menu

佐藤さんの宝物(1)

『山口くん、よかったら今度、私の家に来てくれないかな』
 デートの約束でもしようとかけた電話で、開口一番佐藤さんがそう言った。
『実はお母さんが一度、山口くんに会ってみたいって言ってて……』
「別にいいけど」
 僕は平静を装って答えたけど、内心ではちょっと動揺していた。
 彼女の家に招かれて彼女の親と会う。割とよく聞く類の話ではあるものの、こういうので親の心証を悪くして二人の関係にも暗雲立ち込めて、なんてパターンも非常に多いと聞く。そもそも佐藤さんのお母さんが僕に会いたがっているのは、やはり娘の彼氏がまともな男かどうかを見てみたいからなのだろうし、僕もお会いするからには信頼を勝ち取らなくてはいけないんだろう。
 ただ、もう勤めに出ている佐藤さんとは違い、現在の僕はしがない大学生である。バイトはしているけどまだ自活するまでには至らず、そういう点では頼りないと思われても仕方がないのかもしれない。正直、どうせ会うなら大学を出て就職してからがよかったんだけど――。
 僕があれこれ考えている間に、佐藤さんが言葉を継いでいた。
『ごめんね、何か晩ご飯をごちそうしたいんだって。迷惑じゃなかったらでいいんだけど』
「いや、迷惑じゃないよ。僕の方こそお邪魔しちゃって大丈夫?」
 表向きはどうってことないよという態度で応じておく。
 何にせよ、こういう話が出た時にびびって腰が引けているのが一番格好悪い。とりあえず僕が学生であることはもうしょうがないから、それでも将来を見据えて日々勉学に励んでいるし佐藤さんのことも真剣に考えているのだという点をアピールする方向でいこう。
『うん、できれば来て欲しいな』
 佐藤さんはそこで声をちょっと明るくした。電話だから表情は見えなかったけど、僕がびびって逃げなかったことに安心したんだろうか。
『うちはお母さんと、おじいちゃんおばあちゃんがいるから、ちょっとうるさいかもしれないけど……』
「佐藤さんの家族がうるさいって、あんまり想像できないけどな。お会いするのが楽しみだよ」
 僕が覚悟を決めて笑うと、彼女もくすくす笑う。
『さすが山口くん、何か落ち着いてるね』
「え? そうかな」
『そうだよ。私だったら山口くんのお家にお邪魔するってなったら、すごくどきどきしちゃうけどな』
 別に僕も落ち着き払っているというわけではなかったけど、佐藤さんにそう言われたらこっちまで妙にどきどきしてきて困った。

 約束をした土曜日、僕は一人で彼女の家を訪ねた。
 二人で会った帰りに家まで送ったことがあったから、佐藤さんの家の場所は知っていた。午後四時くらいに来て欲しいと彼女からは言われていて、僕は午後四時五分前に彼女の家の前へ辿り着き、インターフォンを鳴らした。
「あ、山口くん! いらっしゃい」
 玄関の引き戸をがらがら開けて、佐藤さんが顔を覗かせる。英字のロゴが入った紺のスウェットワンピースというすごく地味な服装の彼女は、僕を見てぱっと表情を輝かせた。
「来てくれてありがとう。とりあえず上がってくれるかな」
「うん。……お邪魔します!」
 僕は家の中にいるであろうご家族にも聞こえるよう、声を張り上げて挨拶をした。
 だがそれに対する返事や反応はなく、佐藤さんに引っ張られるようにして一歩踏み込んだ家の中はしんと静まり返っていた。
「お母さん達は今、買い物に出てるんだ。晩ご飯には間に合うように帰るって」
「え? あ、そうなんだ……」
 靴を脱ぎながら、僕は拍子抜けしていた。てっきり着いたら即食卓を囲んでご挨拶の流れかと思っていたから、ちょっと緊張していたのに。
 でもまあ、ほっとしたのも確かだ。単にその時が先延ばしになっただけだとしても。
「だからちょっと待ってて。私の部屋、二階だから」
 佐藤さんはさらりとそう言うと、僕を案内するみたいに先に立って歩き出した。
 彼女の家は少し古い造りの二階建てで、玄関から入った居間の奥に二階へ上がる階段があった。仏壇でもあるのか、一階はほのかなお線香の香りが漂っている。佐藤さんは一度僕を振り返ってから階段を上がり、僕は彼女のふくらはぎと、くるぶし丈の靴下を履いた足を見ながら後に続いた。
