振り回す、振り回される
図書室を出て、生徒玄関へと続く廊下の途中で、ふと、「あら、柄沢さん」
村上先生の声が私を呼んだ。
足を止めて、顔を上げる。廊下の向こうに小柄な姿が見えた。
ちょうどこの廊下に差し掛かったところらしい先生は、こちらに歩み寄りながら怪訝な顔を見せた。
「今日は急がなくていいの? お誕生日なんでしょう?」
「え……」
私はいささか、驚く。
今日が私の誕生日だと言うのは事実だ。事実だけど、それを村上先生がご存知だとは思わなかった。
私の反応を見てか、村上先生は微笑を浮かべて、
「ああ、ごめんなさいね。あなたのお誕生日が今日だってことは、たまたま湯川さんたちから聞いていたのよ」
「はあ……」
クラスメイトのこずえたちからは誕生日のプレゼントを貰っていた。それを見かけた先生が尋ねでもしたのだろうか。不思議な気持ちがした。
「お誕生日おめでとう。十七歳ね」
「はい、ありがとうございます、先生」
先生からお祝いの言葉を貰うのもくすぐったい。私はますます反応に困りながら、会釈を返す。
「急いであげた方がいいわよ」
と、村上先生は笑みを深めた。
「鳴海くん、大分前から待っているみたいだったから」
「は……え?」
先生の口から鳴海先輩の名前が出ると、常にどきっとさせられる。かなり目敏いらしいこの女教師は、私と先輩の関係をもご存知だった。ただ、今日の衝撃はいつもの感覚とは違い、そんなはずはない、と言う驚きに彩られたものだった。
いや、先輩が来ていること自体はあり得ないことでもなかった。そうではなく、先生の言うような意味としては、そんなはずはない。
「お誕生日に迎えに来てくれるなんて、素敵ねえ」
村上先生が意味ありげな物言いをしたので、私は内心で苦笑しながら尋ねた。
「先輩が来ていると言うのは、本当ですか?」
「ええ。あら、約束をしていたんじゃなかったの?」
即座に尋ね返されて、答えに窮する。
約束はしていなかった。と言っても、鳴海先輩が東高校まで私を迎えに来ること自体は、今となってはそう珍しいことでもない。先輩らしい気まぐれさで現れては、文芸部に顔を出す私の帰りを待ってくれている。その度に驚かされつつも、幸せな思いもしていた。
まさか今日、来てくれるとは思ってもみなかったけど――来てくれたらいいな、とは思っていたけど。
「鳴海くんと話したのも久し振りだったわあ」
何やらうれしそうに村上先生が言ったので、私はまたどきっとした。
「今日は柄沢さんのお誕生日だものね、って声を掛けたら、とっても面食らった様子でいたわよ」
「……そ、そうでしたか」
「何だかんだで照れ屋なのよね、鳴海くんは」
「ええ、まあ」
照れ屋、の一言では済まない。
内心激しく動揺しながら、私は村上先生に頭を下げた。
「ええと、では、失礼します」
急がなくてはいけなかった。先輩はきっと、大層腹を立てているはずだ。
「はい、さようなら。よいお誕生日を過ごしてね」
もう放課後の時分だと言うのに、村上先生はそんな言葉で私を送り出した。
自然と急ぎ足になりながら、お喋りな女教師を少しだけ恨みたくもなる。
もっとも、先輩は言うだろう。全て私が悪いのだと。そして事実、これから受けるであろう叱責は、私に起因するところがあった。
日の暮れ始めた空の下、確かに鳴海先輩は、校門前にいた。
いつになく険しい表情で、じっと静かに待っていた。私服姿であること以上に、その面差しが景色にそぐわない。遠目に見ても立腹しているのが見て取れた。
偶然通り掛かった他の生徒が、大きく迂回しながらこわごわ立ち去っていく。私も、近付く勇気を奮い立たせなくてはならなかった。
「先輩」
意を決して、声を掛ける。
先輩は目の端で私を見て、腕組みをしながらこう言った。
「誕生日おめでとう」
心臓が跳び上がるような、気まずい思いをする。
「……は、はい。ご存知だったんですか」
会釈を返しながら、私は白々しくも聞き返した。
途端に、先輩は語気を強めて、
「ご存知も何も、今日初めて聞いた」
「はい……」
「しかも村上にだぞ。何であいつが知っていて、俺が聞かされてないんだ」
と言ったので、大慌てで弁明する羽目となった。
「それはその、先生は私のクラスメイトから聞いたのだそうで、私が直接お話した訳では」
「お前のクラスの連中は知っているのに、俺が知らないと言うのはどういう了見だ」
「あの……それは」
「どうして黙ってた」
重ねて問われて、言葉に詰まる。
どうして、と言われても、むしろ自発的に誕生日を打ち明ける方が抵抗があった。それではまるで、何か催促をしているような気になる。
忙しく、また独り暮らしで慎ましい生活をしている先輩には、余計な気を遣わせたくなかった。先輩が実際に、私に気を遣ってくれるかどうかはともかくとして。――むしろ誕生日を知ったところで何もしてくれなかったら、それはそれでショックだろうから黙っていたかった、と言う方が大きい。
