Tiny garden

貴方よりは赤くない

「俺は、君の白馬の王子様になりたい」
 先輩が真顔でそんなことを口走ったので、思わず吹き出した。
「普通そういうの、自分で言わなくないですか?」
「……君こそ、もう少し可愛い反応できないもんかな」
 心外そうに先輩は顔を顰めたけど、こんな台詞を目の前で言われて笑うなっていう方が無理な寸法だ。
 まして今が特にロマンチックでもない、いつもの冬らしく先輩の部屋で落ち合って、二人で鍋を囲んでるっていう状況なら尚のことだろう。
「どうしたんですか先輩、もう既にできあがっちゃったんですか」
 あたしは鍋から煮えた春菊を引き上げつつ、先輩に尋ねた。
 もうもうと立つ湯気越しに、色白の先輩は確かに頬を赤くしている。
 それはまだ一本目をちびちび飲んでいる缶ビールのせいでも、先程の恥ずかしい台詞のせいでもないはずだった。この人は冬場となればいつもこうだった。寒い戸外にいても、暖かい室内にいても頬がほんのり赤くなる。熱く煮え立つ鍋を囲んでいたら、赤くならないはずがない。
「あのねえ。俺が酔った勢いでこんなことを言い出すと思う?」
 先輩は溜息をつきながら、鍋に小さく切った鶏肉を投入する。
 今日は特別なお祝いだから少々奮発しようと言ってくれたのは先輩で、だからか今日の鍋はやたらと具が多く、ついつい食べる方に熱が入ってしまう。
「確かに、先輩は気障だから酔ってなくても言いそうですけど」
 実を言えば酔っているのはあたしの方なのかもしれない。ついつい口が軽くなる。
「でも鍋つつきながら言う台詞でもないな、とも思います」
「まあ、そうかもしれない」
「で、何なんですか先輩。さっきの発言の真意は」
 あたしが問うと、相変わらず頬の赤い先輩は一瞬唇を結んでから、傍らのビール缶に手を伸ばした。それをあたしに向けて軽く揺すってみせる。
「とりあえず、もう一回乾杯しようか」
「え、またですか? さっきから何回もやってますよ」
「何回やってもいいもんだよ。特に今日みたいなめでたい日はさ」
 その言葉には心から頷けたので、あたしは半分呆れつつも残り少ない自分の缶ビールを手に取る。
 そして先輩が掲げた缶に軽くぶつけて、今日何度目になるかわからない乾杯をする。
「かんぱーい。内定、卒論、その他諸々片づきまして、ありがとうございまーす」
「おめでとうございまーす」
 つまり今日は、そういうお祝いなわけだ。

 あたしの就職活動はもう本当に、聞くも涙、語るも涙の物語でございました。
 面接まで漕ぎつければいい方、そもそも門前払いというパターンも何度となくあったし、面接に行ったら行ったで端から興味ない態度を取られたり、質問を飛ばされたりと嫌な思いをしたことも少なくない。そうかと思えば熱心に話を聞いてもらえて、自己アピールもばっちり決まったはずの企業からお祈り連絡が来た時は、もう誰を信じていいのかって気分にさえなりましたとも。
 結局内定が取れたのは大学四年になってから。それまでのあたしは若干やさぐれていたし、最後の方はもう死に物狂いで駆けずり回っていたけど、捨てる神あれば拾う神ありとでも言うのか。決まる時は案外すんなり決まるものだった。
 内定をくれたのは小さな会社ではあるけど職種は希望通りだったし、おまけに勤務先は市内と来ている。先輩もこの市内で働いていたから、遠距離恋愛にならずに済むだけでも願ったり叶ったりだ。早速報告したら先輩も、まるで自分のことみたいに喜んでくれた。
 嬉しいことは続くもので、就活が片づくとその他の事柄もとんとん拍子に片づいていった。あたしは年越し前に卒論を仕上げて提出し、何とも晴れがましい気持ちで新年を迎えた。
