ふたりの朝
この春から、僕は実家を出て、彼女と二人暮らしを始めた。同棲生活で一番大切なこととは何か。
僕が思うに『健康的な生活を送ること』じゃないだろうか。
僕も彼女も親元を離れるのは初めてで、いわばこの度の同棲が自立への第一歩というところだ。まあ僕は未だに学生の身分で、学費は親に出してもらっているので『自立』には程遠いんだけど――だからこそ生活面では親に迷惑も、心配もかけたくない。
もちろん彼女についても同様だ。僕と暮らし始めたがために仕事がおろそかになったとか、身体を壊したとか、そういう事態が起きては困る。彼女に無理はさせられないし、親元を離れたからこそ健康でいてもらいたい。
つまり同棲中だからこそ、まずは規則正しい生活を送らなければならない。
休日であっても、遅くとも八時には起きたいと思っている。
寝だめなるものがかえって身体によくないという説は何年も前から見かけるし、それでなくても昼前に起きて朝食抜きというのはなんだかだらしなく感じる。毎日きちんと三食取りたいし、栄養バランスだって重視したい。
だから休日もアラームをかけておく。
とはいえ、僕が目を覚ますのはたいていアラームが鳴るよりも先のことだ。
きっちり閉めたはずのカーテンでも押さえきれない朝日が、まだ見慣れない部屋の中を少しずつ明るく染めていく。すると自然と目が覚めて、僕は温かいベッドの中でまばたきをする。
窓の光が気になるのは、窓際にぴったり寄せたベッドでそちら側を向いて寝ているせいだろう。何せ彼女はベッド歴が浅い。実家ではずっと布団で寝ていたそうで、就寝時の転落事故を懸念していたから、僕が隣で柵がわりになってあげている。
そのかいあってか、彼女は昨夜もぐっすり眠れたようだった。
いや、今もぐっすりだ。
僕の目の前には目をつむった彼女の寝顔がある。いつもは結わえている長い黒髪がその顔を半分くらい覆っていたから、僕はそっと手を伸ばしてその髪をかき上げた。
「みゆ」
彼女の名前を呼んだのは、起こすためじゃない。
僕が彼女をそう呼ぶようになったのはここ半年くらいのことで、今ではその呼び方がすっかり身体に染みついていた。でもひとりでいる時、ふと彼女の名前がすごくいいものみたいに思えてきて、なんとなく口をついて出てしまうことがある。
佐藤みゆき、だから『みゆ』。かわいい名前だ。
当の本人は僕に呼ばれて返事をするどころか、眉ひとつ動かさずに眠りこけている。乾いた唇はわずかに開き、代わりに目は安心しきったように閉じていて、枕にくっつけた頬にはほんのり赤みが差している。
彼女の寝顔は、学生時代と変わらずあどけなかった。
僕は一緒に暮らす前から、もっと言えば付き合う前から彼女の寝顔を知っている。
といっても変な意味じゃなく、単に教室で隣同士の席だった時、みゆはちょくちょく睡魔に負けることがあったからだ。舟を漕ぐだけならまだましで、たまに机に突っ伏して本気寝モードに入ることもあった。授業中にもかかわらずだ。
そういう時、僕は教科書の陰から彼女の寝顔を盗み見ていた。
授業に集中できなくなるとわかっていたけど目をそらせなくて、だけど堂々と眺める勇気もなかった。
今は何の差しさわりもなく、彼女の寝顔を眺めていられる。
それどころか毎日、毎朝見ることができる。
幸せそうに、安心しきって眠りに落ちているみゆを、僕も穏やかな気持ちで見つめている。うまく言えないけど、彼女がずっとこうやって、安心して眠りに就ける日々が続いたらいいと思う。そのためなら僕は何だってできるだろう。
ただ、そろそろアラームが鳴る時刻だ。幸せそうな彼女を起こすのは申し訳ないけど、八時ならもう起きてもいい頃だろう。
八時ちょうど。僕は鳴りだしたアラームを二秒で止めると、今度ははっきりと彼女を呼んだ。
「みゆ」
「……ん」
至近距離じゃないと聞こえないほどの、かすかな声が唇から漏れた。
白い眉間に柔らかくしわが寄り、黒い睫毛が震えるように動く。目が開くか開かないかくらいのタイミングで、僕はもう一度声をかける。
