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冬の入り

 足音は冷え切った廊下にしんと響く。
 老朽化した校舎は残念ながら隅々まで暖房が行き渡らず、陽の差し込まない廊下は冬の午後ともなれば、指先が悴んでしまうほどだった。
 この学校で初めて迎えた冬は、思っていたよりも厳しかった。私はカーディガンを引き合わせて身震いばかりしている。だから長い廊下を抜け、部室まで辿り着いた時にはほっとしたくらいだ。ここはまだ陽が射していて、暖かいから。

 文芸部が部室として使用しているのは、図書室の隣にある一室だった。私は冷え切ったドアノブに手を掛け、ゆっくりとドアを開けた。
 午後の陽の射す狭い室内。そこにいた人物が、こちらを振り返る。手にしていた本から視線を上げて、鋭く私を見た。
 私が目を瞠ると、その人は軽い会釈だけを向けてくる。
「こんにちは、先輩」
 礼を返して私が告げると、今度は低い声が聞こえてきた。
「こんにちは」
 熱の篭らない、愛想のかけらもない声だった。
 これはいつものことで、先輩はそういう人だった。他人に愛想を向けることはなく、自己中心的で、物事の良し悪しをはっきりと口にする性格だった。杓子定規なほど生真面目で、また頑固でもあるせいでおよそ社交性には欠けていた。
 部室内をそっと見回して、私はやっぱり、と内心で溜息をつく。二年の先輩方は誰もいなかった。そこにいるのは三年生の、鳴海先輩ただ一人だった。
 私が足を踏み入れ、後ろ手でドアを閉めると、必然的に二人きりになる。
 図書室もこの部室も、普段から静寂には慣れているはずだった。だけど空気が硬質のものに変わるのは、鳴海先輩がいる時だけだ。

 三年生の鳴海先輩が、大学の推薦が決まってからと言うもの、再び部室に姿を見せるようになった。
 二年の先輩方は揃って顔を顰めている。鳴海先輩はあの無愛想さと頑固さ、厳格さによって、人から好かれる存在ではなかった。むしろ畏怖を集めていた、と言ってもいい。近寄りがたいと思っているらしい他の部員たちが、先輩の卒業を心待ちにしていると言うことを、私は知っている。先輩のいない時に囁かれる陰口を、いやでも耳にしていた。

 部室の中央にあるテーブルにそっと鞄を置く。席に着いている先輩の気に障らないように、出来るだけ静かに。
 それから私は椅子を引いて、腰を下ろした。先輩が座っている席からは、テーブルの角を挟む位置。近付き過ぎても、離れ過ぎても失礼になるのだとわかっているから、そうした。
 私の一挙一動を、鳴海先輩は冷静な眼差しで見つめている。視線を合わせて、私は先輩に尋ねた。
「他には誰も来ませんでしたか」
「何人か来た。二年の池山、須藤あたりが」
 素っ気ない声で先輩は答え、その後で更に冷たく言い添えた。
「皆、来てすぐに帰って行った。早く帰らなくてはならない用事があるそうだ」
 私は何も言えず、ただ表情を変えないよう努めていた。だけどどうやらそれは成功しなかったようで、先輩は薄い唇を歪めて、こう言い放つ。
「お前も用事があるんじゃないのか、柄沢」
 きつい物言いだった。いつものように。
「帰ってもいいぞ。鍵は預かっている、俺が掛けておく」
 挑発的な言葉を向けられ、慌ててかぶりを振る。
「いえ、私は……用事はありません。今日は、書き物をしようと」
 たどたどしい口調になったのを、先輩はどう受け取っただろうか。私の答えを聞くと、口元の笑みは消え、仏頂面が形作られた。気に入らない、とでも言いたげに見える。
「そうか」
 短く言うと、先輩は興味の失せたように手元の本に視線を戻す。
 私は何とも言えぬ複雑な思いで、鞄からノートを取り出した。寂しさを感じていないと言えば嘘になる。