「ここだよ。座って待ってて、飲み物持ってくるから」
 二階に上がってすぐのドアを開けると、佐藤さんは僕にだけ入るように促した。
「ああ、お構いなく」
 とっさにそう言ったけど、彼女は笑顔でかぶりを振った。
「お客様に何にも出さないってわけにはいかないよ。冷たいお茶でいいかな?」
「うん、じゃあ……お願いしようかな」
「はーい」
 佐藤さんが部屋を出てドアを閉めると、すぐに階段を下りていく軽快な足音が聞こえた。
 残された僕は少々心許ない気分で部屋の中を見回す。
 当然ながら、佐藤さんの部屋に入れてもらったのも初めてだった。お互いに家へ招いたり、遊びに行ったりということが今まで一度もなかったから、僕は佐藤さんが暮らしている部屋について割と好き勝手に想像を膨らませていた。そのくらいのことはどんな男だってするものだ。
 そして実際に目の当たりにした彼女の部屋は、そっくり想像の通りというわけではなかったけど、それなりにイメージ通りだった。
 小学生の頃から使っていそうな古い勉強机と椅子、その隣に並べられた黒いカラーボックスがあるだけの小さな部屋だった。恐らく四畳くらいだろうと思う。部屋に一つだけある窓には地味なグレーのカーテンが束ねられ、窓の真向かいには押入れらしい引き戸がある。壁は素っ気ない板張りで新聞屋のカレンダーが貼られているだけ、床には無地の青いカーペットが敷いてある。これだけならあまり女の子の部屋らしくない内装だと思うけど、カラーボックスの中や上にはぬいぐるみがいくつも飾られていたし、花瓶に生けた小さな花が微かな甘い香りを漂わせていて、それでかろうじて女の子の部屋だと思えた。机の上には白木の枠のフォトスタンドがあり、何気なくそれに目をやった僕は、次の瞬間眩暈を覚えた。
 フォトスタンドの中には、高校の文化祭で貴婦人を演じた佐藤さんと、ネズミを演じた僕が写っていた。
 もちろん耳がついてるし、ひげが描かれているし、白い全身タイツだった。
「な、なんでこの写真を……!」
 忘れもしない、この写真は去年の文化祭で劇をやった時にクラスの女子に押される格好で撮られてしまったものだ。その後で僕は佐藤さんに頼まれて、この画像を彼女のケータイにも転送してあげた。だがそれを飾っておくというのは予想外だったし、僕にとっては黒歴史以外の何物でもない写真なのでできればそっと葬り去っておいて欲しかった。
 フォトスタンドを伏せてしまいたい衝動に駆られていると、再び彼女が階段を上がってくるのが聞こえた。
「お待たせ、山口くん。麦茶でいいよね?」
 コップを二つ持った佐藤さんが、肘でドアを開けながら部屋の中へ戻ってきた。
 そして僕が机の前でフォトスタンドを手にしているのを見るや、その顔がどこか嬉しそうにはにかんだ。
「あ、それ見ちゃった?」
「うん……見ちゃった……」
 佐藤さんは嬉しそうだけど、僕は嬉しいどころか忘れかけていた当時の記憶を蘇らせて気分が沈んでいた。正直このままずっと忘れていたかった。
「私の部屋に山口くんを飾っときたいなって思ったんだ。いけなかったかな?」
 それでも、小首を傾げた佐藤さんにそう聞かれると、一概に否定しきれないから困る。
「駄目、じゃないけど。もっとさ、いい写真を飾って欲しいかな、僕は」
「これも私にとってはいい写真だよ」
 そう言うと佐藤さんは二つのコップを机の上に置き、僕の手からフォトスタンドを受け取った。そしてそれを元あった場所に、随分と丁寧な手つきで戻した。
「山口くんは嫌だった? なら、違うのにしようかな……」
「嫌っていうわけでもないけどさ、何て言うか」
 佐藤さんがあまりにも屈託ないから、僕も嫌だとは言いづらかった。それでなくとも僕の写真を部屋に飾っておくというところに、何と言うかこう、ちょっとだけどきっとしたのも事実だ。一人でいる時は僕の写真を見てくれてたりするのかな、なんて――いや、それもあのネズミ姿なら微妙か。参った、純粋に喜べない。
