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言葉代わりの贈り物

 二月の半ばは、まだ雪がちらつくことも多い。
 灰色の空から絶え間なく降り続き、地面がうっすら白く覆われていくのを見ると、せめて手袋でもしてくるべきだったと思う。
 立春を過ぎ、暦の上では春来たる時季。陽の射す日中は寒さの緩む日もあったけれど、今日はぶり返したように良く冷える。宵闇迫る日暮れ時、空気が冴え冴えとしている。
 コートのフードを目深に被れば、辺りはしんと静まり返った。雪の降る音さえ聞こえない。

 鳴海先輩の住むアパートの周囲は、常に人気がなく静かだった。
 静かと言うより、一人で住むならいささか不気味であるとさえ言えるかもしれない。私はもう半年以上もの間、先輩の部屋に通い詰めているけど、その間に一度として同じアパートの住人の姿を見かけたことがなかった。先輩曰く、夜遅くにならなければ戻って来ない住人もいるらしいとのこと。けれど夜間もごく静かだと聞いているから、住人たちが不在がちな今時分の静けさは言うまでもない。
 今は、先輩も不在だ。
 だから辺りは余計に静かだった。
 私は先輩の部屋の前で、先輩の帰りを待っている。雪だけは避けてひさしの下、大学へ行っている先輩が戻って来るのを待っている。
 かじかむ指に息を吹き掛けながら、雪降る道の向こうを見つめている。


 指先の感覚が失われ始めた頃、ようやく先輩が現れた。
 姿勢のいい、華奢な立ち姿。上品な紺色の傘を差した先輩は、道の途中で足を止め、眉間に皺を寄せるいつもの表情をしてみせた。
 それからすぐに、こちらへと歩み寄って来た。
 部屋の前、私の立っている傍まで近付くと、開口一番こう言った。
「雛子、ここで何をしている?」
「先輩をお待ちしていました」
 私は正直に答える。寒さのあまり、声が微かに震えた。
「どうしてもお渡ししたいものがあって……」
 そう口にすれば、先輩も私の用件を察したようだ。呆れた表情をされた。
「今日でなければいけなかったのか」
「出来れば、今日の内にお渡ししたかったんです」
 約束はしていなかった。平日の、お互いに授業のある日。会うにしても僅かな時間しか許されないから、約束の必要はないと思っていた。
 ただふらりと足を向けて、先輩の帰りを待とうと思った。
 バレンタインデーのチョコレートを渡したい。そう告げたところで、鳴海先輩が喜ぶはずもないのはわかっている。前もって予告すれば門前払いを食らったかもしれない。
 だから、むしろ不意を打つ必要があった。
「無茶をするな。風邪を引いたらどうする」
 先輩は差して来た傘を、雪を払ってから畳んだ。
 それから部屋の鍵を開ける。ドアを大きく開くと、まず私に先に入るよう、促した。
「すぐに部屋を暖める。それまでじっとしていろ」
 命令口調で向けられた言葉に、私は慌ててかぶりを振る。
「いえ、用が済んだらおいとまします」
 今日の用事はチョコレートを手渡すことだけ。それが済めばすぐに帰るつもりでいた。どちらにせよ高校生の私には、まだ門限がある。日が落ちたとなればそう長居も出来ない。
 もちろん、とても心惹かれる申し出であったのは間違いないけど。
「駄目だ」
 チョコレートを取り出す暇もなく、ぴしゃりと先輩が言った。
 望んでいた言葉だったように思えて、後ろめたさを感じずにはいられない。そう、言って欲しかったのかもしれない。引き留めて欲しい気持ちが確かにあった。
 私を見下ろす鋭い双眸。長い指を持つ手がゆっくりと上がり、なぞるように頬に触れて来る。
 微かに温い。
「このまま帰ったら風邪を引く」
 先輩の言葉の後で、次に触れられたのは手首だった。
 強く引かれて、戸口を潜らされる。気付いた時には背後でドアが閉まり、先輩が私の手を離して、部屋の中へと入って行く。
 先輩が真っ先に向かうのは、机の傍にあった電気ストーブの前。スイッチが入ると、低く唸るような音が響き出す。風がない分、今でも十分暖かく感じられる室内が、より居心地のいい空間になるのももうすぐのことだ。そうなればますます去り難くなってしまう。
「今、紅茶を淹れる。ちゃんと温まってから帰れ」
 言いながら、あまり広くはないアパートの台所に立つ鳴海先輩。
 私はかじかむ手で靴を脱ぎ、揃えてから、何もかも見透かされているような決まり悪い思いでストーブの前へと向かった。