 本日は先輩と、新年早々内定祝い、及びあたしへの労いを兼ねて暢気に鍋パーティなんぞをやっている。

「何だか先輩にはいろいろ迷惑かけちゃいまして」
 ビールを飲み干し一息ついてから、あたしは先輩に頭を下げた。
 就活中はやさぐれもしたし、一時期は人間不信にさえなりかけた。せっかく先輩の部屋を訪ねてきてもぐだぐだと愚痴を零したり落ち込みすぎて無気力になってるあたしを、それでも先輩は見捨てず呆れずに温かく接してくれた。あたし一人きりではこの就活という荒波を乗り切れなかったかもしれない。
「俺は君の為なら何でもする」
 恥ずかしげもなく言い切った先輩は、あたしの為にもう一本、缶ビールを持ってきてくれた。
「ほら、どんどん飲みな」
「ありがとうございます。……先輩は?」
「俺も飲んでるよ。鍋の合間にね」
 そう言う割に、先輩はまだ一本目も飲み切っていない。本日二本目のあたしとは対照的に、今日はお酒の進みが遅いようだ。食べる方が忙しいせいか、それとも鍋の進行を仕切るのに忙しいせいか。
 食べてばかり飲んでばかりの自分で申し訳ない気もする。あたしは恐縮しつつ缶のプルトップを空ける。ぷしゅっと美味しそうな音がした。
 二本目のビールに口をつけたあたしに、
「話を戻すけど、俺は君の王子様になりたい」
 先輩はまた言った。しかも真面目な顔をして。
 あたしがまじまじとその顔を凝視すれば、先輩は鶏肉を煮込んでいた菜箸を置き、そのままの表情で尋ねてきた。
「王子様の仕事って、何だと思う?」
「仕事? えー何だろ……外交とか、文化振興とかですか?」
「いや、そういう現実的な話をしてるんじゃなくて」
 先輩が手をひらひらさせる。
「比喩としての話だ。君の王子様になる為に、俺は何をすればいいのかって」
「別に王子様じゃなくていいですよ。先輩は先輩ですし」
 もう付き合い始めてから四年目になるし、この人の気障っぷりも今更で特別驚くようなことじゃない。とは言え、何か変なこと言い出したぞ、とは思っている。
 あたしは回りくどいやり取りは苦手な方だから、ずばっと聞きたくなってしまう。
「逆に聞いちゃいますけど、先輩は王子様の仕事って何だと思います?」
 すると先輩は自分の取り皿に白菜を移しながら、
「そりゃ他でもない君を守ったり、気遣ったり、世話を焼いたりすることだろ」
「はあ……なら、そういう意味で王子様を目指したいと?」
「そうだよ。……あ、鶏肉煮えたよ。食べる?」
「いただきます」
 あたしは鶏肉を取り分けてもらい、はふはふ言いながら食べた。食べつつも先輩の今の言葉の意味を考えていた。
 守ったり、気遣ったり、世話を焼いたりするのが王子様の仕事。そういうのはいかにもこの人の言いそうなことだ。もっとも、メルヘンなおとぎ話の世界でもそこまで献身的な王子はなかなかいない気がするんだけどね。
「なら、先輩はとっくにあたしの王子様じゃないですか」
 気障な台詞を打ち返すが如く、あたしは言った。
 長年付き合ってたらこういうところの感性も似通ってくるものなのだ。ましてあたしは既に酔っ払い始めている。お酒にもそうだけど、就活も卒論もひとまず落ち着いたという解放感に酔っていた。
 ところが大好きな気障な台詞を告げられた先輩は、そこできっぱりと首を振る。
「いや、俺はまだ足りないと思ってる」
「そうですかあ? 十分ですよ先輩は。あたしにはもったいないくらいですって」
「これから、君も社会人になるだろ? そうしたら君もますます大変になるし」
 あたしの否定を打ち消して、先輩は更に続けた。
「そういう君を、これまで以上に支えていきたいと考えていたんだ」
 真剣に語られてるとこ悪いけど、考えすぎじゃないのかなとあたしは思う。先輩はこの通りすごく尽くしてくれる人だし、正直これ以上なんて望んじゃいない。あたしが先輩のしてくれた分をこの先どれほど返せるか、わかったものじゃないんだから。