だけど、今はその判断を悔やんでいる。怒られるくらいなら、何もして貰えないにしても素直に打ち明けておくべきだった。
「俺は秘密を作られるのが好きじゃない」
と、先輩は躊躇なく私を糾弾した。
「こういうことは前もって教えるのが礼儀じゃないのか。後で、しかも全くの他人から聞かされるこっちの身にもなって貰いたいものだ。村上が、今日がお前の誕生日だと言った時には、驚きのあまり眩暈がしたぞ」
「すみません……」
私は項垂れた。
怒られるだろうとは思っていたものの、そこまで言われてしまうと堪えた。つい、言い訳もしたくなる。
「でも、あの、先輩にお気を遣わせては申し訳ないかと思いまして」
恐る恐る告げると、先輩はこれ以上ないくらい厳しい口調で応じた。
「お前が気を遣い過ぎだ」
その後ジェスチャーで歩くように、と示して来たので、従って歩き出す。
後ろからついて行こうと思っていたら、先輩は速度を僅かに緩め、私の横に並んで来た。
だから私も、背の高い先輩の歩幅に合わせた。しばらく、むっつりと黙り込む不機嫌そうな横顔を見ていた。
次第に早足になっていった先輩に、息を弾ませながらついて行くと、やがて駅前の商店街へと差し掛かった。
夕暮れ時の駅前は人通りも多く、賑やかだ。
電車通学の私には見慣れた光景。先輩と会う時はここまで送って貰うこともある。けれど今日は違う目的があったらしく、夕方の賑わう商店街の一角で、立ち止まった先輩はおもむろに言った。
「プレゼントは何がいい」
「はい……?」
私は思わずぽかんとした。
プレゼントと言うのは、つまり。
「ええと、あの」
戸惑う私に、先輩は苛立ちを隠さずに言い添える。
「くれぐれも気を遣うなよ」
私は先輩の、未だ不機嫌そうな顔を見上げた。
てっきり、今回のことでは怒っているのだろうと思っていた。内心、さぞご立腹だろうと。だから今の台詞は、予想の範疇を大きく飛び越している。
「誕生日の、ですか?」
「他に何がある」
噛み付くように先輩が言った。
こういう口調の時は本当に怒っているか、照れているかのどちらかだ。鳴海先輩の場合はその区別が付け難いから問題だった。今も、よくわからない。
「あの、お気持ちだけで――」
言い掛けてすぐに、私は口を噤む。
みるみるうちに先輩が渋面へと移行したからだ。
もちろん嘘じゃない。気持ちだけで十分だった。予想外の形で今日のことを知られてしまったけど、誕生日を知った上でおめでとうと言ってくれた、その気持ちだけで本当に十分だった。
だけど、その先輩の気持ちに応える為には、厚意に甘えておく必要がありそうだと悟る。頑固な人だから、無下に断れない。
「何でもいいんですか?」
私は尋ね、先輩から頷き一つを得た。
「じゃあ」
と口を開いたものの、欲しいものは浮かばない。先輩は実家を出て独り暮らしだ、経済的余裕のないこともまた知っていた。となると、気を遣い過ぎと言われようがどうしても気遣ってしまう。
「部で使っている、原稿用紙がそろそろなくなるので……」
「消耗品か!」
鳴海先輩が声を張り上げたので、思わず首を竦めてしまう。
続いて、呆れられたらしい嘆息が聞こえた。
「こういう場合は、身に着けるものを頼むのが一般的じゃないのか」
「ええと、そうかも知れません」
何でもいいと言ったのに、とは言えない。
だけど、珍しい。どこから仕入れて来たのかわからないけど、先輩が一般論を唱えている! その知識が正しいかどうかはともかくとして、確かに一番うれしいものは装身具の類だと私も思う。
恋人から贈られるものなら、そういうものが一番いい。
問題があるとすれば、予算のことだけど――さすがに言及は出来ず、私は控えめに告げるに留まった。
「では、アクセサリーでお願いします。あの、あまりきらびやかではないもので」
「わかった」
先輩は鷹揚に頷いた。そして聞き返してくる。
「具体的にはどんなのが好みなんだ」
「具体的に、ですか。あの、それは」
私はまたも答えに詰まった。
何のことはない。私だって、髪留め以上の装身具を購入したことがなかったのだ。どれが欲しいかなんてわからない。そもそも先輩に言われるまで、欲しいと思うアクセサリーなんて考えもしなかった。
少し考えて、私は模範解答だと思われるものを導き出した。
「私に似合うと、先輩が思われたもので結構です」
そう伝えれば、先輩もあまり高価なものを購入したりはしないだろう。自分で言うのも妙だけど、私は光り物が似合うような人間じゃない。そこら辺にいるようなごく一般的で地味な部類の女子高生だ。
私の答えを聞き、鳴海先輩は一瞬きょとん、としてから、
「難しいな」
眉間に深く皺を刻んだ。
「難しいですか」
