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深い眠りから覚めた後(1)

「――こら、ロック! 起きなさい!」
 聞き慣れたフィービの濁声が、眠っていたロックの意識を叩き起こした。
「え……?」
「こんなところで寝たら風邪引くでしょう、全くもうっ!」
 重い瞼をこすりながら顔を上げれば、目の前にはドレスをまとったフィービが立っている。どうやらたいそう怒っているようで、白粉をはたいた顔は思い切りしかめられていたし、紅を引いた唇も真っすぐ引き結ばれていた。
「家にも帰らないで夜通し仕事なんて、そのうち身体壊すわよ!」
 フィービのその言葉に、ロックはようやく自分が店にいることに気づく。図面を広げたカウンターに、突っ伏したまま寝ていたようだ。

 昨夜は店に飛び込んで、ドレスの図案をまとめていた。エベル、そしてユリアとの夕食の後でふと思いついて、どうしても昨夜のうちに描き留めておきたいと思ったのだ。天啓のようなひらめきを受けて筆は乗り、一夜にして美しい花嫁衣裳の図面が描き上がっていた。
 一仕事済んでほっとしたからか、その後で寝落ちしてしまったのだろう。

「そうだ、見てよフィービ!」
 これはぜひ見てもらいたい。ロックはカウンターの上に広げたままの図面を取り上げようとしたが、対するフィービはひと睨みでそれを制した。
「仕事の話は後。それより、あたしに何か言うべきことがあるんじゃないの?」
「え、何?」
 思い当たらずロックが目をしばたたかせると、大きな溜息が返ってくる。
「連絡もなしに帰ってこないで、心配かけたって気持ちはないわけ?」
「あ! ご、ごめん……なさい」
 やっと気づいて、ロックはうなだれた。
 思えばフィービと顔を合わせるのは昨夜、エベルと一緒にユリアを送ると家を出た時、あれ以来だ。店はまだ鎧戸が下りていて薄暗かったが、隙間から漏れる光で今が朝方だとわかる。
 昨夜から今朝まで、フィービがどんな思いで帰らぬ娘を待っていたかと思うと――今さらのようにロックは青くなった。
「本当にごめん。ここで寝ちゃうつもりはなかったんだけど……」
 続けて詫びれば、フィービは呆れた様子で首をすくめた。
「昨夜、閣下がわざわざ立ち寄ってくださったわよ。あんたが店に仕事しに行ったから、きっと帰りが遅くなるだろうって」
「エベルが?」
「だから眠れぬ夜を過ごしたってほどではないんだけどね。もし閣下が来てくださらなかったら、あたしは貧民街じゅうを一晩捜し回ってたところよ」
 エベルとも昨夜はおざなりな別れ方をしたが、彼は彼でロックとフィービを気づかってくれたらしい。その言づけがなければ、フィービをさらに不安がらせていただろう。
「そっか……」
 間があかないうちに、彼にもお礼とお詫びを告げよう。
 ロックはそう思い、それから目の前のフィービに改めて言った。
「心配かけてごめんなさい」
 長い溜息の後、フィービはロックの顔をじっと見た。そしてすぐに、ふっとおかしそうな笑みを浮かべる。
「わかってくれればいいの。閣下にもちゃんとお礼を言いなさいね」
「うん、ちゃんと言うよ」
「それでよし。……じゃ、窓を開けるから、あんたの夜なべの成果を見せてごらんなさい」
 フィービがそう言って、窓の鎧戸を開け始める。たちまち射し込む朝日に目を細めつつ、ロックはカウンターに広げていた図面をフィービに渡した。

