menu

マティウス伯爵夫人の日常・休日編(2)

 ロックたちはグイドの先導で、商業地区にある食堂に入った。
 貴族たちが足を運ぶ店ともなればやはり高級店なのか、石造りの立派な店構えは言われなければ食堂に見えない。高い天井から吊り下げられたシャンデリアや床を覆う毛織物の絨毯は一見しても質のいいものだったし、壁の絵画や飾り棚に並んだ骨董品なども、食卓を囲む客の姿がなければどこかの大邸宅に招かれたかと錯覚するほどだ。ロックは貧民街にあるジャスティアのパン屋を懐かしく思い、辺りをきょろきょろ見回さないように苦心した。
 無論、グイドやミカエラ、そしてエベルがロックのようにうろたえるはずもない。礼儀正しい店員が店の中を案内するのを、さも当たり前のようについていく。そうして四人はひときわ静かな個室へ通され、店員は優雅な一礼の後で立ち去った。

 窓から中庭が見えるいい眺めの個室で、ロックは恐る恐る口を開く。
「……この店での注文は、どのようにすればいいんですか?」
 その問いにエベルとミカエラは微笑んだが、二人より早くグイドが鼻を鳴らした。
「客に注文をさせる食堂など品がない。黙って一番いいものを持ってくるのが作法というものだ」
「へえ、そうなんですか」
 釈然としないながらもロックは頷き、その後聞き返す。
「でもそれで口に合わない品が出されたらどうするんです?」
 仕立て屋にもたまにそういう客がやってくることはあった。予算に糸目はつけないから好きに仕立ててくれとか、自分に一番似合う服にしてくれとか、そういう注文は金払いがいいぶん難しいものだ。しかしそういう場合でも、好きな色や生地、あるいは意匠の好みくらいは聞き出すようにしているので、何も聞かずに商品を出すというのはロックにとって驚きだった。
 グイドは溜息まじりに答える。
「そんな店に我々が足を運ぶわけがないだろう」
 つまるところ、貴族が行く店は文句の出ないほど美味しいものが出てきて当然、ということらしい。さぞかし神経のすり減る仕事だろうな、とロックは顔も知らぬ店の主に思いを馳せる。
 もちろん表向きは納得したようなふりをしたが、それを見てグイドが眉を顰めた。
「まったく、伯爵閣下は相も変わらず夫人を甘やかしていると見えるな。一向に作法を覚えていないではないか。これでは社交界へのお披露目もいつになるのやら」
 彼の一言、二言多いところも相変わらずだ。もっともロックは彼の皮肉にもいくらか慣れつつあり、にこやかに笑っておいた。
「引き続きエベルから教わることにします」
 そこでエベルも心得たように頷く。
「わからないことをそのままにせず自ら尋ねる姿勢、まさに向学心の塊というもの。あなたは実に勉強熱心だな。自慢の妻だよ、ロクシー」
「いえ、それほどでも……」
「公共の場だぞ、二人とも」
 称賛されて照れるロックに、グイドが深々と嘆息した。
「旧友の惚気を聞かされるのも初めてではないが、さすがに欲目が過ぎる」
「お兄様ったら、新婚のご夫婦に口を挟む方が無粋というものでしょう」
 うんざりした様子の兄を見て、ミカエラがもっともらしく口を開く。そして彼女はロックへ向き直り、こう続けた。
「ロクシー、お兄様の余計な一言を許してちょうだいね。お兄様は社交界に新しいお友達が欲しいのよ。あなたにそうなってほしくて、早くお作法を覚えてもらいたいみたい。だったらそう言えばいいのですけどね」
「お前は意訳が過ぎるな、ミカエラ」
 グイドのしかめっ面が微苦笑に代わる。だが否定もしなかった。
 どうやら、旧友の妻として期待はされているようだ。ロックはそう受け止め、笑っておいた。
「心得ました。なるべく早く身につけることにします」

