場違いなふたり
聞き覚えのある声を捉えたのは、手に取った辞書を開いた瞬間だった。「――馬鹿、こんな分厚い本読めっかよ」
「読まなきゃ感想文、書けないだろ」
男の子二人のやり取りは、覚えがあると言うよりもむしろ聞き慣れたものだった。いつもならC組の教室で良く耳にしている声。
でも、ここは市立の図書館だ。私はよくここに足を運ぶけど、今まであの二人と会ったことはなかった。野球部員の二人は、あまり図書館に縁があるようには見えない。だから少し驚いた。
辞書を閉じ、本棚に戻してから、私はそっと声のした方へと近付く。
やっぱりクラスメイトの二人だった。――外崎くんと、笹木くん。
それぞれ私服姿の二人は、海外文学の棚の前で何やら問答を続けている。
「どうせならもうちょい薄い本紹介しろよ」
「十分な量じゃないか。一日あればお前でも読み切れる」
「読めねえっつってんだろ」
静謐な図書館に二人の言い争うような声だけが響いていた。
あの二人は、いつもあんなやり取りをしている。仲が悪い訳ではなく、むしろ野球部員同士でとても仲良しに見えた。そうでなければ日曜日、連れ立って図書館を訪れることもないだろう。ただ、若干口の悪い外崎くんと、真面目な性質の笹木くんとでは、些細なことで意見が対立する場合も多いようだった。
今は一冊の本を巡り、押し問答を続けている。
「大体、読書感想文なんて宿題、訳わかんねえし」
「お前な、村上先生を怒らせてみろ。間違いなくうるさいぞ」
「知ってるって。だからお前に頼んでんだろ、面白い本教えろっての」
「だから、この本が面白いって言ってるんじゃないか。読んでみろよ」
「その厚さは受け付けねえ」
「大して厚くない。熱中すればすぐ読み終わるから」
明らかに気の乗らない様子の外崎くんに、笹木くんは一生懸命本を紹介している。彼が手にしているのはヘルマン・ヘッセの『車輪の下』――なるほど、気障なところのある笹木くんらしい好みだと思った。
「……あ」
ふと、その笹木くんがこちらを見た。
私に気付いたようで、表情をぱっと明るくする。
それで外崎くんも振り向いて、
「いたのかよ、柄沢」
彼らしい挨拶を口にする。
「ごめん。賑やかな声がしたから、つい聞いてたの」
私も小さく会釈をしてから、二人に歩み寄った。
外崎くんも笹木くんも、スポーツをやっているだけあって大柄だ。
私が横に並ぶと、蛍光灯が作り出す二人の影にすっぽり収まってしまう。それだけに図書館にいる二人は何だか場違いで、やはり太陽の下が似合っていると感じた。よく日焼けした二人には、日の光が作るより色濃い影の方が似合うに違いない。
「図書館で会うなんて、偶然だね」
そう言った途端、外崎くんは思い切り忌々しげに顔を顰めた。
「だよな。村上が妙な宿題出さなけりゃ、こんな辛気臭いとこまで来なかったってのに……」
「ああ、感想文の宿題?」
「そう。匠の奴、全く書けてないどころか本すら選んでないんだ」
笹木くんは外崎くんを名前で呼ぶと、呆れた様子で少し笑った。
そして大人びた表情で尋ねてくる。
「柄沢はもう書いただろ?」
「うん。提出しちゃった」
読書感想文はもう仕上げて、既に提出してあった。日頃から読書が趣味の私にとっては、感想文を書くことは難しくもない。
「いいよな、文芸部員」
だけど外崎くんにとってはそうではないらしい。じっと恨めしげな視線を私に向けてくる。
「普段いろいろ書いてんだし、感想文を適当にでっち上げるくらい簡単だろ」
「そうだね。でっち上げた訳じゃないけどね」
その物言いがおかしくて、私も思わず笑ってしまった。
隣で笹木くんが苦笑している。
「酷い言い方するなよ、匠」
「知るか。出来る奴にはわかんねえよ、俺の苦しみなんて」
「俺にもわからないけどな。せっかく一緒になって本を選んでやってるのに」
と言ってから、ふと笹木くんはひらめいたような表情になる。
すかさず、私へと視線を転じた。
「柄沢、もし良かったら何か本を紹介してやってくれないか」