 皇女に捧げる花嫁衣裳は、帝都の夜空から着想を得たものだ。
 生地の色が濃紺では暗いだろうと、あえて薄い灰青を選んだ。皇女の木苺色の髪がよく映え、それでいて花嫁に求められるであろう無垢さも保つ色合いだ。
 ドレスは首の詰まった古風な意匠で、胸元から腰にかけては小さな宝石と金糸の刺繍で一面の星空を描く。スカートの上には白い無地の紗を幾重にも重ね、うっすらかかる雲のように見せる。直に見える胸元の星々も、紗を透かして見えるスカート部分の星々も、どちらのよさも見せられるように仕立てるつもりだったた。腰に結ぶサッシュも紗をふんわり結んで長く垂らすことで、ドレス自体をふっくらと、豪奢かつ印象深いものにしようと考えていた。
 そして長いドレスの裾、ここにはあえて紗がかからないようにして、金糸で刺繍を施す予定だ。刺繍の柄は帝都の城壁、そして皇女が今日まで暮らしているあの城に決めていた。もちろん見た目そのままでは無骨になってしまうから、遠目には伝統的な紋様にも見えるよう細かな縫込みを入れることにする。
 この刺繍の意匠は、彼女にだけ伝わればいい。
 身にまとう当人だけが気づいて、帝都で過ごした大切な日々を思い出として持っていってくれたらいい。

「皇女殿下は、生まれてこのかた帝都を出られたことがないそうなんだ」
 図案を眺めるフィービに、ロックはとうとうと語りかける。
「だから花嫁衣裳には、彼女にとって一番思い出深い景色を描きたいと思った。帝都のなんでもない、だけど美しい夜の姿だ。ご婚礼の時だけじゃなく北方に嫁がれた後にも、何度でも思い出せるように――懐かしい思い出が、故郷を離れる寂しさを少しでも癒してくれるように、って」
 知らず知らず熱が入るロックの言葉に、フィービはふと眉をひそめた。
 その顔に不穏なものを感じ、ロックはおずおずと尋ねる。
「……変かな?」
「いいえ」
 すぐさまフィービはかぶりを振ったが、表情は依然険しいままだ。傭兵時代を思わせる鋭い眼光を向けてきて、ふと言った。
「ねえ、ロック。あたしはあえて何も聞かないわよ」
「何が?」
「昨夜訪ねてきたお嬢さんのこと」
「――っ」
 わかりやすく息を呑むロックに、フィービはまたも苦笑する。
「聞かないって言ってるでしょう。あんたはもう二十歳で、店も持ってるいい大人なんだから、自分のすること、その選択に責任を持てる歳だと思ってるわ。だからあたしは、何も言わない」
 どうやら父の慧眼は、ほとんどの真実をすでに見通しているようだ。
 その物言いから深い信頼も感じ取り、ロックは深くうなづいた。
「ありがとう」
「いいのよ。その上で言うと……このドレス、とてもいいわね」
 フィービの眼差しは再び図面へ向けられた時、優しく和らいだ。
「若い花嫁さんにぴったりの、堅すぎないかわいらしい意匠だと思うわ。星屑をあしらう宝石と刺繍は、花嫁衣裳としてならこのくらいきらびやかじゃないとね。裾の刺繍は独特だけど――他の誰のためでもない、唯一無二のドレスですもの。あんたがそれを捧げたいと思うなら、きっと届くはずよ」
 励ますような賞賛をくれた後で、フィービはにやりとする。
「あとは、この図案のとおりに仕立てられるかってとこね」
「がんばるよ」
 ロックも笑顔で応じた。
 今となっては皇女殿下もあいまいな存在ではなく、確かな記憶と共にロックの中にある。彼女を励ましたい、喜ばせたい、幸せな花嫁になってもらいたい――仕立て屋としても、友人としてもそう思うからこそ、この仕事には心血を注ぐつもりでいる。
 そして彼女に選ばれるような、誰よりも優れた花嫁衣裳にしてみせる。
 そのためにも、いよいよ仕立てに入るべき時期が来たようだ。
「店の仕事の合間に、ドレスを仕立てようと思うよ。まずは生地や糸の選別からだね」
「手伝うわよ、ロック。なんでも言ってちょうだいね」
「ありがとう。じゃあ今度、貸本屋に付き合ってくれないかな」
「貸本屋? いいけど、どんな本を読むの?」
 フィービが青い目を丸くしたので、普段は本など読みもしないロックは照れた。
「せっかくだから刺繍の図案を勉強しておきたくて、泥縄だけど。僕もいくらかは知ってるけど、花嫁衣裳に使うなら本格的な知識がいるだろ? そういう本がないか見に行きたいんだ」
 こういう時、母がいれば教わることもできたのだが、それはもう叶わぬ話だ。
 知りたいことは自ら学ぶしかない。それもなるべく急いで学ばなくてはならない。花嫁衣裳づくりはもう動き出していて、立ち止まっている猶予はロックにもないからだ。
「今日の閉店後にでも連れてくわよ」
 フィービは快く承諾した後、図面をロックに返して言った。
「でもとりあえず、今日の仕事が先かしらね。ぼちぼち店を開ける支度をしましょう」
 それから、寝起きの娘の顔を意味ありげにじっと見る。
「その前にね、ロック。あんたは一度帰って着替えてきなさい」
「あ、そうだね。店に泊まり込むなんて初めてだよ」
 ロックは凝り固まった肩をほぐすように伸びをした。その間もフィービはロックの顔をしげしげ見てくるので、不思議に思う。
「僕の顔、そんなに汚れてる?」
「そうね」
 フィービはうなづき、頬を指差す。
「この辺に炭筆の跡が写ってるわ。あんた、図面の上に寝てたでしょ。そのまま外出たらせっかくの図案がよその仕立て屋に筒抜けになるかもよ」
 そしてわざわざ姿見を持ってきてくれたので、その中を覗けば――ロックの頬にはしっかりと自ら描き上げた図案の一部が写っていた。花嫁衣裳の裾の部分だ。
「顔汚れてるって先に言ってよフィービ!」
「だって言いにくかったんだもの、あんたがずっと真面目な話してるから」
「うわ、僕こんな顔で熱く語ってたの? 恥ずかし……!」
 ロックは大慌てで顔を洗うと、着替えのために店を飛び出す。
 寝不足の頭にまばゆい朝の光は強すぎるほどだったが、図案を描き上げた達成感からだろうか。気分はむしろ爽快だった。
 事態はもう動き出している。走り始めたロックも、立ち止まることはなかった。