「けどさ、ご家族に見られたら誤解されないかな。全身タイツの変な奴と付き合ってるって」
 僕が婉曲的に懸念を示すと、佐藤さんは瞬きをしてから言った。
「そんなことないよ。お母さんはこの写真、いい写真ねって言ってたから」
「もう見せたの!?」
 本気で誤解されてないといいけど。この仮装は断じて、僕の趣味じゃない。

 椅子が一つしかないから座っていいよと言われたけど、せっかく佐藤さんと二人でいるのに離れて座るのは嫌だったから、二人で床に座ることにした。
 冷たいお茶をいただいて人心地つくと、急に家の中の静かさが気になるようになった。
 佐藤さんと二人きり、なんだよな。別にだからどうしたということもないし外で会う時はしょっちゅう二人きりになってるけど、こうして彼女の部屋でとなると妙に落ち着かない気持ちになる。佐藤さんのご家族がいても緊張しただろうけど、いなけりゃいないでそわそわしてきた。
 もしかすると佐藤さんもそうだったのかもしれない。僕の隣に座って麦茶を飲みながら、しきりに瞬きを繰り返していた。家にいる時も徹底してひとつ結びの佐藤さんは、こんな日だからといっておめかしも化粧もしていなかったけど、それが逆に僕をどぎまぎさせていた。
 この部屋にいる時はいつもこんな感じなんだろうな、って想像してしまうからかもしれない。
 ご家族はいつ頃戻ってくるんだろう。それがわからないのも、そわそわする。
「……山口くん」
 不意に、佐藤さんが僕を呼んだ。
 心臓が跳ねるのを自覚しつつ、僕は彼女に視線を向ける。すぐ右隣に座った彼女が、何か気にするみたいに強く僕を見つめていた。
 僕と目が合うと彼女は、こちらが何か言う前に続けた。
「私の部屋、変じゃないかな」
 そんなことが気になるものなのか、と僕はちょっと驚いた。
「なんで? 全然変じゃないよ」
 地味だけど。
 けどまあ、佐藤さんっぽいと言えばそうかもしれない。僕がイメージしていた佐藤さんの部屋とそれほどかけ離れていなくてほっとした。知らない女の子の部屋じゃなくて、佐藤さんの部屋にいるんだってしみじみ思う。
 唯一意外だったのはカラーボックスに飾られているぬいぐるみの数々だったけど、そういえば佐藤さんはキャラ物も結構好きなんだっけ。昔貰った絆創膏が可愛すぎて使いにくかったことを思い出す。
「ぬいぐるみ飾ってるんだね」
 僕がその点について触れると、佐藤さんは痛いところを突かれたような顔をした。
「う、うん。実は、そうなの」
「いいんじゃないかな、女の子らしくて」
 変じゃないかなと聞かれる前にフォローしておく。別におかしくはないと思う。子供っぽいけど。
 それから僕はカラーボックスに目をやり、具体的にどんなぬいぐるみが飾ってあるのか見てみようとした。カラーボックスの上には三つ、中には四つ、計七個のぬいぐるみが飾られていたけど、そのどれもが白い身体をしていることに気づいた。それぞれ服装こそ違うけど――ネクタイを締めたスーツ姿の奴もいれば、マリンボーダーの服を着て水兵帽を被った奴もいたし、割とカジュアルなパーカー姿のも、王冠を耳の間に載せた王子様風の奴もいた。そのどれもが丸い二つの耳と、つぶらで小さな目と、ぴんと硬そうな細いひげと、尖った鼻を持っていた。
「……ネズミの、ぬいぐるみ?」
 僕の問いかけは半ば独り言みたいになった。
 佐藤さんがこくんと頷く。
「ハツカネズミの」
「なんで、ネズミばっかり? 集めてるの?」
 なんで、なんて聞くのもおかしい。答えはわかりきっているし、それをいちいち言ってもらわなきゃならないほど僕は佐藤さんみたいに鈍くはない。
 でも、できれば彼女の口から聞いてみたかった。
 佐藤さんは答えるより先に立ち上がり、カラーボックスの上に飾られていたネズミのぬいぐるみを一つ手に取った。黒い上着を着て赤いズボンをはいている、鼓笛隊みたいな格好のネズミだった。
 ぬいぐるみを胸に抱いて戻ってきた佐藤さんは、改めて僕の隣に座ると、ちらりとこっちを見て恥ずかしそうに言った。
「見かけるとつい買っちゃうの。山口くんを思い出すから」
top