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いつか、どこかで(2)

 ロックはエベルから誘われ、帝都の中へとやってきた。
 もっとも今回は楽しいひとときへの誘いというわけではなく、ふたりの行き先は帝国軍市警隊の詰め所だ。
 あの後エベルはカートと共に彼の故郷へ出向き、その養父と顔を合わせてきたそうだ。養父は伯爵の訪問に恐縮しつつ、カートを帝都へ出すことにはやはり反対しなかった。そしてカートには温かい言葉を掛けて送り出してくれたそうだ。カートはややぎこちない態度ながらも、養父に精いっぱいの感謝の言葉を伝えていた、とも聞いている。
 そんなやり取りの一方、エベルはカートの故郷を一通り見て回ったらしい。カートが着けていた仮面はやはりあの農村から掘り出されたもので、時々古代文明の遺物のような品が出てくるのだという話だ。エベルはそれらも見せてもらったそうだが、人狼の呪いに関わるものが他に見つかることはなかった。
「一応、気を付けるようには言ってきた。次に何か見つかった時は下手に触らず、私に連絡をくれと」
 エベルは旅の疲れも見えぬ様子で眉を顰める。
「だがあの村が手がかりになるとも思えないな。むしろどこにでもあると考えるべきなのかもしれない」
 人狼の彫像がいくつも見つかるように、人々が心の隙を突かれ、呪われてしまう機会はいくらでもある。
 そう考えると実に恐ろしいが、ロックも薄々察しつつあった。
 誰にとっても他人事ではないのだと。
「ぞっとしますね……」
 思わず呻いたロックに、エベルはいくらか砕けた表情を見せる。
「我々もできる限りのことをしよう。だから今日はあの村への行き来を増やしてもらうよう、進言しに行くというわけだ」
 法の守護者による往来が頻繁になれば、万が一の場合にも対応できる。あの村に限らず、帝都周辺の集落が孤立しがちという話は以前から問題になっているそうで、エベルはその問題解決へ後押しをするという形で心配の種を減らそうと試みるつもりのようだ。
「そしてあなたにはその際の心の支えになってもらいたい」
 ロックを誘った理由については、そういう言い方をした。
「市警隊の詰め所など、用でもなければ近寄りたい場所ではないからな。まして嘘をつきに行くとなればなおさらだ」
 帝都の中で法の庇護を存分に受けているはずの伯爵閣下ですらそうなのだから、ロックからすれば何があっても近寄りたい場所ではない。市民権もない貧民街暮らしにとって、市警隊は因縁をつけては殴ったり金を巻き上げたりするごろつきと大差ない存在だからだ。もっとも今日はエベルがいるのだし、彼に頼まれれば断れるはずもない。
 だが、今日のロックは少し気分がよくなかった。
 体調が悪いわけではなく、むしろ妙に不安なような――いや、疑問というべきだろうか。何か大事なことを忘れているような気がしてならず、時々無性に焦りを覚えるのだ。
「どうかしたのか?」
 浮かないロックの顔を見て、エベルが目をしばたたかせる。
 はっとして、ロックは苦笑した。
「すみません。実はこの間から、どうしても思い出せないことがあって」
「どういうことかな」
「僕、あなたに会ったら話そうと思っていたことがあったんです。あった、はずなんですけど……」
 エベルとは毎日会えるわけではないから、会った時に話したいことをなるべく覚えているようにしてきた。それは店であった出来事や仕事で作った服のこと、あるいはフィービに言われたことなど、些細な話題ばかりだったりするのだが――今の『思い出せないこと』は、それらよりもずっと大切なことのように思えてならない。
 彼に会ったら、言うべきだと思った出来事があったはずなのだが。
「それは重大な話なのか?」
 エベルはロックの表情から何かを察したようだ。少し心配そうに眉尻を下げた。
 だが彼にそんな顔をさせるのは、ロックの本意ではなかった。
「いえ、きっと違います」
 だから笑って、かぶりを振った。
「思い出せないってことは、きっと大した話じゃないんですよ。父さんが何か面白いこと言ったとか、パン屋のジャスティアにからかわれたとか、たぶんそういうたぐいの話です」
 例を口にすればするほど、それは違うという思いも強くなる。だがどうしても思い出せない以上、思案し続けるのも体力の浪費というやつだろう。
 そう考え、ロックは思い出そうとするのをやめることにした。
「それはそれで楽しそうな話だが」
 エベルはまだ興味を失っていないようだったが、無理強いしては来なかった。
「そういえば、パン屋にはしばらく行っていないな」