 花嫁衣裳の材料の仕入れ、そして刺繍について学ぶ合間を縫い、ロックはエベルに手紙を書いた。
 フィービを安心させてくれた感謝と詫びと、そしてもちろん花嫁衣裳の図案が仕上がったことの報告を伝えたかったのだ。今は材料の仕入れや刺繍の勉強に時間を費やしつつ、ぼちぼち仕立てに入るつもりだとも添えておいた。
 送った手紙は数日のうちに返事があり、エベルは文中で大いに喜び、ロックを心から労ってくれた。
 そしてその後に、こう続いていた。
『実はアレクタス卿から連絡をもらっている。身辺が落ち着いたから、今一度あなたに会いたいということだそうだ。卿夫人が、あなたの母上が仕立てた古いドレスをいくつか保管しているそうで、あなたにも見せたいそうだ。あなたが刺繍について学びたいのなら、そこに答えがあるかもしれない』
 ロックも覚えている。アレクタス邸に閉じ込められていた時、湯浴みの後に着るように言われた服は古いドレスだった。執事のダニロが、ラウレッタの妹――つまりロックの母ベイルが仕立てたものだと教えてくれた。
 あの家には母が暮らしていた痕跡が今もなお残っている。
 さらわれた時には見て回る精神的余裕などなかったが、今ならどうだろうか。もし母が仕立てた服を見られたら、母が遺したドレスから、生前には教わり切れなかった技術を学ぶことができたら――。
『あなたさえよければ、私が仲立ちをして顔を合わせる機会を作ろう』
 エベルが手紙でそう言ってくれたので、ロックは心を決めた。
 プラチドとラウレッタに会いに行くのは、あの一件以来だ。
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