 皆が言うほど、私は、鳴海先輩のことが苦手ではない。
 確かに気安く話せる関係ではないし、付き合い易さで言えば他の先輩方や、クラスメイトたちの方が余程付き合い易かった。鳴海先輩と口を利いたのはほんの数えるほどしかなく、文芸部の活動で書いたものに冷静な批評を貰ったり、読んでいた本の感想を交換したり、或いは天気について話したりする程度だった。ただでさえ三年生と一年生の間に隔たりは大きい。その上鳴海先輩が相手なら、隔たりは海溝のような深さに思えた。
 だけど、先輩と話をすることが、私は嫌いではなかった。ごく少ない貴重な機会に、私は他の誰からも得られないような感銘や腑に落ちる思いを貰った。先輩の言葉は自己中心的で頑迷で、そのくせ嘘は見当たらなかった。生真面目過ぎるほど直向きで、真摯だった。常に真っ直ぐな言葉は向けられれば痛い。でも、少し離れたところから見つめている分には、羨ましくなるほど美しく思えた。
 先輩は、冷たい人ではないのだと思う。先輩が言葉を口にする時、或いは紙に綴る時、真っ直ぐな感性が働いて、強く心に響かせる。皆が言うような冷たいだけの人ならば、その感性はどこから来るものだろう。人間らしい温かみがあるからこそ、自己中心的にも振る舞えるのだろうし、頑固に主張するのだろうし、真っ直ぐでもいられるのではないかと思っている。
 部室の中は張り詰めたような静けさに満ちていた。本を読む時の先輩は姿勢も正しく、ほとんど身動ぎをしない。表情も動かず、真剣なままでいる。器用そうなきれいな指がページを繰る時に立てる音だけが聞こえてくる。
 先輩は確かに、私からは遠い人だ。こうして見つめている分には美しい。じっと、息を止めていたくなるような一時だった。

 次の瞬間、だけど、本当に息が止まるかと思った。
 先輩が視線を上げて、私の方を再び、見たからだ。
 目が合うと非常に気まずい思いがした。先輩は眉を顰めている。黙ってじろじろ眺めていたことに気を悪くしたようだ。当たり前だろうけど。
「何だ、柄沢」
「え……いえ、その」
「何か言いたいことでもあるのか」
 詰問するような口調。私は思わず項垂れる。
「いえ、ありません……」
 ぼそぼそと答えると、溜息が聞こえてきた。しばらくしてまたページを繰る音が戻ってきたので、私はそちらを見ないようにして、ノートを開く。
 ノートには見慣れた自分の字が並んでいる。私は新しいページを開いて、そこにまず、昨日読んだ本の題名を書き込んだ。続いて、その本の概要と、感想を書き記していく。
 読書の記録を付けることを、文芸部に入ってから始めていた。元から本を読むのは好きだったけど、文芸部で他の人と意見を交わすようになってからは、一冊の本が与える影響力や、人それぞれの印象の受け方や与え方が気になるようになった。だから出来る限り読んだものについての記録を付け、その時自分がどう感じ、どう考え、どう思ったかを忘れないようにしたいと思っている。
 昨日読んだ本は、既に何度か読み返している物語だった。ところが数回読み返すうちに以前とは違う印象を受けたので、書き留めておくことにした。
 ペンを止め、少し考える。言葉を並べるのも難しい。思ったことを書き記すだけでも、私は慎重になり、考え込んでしまう方だった。
「それは何だ」
 不意に、声が振ってきた。
 視線を上げると、鳴海先輩がこちらを見ていた。手元の本から私に目を移し、訝しげな顔をしている。
「読書録を付けているんです」
 私は答え、出来る限り笑みを作ろうと試みた。恐らくぎこちないものになった。
「読んだものの感想を書き留めています。こうしないと、忘れてしまいますから」
「なるほど」
 先輩が尖り気味の顎を引く。
 そしておもむろに、私に向かって手を差し出してきた。
「興味がある。読ませて貰ってもいいか」
「え? あの、あまりきれいには書いていませんけど……」
「構わない」
 むしろ構うのは私の方だ、と言い返せるはずもなく、私は黙ってノートを手渡した。それを先輩は相変わらずの仏頂面で受け取り、ぱらぱらと眺めている。時々動きを止めてじっと熟読しているのがわかり、何とも居た堪れない気分になる。こんなことなら、もう少し丁寧に書いておくんだった。
「結構読んでいるんだな」
 しばらくしてから、先輩が驚いたような声を上げた。
 もしかすると、誉めてくれたのかもしれない。
「はい。本が好きなんです」
 うれしくなって大急ぎで応じると、すぐに淡々とした言葉が返ってくる。
「確かにそのようだ」
「はい……」
 喜ぶのは尚早だった。別に誉めてくれた訳ではないらしい。少しがっかりしているところに怪訝そうな声が追い駆けてくる。
「同じ本について、何度も書いているのか」
「はい、あの、読み返して気が付いたことがあれば書き留めるようにしています」
 私がそう説明すると、先輩は小さく頷いて、それから言った。
「それはいいことだ。読み返すたびに違う発見があるなら、良書だったと言うことだからな」
 肯定的な言葉は、むしろ誉め言葉よりもうれしかった。
 先輩と近い意見を持っていることがうれしい。共感出来ることに喜びを感じた。
「私もそう思います。その時の気分や読み方によって、以前とは違う印象を受けることもありますよね」
「そうだな。本はじっくりと考えながら読むものだ。感情や気分に影響されるのは当然のことで、同時に本から影響を受けることも多い。だからこそ読書は面白い」
 淀みない口調で先輩が語る。
「一冊の本を読み、書き手の思うところ、言わんとするところを隅々まで理解するのは容易いことじゃない。だが、何度も何度も読み返すことによってそれまで気付けなかったことが見えてくる場合もあるし、違う解釈が出来るようにもなるだろう。そしてそう言う風に一冊の本を読み込むことは、書き手に対する最大の賛辞になる」
「はい、おっしゃる通りです」
 答えた拍子、自然と笑みが零れた。やはりうれしかった。本が好きな人と意見を交わし合うことも、それから、先輩の真摯な考え方に触れられたことも。
 ただ、同時に幾許かの寂しさも感じていた。鳴海先輩は年が明けて三月には卒業してしまう。そうするともう話すこともなくなるだろうし、先輩の書いたものを読むことも、多分出来なくなる。先輩の性格なら卒業後も顔を出してくれるとは思えないし、それきりになってしまうだろう。仕方のないことだとわかっていても、せめてあと一年あればと思う。
 せめてあと一年あれば、もう少し先輩と話をすることが出来たかもしれないのに。皆が言うほど冷たい人ではないと言うこと、もっとわかったかもしれないのに。