「クリスターたちの結婚式以来になりますか?」
「ああ。あの店のパンが恋しくなってきた、今度一緒に行こう」
「いいですよ。でも注意してください、ジャスティアは伯爵閣下にだって皿洗いをさせる人です」
 結婚式での出来事はすんなりと思い出せて、ロックとエベルはその日の記憶に声を上げて笑いあった。

 帝国軍市警隊の詰め所を訪ねると、エベルは自らの名前と用向きを述べた。
 帝都において伯爵の地位は大層強いものなのか、エベルは思いのほか歓迎され、すぐに市警隊長との面会が叶うことになった。
 とは言えロックの中で市警隊の印象が良くなることもない。隊長がやってくるのを待つ間、蜂の巣に囲まれているような不安でいっぱいだった。それを見抜いてか、エベルがそっと囁いてくる。
「心配はいらない、面会には私だけで行こう。あなたはここで待っていてくれ」
「お気づかい、ありがとうございます」
 ロックとしても、ただでさえ好きになれない市警隊の親玉みたいな存在と顔を合わせるのは荷が重い。それはエベルに任せることにして、自分は彼の心の支えとなるべくどっしり構えていようと思った。
 ほどなくして、ふたりの前に武装した壮年の男が現れた。
「これはこれは伯爵閣下、このようなむさ苦しいところに足をお運びいただけるとは」
 男は真っ赤に染め抜かれたマントを羽織り、ぴかぴかの小札鎧を身にまとっていた。マントを留めるブローチは美しい琥珀でできており、一目して彼が高い身分であることがわかる。ただ市警隊長という割にエベルへの態度は腰が低く、卑屈ですらあった。
「お話でしたら私の執務室でうかがいましょう。閣下をお通しするにはあまりにも狭く、みすぼらしい部屋ではございますが……」
「場所にはこだわらない。話の中身が肝要だ」
 エベルは穏やかに、しかしきっぱりと応じる。
「もちろんでございますとも」
 市警隊長は揉み手をしそうな勢いで頷いた後、ようやくエベルの隣にいたロックに目を留めた。
「失礼とは存じますが……閣下、お隣のお美しいご婦人はどなたで?」
 この日のロックは女物の服を着ていた。行き先が行き先だけにめかし込む必要はなかったが、逆に言えば男装の必要もなかったからだ。またしてもフィービからドレスを借り、古風な仕立ての装いでおとなしくエベルの隣に立っていた。
「ああ、彼女は――」
 エベルはわざわざロックに視線をくれると、微笑んで答える。
「私の婚約者だ」
「それはそれは……」
 市警隊長が目を見開いた。
 ロックも危うくそうしかけたが、すんでのところでこらえる。
「今日は付き添いで来てもらったのだが、つまらぬ話で退屈させては悪いからな。彼女はここで待たせてもかまわないだろう?」
「ええ、ええ、もちろんでございますとも。隊の者にも丁重に扱うよう伝えておきます」
 そう答えた市警隊長は、傍にいた隊員にロックのことを伝えた後、エベルを伴い執務室へと入っていった。
 残されたロックは隊員に詰め所の食堂と思しき部屋に通され、食卓のひとつを勧められた。食卓も椅子も白木の素朴なつくりで、食堂にも花どころか調度品すら最低限のものしかない。目のやり場に困るような殺風景な場所だった。
 ロックが椅子に座って待つ間、食堂には何人かの市警隊員が通りがかり、その度に場違いな婦人の存在を遠巻きに眺めていった。話はすでに通っていると見え、物珍しげにしながらひそひそ噂しあう声は聞こえてきても、直接声を掛けてくる者はひとりとしていなかった。
 居心地がいいとは言えなかったが、安全には違いない。ロックは周囲の視線を無視しようと努めるべく、ぼんやりと考え事を始めた。

 そういえば、皇女殿下の花嫁衣裳は未だに手つかずのままだ。
 だが時は刻々と過ぎていく。以前エベルが教えてくれたように、商売敵たちはすでに動き出しているようだ。ロックもそろそろ意匠を固め、型紙づくりから始めなくてはなるまい。
 これまで手掛けたドレスなども見直しつつ、いくつかの意匠を考えてみたりはしている。だがどれもしっくりこないのは、やはり皇女殿下について何も知らないからだろう。会ったことも話したこともなく、その容貌すら人づてに聞いただけという存在に、人生の晴れ舞台にまとう記念すべきドレスを仕立てるのは容易なことではない。もちろん仕立て屋として、漠然とした印象だけで作ることも不可能ではないのだが――花嫁衣裳ともなると、それでいいのかという考えが頭をもたげてしまう。
 まして皇女殿下は帝都を離れ、北方へ嫁ぐという話だ。そのような人に、特に思い入れもないようなドレスを捧げるのは正しいことだろうか。
 踏切りのつかない思索に、そのうちロックは溜息をついた。

 その時、誰かが食堂前の廊下を横切った。