 無茶をした自覚はなかった。
 先輩にとって迷惑なことではあったかもしれない、とは思う。
 約束も連絡もせずに押し掛けて、結局部屋に上がり込んで。先輩が申し出てくれたのを良いことに、私はこの部屋に居座っている。自分の望む通りに。
 先輩はずっと黙っている。
 私の隣に腰を下ろしてティーカップの水面を見つめている。盗み見た横顔にはいつものような険があり、思案に暮れている風でもある。
 少し疲れているのかもしれない、とふと思った。
 横顔をオレンジ色に照らす、ストーブの熱がちりちりと眩しい。
 逸る思いを胸に、私は紅茶のカップで指先を温めた。

 紅茶とストーブの熱が、次第に私の手の自由を許す。
 私はカップを置くと自分の鞄を開け、中からチョコレートを取り出した。
 赤い包装紙に同系色のリボンを掛けた、市販のチョコレート。中身はごく無難な、けれどお小遣いとぎりぎりのところで折り合いを付けた百貨店の品だ。手作りにしようか散々迷ったけど、どうせ贈るなら品質の確かなものの方がいいと判断した。私はまだ、料理の腕に自信がなかった。
「先輩、これ、チョコレートです」
 そう告げると、鳴海先輩も手にしていたカップを置いた。
 目を眇める表情。
「受け取っていただけますか」
 確認の為に私は尋ねた。
「ああ」
 先輩は造作もなく頷いて、チョコレートを受け取ってくれた。
 安堵してついた溜息は、聞こえないようにそっとした。
 器用そうな指が赤いリボンを弾く。それを解く前に、先輩がふと言った。
「お前、食べて行くか?」
「いえ」
 私はすぐに笑ってかぶりを振る。
「それは先輩に差し上げたものですから、先輩が召し上がってください」
「そうか」
 リボンを解き、丁寧に包装紙を剥がした先輩は、中から現れたチョコレートの箱を見て微かに笑った。
 ちらと私を見る目が優しい。
「高かったんじゃないのか」
「大丈夫です。高校生がお小遣いで買える範囲内に収めました」
 私が言うと、先輩はなるほどと頷いてから箱を開ける。
 箱の中に、さも貴重そうに座っていたトリュフチョコレートを摘んで、まずは一つ、口に運んだ。
 あまりお菓子を食べることのない先輩は、何とも言えない表情でチョコレートを飲み込む。ティーカップに伸ばし掛けた手を引っ込めて、私の方を見る。どこか恨めしげな目で。
「甘いな」
「チョコレートですから」
 思わず、噴き出してしまった。

 甘党ではない人に贈るものなら、チョコレート以外の選択肢もあっただろう。
 けれど私はどうしても、先輩にチョコレートを贈りたかった。
 鳴海先輩と一緒に、初めて迎えたバレンタインデー。
 今日は、女の子にとってはとても意義のある日だ。初めてのバレンタインデーに、好きな人に贈るなら、チョコレートでなくてはいけないと思っていた。ひたすらに甘い味のするチョコレートこそが、この日の贈り物に相応しいと思っていた。
 去年なら、何も受け取って貰える気がしていなかった。去年のバレンタインデーの頃は、私はまだ、先輩の傍に寄り添うことさえ叶わなかった。
 だから今年は初めてのバレンタインデーだ。
 そして初めて、先輩にチョコレートを贈る。ひたすらに甘いチョコレート。何よりも意義のある、意味のある贈り物だと私は思う。

