人の気も知らない佐藤さん
件の喫茶店は混み合っていた。週末の午後四時という条件もあってか、店内はほぼ埋まっていてざわざわと賑やかだ。それでも席に通されて一息つくと、店内の温かさもあいまってほっとした。
佐藤さんおすすめの紅茶とクレープのセットは七百円。クレープはチョコレート、ストロベリー、ブルーベリーの三種類から自由に選べる。僕はブルーベリークレープを、佐藤さんはチョコレートを注文した。
程なくして温かい紅茶と共に、焼きたてのクレープが運ばれてきた。丸いバニラアイスと生クリームを添えて、ごろごろのブルーベリー入りソースがたっぷりかかっている。
「七百円か……」
そのクレープをつつきながら、僕は思わずぼやいた。
差し向かいの佐藤さんが上機嫌で応じる。
「このセットで七百円は安いよね。とっても美味しいし」
「うん、美味しいけど……」
「けど?」
「全身タイツ一枚で、五回は食べられたんだなと思ったらさ」
僕の言葉に、佐藤さんは思わずといった様子で吹き出した。
そして笑ってから、やけに済まなそうな顔をしてみせた。
「あ、ごめんね。笑っちゃって」
「別にいいよ」
そんなことで傷ついたりはしない。僕は肩をすくめた。
「僕も馬鹿馬鹿しいって思うからさ。たかが学校行事の為にこんな出費して。それで楽しめるならいいけど、ちっとも楽しくないし」
バッグにしまい込んだ全身タイツが憂鬱だった。あれを着たら、またクラスの連中にはにやにやされるだろう。しかも耳と尻尾を付けなきゃならないんだから、恥ずかしいことこの上ない。
とはいえ愚痴っぽくなるのもみっともない気がして、僕はわざと明るく言っておく。
「でも最後の文化祭だし、楽しめたらいいと思うよ。佐藤さんも楽しみだろ?」
すると彼女は、曖昧に頷いた。
「うん……」
もっと勢いよく頷くかと思っていたから、意外だった。
怪訝に思う僕の前で、佐藤さんは居住まいを正す。
「あのね、私」
じっとこちらを見て、ためらいがちに切り出してきた。
「楽しいって思いたいなって、そう考えてるの」
あまり、佐藤さんらしくない物言いだった。てっきり彼女ならにこにこ笑って『楽しみ!』とでも言ってくれるだろうと思っていた。
やっぱりステージで劇をするのが嫌なんだろうか。練習ではあんなに笑われてたもんな、当然か。
「劇やるの、憂鬱だったりする?」
でもそう尋ねたら、彼女は困ったように目を伏せる。
「ううん。私は平気。でも……」
言いにくいことでもあるように、ためらい続けていた。
それで僕もフォークを置き、黙って彼女の言葉の続きを待った。
店内はグループの客が多く、BGMが聞こえないくらいにざわめいている。
だけど僕らのいるテーブルだけは、奇妙に沈黙していた。隣同士じゃなく、差し向かいに座っているからだろうか。気まずいような、重たいような、そんな静けさに包まれていた。
佐藤さんが黙っていたのはほんの一分間ほどだったはずだ。
だけど僕にはとても長く感じられたし、その間、彼女は何度も躊躇するそぶりを見せた。
ようやく口を開いた時も、表情は物憂げに沈んでいた。
「あのね、山口くん」
申し訳なさそうにさえ聞こえる声音で、彼女は言った。
「本当のこと言うとね、私も、全然平気なわけじゃないんだ」
「何が?」
素早く問い返す。
またためらう間があって、それから、
「人に、笑われるの」
佐藤さんは俯き加減で言った。
「平気じゃない……ううん、今は平気。今のクラスは気にならないけど、でも、前は怖かったこともあった。知らない人に笑われるのは怖いし、多分、これから先も全然平気にはならないと思う」
それは、そうだろう。
誰だってそうだ。当たり前だ。笑われるのは嫌に決まっている。
でも、佐藤さんは違うのかと思ってた。だって、この間の練習でも――。
「笑われるのは嫌じゃないけど、怖いよ。私、山口くんの気持ちはわかる」
そう言ってから、佐藤さんは顔を上げた。
少し潤んだ瞳はどきっとするくらい真剣で、真っすぐに僕を見つめてくる。
