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佐藤さんの手と、僕の手と(1)

 教室に残っているのは佐藤さんだけだ。
 静まり返った、夕日の射し込む放課後遅く。教室の床に佐藤さんの影が伸びている。彼女は最後列、窓側から二番目のあの席で、数学のプリントと向き合っている。
 ペンを持つ手は止まりがちで、消しゴムの出番の方が多いようだ。真剣で、難しげな顔をして、じっとプリントに見入っている。なかなか問題が解けないらしく、時々苦しそうに溜息をついていた。
 廊下から教室内を覗いている、僕に気付く様子はない。

 困ったものだ、と僕は思う。うちのクラスで残されたのは佐藤さんだけらしい。先日の数学の授業で行われた、抜き打ちの小テストの結果が、佐藤さんだけは大変良くなかったらしい。今日は昼休みのうちに数学の高田先生に呼び出されていた。そして放課後、こうして残されては数学のプリントと格闘する羽目になっている。佐藤さんの勉強が出来ないのは今に始まったことではないけど、やっぱり、困ったものだと思う。何も今日に限って、残されなくたっていいのに。
 僕は手持ち無沙汰な思いで、放課後の廊下に突っ立っている。佐藤さんの邪魔はしたくないから、時々教室を覗くだけにしている。だけどこの分じゃ、何時まで待てばいいのかわからない。机上のプリントは終わる気配が一向にないし、佐藤さんの持つペンは止まりがちで、それほど活発に動かない。
 佐藤さんの横顔だけは真剣だ。窓からはオレンジの夕陽が射し込んでいて、こちら側は影になって見えている。陰った表情の真面目さは、悲痛なくらいにさえ見えていた。彼女の足元から伸びてくる影は、もうすぐ廊下まで届きそうだ。
 そろそろ待ちくたびれた。一緒に帰ろうと思った日に限ってこれだから、困ったものだ。邪魔をするつもりはなかったけど、手を貸してやる必要はあるかもしれない。

 遂に焦れた僕は、佐藤さんのペンが止まった瞬間を見計らって、声を掛けてみた。
「……佐藤さん」
 ぱっと、佐藤さんが顔を上げた。その拍子に彼女の手から、ペンがぽろりと落ちたから、彼女は慌てて立ち上がる。途端に椅子が、けたたましい音を立てて倒れた。
 ――たった一人で、騒がしいことだ。そんなにびっくりさせただろうか。
「拾うよ」
 見かねて僕は教室に飛び込み、彼女よりも先にペンを拾った。見慣れた柄の、キャラクターもののシャープペンシル。
「ご、ごめん」
 佐藤さんは慌てふためきながら倒れた椅子を直した。その後で、申し訳なさそうに僕からペンを受け取る。指先が一瞬触れた。
「ありがとう山口くん、拾ってくれて」
「いや、僕が驚かせたんだろ。こっちこそ急に声を掛けて、ごめん」
 僕が告げると、佐藤さんはかぶりを振った。
「ううん。まだ残っている人がいるなんて思わなかったから……びっくりしただけなの。私こそ、騒がしくしてごめんね」
 じゃあ僕が驚かせたってことじゃないか。僕が悪いと言えばいいのに、驚かすなと言えばいいのにそう言わないから、佐藤さんとの会話は時々気まずい。
 手には、触れた指先の感覚が残る。もう夏場だっていうのに、ひんやりと冷たい指。前に、映画館で彼女の手を握った時と、全く同じように冷たかった。
「調子、どう?」
 僕は、机の上のプリント用紙を見下ろしながら尋ねた。それでも半分は埋まっているようだ。残り半分は応用問題ばかりだから、余計に時間が掛かるだろうけど。
「うん……そこそこかな」
 佐藤さんは答えて、ちらと複雑そうな顔をしてみせた。
「私が終わらないと、私も、先生も帰れないから、急がないといけないんだけど。でもなかなか進まなくって」
 僕も、そうだ。佐藤さんを待っているから、このプリントが終わらないと帰れないんだ。だけどそれは告げずに、僕は違うことを言ってみる。
「わからないところ、教えてあげようか」
 数学は僕も、それほど得意な方じゃない。ただ、佐藤さんよりはずっとましだ。何でもそうだけど、彼女に教えられるくらいには出来る。
 瞬きをしてから、佐藤さんは微かに笑った。
「うれしいんだけど、たくさんあるから……」
「それでもいいよ。教えてあげるよ」
「ううん。気持ちだけでいいの」
 急に早口になった彼女は、ふと視線を廊下へ向けた。慎重に巡らせた後で僕に目を戻し、声を潜める。
「高田先生に見つかったら怒られちゃうよ、山口くんも」
 数学の先生の名前は、震える声で告げられた。
「そんなのは――」
 気にしないと言い掛けて、僕は口を噤む。生活指導の高田先生は、校内の教師の中でも最も高圧的で、生徒から恐れられている。僕もあまり好きではないし、どちらかと言うと関わりたくない部類の相手だった。
 それに、僕が気にしないと言っても佐藤さんは気にするだろう。酷く気に病んでしまうだろう。そして、もし万が一見つかったとして、その時先生に怒られるのは、僕よりも佐藤さんの方なんだ。
 僕が言葉に詰まると、彼女は椅子に腰を下ろして、少し笑った。
「さっきも、ちょっと怒られちゃったんだ。やる気がないから酷い点を取ったんだろうって。だから、これは私が頑張らないと駄目なの」
 口元は笑っている。
 だけど彼女の目は、心かしか赤らんでいるように見えた。夕方の、太陽光線の色合いのせいではないと思った。
「このままだと皆と一緒に卒業出来ないぞって、言われたから」
 佐藤さんの口調は穏やかだ。そんな風に言われただけじゃないくせに、正直には教えてくれない。本当はもっと違うように言われたはずだ、あの生活指導が相手なら。
 でも、佐藤さんはそうは言わない。
「頑張らないといけないから……大丈夫。心配掛けてごめんね」
 自分に言い聞かせるみたいに言って、佐藤さんは一つ頷いた。表情は明るく見えていた。
「そっか」
 僕はようやく声を出した。食い下がる気にはなれなくて、結局、踵を返す。
「じゃあ頑張って、佐藤さん」
「うん、ありがとう」
 軽く手を挙げたら、笑い返してくれた。そのことだけが救いだった。
 待ってるから、とは言えなかった。
 でも、待つつもりでいた。今の会話が理由じゃなくて、僕はずっと前から決めていたんだ。今日は佐藤さんと一緒に帰りたかった。


