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僕たちの修学旅行リベンジ(1)

 意外なことに、その提案は佐藤さんの方からあった。
「ねえ山口くん。もう一回、修学旅行に行かない?」
 でも提案の仕方自体はある意味、いつもの佐藤さんらしかった。

 高校を卒業してから四ヶ月。
 僕は大学に通い始めていたし、佐藤さんは社会人として勤めに出ていたから、二人で会う機会はめっきり減っていた。以前のように、教室へ行けば毎日佐藤さんの顔がある、ということは当たり前だけどない。幸いにも佐藤さんの仕事は土日祝が休みだったので、全く会えないということはなかったけど、毎日見ていたものが見られなくなるという事実は僕の生活サイクルを、ひいては一人の時の精神状態を大いに掻き乱す結果となった。
 有り体に言えば、つまり、寂しいってことなんだけど。
 電話やメールには離れている時間を埋め合わせる力などなく、むしろ通り一遍の会話を終えた後でかえって辛くなった。やっぱり実際に会うことの効果には敵わないし、頻繁に会わなきゃやってられないと思う。僕の大学生活が表向き平穏無事に過ぎているのは、週末ごとに時間を作ってくれる佐藤さんのお蔭だ。これはなかなか、本人に対しては言えなかったりもするけど。
 だから日頃の感謝を形で示そうと、それとあと僕自身の実益もかねて、夏休みのうちに旅行でもどうかなと切り出そうと思っていた。今日辺り、会った時にでも。
 それがまさか、こんな形で先を越されるとは。

「しゅ……」
 絶句しかけた僕を、カウンターテーブルの右隣から、案外と真面目な顔で見つめてくる佐藤さん。たまたま入ったコーヒースタンドのカウンター席は高さがあって座りにくく、気を抜いていたらずり落ちてしまったかもしれない。でも僕はカウンター席が好きだ、なぜって、佐藤さんの隣に座れるから。
 佐藤さんは甘ったるそうなアイスカフェモカのカップを手に、小首を傾げた。
「そういうの、変かな?」
 変と言うなら佐藤さんの言うことは結構な高頻度で変だったりするから、クラスメイトでいた二年間でもう慣れっこになっていた。……つもりだった。
 しかしながらそれは、単なる思い込みに過ぎなかったのかもしれない。『いつもの佐藤さんらしい』提案は僕の度肝を十分に抜いてみせた。何言ってんだ、と思った。
「何で、修学旅行?」
 それでも聞き返す言葉は心の中より優しくしておいた。説明を求めた僕に、佐藤さんはほんのちょっとだけ言いにくそうにしながら、
「あのね、私たちで行くなら修学旅行の方がいいかなって」
「ごめん。もっと意味わかんない」
 僕は優しさを三十秒で放棄した。むしろ三十秒持ったことを褒めて欲しい。
「どうして僕と佐藤さんなら修学旅行って名目になるんだ。まるで授業の一環で行くみたいじゃないか」
 忘れてもらいたくないことだけど、僕と佐藤さんはもはやただの元クラスメイトではなく、普通に付き合ってる間柄だ。わざわざ修学旅行なんて名乗らなくても二人で旅行したって差し支えないと思う。というかたとえ友達同士だって、卒業してから『もう一回修学旅行に行こう』なんて言わないはずだ。わかりきってることだけど、つくづく佐藤さんは変だ。
 ……まあ、百歩譲って佐藤さんの真意を推し測ってあげるなら、佐藤さんは神社とか仏閣とか城とか、そういうものを見に行きたいって言いたいんじゃないだろうか。そういう旅行は確かに修学旅行っぽいし、だけど付き合ってる相手と行く先にしては何というか地味だし、でも地味っていうのはいかにも佐藤さんらしいから似合うような気もするし、実は昔から史跡巡りが好きだったの、なんて言われても別に驚かない。っていうかとてもしっくり来る。
 佐藤さんが考え込むみたいに俯いたので、僕はしょうがなく一度は放り投げた優しさを取り戻してみる。
「寺とか、好きなの?」
「……えっ?」
「そういうの見たいから言ったんじゃないの、修学旅行って」
 僕の言葉に佐藤さんは二、三度瞬きをしてから、
「あ、そうじゃないの。もちろん嫌いじゃないけど、そういうことじゃなくて」
 かぶりを振ってみせた。
 やっぱり嫌いではないらしい。でも、そういうことじゃないっていうのは――。
「えっとね」
 珍しくためらうような、迷うようなそぶりで佐藤さんが続ける。
「去年、修学旅行に行ったよね」
「うん」
「その時……ほら、山口くんとは、あまり一緒にいられなかったから」
 そこまで言った時、彼女は僕を見てはにかんだ。
「だから二人で旅行するなら、まず修学旅行をやり直したかったんだ」
 佐藤さんは僕の古傷を抉るのが得意だった。
 悪気はないとわかっていても、思い出したくない記憶につい苦笑したくなる。

