この手を離さずに(2)
堰き止められていた水が溢れ出すように、カートは身の上を語り始めた。それによれば彼は帝都の外に点在する農村の一つの出身だった。
幼いうちに両親を亡くし、村長の元に引き取られて畑仕事で食い扶持を稼いでいたが、ある日その畑から奇妙なものが掘り出された。
例の、白い司祭の仮面だ。
恐らくは前時代の骨董品だろうと踏んだ村長は、それを自分の家に後生大事に飾っていたらしい。
「でも、僕は何だかそれがとても気になっていて……」
カートのあどけない顔からは血の気が引いていた。
毛布の端をきつく握る手も、紙のように真っ白だ。
「多分、好奇心から被ってみたのだと思います。ある日、思いつきで――」
そうして項垂れた後、恐怖を振り払うようにかぶりを振る。
「それからのことは、あんまり覚えていません。気がついたら僕の周りにはたくさんの人がいて、傍らにはいつも姿は見えないけれど指示をくれる声があったのです。言う通りにすれば皆が安泰だからと」
恐らくはそこで、仮面に意識を乗っ取られたのだろう。
あるいはそれに込められた呪いそのものに。
「君は、あの仮面に操られていたようだ」
エベルが告げると、カートは信じがたいという表情になる。
「操られた? 意味が、よく……」
「率直に言えば我々にもわかっていない。だが先刻までの君の行動、そして君自身の記憶が曖昧なことを鑑みるに、そうとしか言い表せない」
エベルはきっぱりと突きつけた。
それでもなお、カートは事実を呑み込めていないようだ。困惑の面持ちで居合わせた三人を見比べてくる。
「僕は……何か悪いことをしたのですか?」
そしてそう尋ねてきたから、ロックは答えられず目を泳がせた。
エベルも一瞬、言葉に詰まったようだ。しかし唯一動じなかったフィービがちらりと視線を向けると、短く息をついてから答える。
「いいや。我々は君を保護したまでだ」
彼の答えにロックは無性に安堵した。
「君の身の安全は保障する。今日はもう日が暮れるから、一晩ゆっくり休むといい。明日になったらもう少し話を聴かせてもらい、その後は君を家へ送り届けよう」
物腰柔らかにエベルは続けたが、カートはそこで浮かぬ顔をする。
「そう……ですか……。わかりました」
表情の暗さは疲れのせいだけではないようだ。
だが三人ともそれには触れず、ひとまず客室を後にした。
「……信用するのか?」
廊下へ出ると、フィービは声を落としてエベルに問う。
エベルは思案顔ながらも首肯した。
「今のところ疑う余地はないと思っている」
「芝居かもしれねえぞ。相当頭の切れるガキって可能性もある」
「無論、しばらくは見張っておくつもりだ」
進言を受け、エベルは微かな笑みを浮かべる。
「だがそれ以上に、有益な情報源にもなることを願っている」
「それは全く同意だ」
フィービが同じように笑むのを、ロックは妙な新鮮さで眺めていた。
気のせいか、二人の間の空気が少し変わったように思う。父は以前よりもエベルに気を許しているようだし、エベルも父の意見を尊重しているのが窺えた。
思えばロック不在の間、フィービはマティウス邸にずっと滞在していたのだ。
果たしてどんな生活を送っていたのか、不謹慎ながらも興味が湧いて仕方がなかった。
程なくして日没の頃を迎えた為、アレクタス夫妻には帰宅を促すこととなった。
彼らからはこれ以上の情報を得られなさそうだ、というエベルの判断からでもある。
もっとも、当の夫妻はまだ詫び足りないという様子だった。
特に憔悴しきったプラチドは、フィービの足元にひざまずいて頭を垂れた。
「あなたの大切な娘御を奪うなど、許されぬことをしたと思っている……!」
「ああ、まあ、確かにな」
フィービは反応に困っているようだ。プラチドが手を取り縋るように詫びてくるので、振りほどこうにもほどけないといったふうに見えた。
結局、困り果ててロックに目で助けを求めてきた。
「伯父様、聞いてください」
それでロックは二人に割って入った。