「だけど私、今は平気なの。前は怖かったけど、今は、あのクラスの中ではちっとも気にならない。みんなが私のことで笑ってても、そういうのもいいかなって思えるの。面白がってもらえるならそれでもいいやって」
「……どうして?」
引き寄せられるように、僕は尋ねた。
彼女がぎくしゃくと、下手くそに微笑む。
「山口くんが、笑わないでいてくれるから」
思わず、息が詰まった。
「山口くんがあのクラスにいるのが、何より一番心強いから」
フォークを置いておいてよかったと思った。手にしていたままだったら取り落としていた。
「だから、私もそうなりたい」
佐藤さんは微かに震える声で続ける。
「山口くんのこと、笑いたくない。山口くんが一生懸命やってることを、ちゃんと見ておきたい。知っていたい。山口くんは何でもできる人だって知ってるもん。だから最後まで、私も真剣でいたいの」
佐藤さんは真面目だ。こんな――こんな、赤の他人のことにさえ。
そしてやっぱり鈍い。僕が佐藤さんを笑わなかったのを優しさからだと思っている。そんなんじゃないのに。笑えなかっただけなのに。
でも本当は、違ったのかもしれない。
言って欲しかっただけかもしれない。佐藤さんには、笑わないよって言って欲しかった。クラスのみんなが笑っても、卒業間際にとんだ恥を晒すことになっても、こんなはずれの役を引いても、最後の文化祭だとしても。
僕は笑わない。代わりに佐藤さんにもそうして欲しかった。それだけだった――。
胸が痛くて、ばくばく速くてうるさくて、上手く言葉が出てこなかった。肝心な時に限っていつもこうだ。余計なことはいくらでも言えるくせに、今は舌がもつれた。
僕がもたもたしている間に佐藤さんが言った。取り繕うように。
「あの、ごめんね。なんていうか、空気の読めないこと言って」
慌てた口調だった。
「重い話にするつもりなかったんだけど……上手く言えなくて」
佐藤さんにも、上手く言えないなんてこと、あるのか。
いつも気の利かないことを平気で言ってるみたいだったのに。こっちが動揺したくなる台詞も、普通に言い出すくせに。
「いや、いいよ。ありがとう」
他人のことは決して言えない僕が、気の利かない言葉で応じる。
「頑張ろうと思うよ、最後の文化祭だし……」
笑わないと言ってくれる子がいるから。
佐藤さんがいるから。
「うん」
その佐藤さんは、僕の言葉を全部聞かないうちに頷く。
本当に気が利かないな。おかげで僕は、言いたいことを最後まで言えなくなる。
「楽しめたらいいね、文化祭」
ようやく、佐藤さんが心から笑ってくれる。
「楽しもうよ、一緒に」
僕も答える。慣れない差し向かいの距離にある、佐藤さんの笑顔を見つめている。
僕らの気持ちはもしかすると同じなのかもしれないし、全然違うのかもしれない。
でもお互いに、お互いを必要としている。そのことだけはちゃんとわかる。僕は佐藤さんに支えられているし、佐藤さんも、僕がいるから平気だと言ってくれている。
これからもずっとそういう存在であり続けたい。お互いに。今のこの時も、クリスマスの約束も、最後の文化祭も全部、その為にあるんだと思いたい。全て、僕と佐藤さんがお互いを必要としていられる時間だ。
卒業してからのことも考えなくちゃいけない。この時間をずっと先まで繋げていく為には、どうしたらいいのか。
佐藤さんは残りの紅茶を大切そうに飲み、ふうと大きく息をつく。
「言いたいこと、言えてよかった」
そう呟く彼女を、内心羨ましいと思った。
僕は言いたいこともちゃんと言えない。空気を読みたくなる。もう一段落ついてしまった雰囲気の中で、さっきの話を蒸し返すのも気が引けた。
だから、今はしまっておくことにする。
「ありがとう。今日はすごく楽しかったよ」
精一杯笑って告げると、テーブルの向こう側で佐藤さんも笑った。
「こちらこそありがとう、山口くん」
向かい合わせに見る笑顔は眩しくて、やっぱり慣れないなと思う。
佐藤さんには、僕の隣にいて欲しい。