 やがて店員が折り目正しくお茶を運んできて、和やかなお茶会が始まった。
 グイドが語ったように、この店のお茶やお菓子は確かに素晴らしい。香り高い茶葉を濃過ぎず薄過ぎずに淹れたお茶は、安物に慣れたロックにもわかるほど美味しかった。添えられたお茶菓子は小麦が香る焼き菓子で、ちょうどお茶の味が引き立つように作られている。なるほど高級店とはこういうものかと大いに得心したロックだった。
 もっともお茶会は単にお茶を楽しむだけでなく、ロックにとって学習の場でもある。普段からエベルに作法を教わってはいるものの、婦人ならではの振る舞いは彼からでは学びきれない。その点ミカエラはとてもよい手本であり、ロックは彼女の所作を密かに観察していた。
「……そういえばロクシー、あなたのお父様はご息災かしら?」
 視線に気づいているのかどうか、ミカエラは音も立てずにカップを置く。ロックを見つめて微笑む顔に、当然だがお茶菓子の食べ残しがついていることもない。まるで洗いたてのようにきれいで上品な笑みだった。
「ええ、お蔭様で。帝都の暮らしにも慣れたようです」
 さりげなく口元を拭いつつ、ロックは頷いた。指ではなく手巾を用いた辺り、多少の成長はしたと自負している。
「剣術師範の話は、まだ諦めたわけではないのだがな」
 グイドがカップを傾けながらぼやいた。
 彼はリーナス家にフィービを迎え入れたいと未だに思っているようだ。父の剣術の腕は素人目に見ても確かなものだし、その言い分はわかる。
 しかし一方で、父には好きなように生きて欲しいとも思うのだ。
「今は悠々自適な日々を楽しんでいるようですから」
 ロックが言うと、エベルも保証するように続ける。
「お一人で街歩きや観劇なども楽しんでおられるようだ。我々もよく晩餐に招いているのだが、たまに『今日は静かに食べたい』と断られてしまう」
「マティウス家の食卓は毎度騒々しいからな」
 誰かの顔が思い浮かんだか、グイドと共にミカエラも笑った。
「まあ今はゆっくりしたいというのであれば無理強いはしまい。どちらにせよ有事の際にはお力を借りることになるのだからな」
 そう続けたグイドの両目は、まだ金色のままだ。
「有事か」
 エベルがその言葉を継ぎ、同じ金色の瞳を静かに伏せる。
「そんなものなければいいと思う反面、今でも手がかりがあればと思ってしまう。結局、我々はまだ囚われたままだからな……」
 彼らはそれを呪いと呼び、一方でそれを祝福と呼ぶ者もいた。
 望んでもいないのに与えられたもの、人が背負う宿命にも似た呪いは、今も帝都で密かにはびこっている。時々あの彫像が見つかったという知らせがあり、エベルやグイドが出向いていくことがあった。新たに呪われた者がいる、という知らせはついぞない。守られている平和も確かにあった。
 だからだろう。エベルは決して暗い顔はしない。
「無論、諦めはしない。私は可愛い妻ならともかく、呪いと末遂ぐ気はないからな。向こうが付きまとってくるのなら、こちらも執念深く追い詰めて別れを言い渡してやるまで」
「その意気だ、エベル」
 グイドも満足そうに顎を引き、それから言った。
「妻を娶ると守りに入る男もいると聞くが、お前はさして変わらんな。相変わらず前向きで、そして相変わらず嫁のことばかり口にする」
「どうやら褒められたようだ」
 エベルはにっこりとロックに笑いかけ、ロックは照れながらそれに応じる。
「僕も、あなたの前向きさは貴いものと思っております。僕だって諦めはしません」
 宿命なるものがどれほど強固か、歳若いロックとて知っていた。出自や、才能の有無や、財産のあるなしなど、与えられた宿命に逆らい生きたいように生きるのが難しい。だがロックはそれを乗り越え皇女の仕立て屋に、そして伯爵夫人となった。同じように、エベルにも呪いを撥ねつける日がやってくればいいと願っている。
 そのためなら、ロックはどんなことでもできるだろう。