 二つめのチョコレートを指で摘んだ先輩に、私はおずおずと切り出した。
「先輩、去年のことを覚えておいでですか」
「去年?」
 聞き返して来た先輩は、訝しげな顔をする。
 私は更に言葉を重ねる。
「去年のバレンタインデーのことです」
 それで先輩はチョコレートを口に運んだ後、ゆっくりと思考を巡らせたようだ。目を伏せてしばし考え込んでいた。
 やがて視線を上げて、
「いや、覚えていない。何かあったか?」
 首を横に振ってみせた。
 その通り、だった。
「去年は、何もありませんでした」
 種明かしをするように私は告げる。
 去年のバレンタインデーは、本当に何もなかった。私は先輩と顔さえ会わせずに過ごし、チョコレートを贈ることも叶わなかった。先輩が何を思って過ごしていたかも知らなかった。
「でも、本当は、去年もチョコレートを用意していたんです」
 私の明かした真実は、多少なりとも鳴海先輩を驚かせたようだ。細い目が僅かに瞠られる。
「去年も? そんな話は初めて聞いた」
「秘密にしていましたから」
 言えるはずがなかった。
 そのくらい、去年の今頃、私と先輩の間には大きな隔たりがあった。確かにあの頃も私たちは恋人同士だったはずだけど、そう呼ぶにはあまりにも糖度不足だった。私は影のように付き従うだけで、先輩の考えも、胸中も、全く推し量れないままでいた。
 チョコレートを用意したのは、それでも先輩のことが好きだったから、かもしれない。自覚はしていなかったのに、バレンタインデーに渡したいと思う心はあった。
「去年のバレンタインデーはちょうど、三年生の登校日でしたよね。もしかしたら先輩にも会えるかもしれないと思って、チョコレートを用意していたんです。でも――」
 一年生が授業を終えるよりもずっと先に、三年生は放課していた。当然、鳴海先輩の姿は校内のどこにも見当たらなかった。文芸部の部室にも、先輩が好きな図書館にも立ち寄ってみたけど、結局その日のうちに先輩に会うことは叶わなかった。
 前もって約束が出来ればよかったのかもしれない。或いは、休み時間のうちに渡しに行くと言う方法もあった。けれどそのどちらも、去年の私には酷く勇気の要ることで、どちらも選び切れないまま放課後を一人で過ごしたのだった。
「用意はしたのに、学校では渡せませんでした。あの頃は、先輩に電話を掛けることも出来ないくらいでしたから、偶然会えなければ渡せないだろうとはわかっていましたけど」
「去年なら、まだ実家にいたからな。電話を掛けられても迷惑だった」
 鳴海先輩は正直な言葉を口にした後で、躊躇いがちにこう尋ねてきた。
「……それで、そのチョコレートはどうしたんだ」
「自分で食べました」
 私も、正直に答える。
 一応は彼氏の為に用意したものを、家族に渡すのも抵抗があった。かと言って他にあげる相手がいた訳でもなく、私はそのチョコレートをひっそりと処分してしまった。味はよく覚えていない。
「去年の私は、臆病過ぎたのだと思います。先輩に嫌われたくないと思ううちに何の行動も取れなくなっていました。勇気も分別も足りなかったと、自分で思います」
 私が話す間に、先輩は二つめのチョコレートを食べた。
 ゆっくりと、味わうように。
「だから今年は、ちゃんとチョコレートを渡したいと思ったんです。それも出来るなら、バレンタインデー当日に」
 会うには時間の足りない平日。だけど、どうしても会いたかった。そして今のように、一緒に過ごす時間が少しでもあればと思っていた。その為に先輩が、部屋に上げてくれたらいいと、心の片隅で望んでいた。
 それらは何もかも、本当に叶ってしまった。
「今年は、すごくうれしいです。幸せです」
 私は、だから思う。去年とは違うバレンタインデーが、堪らなく幸せだと思う。