 ちらりと見えたその姿は市警隊の武装姿ではなく、ロックと似た婦人物のドレス姿に見えた。少なくとも翻るスカートの裾は目に留まった。顔までは見えなかったが、こんなところに自分以外にも婦人の姿があるとは思わず、ロックはそちらを振り返る。
 一方、向こうも同じように驚いたのかもしれない。通り過ぎたと思いきやすぐに引き返してきて、わざわざ食堂を覗いてきた。
 目深にフードをかぶり、外套を着込んだ女だった。
 おかげで顔は見えず、歳の頃すらわからない。ただしぐさは年老いてはおらず、こちらをしげしげと覗き込む様子はむしろ子供のようにあどけなかった。ロックがその顔を見定めようとフードの奥に目を凝らす。
 だがその顔を拝むより早く、現れた女が声を上げた。
「ええっ! あなた、どうして女の格好をしているの!?」
「え!?」
 いきなりの大声にも驚かされたが、ロックの身の上を知っている者が帝都の中にいるとは思わなかった。だがそう言うからには、彼女は普段のロックが男の格好をしていると知っているのだろうし、女の姿のロックを見てひどく驚いているのだろう。
 あわててロックは立ち上がり、着慣れないスカートの裾を椅子に引っ掛けつつも、彼女に向かって指を立てた。
「しいっ。大きな声出さないでよ」
 それで女ははっとしたようだ。表情は見えなかったが、口元に手を当てたのは見えた。
「あら、失礼……」
 声を上げてしまったことを恥じ入るように、急に小さな声になる。そして食堂の中に立ち入ったかと思うと、ロックの傍らでささやいた。
「でもあなた、壁の外に住んでいる方でしょう? 『フロリア衣料店』というお店の」
 身を寄せてきた彼女からは、そこはかとなく上品な、いい香りがした。
 話し方も丁重で、着ている外套も仕立てのいいものだ。貧民街の住人とは思えず、ロックはそのフードの中身を覗き込む。
 なめらかな木苺色の髪と深い灰色の瞳をした、まったく見知らぬ少女の顔が見えた。
「えっと、僕のこと知ってるんだね。どこかで会ったっけ?」
 ロックが聞き返すと、彼女は目を伏せて黙った。
 思案するような間があって、ようやく答える。
「ええ、……一度だけ」
「そっか。うちの店のお客様、とか?」
「いいえ」
 今度はすぐにかぶりを振り、彼女はじっとロックを見た。
「わたくしの質問に答えて。あなたは男の子なの? それとも女の子?」
 正面切って問われてはぐらかす理由もないかと、ロックは正直に答えることにする。
「女だよ、ほら」
 かつてニーシャに見抜かれたことを思い出し、手の甲をかざして見せた。もっとも見る目の肥えたニーシャとは違い、彼女はいぶかしそうに小首をかしげただけだった。
「普段は男のふりをしているんだ。貧民――壁の外は何かと危ないからさ」
 その告白に彼女はひどく驚いたようだ。しばらくの間、愕然とロックの顔を注視していた。
 こうなるとロックも彼女の素性が気になる。およそ貧民街の人間には見えないのに、男装した自分のことを知っていて、それも女の格好をしていてもロックと気づけるくらいには顔を覚えていて、かつ店のことまで知っている。そして市警隊の詰め所になぜかいた、彼女は誰だろう。
「それよりごめん、名前覚えてないや。君は誰?」
 歳の近い気安さから尋ねたロックに、彼女は灰色の瞳を大きくみはった。
 かと思うと視線をうろうろと泳がせた後、絞り出すように打ち明けてきた。
「ご、ごめんなさい……考えていなくて」
「え?」
 名前を聞いたのに、考えていなかったとは。
 よほど明かせないような素性の主なのか。もしかするとお忍びの、相当身分貴いお方だろうか。ロックは怪しんだが、少女が困り果てた様子なので追及するのはやめておいた。
 代わりに別のことを尋ねてみる。
「僕は人の付き添いでここに来たんだけど、君は?」
 考えてみればお互い、この場にはそぐわない存在に違いない。ロックはエベルの頼みでなければ来なかったと言い切れるが、では彼女はなぜここにいるのだろう。
 その質問には、先程よりも歯切れのいい答えが返る。
「いろいろ見て回っているだけです、帝都の中を」
「へえ……こんなところも?」
 見回って面白いようには思えないと、殺風景な食堂を見てロックは思った。
 だが少女は言う。
「もうじき帝都を離れなくてはいけないものだから、思い出に見ておきたくて」
 愛らしい顔に寂しげな微笑を浮かべた彼女を見て、ロックはふと奇妙な既視感にとらわれた。
 この子と――いつか、どこかで会っただろうか?
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