山口くんと山口さん(6)
僕らの結婚生活は新年度と共に始まった。季節が変わるみたいに穏やかな始まりで、仰々しくもなければ劇的な変化もない。
だけど間違いなく幸せで、満ち足りた毎日がやって来た。
この春から就職した僕は、朝、みゆと同時に家を出る。
僕の勤務先はみゆの職場と同じオフィス街にある。駅まで歩いて電車に乗って、同じ駅で降りるまで一緒にいられる。帰りの時間が合う時は、待ち合わせして一緒に帰ったりもする。そうじゃなくても、けっこう近いところで彼女もまたがんばってるんだなと思うだけで、まだ不慣れな社会人生活もなんとか乗り切れそうな気がしてくる。
「みゆ、準備できた?」
僕は靴を履きながら、玄関から声をかける。
「できたよ、今行くね!」
家の奥からとたとたと彼女が歩き回る足音がする。それを聞きつつ、僕は壁にかけられた鏡を覗いた。
ネクタイを結ぶのもすっかり慣れたし、スーツだって就活中からずっと着てて、ずいぶん身体に馴染んだと思う。だけど会う人会う人に『あ、新人さん?』って聞かれるから不思議だ。どこかに慣れてないオーラでも出てるんだろうか。
とは言え、高校時代と比べたらずいぶん大人になった――はずだ。
前髪を確かめ、ジャケットの埃を払い、通勤カバンにしている黒のトートを肩にかける。
最後に左手の指輪を、今まで一度も忘れたことなんてないけど確認しておく。しみじみ見直して、幸せを噛み締める。
ちょうどそのタイミングでみゆが、スプリングコートに袖を通しながら現れた。
指輪を見ている僕に気づいたか、そこでちょっとはにかんでみせる。
「お待たせ」
そう言った彼女の左手の薬指にも指輪がある。サイズは違うけど、僕とお揃いだ。
「じゃあ、行こうか」
僕はみゆが靴を履くのを待ちながら、靴箱の上に目を向ける。
そこには彼女が作ってくれたネームプレートを飾っている。前のと同じ楕円形にネズミの顔がついたやつだけど、貼りつけられた名前はちゃんと変わっている。
『やまぐちあつし・みゆき』
そういう変化も、眺める度に幸せだと思う僕がいた。
仕事のほうは今のところ順調、と言うほど完璧にこなせてもいないけど、目立ったトラブルや悩みや行き詰まりもないのでいいスタートを切れている。
「山口くんなら大丈夫、すぐに慣れるよ」
そう言ってくれたのは職場の先輩、園田さんだ。インターンシップの時にお世話になったこの人に、今では正式に仕事を教わっている。相変わらず明るくポジティブなお姉さんだ。
僕が新年度早々に結婚したことは、もちろん会社に報告している。やっぱり既婚の新社会人は珍しいようでいろいろ聞かれたりもするけど、思っていたより好意的に受け止められているみたいで、それが意外だった。
「結婚してると会社としては、長く勤めてくれそうって思われるみたいだよ」
とは、すでにご結婚されている園田さんのお言葉だ。
「守るべきものがあるからって、ことなのかもね。実際はむしろ『家族がいるからがんばれる』っていうほうが正しいような気もするけど」
一理ある。結婚したことで、独身でいる時よりも身軽ではなくなったのも事実だ。
でもそれ以上に、みゆがいるから僕はいくらでもがんばれる。彼女のためならなんだってできる。そういう気持ちは以前から――みゆ自身も知らないほどずいぶん昔からあったけど、今ではさらに強くなった。
それから思う。みゆはもしかしたら僕より早く、僕がいるからがんばれるって思ってくれていたのかもしれない。これからはお互いに、そういう気持ちを抱えて働いていくことになるのかもしれない。
結婚一年目の僕が語るのもおこがましいけど、夫婦ってそういうもの、なんだろう。きっと。
結婚式こそ身内のみで執り行ったけど、祝ってくれた人はたくさんいた。
例えば高校時代のクラスメイトたち――C組の面々が同窓会がてら一席設けてくれて、僕とみゆはもちろん揃って参加した。
もうこの街を離れた人、仕事でどうしても日程が合わない人もいて、さすがに全員は揃わなかった。でも卒業後も交流があった何人かとは久しぶりに顔を合わせ、一緒にお酒を飲んだ。そしてさんざんに冷やかされた。