「私が?」
持ち掛けられたのはなかなかの大役だった。
笹木くんの紹介をことごとく拒否したらしい外崎くん。彼に合う本を、私が探し出せるだろうか。さすがに躊躇う。
「ああ、そりゃいいな。笹の趣味は黴臭そうなのばっかで駄目だし」
「お前の趣味に合う、簡単で読み易くて分厚くない本を探すのは大変だろうな、匠」
でも二人の賑々しい応酬を聞くに、このままでは本を選び終える前に日が暮れてしまいそうだ。
感想文の提出期限は明日までで、急がなければ間に合わない。クラスメイトのよしみで、何か紹介してあげた方がいいかもしれない。
「私で良ければ、協力するけど」
告げると、外崎くんよりもむしろ笹木くんが、安堵の表情を浮かべた。
「ありがとう、助かるよ」
そのほっとした様子がいかにも疲労の色濃く映っていたから、きっと大変だったのだろうな、と思った。
何せ外崎くんの方には、課題を終えられないかもしれないと言う危機感があまりないようだから。
「じゃあ適当に何か選んでくれよ、柄沢」
面倒臭そうに言った彼の為、私は早速頭を捻ってみることにする。
これまで読んだことのある本の中から、外崎くんに向いていそうなものを――むしろ彼にも読めそうなものを探してみよう。
検索の為にまず必要な情報は、読書傾向だ。
「外崎くんって、普段はどんな本を読むの?」
もしかすると愚問なのかもしれないと思いながら、私は尋ねてみる。
間を置かずに返ってきた答えは、
「まず読まねえな。せいぜい雑誌か漫画くらいか?」
予想した通り。
スポーツに打ち込んでいるなら読書の時間を確保するのもなかなか大変なのだろう。
でも、活字が全く苦手と言う訳でもないらしい。
「雑誌って、例えばどういうもの?」
「野球とか」
「そうなんだ。野球部員らしいね」
私は頷きつつも内心で苦笑する。
むしろ今の問いの方が愚問だった。野球部の子が興味を持つのは、もちろん野球についてが最もたる事柄だろう。外崎くん辺りは寝ても覚めても野球、と言う様子が普段から窺えて、その熱中ぶりが好ましいと思う。
しかし野球雑誌は読む、と言うことは、興味のある題材なら文章を追うのも苦ではないのかもしれない。
「じゃあ、あの本なんかお薦めかな」
思いついて、私は二人を文庫本のコーナーへと案内した。
文庫本コーナーは、この図書館内で最も冊数が充実しているところだ。新旧人気作家の文庫本が種類豊富に取り揃えられていて、より親しみ易いコーナーになっている。
私はその書棚から、野球をモチーフにした児童文学小説を選んだ。取り出して、外崎くんに差し出す。
「これなんかどうかな。最近映画化もされた話題作なんだけど」
「へえ。知らねえな」
「聞いたことがあるな。中学の野球部の話だそうだ」
笹木くんが説明を添えると俄かに興味を持ったようで、外崎くんはぱらぱらと文庫本をめくり出す。目が文章を追うようにゆっくりと動く。
適当な本を紹介出来たようだ。私がほっと胸を撫で下ろした、のも束の間――。
「あ、やっぱ駄目だ」
外崎くんはその文庫本を閉じてしまった。
つき返されて、呆気なさにやや面食らう。
「駄目、だった?」
「字がちっちゃくて読み難い。最後まで読んだら目ぇ疲れるわ」
判型が適切ではなかったようだ。
私は慌てて、
「だったら、単行本も置いてあったと思うけど」
文庫版ではない方を薦めようとしたにもかかわらず、彼には徹底してかぶりを振られてしまった。
「もうちょい文字の少ないやつがいい。文字っつうか、そもそもの分量っつうか」
「……そう」
私は外崎くんから文庫本を受け取ると、嘆息しながら書棚に戻す。
野球を題材にしたものでも分量が多ければ難しい。となると、いっそ題材は二の次で、分量を基準に考えた方がいいのだろうか。
「せっかく柄沢が選んでくれたのに」
ぼそりと、笹木くんがぼやく。
すると即座に外崎くんが、
「んなこと言ったって、無理なもんは無理なんだからしょうがねえだろ」