 四人でのお茶会を終えた後、ロックはエベルと共に帰宅した。
 そして夕食までのひと時をエベルの執務室で過ごすことにした。
 予定のない休日の夕刻や夜は、こうして二人きりの時間を持つようにしている。執務室に入る時は大抵エベルに伯爵としての仕事がある場合で、その際ロックは傍らに椅子を引き、持ち帰った仕事の刺繍をしたり、あるいは家族や従者の為の縫み物、編み物をして過ごす。時々は本を読み、伯爵夫人としての教養を育んだりもした。もっともロックは字を追うのが好きではなく、読書は早々に止めてエベルとお喋りに興じる時間に変えてしまったりするのだが。
 ただ、今日はいささか趣が違う。執務机に向かっているのはロックの方で、エベルが傍らに椅子を引いて読書に耽っていた。ロックはペンを持ち、紙に文字を認めている。
 綴っているのは友への手紙だ。
 途中まではすらすらと淀みなく記せたのだが、あるところでぴたりとペンが止まってしまった。
「……難航しているようだ」
 本から面を上げたエベルが、微かに笑い声を立てる。
 ロックは苦笑して首を竦めた。
「ええ、少し」
「書くことに悩んでいるのか?」
「書きたいことはいくらでもあるんです。話したいことが山積みでしたから」
 だから途中まではすらすら書けた。
「でも、ちゃんと届くか心配になってきて……」
 ペンを指先で回しつつ、ロックは視線を紙面へ落とす。
「こればっかりはヴァレッド殿下頼みですもんね。いいって言ってくださるかどうか」
 ユリアからの手紙は本当に嬉しかった。彼女の言葉に、そして心にもう一度触れられるとは思ってもみなかったのだ。
 だが一度叶うと欲が出る。自分の手紙を彼女に届けて欲しいと願ってしまい、こうして手紙を認めていた。ヴァレッドが再びの伝令を買って出てくれるかもわからないのに――そもそも彼と話す記憶を留めておけない以上、頼めるかどうか怪しい。
 エベルは首を傾げ、悩める妻を見やった。
「言ってくださるだろう。あの方は妹君の喜ぶことをなさりたいはずだ」
「そう……だといいんですけど。何分、遥か遠方ですから」
 ユリアが暮らすのは遠き北方、雪の降らない帝都から遥か彼方にある。そこまでの旅路がいかほどのものかロックには想像もつかない。たとえ文の一通だって運ぶのはたやすくないだろう。
「心配は要らない」
 柔らかく目を細め、励ますようにエベルが言う。
「あなたの手紙は間違いなく、あなたの友とその兄君を喜ばせるだろう。だが最後まで綴らなければその手紙はずっと読まれぬままだ。まずは書き終えなければ、届くものも届かない」
「確かにそうですね」
 夫の言葉にロックは噴き出し、少し明るい気分でペンを握り直した。
「ではより確実に届くよう、楽しい話ばかりのお手紙にしましょう」
「それはいい。きっと笑顔で読んでいただけるだろう」
「あなたのことも添えておきますね。心優しい夫ですから、困らせられることはまずないと」
 ロックがそう言うと、今度はエベルがおかしそうに笑う。そして改めて、心底いとおしげな眼差しをくれた。
「その言葉が額面以上のものであること、殿下にも伝わるといいのだが……」


『大切な友ユリアへ

 手紙をくれてありがとう。
 これを読んでいるということは、僕が君のお兄様にちゃんと頼み込めて、この手紙が北へと渡ったということなんだろう。
 君の手元に無事に届いたなら嬉しいし、君のお兄様にもすごく感謝している。そう伝えておいてくれるとありがたい。もしよかったらうちの店でおまけもするからって。

 君がそちらで元気だって聞けて、本当にすごく安心したし、嬉しく思っている。
 雪の上で蜜飴を作るって話、すごいね。僕には想像もつかないや。雪は冷たいから、冷やして固めるってことなんだろうって父さんは言ってた。カエデの蜜ってどんな味がするのかな。君が美味しいって食べてたらいいなと思うよ。
 それから、君がそちらでも笑顔でいてくれたら、とも思う。

 僕と、僕の周りの人は全員元気でいるよ。
 そう、結婚もしたし、帝都で店も出した。父さんも一緒に働いてくれてる。
 あ、君が心配していたから言っておくけど、エベルはすごく優しいしいい人だよ。いい人、って夫に言うべきことじゃないかな。つまり、僕にとっては最高の夫だよ。全然困らせられたりしてない。
 だから僕のことは大丈夫。
 でも君がそう書いた気持ちもわかるんだ。僕も同じように思ってるからね。君の幸せを願っているし、君が温かい日々を過ごせているようにと望んでやまない。
 もし、また暖かい毛糸の編み物が必要になったら知らせて。
 それ以外でも、君の頼みなら僕はどんな仕事よりも優先して仕立てるよ。

 書きたいことがたくさんあるけど、今はこのくらいにしておく。
 もしまた手紙が書けたら、君のお兄様がいいと言ってくださったら、今度は面白い話をたくさん書くよ。最近見たお芝居のこととか、僕のお店に来たお客さんのこととかね。

 いつまでも君の友人 ロックより』


 その手紙に封をした後、ロックは自分の店に持っていって、引き出しにしまい込んでいた。
 だがある日忽然と消えてしまったので、恐らく願いは叶ったようだ。誰かに手渡した記憶はなかったが、ロックは信じている。その証拠に受けた覚えのない注文が一つあった。暖かい毛皮で手袋を作れ、という注文だ。
 いつかまた、返事をもらうこともできるかもしれない。
 そんな日が来るのを、ロックはやはり信じている。
top