佐藤さんと夢見心地
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴り響いた。教室の中はざわざわと騒がしい。窓際の僕の席の右隣には、佐藤さんがいる。
僕はまだ信じられない思いでいた。ついさっきまで左隣の席にいた佐藤さんが、今度は右隣の席になった。これは、何なんだろう。もちろん偶然だけど、それ以外に何かがあるはずもないんだけど、不思議な気持ちでいる。席替え前の浮ついた気持ちがぶり返してきたようだ。
妙だな。
また佐藤さんの隣だなんて、厄介事が増えそうで大変なのに、憂鬱だって気が起こらない。
予鈴が鳴り終わると佐藤さんは、机から教科書とノートを取り出した。
「教科書も変わったから、覚えるのが大変だね」
と言いながら、次の授業の教科書を検めている。
表紙に記された『地学』の文字は、僕にとっても見慣れない。右隣にいる佐藤さんも見慣れない。
「ね、山口くん。地学ってどんなことやるのかな」
不意に佐藤さんがこっちを向いた。
僕はびくりとして、慌てて自分の引き出しから教科書を取り出す。そして震える指でページを開くと、目を逸らしながら答えた。
「教科書に書いてある通りじゃないかな」
「そっか。私、まだ全部目を通してないんだ」
佐藤さんは相変わらず、のんきなものだ。僕に向かってはにかむように笑って、こう続ける。
「あんまり難しくない授業だといいなあ」
彼女にとっての難しくない授業ってどんなものだろう。何だって難しがってそうな気もするけど。また授業中に指されて答えに詰まったり、ノートを取るのさえもたついてくれたりするんだろうな。迷惑だ。
僕は深呼吸をひとつした。彼女には絶対に聞こえないように、静かに。そっと。
それから、いつものように彼女に告げる。
「今度からは当てられても大丈夫なように、予習くらいはしといたら」
すると彼女は目を瞬かせた。すぐに頷く。
「あ、うん。そうだね」
「そうだよ。もう三年生なんだしさ、佐藤さんに当たる度に授業がストップしたら困るんだ、僕だって」
ごく素っ気なく言ったつもりが、僕の声はやっぱり浮ついている。
本当に妙だ。何をそわそわしてるんだろう。
「そうだよね。前は山口くんにも助けて貰っちゃって」
佐藤さんは佐藤さんで、このタイミングで以前のことを口にしたりするし。
あの時のは単なる気まぐれ。それ以外の何物でもない。なのに彼女はしつこいんだ。
「まだお礼、してなかったよね」
そんなことまで言い出したので、僕は顔を顰めておいた。
「気を遣わなくていいったら」
「ううん。だって恩返ししたいの」
佐藤さんは胸を張って、
「今度、山口くんが当てられた時に、答えを教えてあげられるようになりたいんだ」
と言った。
「へえ……僕に答えを」
「うん」
正直、随分と条件の厳しいお礼だと思った。僕が先生に指されて、その上答えがわからない状況じゃないと駄目じゃないか。僕のわからない答えを佐藤さんが知っていて、それをわざわざ教えて貰うだなんて、そうそうないことのような気がするけど。
まさか、わざと知らないふりをして教えて貰うわけにもいかない。佐藤さんの教えてくれる答えなんて、いかにもすっ呆けた間違いをしていそうだ。
僕はしかめっ面のままで彼女から視線を外した。
「まあ、頑張ってね。佐藤さん」
「うん、頑張るね」
右隣の席では佐藤さんの声がする。
今までとは違う方向からの彼女の声。
「山口くんとまた隣同士になれてよかったなあ」
ごく何気ない調子に聞こえて、なのに僕の肩は緊張した。
教室の騒がしさが遠くなったようだ。
左隣には陽の射し込む窓がある。じりじりと室温を上げる真昼の陽光。春先なのに、既に暑かった。
「……どうして?」
僕は聞き返す。
彼女の答えなんてわかり切っているのに、あえて聞き返す。
もしかしたら予想と違う回答が返ってくるかもしれない――なんて、訳のわからない思いを抱きながら。そんなことあるはずもないのに。大体、どんな回答を僕が望んでるっていうのか。
そして佐藤さんは、僕の内の逡巡も知らずに言うんだ。
「お礼の機会ができたから。恩返し、絶対したかったんだもん」
やっぱり、予想通りの答えを。
あまりにも何もかもが以前の通り。佐藤さんも左隣にいた頃と何ら変わったように見えない。僕は夢を見ているような気分になる。
これは夢なんじゃないだろうか。どちらかと言えば悪夢。やけにどぎまぎして、汗を掻いて、呼吸が苦しくなるような悪い夢を見てるんじゃないだろうか。
でも、現実として席替えは終わり、佐藤さんはまた僕の隣にいる。三年生になっても相変わらずのマイペースぶりを発揮している。
そして僕は。
僕は、さっきからそわそわしてばかりだ。憂鬱な気分にもなり切れないまま。窓際の席の日射の強さに、春のうちから悩まされ始めている。
地学の授業が始まって少し経つと、右隣の席からは、安らかな寝息が聞こえてきた。
横目で見ると、佐藤さんは机に突っ伏すように寝入っていた。目を閉じて、唇を少しだけ開いていた。
窓からの日差しはちょうどいい暖かさだったんだろう。一番後ろの席は先生の目につきにくく、気が緩む。そして地学の教科書は彼女にとって、見知らぬ単語でいっぱいだ。
僕は静かに溜息をつく。
この分じゃ彼女からの恩返しは、いつになるのやらわからない。期待はしないでおこう。元からしてないけど。
ただ、右隣にあるこちらを向いた寝顔があまりにも幼く見えたので、見ないようにするのに苦労した。気まぐれに教科書の陰から覗き見て、その度に呆れたくなった。
きっと彼女はいい夢を見ているに違いない。羨ましい限りだ。
僕なんてさっきからどぎまぎして、暑苦しくて、気分が浮ついてしょうがないのに。