 気付くと、溜息をついていた。
 それから私は先輩の方を見、先輩が私のノートを再び読み始めたのを見た。眉根を寄せ、いささか訝しげな様子で。
 どうかしたのだろうか。何かおかしな内容でも書き留めてあったかと、少し不安になる。先輩の気分を害するようなことが、あのノートの中にあっただろうか。
 気まずい思いがして、恐る恐る尋ねてみる。
「あの……どうかされましたか」
「俺の名前があったから、驚いただけだ」
 静かに言った先輩が、ノートの文面を辿っている。
 そう言えばあのノートには、文化祭の時に読んだ文芸部の展示作品についても感想を記していた。もちろん、鳴海先輩の作品にも。
 お互いに読み合い、感想を伝えるのがうちの文芸部の慣わしで、私も先輩の作品には二言、三言の感想を告げていた。ただ、作品を読んで受けた感銘や印象はとてもそれだけで伝え切れるものではなく、後で思い付いた感想も含めてメモに取っておいたのだった。
「あ、あの、すみません」
 だけど、私は慌てた。あれはあくまでもメモで、先輩に見られることを想定して書いたものではなかった。そして書き留めておいたこと自体を忘れてしまうほど、気を抜いた書き方をしていた。
 私は先輩の、硬質の文体と鋭い作風が好みで、思ったままの感想を綴っていたような気がする。多分、熱烈なほどに。
「どうして謝る」
 鳴海先輩が目の端でこちらを見る。表情は、動かない。
「いえ、だって、先輩の書かれたものについて勝手に……」
「お前が読んだものをどう思おうが、どう感想を記そうが自由じゃないのか」
「でも……あの、恥ずかしいのであまりじっくり見ないでください……」
 消え入りそうな声になった。
 私の言葉を聞いてか、先輩がノートを閉じる。
「なぜ柄沢が恥ずかしがることがあるんだ」
「……」
 言えるはずがない――いや、本当なら言えないのもおかしい。同じ部活の先輩に、あなたの書くものが好きですと、一言告げられないのはおかしな話だった。だけど私は、鳴海先輩に対してはそれを伝えられそうになかった。
 この人は、遠い人だ。
 近付くことも叶わない、見つめているだけの存在だ。そしてもうじき、離れてしまう。二つも歳が離れていて、先輩のような感性も才能も持ち合わせていない私には、どうしようもなかった。この先もずっと追い駆けるなんてことは考えもしなかった。
「しかし、思っていた通りだ」
 先輩が低い声で呟いたのは、その時。
 見ると、閉じられたノートの裏面を、器用そうな指がゆっくりとなぞっていた。そこにあるのは私の名前だった。ノートに記した名前に、先輩の指が触れている。
 たったそれだけの仕種に、訳もなくどきりとした。
「前から思っていた。柄沢の本の読み方は面白い。読書に対する姿勢が真摯で、それでいて一つの考え方に凝り固まらず、多彩で興味深い」
 鳴海先輩がそう、言った。
 指先に気を取られていた私は、今の言葉を理解するのに時間が掛かり、思わず瞬きを繰り返した。
「理想的な読者だ」
 感嘆するように聞こえたのは、気のせいではないと思いたい。
 これは、今度こそ誉め言葉だ。先輩が私を誉めてくれた。そう思って間違いない気がする。
 遠くにあると思っていた人が、私を目に留めてくれた。少しだけでも私のことを考え、認めてくれた。それはうれしい、幸いなことだった。
「あ、ありがとうございます」
 急き込んで礼を述べると、先輩は片眉だけを軽く持ち上げた。それからノートを私に差し出してくる。私の名前が読めるように向きを変えて。
「柄沢、お前は――」
 先輩が何かを言いかけた。
 ノートを受け取った直後の私は、ふと視線を上げ、先輩の仏頂面がかつてないほど近くにあることに気付いた。
 おおよそ三十センチの距離。
 気付けばテーブルの角越しに先輩が身を乗り出していて、距離の近さと、相変わらずの目付きの鋭さとに動揺してしまう。
 だけど先輩はにこりともせず、
「お前は、付き合ってる相手がいるのか」
「――え?」
 唐突な質問をぶつけてきた。