「みゆ、朝だよ」
「あ、さ……?」
たどたどしくその単語を繰り返した後、みゆはゆっくりと瞼をこじ開け僕を見た。まだ焦点の合わないまどろむ瞳は、それでも隣にいる僕の存在をとらえることができたらしい。唇がほんのちょっとだけ微笑んだ。
「おはよー、篤史くん……」
「おはよう。目覚まし鳴ったよ」
「んー……」
みゆはがんばって起きようとするみたいに、自分の目を手の甲でこする。
「今、何時?」
「八時四分。土曜だから焦ることはないけど」
彼女があわてないよう、僕はその事実をしっかり言い添えた。
今日は土曜日だ。みゆの仕事はお休みだし、僕も大学はない。バイトはあるけど夜の話だし、夕方まではふたりでのんびり過ごせる。
そんなせっかくの休日だから、規則正しい生活をして、時間を有効に使えたらいいなと僕は思い――。
「今日、お休みだよね?」
みゆはまばたきを繰り返しながら、むしろ不思議そうに尋ねてきた。
「そうだよ」
「じゃあ八時に起きなくてもよくないかな?」
そう言うと、みゆは僕の返事を待たずに再び瞼を閉じる。
「もうちょっと寝てようよ……」
乾いた赤い唇が半分寝言みたいにつぶやいた。
黙って見ていたら再びすやすや言い出したから、僕は戸惑いながら声をかけてみる。
「もうちょっとってどのくらい?」
「じゅっぷん……さんじゅっぷんくらい……」
眠いせいなのか数の増やし方もおおざっぱだ。
まあ、三十分ならいいか。起きてすぐご飯にすれば十分規則正しい生活になる。僕は彼女の頼みを受け入れることにして身を起こす。
「なら、僕は先に起きてるよ。ご飯できたら起こすから」
「んんー……」
僕の言葉にみゆは、何か言いたげにうなった。
そして次の瞬間、ベッドを出ていこうとした僕にぎゅうっとしがみついてきた。
「わっ」
僕は引きずり込まれるようにベッドに戻される。
みゆは両手で僕のパジャマの胸元にすがり、枕がわりにするみたいに頬をくっつけてきた。思わず顔を覗き込むと、閉じたままの目の代わりに口元だけでにこにこしている。
「あとさんじゅっぷん……」
またうれしそうに言ってのける。
僕が反論に困っていれば、彼女は一分も経たないうちにすうすう寝息を立て始めた。その顔は幸せそうだし、僕のパジャマをつかんだまま離そうとしない。この手を無理やり引きはがせるほど、僕は無慈悲な人間でもないつもりだ。
「参ったな」
思わずつぶやいてみたいけど、もはや彼女からの返事はない。薄く唇を開け、目はしっかり閉じて、頬をほんのり赤くした、警戒心ゼロのあどけない寝顔が目の前にある。睫毛の影がわかるほどの距離にある。
参ったとは言ってみたけど、この寝顔をこんなに近くで見られるのに困ったことなんて何もない。
むしろ、すごく幸せなことだ。
おまけにベッドの中はふたり分の体温で程よく暖かい。ぴったりくっついてくる彼女の身体は柔らかく、やっぱり温かくて、隣にいるといろんなことがどうでもよくなってしまう。僕の瞼も重くなる。
休みの日であっても、規則正しい生活を送るつもりだったんだけどな。
まあでも、誰かといれば不測の事態だって起きるし予定が狂うこともある。それは彼女の隣にいるようになってから何度となくあったことで、僕はその度に自分の考えの甘さに振り回されてきた。そしてそういう不測の事態こそが、後々まで記憶に残っていい思い出になったりするんだ。
だから、今日くらいは彼女に付き合って二度寝してもいいかな。
僕はみゆに合わせて目をつむる。
そして両腕で彼女を抱き締め返し、その柔らかさと体温をひとり占めしてみた。みゆはほんの少しだけ身じろぎしたけど、まどろんだまま僕に身体を預けてきた。
同棲生活で一番大切なことは何か。『健康的な生活を送ること』だって僕は思うけど、それには心の健康ってやつも含まれるんじゃないだろうか。
つまりお互いに我慢せず、無理もせず、とにかく幸せでいるために時々は寝坊することも必要なんじゃないかって――眠くなってきたから、この結論についてはまた今度。