だと言うのなら嬉しいような、見てみたかったような。でも先輩にとっては絶対に見られたくない姿にも違いなかった。
「そうだろう」
頷いた先輩は私を睨み、
「だったら何も言うな。お前の考えているような事実は一切ない。その葛餅は本当に買ってきたものだ」
きっぱりと言い切った。
私は、だけど腑に落ちない。
だったら、先輩の言うとおりだとしたら、この本は一体何なのか。どうして隠すような真似をしておいたのか。そしてわざわざ付箋なんて貼っておいたのか。
先輩は独り暮らしで、料理もそれなりにする人だった。だからきっと葛餅も苦もなく作れるだろう。お菓子作りだなんて全く想像はできないにしても、作ったのが事実なら隠すことも、下手な嘘をつく必要だってないのに。
雨音と共に沈黙が、長く続いた。
先輩が唇を引き結んで、私の前に湯呑みを置く。
私は困惑したまま視線を巡らせて――ふと、机の上の置時計のデジタル表示を見つけた。
そういえば今日は四月一日だ。
つまり、つまりはそういうことなのだろうか。
「先輩」
座卓の向こう側に腰を下ろした先輩に、私は真実を見つけた思いで尋ねた。
「もしかしてこれって、エイプリルフールの嘘でしょうか」
先輩は極めて不機嫌そうな面持ちで答える。
「いいから黙って食べろ」