 動揺はした。
 誉められた直後のこの台詞は、あまりに唐突過ぎた。
 よりによって鳴海先輩がそんなことを尋ねてくるとも思わなかった。もちろん初めて問われた。正直、先輩がそんなことに興味があるとも思えなかったし、あったとしても、大勢いる後輩の中の一人に、それを尋ねてくる場合があるとも思えなかった。
 だけど気まぐれに尋ねてきたにしては、先輩の視線は突き刺さるように鋭い。

 息を呑む。
 私は、慎重に答えた。質問を誤解しているのだったら、素早く訂正が利くように。
「いえ、いません……けど」
「そうか」
 先輩が一瞬、視線を外した。
 ただ、一瞬だけだ。僅かな間だけ。すぐにまた私を睨むように見据えて、こう言った。
「それなら、俺と付き合え」
 命令口調だ、と直後に思った。
 そんなことを思っている事態ではないと、慌てて思い直したけど。

 今度は完全に呼吸が止まった。
 心臓も止まったかもしれない。いや、むしろ跳ね上がっただろうか。
 冬場の割に室温がぐんと上がったように感じられて、私は背筋に汗の感触を覚えた。
 違う。多分、違う。私が考えているような意味じゃない。鳴海先輩が言ったのは、そういう意味ではないと思う。でも――だったらどういう意味なのか、全くわからなかった。
 だって、先輩の口調からは熱が感じられなかった。僅かなりともあり得そうな熱っぽさはなく、ただ強いるような物言いに聞こえた。心なしか早口で告げられたようには思えたけど、それだけだ。いつものように愛想のかけらもなく、冷静で、有無を言わさぬ硬さがあった。

 私は黙っていた。自信がなかった。先輩の言ったことを正しく受け取っている自信が。かと言って、聞き返す勇気がある訳でもなかった。
 しばらく黙っていると、しびれを切らしたのか先輩の方から尋ねてきた。
「返事はどうした」
「あ、あの……」
「つまらない遠慮はするな。はっきり言え」
 素っ気ない先輩の声。
 逆にそれが、心を揺り動かした。
 どう言うつもりなのか、何の意味かもわからない。だけど、頷きたかった。
 断る理由は何もない。
 先輩と離れずにいられるのなら、それは私にとって幸いなことだ。きっと。
 何もわからない。先輩の真意は、表情からも眼差しからも読み取れないけど。先輩がもし私を必要としてくれているなら、私は、私の答えはたった一つだ。
「――はい」
 頷いた。