 佐藤さんは勉強が苦手だ。高田先生の数学に限らず、担任の工藤先生の地理も、村上先生の国語表現も、その他実技を含めたどんな授業も苦手と来ていた。元々要領が悪いし、何かと飲み込みも悪い。反応の鈍いところもあって、人よりも行動がもたつくことが多いから、成績が振るわないんだろうと思う。
 成績が全てじゃない、なんていうのはきれいごとだ。学校では成績が他人への評価を左右することもままある。佐藤さんは頑張っているのに何もかもが振るわないから、佐藤さんが怠けているのだと捉える人も、いるらしい。現に、僕も一時はそう思っていた。でもそうじゃなくて、佐藤さんはあれでも精一杯、懸命に頑張っているんだ。頑張ることそのものが貴い、なんていうのも、やっぱりきれいごとなんだろう。
 今でも時々、いらいらさせられることがある。今回の抜き打ちテストにしたって僕は、最近やっていなかったからそろそろ来るなと予感していたんだ。少し前からテストに備えていた身としては、佐藤さんの無策ぶりが何となく腹立たしかった。もうちょっと準備くらいしておけば、先生にも怒られずに済むのに。何なら一言教えてやればよかったな。
 彼女の為になりたい。何が出来るのかは知らないし、どうすればいいのかもわからないけど、佐藤さんの為になれることがあればいいと思っている。佐藤さんは僕にあまりものを頼んだりはしないから、その思いを上手く伝えることも出来ていないけど。
 僕は佐藤さんの要領の悪さだけに苛立っているんじゃない。気の利かない彼女が、そうすることで誰かに怒られたり、正当に評価されないことが嫌なんだ。佐藤さんのいいところ、評価すべきところを僕は知っている。佐藤さんから教えて貰ったことも、たくさんある。
 時間も、気持ちも、季節も、全てのものは移り変わるということ。メールの文面を考えている間は、つまり相手のことを考えている時間でもあるのだということ。休み時間にちょっとつまむお菓子は、とても美味しいのだということ。思ったことを言葉にするのは、それだけですごく難しいのだということ。でも、誰かの振る舞いに心を揺り動かされて、素直に感じたことを言葉にするのに、おかしなことも、躊躇う必要もないんだということ。それから――そうして言葉に出来る瞬間は、幸せで、心地よいものなんだということ。
 僕は、佐藤さんからたくさんのことを学んだ。佐藤さんのたくさんの一面を知った。そして佐藤さんに対し、たくさんの思いを抱いた。時間は掛かってしまったけど、言葉にして伝えることも出来た。全部、彼女のお蔭だ。
 だから今日はその感謝を、形にして伝えようと思っていた。出鼻はすっかり挫かれたけど、僕はずっと、佐藤さんを待つつもりでいる。
 この間の、映画の時みたいな失敗は繰り返さないように。佐藤さんは僕の気持ちを容易く揺り動かしてしまう。その気持ちを伝えるのに、僕はまだ、なかなか素直になり切れない。
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