さも当然の如く、不満げに応じていた。
「ちょっとは自分でも努力してみようって思わないのか」
「いや、俺努力してるだろ? わざわざこうやって図書館まで来てやってんのに」
「努力って言うのはだ、薦められた本に難癖つけて否定しようとするんじゃなくて、まず読んでみてから――」
「だから、字がちっちゃくて読めねえんだっての」
二人の会話は平行線を辿り始めている。
仕方なく、私は別の意見を提示しようと決めた。出来るだけ早急に。
思索を巡らせること数秒。
ふと、妙案が浮かんだ。
「外崎くん、あまり厚くない本の方がいいんだよね?」
「さっきからそう言ってんだろ」
「それで、字が大きい方がいいと」
「そうそう」
「じゃあ……」
私は、躊躇わずにその案を持ちかけてみる。
「いっそ、絵本なんて言うのはどうかな」
一瞬、場の空気が硬直した。
外崎くんは三度ほど瞬きをした後で、おもむろに眉を吊り上げた。
「柄沢、馬鹿にしてんのか」
「そういうつもりはないんだけど、そのくらいしか浮かばなくて」
確かに、馬鹿にしていると受け取られても仕方がなかったかもしれない。
けれど他にいいアイディアがある訳でもなく、むしろ彼の主張する条件をまとめたなら導き出される答えは一つきりしかなさそうだ。
すなわち、絵本。
「いいんじゃないのか」
笹木くんが心底疲弊した様子で言ったので、外崎くんはきっと睨む。
「お前まで言うか」
「だってそれしかないだろ。柄沢だって一生懸命考えた末に言ってくれてるじゃないか」
「あれだ、要は女の意見なら何でも賛成するんだろ、お前は」
「そんなことない。何でそういう解釈になるんだ」
溜息をつく笹木くん。
彼がフェミニストなのは学校中でも知られていた。女子生徒に優しく、理知的で、その上大人びた端整な顔立ちをしていれば、人気を集めているのも当然のことと言えた。うちのクラスにも彼を慕っている女子が何人かいるのを、私は知っている。
外崎くんはそのことが気に入らないのか、或いはからかう為の絶好の材料と見ているのか、笹木くんに対してまるで女性を誑かしているかのように言ってみせる。これも、いつも教室で繰り広げられている会話だった。
「相変わらず息を吐くように女口説くよな」
口元を歪めるように笑う外崎くんに、笹木くんはかぶりを振る。二人揃って坊主頭ではないから、動きに従い髪が揺れていた。
「口説いてない。誤解を招くようなこと言うな」
「だって女と見りゃ無闇に優しくするだろ?」
「そりゃあお前と比べたら、誰にだって優しくしたくなる。それに」
ちらと笹木くんが私を見遣る。
「大体、柄沢なんて口説いたら、酷い目に遭うだろ」
「え?」
私は思わず目を瞠った。
別に口説かれたい願望がある訳ではないけど、声を潜めた物言いに不穏な空気を感じ取る。笹木くんの言葉は、一体どういう解釈をするのが相応なのか。酷い目に遭うなんてことは。
「ああ、そうだったっけな」
外崎くんも首を竦めた。そして呆れたように続ける。
「柄沢って史上最大の物好きだよな」
「そ、そう? どこが?」
「だってあの人と付き合ってんじゃん。何て言ったっけ、あの面構えの怖い人」
はっとして私が、答えるべきか否かを迷う間に、
「鳴海先輩だな。一昨年卒業された」
笹木くんが言葉を継いでしまった。
「そうそう、その人。いっつも渋そうな顔してんのな」
外崎くんがしかめっ面になる。
「よくあんなのと付き合う気になったよな。すっげえ目付き悪いし、性格きつそうだし」
鳴海先輩のことを、男子に話題として持ち出されるのは滅多にないことだった。クラスの女子で話を聞きたがる子はいるけど、だからと言って慣れている訳ではない。
まして外崎くんにそれを言われるとは思わず、私は口ごもる。
「そんな言い方するなよ」
笹木くんが咎めても外崎くんは悪びれることなく、
「けどさ、ちょっと前まではいろいろ言われてたじゃねえか。柄沢のこと」
「え……? な、何て?」