 鳴海先輩は表情を変えなかった。
 仏頂面のままで私を見ていた。
 私の答えを聞くと、低い声で告げてくる。
「後悔するなよ」
 脅しのような台詞を、私はまだ混乱する頭で受け止めた。
「そんなこと……ないです。後悔はしません」
 応じた声は自分のものではないように、上擦って聞こえた。
 じわじわと忍び寄る沈黙。室内はやがてしんと静まり返り、十二月の風の音だけが外で響いている。
 陽は暮れ始め、全てのものから長い影が伸びていた。先輩の影も細く、長い。ドアまで伸びて張り付いている、身動ぎもしない影。
 見つめ合う、と形容するには、先輩の視線は鋭過ぎた。私を見る眼差しは痛いほどで、私は目を逸らさずにいるのが精一杯だった。私はまだ事態が把握出来ずにいる。先輩の言葉を本当に誤解せず受け止められているのか、わからなかった。
 もしあれが告白の台詞だとしたら、今ここにある空気の張り詰めた様子は何なのだろう。
 先輩はどういうつもりであんなことを言い出したのか。説明はしてくれないのだろうか。いつもはあんなにはっきりとものを言う人が、事態を不明瞭にしたままで放っておくのは、おかしいことじゃないだろうか。

 ぐるぐると巡る思索は一向に出口を見出せない。
 そうこうしているうちに、先輩が立ち上がった。
 読みかけの本を自らの鞄にしまうと、部室の鍵を揺らして、私にこう言った。
「用は済んだ。帰るぞ」
「え? あの」
 用とは、何のことだろう。
 いや、それよりも。私と一緒に帰るつもりでいるのだろうか、先輩は。私は帰るとも、用が済んだとも言っていないのに。むしろ混乱していて他のことは考えられなくなっているのに、この状態で帰るだなんて。
「柄沢とは駅までは一緒だったな」
 なのに、先輩はあっさりとそんなことを言う。
 私が電車通学だと、どうして知っているのだろう。いつも一人でさっさと帰ってしまう先輩とは、帰り道が一緒になったこともなかったのに。
「ご存知だったんですか……」
「たまに見かけていた。面倒で声を掛けなかっただけだ」
 冷たい物言いの間にも、先輩は椅子を収め、機敏な動作でコートを着込み、部室のドアを開けようとしていた。
 置いてけぼりを食らう訳にはいかない。私も慌ててノートをしまい、椅子を収めて、置いてあった鞄を掴む。
 それから振り向くと、先輩がドアノブに手を掛けたまま、何か考え込むように動きを止めていた。
 険しい表情。
 しばらくして薄い唇が動いた。
「――雛子」
 低音で口にされたのは、私の名前だ。
 私はその場に立ち尽くした。先輩が、私の名前を呼んでいる。いつものように名字ではなく、名前で。
 口も利けずにいる私に、鳴海先輩は訝しがりながら言った。
「お前の名前は、雛子じゃないのか」
「い、いえ、あの、そうです、けど」
 たどたどしい返答にもどこか満足げな様子で、先輩が頷く。
「今日からそう呼ぶことにする。雛子、帰るぞ」
 愛想のない声。素っ気ない呼び方は、だけど私を動揺させるに十分だった。

 ようやく理解した。
 やはりそういう意味だったのだ。鳴海先輩が言った台詞の意味。付き合うとはつまり、間違いなくそういうことだ。
 私はそれを了承した。頷いた。そのことを後悔はしていないし、本当に断る理由はなかったと思っている。
 だけど、やはりわからない。先輩は私のことをどう思って、あんなことを言ったのだろう。先輩が思う、『理想の読者』だから? それとも――。

 部室のドアに鍵を掛けると、鳴海先輩は何も言わず、廊下を先に立って歩き出した。
 華奢な後ろ姿。歩く時も姿勢がよく、足音は規則正しく響いてくる。
 私は覚束ない足取りでそれを追い駆け始めた。冷え込む廊下も、今は火照った頬にちょうどいいくらいだ。まだ冬は始まったばかりだから、先のことはわからないけど。
 背中はまだ遠い。これからもう少しでも近付けるだろうか。先輩は、振り返りもせずに真っ直ぐ、私よりも先を歩いていく。
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