「伯父様が僕を攫ったことも、人狼の呪いによるものでしょう。それが伯父様方の満額の本意でないことは、僕らもちゃんとわかっています」
彼らを許せるかと問われれば、ロックもきっと困るだろう。
攫われた時は怖かった。父や御者のイニエルが酷い目にも遭った。帰りたくても帰れぬまま、神経を磨り減らす日々を過ごし、挙句の果てには危うく人狼の呪いまで受けるところだった。
だが、それら全てがプラチドたちの意思によるものではないこともわかっている。
むしろ線引きなどできるはずもない。人の欲望には果てがなく、人狼の呪いはそれを無闇に増幅させる。彼らのしでかした事実は消えぬまま、そこに至る心の動き、その記憶だけが消えてしまう。
そんな複雑怪奇なものを、どう断罪すればいいのだろう。
わからないからこそ、ロックは伯父と伯母に告げる。
「僕はあなたがたの子にはなれません。父がいますから」
フィービが黙って頷き、プラチドとラウレッタは黙ってロックを見つめてきた。
「でも、あなたがたの姪であることはどうしたって事実です」
ロックは縁者である二人に、遠慮がちに続ける。
「だからもし必要なら――僕が伺うことで少しでも楽しい気分になっていただけるのなら、今度は姪として訪ねていきます。父と一緒に」
「――俺!?」
頷きかけたフィービが、そこですっとんきょうな声を上げた。
エベルが吹き出すのを横目で見つつ、ロックも笑って父を宥める。
「母さんの話なら、父さんの方がより詳しいだろ」
「それは……そうかもしれんが……」
フィービは珍しく歯切れが悪い。
そんな彼に、涙の跡を残したラウレッタが静かに近づく。
「フレデリクス・ベリック」
本当の名で呼びかけられて、フィービは一層気まずげになった。
しかしラウレッタは構わず口を開く。
「わたくしはずっと、あなたに妹を奪われたと思っていました。愚かな妹はあなたに唆されるがまま、家とわたくしを裏切ったのだと……だから姪を、ロクシーを取り返せばいいのだと、自分を正当化していました」
初めて会った時、彼女は酷く無機質な、感情のこもらない声をしていた。
だが今は泣き声のようによじれ、震えている。
「でも、ベイリットは……家を出てからの方がずっと幸せそうだった……。わかっていたのに、それも愚かさゆえと曇った目で見てきたわたくしの方が……」
言葉もそこで途切れ、ラウレッタは両手で顔を覆った。プラチドがその背を黙って撫でさする。
フィービは尚も言葉に迷っていたようだが、改めてロックの方を見た後、こう言った。
「妻の話なら、思い出は積もるほどある」
そしてぎこちないながらも笑んでみせた。
「いつか伺いましょう、娘と共に」
「……ええ。妹のこと、たくさん聞かせてください」
ラウレッタが涙に濡れた顔で頷く。
やはり母の面影がある――ロックはそれを、胸が詰まるような思いで眺めていた。
日が落ちると、マティウス邸からは次第に人が減っていった。
アレクタス夫妻とダニロが去った後、グイドとミカエラもまた帰宅した。こちらは湿っぽさもなく、兄も妹も笑顔で帰っていった。
「何か新たな収穫があれば知らせてくれ」
「その時は兄とまた参ります」
グイドに続いたミカエラが、その後でいたずらっぽく微笑む。
「もちろん違うご用でも構いません。エベルとロクシーの婚約発表とか」
「え!?」
「決まったら真っ先に二人を招くとも」
うろたえるロックとは対照的に、エベルは一切動じず答えた。
それを聞いたミカエラは満足そうに顔をほころばせ、グイドはそんな妹を温かい目で見つめていた。
夜を迎えた頃、この日最後の来客がマティウス邸に現れた。
ここ帝都でも腕利きと評判の医者は、脚を負傷したクリスターを診た後で顔を顰めた。
「怪我をしてからずいぶんと放っておいたようですな。これでは生涯、杖が必要になりましょう」
その知らせはロックにとっては衝撃的だったが、当のクリスターはさほど堪えていないようだ。医者が帰っていった後、苦笑いで打ち明けてきた。
「命が助かっただけ、十分な儲けもんだよ」