 去年の春、修学旅行に出かけた僕たちは、旅先で初めての喧嘩をした。
 今のところ喧嘩と呼べるのはその時、一度きりだった。それ以降は些細な言い争いですらしたことはない。
 いや、その時だって言い争いなんてほとんどしなかった。僕は佐藤さんの望まない言葉をぶつけただけで、対して佐藤さんはごめんなさいと前置きしてから、きっぱりと言い切った。
 ――私、誰にも迷惑かけてない。
 そう言った佐藤さんの気持ちは、今ならちゃんとわかる。当時の彼女にとっては現実として隣にいる僕よりも、顔も知らない相手の方が近い存在だったことも、悔しいけど知っている。だけど、僕がその時優しい言葉をかけられなかった理由だってわかって欲しいと思う。
 高校生活で一度きりの修学旅行は、お蔭で苦い思い出にしかならなかった。あの出来事があってこそ今の僕らがある、というのは単なる結果論というやつで、実際には散々苦しめられて酷い目に遭ったし、どうにか落ち着いた今となっても出来ることなら忘れていたい記憶でしかない。それを容赦なく掘り起こしてくる佐藤さんにも困ったものだ。

「さすがに、北海道まで行くのは無理だけどね」
 僕の反応を多分勘違いしている佐藤さんは、同じく苦笑いしてみせた。
「でもあの時に出来なかったことをやり直すくらいならいいかなって……。私、山口くんとだって楽しい思い出作りたかったんだもん。山口くんはどう?」
「僕だって同じだよ」
 肩を竦めてとりあえず答える。
 そりゃあ気持ちは同じだけど、僕だって佐藤さんと楽しい思い出だけ作りたいからこそ、片想い時代の出来事なんてすっきり忘れていたいわけで。わざわざ鮮明によみがえらせてくれなくてもいいのに、その辺りは相変わらず気が利かない。
「よかった。じゃあ、どこかに行こうよ」
 ともあれ佐藤さんが胸を撫で下ろしたのがわかったから、肯定だけしたのは正解だったようだ。修学旅行という名目はやっぱり気に入らないけど、二人で旅行をするという事実には変わりないのだし、今度こそ楽しい思い出を作ればいい。僕も前向きに気持ちを切り替えてみる。
 そうなると重要なのは、どこへ行くかだ。
「佐藤さんはどこへ行きたい?」
 早速水を向けてみると、佐藤さんは似合いもしない難しい顔をして考え始める。
「うーん……どこ、っていうのはないんだけど」
「寺とか城とかは?」
「あ、そういうのでもいいんだけどね。あの、どっちかって言うと」
 そこで彼女はえへへと笑って、
「電車に乗って、二人でお菓子食べたりとかしたいの」
 僕は喉元まで出かかった『それ、別に旅行じゃなくてもいいんじゃ』という言葉を呑み込む。いやこういうのは気分の問題なんだよ気分の。せっかく佐藤さんがその気になってるのに僕がそれをぶち壊しちゃいけない。本当はものすごく言いたい、鋭く突っ込みたいけど。
「それから二人で地図を見ながら歩いたり、それで道に迷ったりとかするのも、旅っぽくない?」
 迷うの前提なんだ。
「あと、一緒に美味しいものを食べたりもしたいな」
 そして色気より食い気なんだ。
「二人で写真撮ったりとか、スタンプ押すのもいいなあ。どう?」
「まあそれなら、旅行っぽいと言えなくもないかな……」
 野暮な突っ込みを次々に呑み込んだので喉が渇いてきた。僕は曖昧な同意をした後で、しばらく放置していたアイスコーヒーを飲む。すっかり氷が溶けてしまって、ただただ水っぽい味がした。
 と、その時、
「それと、修学旅行って言ったら枕投げだよね」
 佐藤さんが何気なく口にしたせいで、薄くなったコーヒーが気管に入った。僕はむせながらも確かめずにはいられなくなる。
「ま、枕投げ……?」
「うん。定番じゃない?」
 頷いた佐藤さんは、直後『でも二人だと盛り上がらないかな?』なんて見当外れのことを言っていた。違う。論点はそこじゃない。どこまで気が利かないんだ佐藤さんは。
 枕投げっていうのは枕がなきゃ出来ないんだぞ。――いや座布団とか掛け布団とか、酷い奴だとふすま外して投げようとする馬鹿もC組にはいたけど、それだって意味としては同じことだ。
「枕投げって言うと、泊まりじゃないと出来ないよ」
 重ねて確認するつもりで僕が指摘すると、佐藤さんはようやく気づいた様子で声を上げた。
「そっか。予算が跳ね上がっちゃうね」
 そうじゃなくて。それも実際大事な問題ではあるけど!
「お金のこと考えると泊まりでっていうのは難しいよね。となると日帰りかなあ」
 しょうがないねという顔をする佐藤さんに、僕は多少脱力した。大体そんなこと言って、予算があったら泊まりでもよかったって思ってるのか。思ってたところで、むしろ佐藤さんなら本気で枕投げに取り組みそうで困る。彼女にちょっとでも色気を期待した僕が間違っていたのかもしれない、社会人になってもこの調子なんだからな。
 もっとも本当に枕投げをすることになってたら、運動音痴の彼女相手にどう手を抜くかという面倒事もあったわけだし――今回はいいか。日帰りの修学旅行リベンジでも。
「じゃあこれから本屋でも行って、ガイドブック眺めながら考えようか」
「賛成! 楽しい旅行にしようね、山口くん!」
 屈託なく笑う佐藤さんは、高校時代と全く変わってないように見える。その顔を可愛いと思ってるのも、相変わらず僕だけだろう。

 結局は僕も、行き先なんてどこでもよかった。
 佐藤さん相手にそう言ったら永遠に目的地が決まらなさそうだから、黙ってたけど。
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