ふたりでお酒
みゆの誕生日当日、僕らはレストランに足を運んでいた。普段はどちらかがご飯を作ることにしているけど、こういう日くらいは外食をしようと意見が一致した。予約を入れたのはショッピングモール内にあるイタリアンレストランで、誕生日だと告げたら眺めのいい窓際の席を用意しておいてくれた。
ワインのグラスを慣れない手つきで持ち、みゆは小声で聞いてくる。
「こういうところも、普通の乾杯でいいのかな……?」
「少し掲げるだけでいいと思うよ」
僕は笑いをこらえながら助言をして、一足先にグラスを掲げた。
「みゆ、誕生日おめでとう」
それを見た彼女が、おそるおそるといった様子で真似をしてくる。
「ありがとう。こんな素敵なお店にも連れてきてもらって、うれしいな」
そしてやっぱり不慣れなそぶりでグラスに口をつけたから、僕も後を追ってワインを飲んだ。舌にじわっと染み入るような、深い酒の味がした。
大学生のバイト代で高級店に行けるはずもなく、今日の店はディナーコースで五千円以下というリーズナブルな店だ。
実際、大学の友人から評判を聞いた上での選定だったから、要はファミレスを卒業した連中が次に行くようなレストランなんだろう。とはいえ料理の味はいいらしいし、ファミレスほどがやがやしていないのもいい。デート向きの店でもあるそうで、他のテーブルの客もほとんどが若いふたり連れだった。
もっといい店には、僕が就職してちゃんと自立して給料を稼いでから連れていってあげるということで――みゆにはいちいちそんなこと言わないけど、内心ではそう決意していた。
それに、他にお金を使うべきところもあったし。
「ワインって初めて飲んだかも。酔っ払っちゃうかなあ」
そう言って首をかしげるみゆの耳には、小さなイヤリングが光っている。
ここに来る前、僕がプレゼントしたものを早速つけてくれていた。
ピンクゴールドの土台に、ブリリアントカットの透き通った石を載せたごくシンプルなイヤリング。こちらも宝石ではなくてキュービックジルコニアだけど、やっぱり大学生風情がそんなところで背伸びをする必要はないと思った。もっといいものを後々贈る予定だ、その時はイヤリングじゃなくて指輪にするけど。
なんにせよ長い髪を束ねることが多いみゆに、イヤリングはとてもよく似合っていた。
彼女は僕の視線に気づくと、耳たぶにそっと手を添える。
「プレゼントもありがとう。なんか、大人になったみたいな気分」
「どういたしまして、よく似合ってるよ」
僕はここに来る前から何度となく告げている本心を繰り返した後、少し笑った。
「でも、大人になったみたいっていうのは今更だろ。もう二十一だよ、みゆは」
「そうなんだけど、イヤリングって大人っぽいなって思ってたから」
彼女は真面目な調子で続ける。
「ちゃんと耳を出さないと見えないアクセサリーだから、あえて着けてるって感じがするの。他のアクセサリーよりも、意識して身に着けるもののような気がして」
当たり前だけど、僕はアクセサリーなんてせいぜい腕時計くらいしか着けたことがない。だから彼女の言う感覚が全て理解しきれたわけでもなかった。
でも、大人っぽさを意識してイヤリングを着けたがるみゆの気持ちはわからなくもない。
昔の彼女なら――高校時代、まるで取るに足らない存在のように自分のことを語っていた彼女なら、きっとこんなことは言わなかった。
「確かに、もう大人なんだよな……」
これも当たり前のことをつぶやいてから、僕はもう一口だけワインを飲んだ。
アルコールの匂いと味の中に、かすかにブドウの風味がある。不思議な飲み物だ。
みゆも同じようにグラスを傾ける。その手つきはまだどこか覚束ないものの、飲む表情はなんだか満足げだ。口に合ったのかもしれない。
思えば、僕らが差し飲みをする機会なんて今までなかった。
せいぜい互いの実家で出された分を飲むだけか、同窓会でちょっと付き合ったくらいだ。