 あたしは現状でも先輩にとても感謝しているし、十分すぎるほど愛してもらっている。だから更に上を目指す必要なんてないと思うんだけど。
「もう既に支えてもらってますってば」
 反論しようとするあたしを手で制すると、先輩は急に居住まいを正した。ふうと大きく息をつき、鍋の湯気越しにまたしても真面目な顔を作る。
「実は、君に相談したいと思ってたことがある」
「相談? 何ですか?」
 ようやく本題に入るみたいだ。あたしも箸を置き、とりあえず背筋を伸ばしてみる。
 すると先輩は大きく頷き、話を進めた。
「今住んでるこの部屋なんだけど、今年度末が更新の時期なんだ」
「そうなんですか」
「で、長く住んでたとこではあるけど、そろそろ引っ越そうかと思ってる」
 先輩が室内を見回したので、あたしもつられるように視線を巡らせる。
 大学時代から住んでいた先輩の部屋は、社会人になってからというものすっかり手狭になってしまった。家電も家具も増えたし、スーツを着るようになって衣類も増えたしで、1Kのアパートじゃ当然窮屈に違いない。転居を考えているという話も以前からちらほら出ていたし、特に驚くべきことでもなかった。
「市内で探すんですよね?」
 あたしが聞き返すと先輩は軽く笑んだ。
「もちろん。君もめでたく地元で就職するっていうしね」
「引越し手伝いますよ。普段の恩を返さないといけないですし」
「ああ、それは当然一緒にやってもらうけど――」
 先輩はもう一度息をつき、笑いを引っ込めるように唇を結んだ。あたしの反応を窺うようにいくらか間を置き、しばらくしてから口を開く。
「よかったら四月から、一緒に暮らさないか」
 その台詞を先輩はなるべく真面目に言いたかったらしい。
 でもあたしがびっくりしたあまり、黙って瞬きを繰り返す顔がよほどおかしかったんだろう。やがてふっと表情は緩み、あとはもうほとんど笑顔になって、赤い頬のままで言われてしまった。
「もちろん将来的にはそのまま、結婚するつもりなんだけど。どう?」
「どうって……」
 今度はあたしが深く息をつく番だった。何だか一気に酔いも覚めてしまって、その代わり軽く混乱している。
「まさか『王子様になりたい』って、そういう意味だったんですか?」
「ツッコミどころはそこ? まあ、そうだよ」
「何て回りくどい!」
「そうかな……。わかりやすくていいと思ったんだけどな」
 いやどう考えたってそんなのわかるかいって感じです。
 って言うかそんな気障な言い回ししないで最初から普通に言ってくれればいいのにとも思うけど、まあ、先輩らしくていいってことなのかな。
「新社会人になる君を、できれば傍で支えていきたいんだ。卒業後即結婚も考えたんだけど、それだと君の負担が大きいだろうから、まずは一緒に暮らすところから始めようと思ってる」
 立て板に水のペースで語ってから、
「それで、返事は?」
 先輩は、うずうずしながらこちらの気持ちを確認してくる。
 あたしとしては先輩への気持ちなんて言うまでもないし、答えは決まったようなものだ。こっちは大学生活四年間を実家で過ごしてきたけど、そろそろ後々に備えて一人暮らしでもしようと思っていた。将来的に先輩のところへ行くのに、一人暮らしの経験もないんじゃさすがに格好悪い気がしてたから、家事とかにもいろいろ慣れとこうかと思って。
 でも、それが二人暮らしでも悪くないと言うか、むしろ好都合だ。先輩から家事を教えてもらえばいいんだし、そのまま将来――ぶっちゃけて言うと結婚することについての練習にもなるんだし、手っ取り早くていい。