「そりゃお前、視力が良くねえだろ。だから眼鏡の度が合ってないんじゃねえかって、俺らの間じゃ話題になってたんだ」
「そうなの?」
初耳だった。しかもとんでもない誤解。
ぎょっとして私は笹木くんに視線を向け、彼がぎくしゃくと目を逸らしたのを見た。
「あ、まあ……そんな話をしたこともあったかもしれないけど」
与り知らないところで男子たちにそんな話をされていたなんて。
「してたって。で、そん時は『柄沢は相当の物好きか、でなけりゃ眼科に行った方がいい』ってな結論に落ち着いたんだよな」
しかも勝手に結論まで導き出されていたなんて、ショックだった。
呆然とする私を他所に、笹木くんと外崎くんの会話は続いて行く。
「けどな、匠。そういうことは本人の前では言わない方が」
「もう言っちまったし。遅い遅い」
「お前だって柄沢と同じようなこと、言われてるかもしれないんだぞ」
「は? 俺が物好きだって?」
「いや、小林がだ」
「馬鹿言うなよ。ってか、柄沢んとこの先輩と一緒にされたかねえよ」
歯に衣着せぬ物言いには慣れているものの、私は鳴海先輩とのことを人に話すのがあまり得意ではない。男子が相手なら尚のこと。弁解する勇気もなかなか起こらない。
なので話題を引き戻そうと試みた。
「あの――さっきの話に戻るけどいいよね」
早口で切り出して、二人の注意を向けさせてから、
「絵本って言っても、子ども向けのものばかりじゃないんだよ」
と告げる。
「子ども向けじゃない絵本?」
「そう、最近よく見かけるようになった大人の絵本。絵本だから文章は少ないけど内容が易し過ぎることもないし、感想文を書くなら適してるんじゃないかな」
「へえ。それなら匠でも理解出来る内容かな」
笹木くんの珍しく率直な台詞に、外崎くんも素直に頷いた。
「かもな。読んでみっかな」
もしかすると皮肉が通じなかっただけかもしれない。
ともあれ、関心を示して貰えたのはいいことだ。
私は通い慣れた図書館の絵本コーナーまで二人を案内した。
絵本コーナーには従来の子ども向け絵本とは棚を別にした、『大人向け絵本』の棚が設けられていた。話題になったベストセラーなどもあり、二人も興味を引かれたようだ。
「あ、これは聞いたことがあるタイトルだ」
「マジ? 面白いのか?」
「お前、このくらい薄い本は自力で読めよ……」
「知ってんのかと思って聞いてみただけだろ。でも確かに面白そうだな」
一冊、手に取って中を覗き込む外崎くんと笹木くん。
いつものやりとりも微笑ましく、ようやく本も決まりそうな雰囲気で、私がほっとしかけた時だ。
「――用事が済んだか」
低く、抑えた声がした。
誰よりも一番聞き慣れた声だ。
私は顔を上げ、そして絵本の棚の脇に立つ鳴海先輩の姿を見つけた。いつにない仏頂面で、不機嫌さが表情にたっぷり表れている。
そして、重々しい口調で告げてきた。
「いつ注意してやろうかと思っていたが、図書館は本を読む場所だ。騒ぎ立てる場所じゃない。用が済んだなら静かにしろ」
背筋がひやりとした。
私は視線を転じて、ちらとクラスメイトの二人を窺う。絵本を手にした外崎くんと笹木くんの顔は、凍り付くように強張っていた。
何とも言えない空気の漂う、絵本コーナー一帯。
やがて笹木くんが、ぎこちない口調で尋ねてくる。
「柄沢、もしかして……一緒にいらしてたのか?」
「うん、まあ……ね」
私も気まずい思いで頷いた。
今日は確かに鳴海先輩と一緒だった。端的な言い方をするなら、デートだった。
まさか図書館で外崎くんたちと会うとは思わず、つい声を掛けてしまったけど、会話の流れで先輩と一緒に来ていることを切り出せなかった。
途端、頭を抱えた外崎くんが、
「ああもう! 先に言えよ馬鹿、そういうことは!」
と毒づけば、すぐに笹木くんがその腕を引き、
「馬鹿って言うな馬鹿! 先輩の前だぞ!」
「もう遅いだろ! とにかく帰るぞ笹!」
「こら、礼ぐらいちゃんと言え! 柄沢、ありがとう。また学校で!」
二人揃って、絵本を手にしてばたばたと駆け出して行く。