それなら他のものにします、と言い掛けた私に、再び渋面を向けた先輩は、やがて思い当たったように大きく頷く。
「わかった。待っていろ」
そう言い残すと、すたすたと躊躇いなく歩いて、アーケードの下にあったアクセサリーショップへと消えて行った。
待っていろ、と言われたので私は一人、商店街の入り口に佇んでいた。
どのくらい待たされるか不安だった。
だけど意外にも、ものの十五分ほどで先輩は戻ってきた。
ぐったりと疲弊した様子の鳴海先輩は、
「ほら」
と言って小さな包みを私に手渡した。平べったい紙袋に小さなリボンを付けただけの、簡素な包装。
「ありがとうございます」
お礼を言ってから私は尋ねた。
「開けてみてもいいですか、先輩」
「そう思って、包装を断ってきた」
先輩が頷きながら、言う。
そこで紙袋を開けてみると、銀色のチェーンが見えた。そっと指で引っ張り出すと、ペンダントだと言うことがわかる。
商店街に差し込む夕日を浴びて輝くペンダントは、天使の羽を模った、シンプルで落ち着いたデザインのものだった。
とてもきれいで、可愛らしいペンダント。
正直、予想外だった。先輩はもっと落ち着いたデザインを選ぶのではないかと思っていた。
ゆらゆらと揺れるペンダントトップの愛らしさに、私が言葉を失っていると、先輩が隣で呟いた。
「ああいう店は男がひとりで行くものじゃないな。非常に居心地が悪かった」
確かに、ああいうお店に、他でもない鳴海先輩が足を踏み入れる光景は全く想像がつかない。申し訳ない気持ちにも、ちょっと見てみたかったと言う気持ちにもなる。
「でも、早かったですね。お買い物」
「すぐに見つけたからな。お前に贈るならそれだと思った」
案外とさらりと言われてしまったので、私は少しどぎまぎした。天使だなんて、とこそばゆい気持ちにもなった。もしも先輩が、本当にそう思ってくれているならうれしい。これを先輩が選んでくれたのだと思うと、驚きと共にそわそわと落ち着かない気持ちが込み上げてくる。
だけど鳴海先輩はその後で言った。
「……そうなってくれたらいいんだが、と言う願いを込めつつ、な」
どういう意味だろう。
一転、複雑な思いに駆られた。先輩にとって私は、天使のようではないと言うこと?
「思い返してみても、お前にはいつも振り回されてばかりだ」
「そんなの、お互い様です」
すかさず私は言い返す。
今日だってそうだ、先輩が私の誕生日を知ってしまうとは思わなかったから――そしてそのことでがみがみ怒られるだろうと思いきや、先輩が予想外のことばかり言ってくるものだから、短い時間のうちに、驚いたり、うれしく思ったり、気を遣ったり、どぎまぎさせられたりして、すっかり振り回されている。
「先輩からご覧になって、私は天使のようではありませんか?」
率直に尋ねた私は、すぐに先輩に頷かれてしまった。
「天使には見えない。そのくらい素直なら、誕生日のことを俺だけに隠して、他の奴には話すなどと言う捻くれたことはしないだろうからな」
「先輩……、まだ怒っていらっしゃいますか」
今度はそっと尋ねてみる。
先輩にはそっぽを向かれてしまった。
「当たり前だ。もうおかしな気は遣うな」
「はい」
私は頷く。
こんなにも温かく祝って貰えるのなら、秘密にしていることなんてなかった。後悔はあるけれど、今はとにかく幸せな気分でいた。先輩の気持ちがただただうれしくて、幸せだった。
「着けてみないのか」
先輩の言葉に、どうやら天使ではないらしい私は何気なさを装いつつ応じた。
「アクセサリーの場合は、贈り主の手で着けていただくのが一般的だと聞いておりました」
それで先輩は渋い顔をして、買い物客で混み合う商店街を見回した後、不必要なまでに小さな声で告げて来た。
「……部屋に来るか?」
「はい、お邪魔します」
即答した私は、先輩の部屋に着いたらどう感謝を伝えようか、既に思案を巡らせ始めている。
ペンダントは一旦、紙袋にしまった。
先輩と並んで、歩き出しながら尋ねてみる。
「先輩、ケーキを買って行ってもいいですか?」
鳴海先輩は相変わらずの仏頂面で応じた。
「構わないが、お前一人で食べられる量にしろよ」
「先輩も付き合ってくださいませんか。今日は私の誕生日です」
「俺は甘い物が好きじゃない」
「一つでいいですから。こういうことは、形が大切なんです」
私の言葉に、先輩は面食らった様子で、だけど拒絶はしてこない。
「……半分だ」
「え?」
「一個の半分。そのくらいなら付き合ってやってもいい」
「では、半分こですね」
先輩の妥協がうれしくて、私は思わず笑った。先輩は溜息をついたようだ。
これから、先輩を振り回してみようか。
それとも先輩に振り回されておこうか。
そんなことを考えている時点で、やっぱり私は、天使には程遠いのかもしれない。