 ってことで答えは決まりだ。先輩がうずうずしすぎて辛そうだから、あたしは意気込んで答えた。
「そういうことなら一枚噛みます!」
「……いや、君ね。その答えは嬉しいけど、もう少し可愛い答え方できないかな」
 先輩はあたしの返答を聞いて苦笑した。
「君はいつもそうだよな。俺が何か言うとすぐ茶化してくる」
 どうやらこちらにも気障な台詞を期待しているらしい。そうは言ってもあたしは先輩ほど気障じゃないし、元からひねくれた性格をしている。あんまり甘かったり熱かったりする台詞を口にできるような性質ではない。
 もっとも、近年ではすっかり誰かさんに影響されてしまったような気がするけど。先輩の為なら気障な台詞の一つや二つ、言ってやろうと思う。
「じゃあ、何て言えばいいです?」
「それを俺が言ったら興醒めだろ。別に突飛なこと言って欲しいわけじゃないよ」
「うーん。それなら、あたしの白馬の王子様になってください、とか?」
 あたしが特に捻りもせずにそう告げると、先輩は満面の笑みを浮かべてみせる。
「喜んで。君だけの王子様になるよ」
 やはり気障っぷりではこの人に敵うはずがない。
 心の底から負けた気分になって、あたしは白旗を揚げた。降参です、先輩。

 それからあたしたちは鍋の続きを食べつつ、新生活についてあれこれ話し合った。
 こんな部屋に住みたいとか、どの辺りで探したいとか、食事当番をどうするかとか――現実的な話も、夢見がちな話もたくさんした。
「緊張しててあまり飲めなかったから」
 と、先輩は今更のようにビールをすいすい飲み始めた。どうやら進みが遅かったのは、あたしに同棲の話を持ちかけようとタイミングを窺っていたかららしい。
「へえ、意外。先輩ならどんな台詞も平然と言ってのけるのかと思ってました」
 思わず口に出して告げると、
「失礼な、そこまで面の皮厚くないよ。それに、酔っ払ってから言うんじゃ格好悪いだろ?」
 先輩が拗ねてみせるものだから、あたしは大いに笑った。
「大丈夫。先輩はあたしの王子様ですから、何やっても格好悪いことありません」
 笑いながらもそう言ってやったら、先輩は口をぱくぱくさせてから赤かった頬を更に赤く染めた。
「君が言うと、突飛じゃない台詞もちょっと恥ずかしいな」
 いや十分気障で恥ずかしい台詞だと思いますけど。
 ともあれあたしは先輩をからかう。
「先輩、顔真っ赤ですよ」
「君の方こそ、人のこと言えたもんじゃないだろ」
 逆にからかわれるまでもなく、自覚はあった。特に白くもないあたしの頬も上気して熱を持っているのが自分でもわかる。それは冬場だからか、熱く煮え立つ鍋のせいか、それとも別の理由からか――なんて、それもまたわかりきってることだけど。
 とは言え、より赤みが際立って見えるのは色白の先輩の方のはずだ。
「先輩よりはましです」
 あたしがやり返すと、先輩もますますむきになる。
「いいや、君の方が絶対赤い」
「不毛な争いですね」
 それでこっちが吹き出せば、先輩もまた今気づいたみたいに笑ったりする。
「全くだ。お互い様なのにな」
「ですよね。素直に認めちゃいましょうよ、先輩」
「君の方こそ。……とりあえず、そろそろうどん入れる?」 
「いいですね。締めのうどんなんて最高です」
 あたしが応じると、先輩は嬉しそうにコンロの火力を上げた。鍋が盛大にぐつぐつ言い始めて湯気がもうもうと立ち昇り、その中にうどんが投入される。
 湯気の向こうに先輩の、燃えるような赤い頬が見えた。あたしはやっぱりあんなに赤くなってないと思うんだけど、ここまで来たら比べるのも無意味な気がしたから、これ以上の追及はやめておく。
 だって、同じ気持ちでいるのは確かだ。
 それは見た目以上に大切なことだって、今のあたしにはわかっている。
▲top