「山口とみゆきちゃんは一番に結婚するって思ってた!」
「意外性ゼロだよね。このままふつうに子供作って孫までできるでしょ」
「あれからずっと仲いいとかすごいよね、すごい愛し合ってんじゃん」
僕はそういう冷やかしは高校時代に通ってきた道だから、何を言われようが素知らぬ顔でスルーすることができた。
でもみゆはひたすら恥ずかしがってて、お酒で酔っ払う前から真っ赤になっていた。
「『山口みゆき』になった気分、どんな感じ?」
ひとりからそんなふうに問われて、彼女はまごまごしながら僕を見る。僕が笑うと、みゆも照れ笑いを浮かべながらようやく答えた。
「なんか結婚したんだなあって実感できて、すごく幸せな感じ……かな?」
まごついた割にはものすごく素直に、正直に答えてくれた。
それでかつての級友たちは色めき立ったし、僕は僕でゆるむ口元を隠し遅れてみんなにめちゃくちゃ突っ込まれた。結局、僕のスルースキルも大したことなかったらしい。
C組のみんなとは、こんなふうに卒業後も何度か会ってきた。
変わらないものなんてないように、みんなそれぞれに大人になっていくのが目に見えてわかった。
みんなとはそんなに密な友達付き合いでもなかったし、僕と同じタイミングで就職した人がほとんどだ。これからも頻繁に会うことはなさそうだけど、何かの節目にはまた集まることを約束している。僕たちもなんだかんだ地元を離れなかったし、そういうゆるい付き合いが今後も続いていくだろう。
僕とみゆにとって共有できる、とても大きな思い出のひとつだ。大切にしていきたい。
同窓会の後、みんなとは店の前で別れた。
そして僕とみゆは同じ道を帰る。駅前からバスに乗ってふたりで暮らすアパートへ。途中、母校の前を通りかかって、夜の桜並木を車窓から眺める。
淡いピンクの桜の花はもうだいぶ散っていて、ほとんど葉桜になっていた。
「今年の春はあわただしくて、桜眺める時間なかったなあ」
僕はそっとぼやいた。
何せ大学卒業、就職、そして結婚のトリプルコンボだ。充実した日々であったことは否定しないけど、のんびり花見をする時間はほとんどなかった。
「でも写真はいっぱい撮ったよ」
みゆが、ほろ酔いの瞳を細めて応じる。
「結婚式、ちょうど桜のきれいな頃だったもんね。いい写真になったよね」
「ああ、そっか。見たければいつでも見返せるんだよな」
僕らの結婚式の様子はちゃんと写真に収めてあるし、大きなパネルにしたものが僕の実家にも、みゆの実家にもそれぞれ飾ってある。今年の桜を見たければ、僕らはいつでも見ることができる。
それに記憶にも焼きついている。結婚式の日、春らしい青空。白いウェディングドレスの彼女と、その前髪に留まった花びら。
花見はできなくても、今年の桜もふたりで見られた。いつものように。
そして今年も、今まで見た中で一番きれいだった。
「来年はのんびり見たいな、結婚記念日の頃だろうし」
僕が言うと、隣に座る彼女がそっともたれかかってくる。
「じゃあ結婚記念日はふたりでお花見しようよ、お弁当持って」
「いいね。おいしいの作ろう」
僕らはすでに来年の約束をしている。
結婚一周年を迎える頃に見る桜は、きっと今年よりもきれいだって思えるだろう。
バスを降りた僕らは手を繋いで、住み慣れたアパートを目指す。
お酒を飲んでいるからか、みゆの柔らかい手のひらはほんのり温かい。その体温に心地よさを覚えつつ、薬指の指輪の存在も感じつつ、彼女の隣に並んで歩く。
この夜道もふたりで何度となく歩いた。同じ部屋で一緒に暮らしてきた。これからだってずっと、僕はみゆの隣にいる。
しみじみと幸せを噛み締める僕を見て、みゆが優しく笑う。
「篤史くん、なんだかうれしそう」
「うれしいよ。みゆが隣にいるから」
僕が答えると彼女ははにかみ、それから小さな声で言った。
「私もだよ、篤史くん」
僕たちの結婚生活はこんなふうに、ささやかな幸せでいっぱいだった。