貸し出しカウンターの中に飛び込みかねない勢いだった。
そして二人が去ってしまうと、図書館内は、そして絵本コーナーの一帯は再び静けさを取り戻した。
「場違いな連中だ」
鳴海先輩が嘆息する。
それからちらと、私に鋭い視線を向け、
「お前もだ、雛子。連中と一緒になって騒いでいてどうする」
ごく抑えた声で言った。
恥じ入り、私は俯くばかり。
「……おっしゃる通りです」
どうして気が付かなかったのだろう。周囲にどれだけ声が響いているか、まるで察することが出来なかった。
「さっきの連中は同級生か」
「はい、あの」
「だったら尚のこと、注意すべき時は注意するのが務めじゃないのか」
全て先輩の言う通りだ。
私は素直に、深く頷く。
「はい……」
先輩の声以外はほとんど何も聞こえない、図書館の中は実に静かだった。ここではないどこかからページを繰る音さえ聞こえてくるほどだ。窓の外で、春風の音もする。
さっきまではこれほど静かではなかったのだと思うと、改めて騒いでいたことへの後悔が湧き起こる。
私たち三人はさぞ賑々しかったころだろう。先輩が思わず口を挟んでしまうくらいだから。
先輩の足元から伸びる影は、外崎くんたちのものよりもずっと華奢だった。蛍光灯の明かりが作り出す薄い影。絵本コーナーに焼き付くその細身の影を、私は居た堪れない思いで見つめていた。
「反省したならそれでいい」
先輩がまた息をつく。
恐る恐る視線を上げると、さっきまでの険しさとは違う、どこか呆れたようでもある表情が眼前にあった。
「お前がクラスの連中と、普段どんな風に過ごしているのかがよくわかった」
「え……あの」
嫌な予感がした。
もしかすると先輩は聞いていたのだろうか。私が、外崎くんや笹木くんと交わしていた会話を。
「『史上最大の物好き』」
私を、先輩がそう呼んだ。
思わずぎくりとした私を見て、鼻を鳴らす。
「なかなか言い得て妙だな」
「先輩……聞いていたんですか」
「聞こえてしまった、の方が適切だ。あんな大声で話をしていて、聞いていたも何もない」
確かに。
居た堪れなさが更に募る。と言うことは、二人が先輩について言及していた箇所の会話もしっかり耳にしていたのだろう。あの時臆せずにやんわり止めておくべきだった。私は大いに反省した。
他でもない、先輩は私にとってとても大切な人なのに。
私はそれでも、先輩から目を逸らさずにいようと努めた。
今までよりもずっと小声でこう告げた。
「でも、先輩。私の眼鏡の度は間違いなく合っています」
先輩は何も答えない。
ただ呆れたような眼差しをこちらに向けてくるだけだ。
私は尚も声を潜めて尋ねた。
「気分を害されましたか」
すると先輩は即座に、
「いや」
と言ってかぶりを振り、表情を幾分かだけ和らげた。
代わりに浮かんでいたのは、とても複雑そうな顔色。
「お前は普段、ああいう話し方をするんだな」
声が落ちるように低く、響いた。
「敬語じゃない口調は新鮮だった。喧しかったがな」
そう言われて私は、じっと先輩を見つめていた。
気まずげに目を逸らされたのは一時だけ。
すぐにまた視線が結び付き、先輩の物言いたげな表情を捉えた時、今日の来訪の目的をもう一度思い出して私は逡巡し始める。
私たちだって十分、場違いな存在かもしれない。本も読まずに見つめ合うばかりでは、図書館に来た意味がない。でも――本を読んでいる場合ではない、とも思う。
妬かれているとわかった以上は、まず先輩を安心させてあげなくてはいけない。
「先輩、不安をお掛けしてすみません。デートの続きをしましょうか」
声を落として告げると、鳴海先輩は作ったような渋面になる。
「お前は何か誤解をしていないか、雛子」
「いいえ。先輩を放ったらかしにして、申し訳ないと思っています」
「俺は嫉妬した訳ではないからな。あくまでも公共道徳に則って注意をしたまでで――」
正論のはずなのに、それを口にする先輩は場違いなほどうろたえていた。