大人なんだから飲みたければいつでも飲めそうなものだけど、あいにく僕もみゆもそれほど飲みたくならない質だった。彼女は職場の飲み会でも常にオレンジジュースを頼むそうだし、それに倣ってというわけではないけど僕も飲み会では乾杯のビールを飲むくらいだ。未だに苦いビールのおいしさはわからないほうだし、かといってしょっぱいものだらけのおつまみ相手に甘いカクテルで立ち向かう気も起こらない。
だから僕らの家の冷蔵庫にアルコールが入っていることはまずなかった。ふたりで飲もうか、という話になったこともない。
でも、今夜はお互い飲み物にワインを選んだ。
誕生日だから、一緒に飲もうと決めていた。
「ワイン、気に入った?」
僕が尋ねると、みゆはグラスを置いてから答えた。
「おいしいよ、お料理にも合うし」
「よかった。みゆとお酒飲むのも初めてだからさ、何がいいのかなと思ってて」
「そうだよね、本当に初めて」
彼女はうなづき、柔らかく微笑む。
「お互いにあんまりお酒飲まないほうだもんね」
「飲む習慣もないしね、僕もみゆも」
子供の頃は、大人になったら飲むのが当たり前だと思っていた。
僕の両親は仕事の付き合いで飲んでくる機会も多かったし、たまにふたりで晩酌もしていた。仕事の時はしょうがなく、断れなくてといった風情だったようだけど、家で飲む時はふたりともすごくおいしそうにしていた。
大学に進学してからは何度となく飲み会に呼ばれた。そこでもアルコールを介して交流するのが当たり前という空気があったし、みんながばがばと浴びるようにビールを飲みまくっていた。僕もその手の交流に乗ったり乗らなかったりしつつ、いつかは酒のおいしさがわかるんじゃないかと思っていたけど――。
二十歳を過ぎて、あと数ヶ月で二十一歳になるけど、未だにわからないままだ。
でも、彼女と食事をする楽しさはわかる。
「篤史くん、あれ見て! チーズだよ!」
みゆがテーブル越しに囁いてきたとおり、厨房から現れたウェイターはワゴンの上に半月型のチーズを載せていた。ホールサイズに戻したら車のタイヤくらいはありそうな大きさだ。
やがて僕らのテーブルにもチーズのワゴンが運ばれてきて、ウェイターがリゾットの仕上げを始める。チーズの断面を削りながら、熱々の湯気立つリゾットを巧みな手さばきでかき混ぜる。
「わあ、すごーい……! こんなふうに作るんだ!」
それを眺めるみゆの目はきらきら輝いていて、見ているこっちまで楽しくなってしまう。
ワインどころかイタリアンも初めてだったのか、その後も彼女は職人が回すピザ生地に驚き、伸ばされたピザ生地の向こうが透けて見えそうな薄さに驚き、そして客席からも見える炎渦巻く石窯に驚き――その顔を見る度、つられて笑顔になってしまう僕がいる。
少し奮発してでも連れてきてよかった。
結局、僕はみゆと一緒ならお酒があろうとなかろうと楽しい。
僕らの交流はアルコールの力に頼る必要もなくて、ただふたりで過ごせたらそれだけで満足できる。
もちろんご飯やお酒がおいしいに越したことはないけど。
「リゾットもおいしいね、篤史くん」
上機嫌のみゆがおいしそうな顔を見せてくる。
それに笑顔を返した後で、ふと僕は彼女のグラスが空になりかけていることに気づいた。
「みゆ、グラス空になるよ」
「あ、そうだね」
「何か頼もうか。二杯目はどうする?」
僕が尋ねると、彼女は少しの間考え込んでからこう言った。
「もう一杯、ワイン飲んでもいい?」
「もちろんいいよ」
そんなに気に入ったのか。内心驚きつつも僕が承諾すると、彼女は大きくうなづいた。
「すごくおいしかったの。お料理にも合うし、それになんだか気分もいいし」
あれ。もしかしてちょっと酔っ払ってるのかな。
僕はウェイターを呼んで追加のワインを注文した後、みゆをそっと観察してみた。
注がれたワインをこくんと一口飲んで、ちょっとうれしそうに唇をほころばせる。それから僕の視線に気づいて、上目遣いにこちらを見た。
その眼差しに、どきっとする。
「お酒もご飯もおいしいね。本当にありがとう、篤史くん」
みゆの微笑は心なしか普段よりもしっとりして見えて――僕は一瞬、このまま酔わせたらどうなるのかな、などと考えてしまった。
僕らがふたりでお酒を飲むのは、今夜が初めてだ。