 鳴海先輩は、三つめのチョコレートを口に放り込んだ後で薄い唇を結んでみせた。
 しばらくの間何かを思うように黙り込んだ後、ふと思いついた様子で、チョコレートを飲み込んでから言った。
「来年は、金の掛かるようなことはしなくていい」
 私はその言葉を、居住まいを正して聞いた。
「はい……。来年、ですか」
「そうだ。来年の今頃、お前は受験で慌しいはずだからな」
 先輩は事もなげに言ったけれど、まさか先輩の方から、来年の話を持ち出されるとは思わなかった。
 来年――少し先の未来も、先輩は私といることを望んでくれているのだろうか。
「大学には来るんだろう」
 尋ねられて、急いで頷く。
「はい」
 私の志望校は、鳴海先輩と同じ大学だ。春が来れば私は高校三年生、受験生となる。そしてその次の春には必ず進学出来るよう、弛まぬ努力を続けなくては。
 先輩と会える時間は減ってしまうだろうけれど、それもほんの一時のこと。私は先輩を追い駆けたい。ずっとずっと先を行く鳴海先輩に、いつかちゃんと追い着けるよう、頑張りたい。
「じゃあ、来年のバレンタインデーは手作りにします」
 私がそう言うと、鳴海先輩は少し笑ったようだった。
「何もしなくていい」
 それから立ち上がって、机の引き出しを開ける。
 取り出した何か小さなものを、おもむろに私へと差し出した。
「ホワイトデーには早いが、これをやる」

 ストーブのオレンジ色の光に照らし出されたそれは、鍵だった。
 形状には見覚えがある。先輩の、この部屋の鍵だ。

 私はすぐに手を出せずに、目の前に立つ先輩の姿を見上げていた。
「あの……これって」
「合鍵だ」
 先輩は言った後、非常に決まり悪そうな顔をした。
 見上げる私の視線から逃げるように目を逸らして、
「特に深い意味はない」
 と口走る。
 恋人に手渡す合鍵に、深い意味がないことがあるのだろうか。私はうれしかったけど、やはり反応には困った。
「いただいてもいいんですか、あの、例えば、先輩がお留守の間にお邪魔したりとか」
「その為のものじゃないのか、合鍵って言うのは」
 先輩は苛立った口調で語を継ぐ。
「引っ掻き回したりしなければ自由に出入りしてもいい。去年使った参考書も取って置いてあるから、好きな時に勉強しに来ればいい」
「はい……」
 ようやく私は、合鍵を受け取った。
 まだ少し、信じられないような、浮ついた気持ちでいる。チョコレートのお返しにしては重大で、驚くべき贈り物。大切にしようと心に誓った。
 勉強も頑張るのはもちろんだけれど、せっかくだからもう少し、料理も出来るようになろう。私はもっと、自分に出来ることを増やして行かなくてはならない。先輩に、先輩から預けられた合鍵に、相応しい人間にならなくてはいけない。相応しい人間に、なりたい。

 鍵を握り締めた私を見下ろした鳴海先輩は、ふと嘆息して、
「それに、今日みたいな真似を何度もされて、風邪を引かれては困るからな」
 と小声で付け加えた。
 そして私の前に膝を付くと、手を伸ばして、頬に触れてきた。
 今度はさっきよりも温かく感じられた。
「雛子」
 先輩が私の頬をなぞりながら、名前を呼ぶ。
「時間は、門限はいいのか」
 指で顎に触れられると、甘い衝動に目を伏せたくなった。
「……駅まで送って行く」
 呟くような先輩の声が名残惜しそうに聞こえたのは、気のせいではないはずだ。

 私もまた、離れがたい思いで先輩の手に触れる。
 それでも引き留められなかったのは幸いだと思った。今、先輩に引き留められてしまったら、私はきっと抗えない。
 この居心地のいい部屋に、先輩の傍に、このまま留まり続けたいと願ってしまいそうだから――今はただ、瞼を閉じる。しばしの別れの言葉代わりに。
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