阿漕な商売を働いていたクリスターらしからぬ、全く殊勝な物言いだった。
「クリスターからこんな科白を聞くとはな、ロクシー」
フィービは呆れているのかどうか、肩を竦めて言ってのけた。
ともあれ、彼を無事に助け出せたのもまた事実。
そうなるとロックとしては、どうしても彼女に知らせたかった。
「早くニーシャに教えてあげたいな」
貧民街にいるニーシャは、今もクリスターの帰りを待っているはずだ。彼の為にあれだけの投資をしたのだから当然だろう。
この知らせを聞けば、きっと大喜びするに違いない。
「ロクシー、それは名案だ」
エベルも嬉しそうに提案してくれた。
「ならば明日の朝一番に使いを出し、彼女をここへ招こう。クリスターにはもう少し療養が必要だから、来てもらう方がいいだろう」
「ここにか?」
フィービはクリスターのいる客室を見回し、心配そうな顔をする。
「貴族様のお宅に招かれて、目が眩まないといいがな」
「ニーシャはそんな娘じゃない。俺よりよっぽど人ができてる」
クリスターがむきになって反論するのが、ロックにはおかしかった。
「なんであんたなんかに、あんないい娘が惚れたんだろうね」
からかう言葉にクリスターはむっとしたようだ。
「それを言うならロック、お前こそ――」
そう反論しかけた後で何か重大な事実に気づいたらしい。ロックの姿をしげしげ見つめ、戸惑いながら口を開く。
「というかお前、ずっとそれ着てるんだな」
現在のロックは、アレクタス夫人が用意してくれた青い薄琥珀のドレスのままだ。
遺跡で起きたあれやこれやですっかり埃まみれだが、それでも今のロックを男と見間違う者はいないだろう。
「それに……」
クリスターの視線がロックを挟んで両側に立つ、エベルとフィービの間を彷徨う。
「なんで伯爵閣下も、それからフィービも――そういやアレクタス夫人も、お前を『ロクシー』だなんて呼んでるんだ?」
それは誰が聞いても女の名前だ。
だがロックはあえて正直に答えず、笑い飛ばした。
「父さんの影響かもね」
「とんでもないところが似ちまったな」
フィービもそう言って笑うので、クリスターはますます釈然としないようだった。
「……変わった親子だな」
「だが、きっと帝都一いい親子だ」
言い添えたエベルは、少しだけ羨ましそうにしている。
そうこうするうちに夜も更け、ロックとフィービはマティウス邸に泊まることとなった。
この日は誰もが疲れていたし、以前のことを思えば夜に馬車を走らせる気にもならない。それにエベルが是非夕食を誘ってくれたので、素直に甘えることにしたのだ。
ロックとしてはこの機会にどうしても聞いておきたい話がある。
それはもちろん、自分のいない間に父がどう過ごしていたかについてだ。
「閣下のところで、父は行儀よくしておりましたか?」
三人で食卓を囲みつつ、ロックは早速尋ねた。
するとエベルは笑い、フィービが不満げに鼻を鳴らす。
「俺だってどこでも不作法を働くわけじゃねえぞ」
「そうじゃなくて。僕がいない間、きっと心配かけただろうと思ってさ」
ロックは首を竦めた。
「父さんが僕を助け出そうと焦るあまり、落ち着かない気持ちで過ごしてたんじゃないかって気になってるんだ」
「そりゃ、落ち着きはしなかったな」
フィービは曖昧に答えた後、ちらりとエベルに視線を投げる。
エベルはと言えば、そ知らぬそぶりで夕食を味わっているところだ。
そんな二人の様子を見れば、何かあったらしいことは薄々察しがつく。
「まさか、喧嘩したりした?」
ロックの問いに、二人は揃って動きを止め、その後フィービの方が答えた。
「まさか! 俺も閣下もれっきとした大人だぞ。不測の事態が起きたって常に冷静沈着だ」
「本当ですか、閣下」
父の言葉を確かめるべく、エベルにも水を向けてみる。
「もちろん、お父上の言う通りだとも」
エベルが曇りのない笑顔で答えたので、やはり何かあったなと思うロックであった。
しかし二人は結託しているのか何なのか、それ以上口を割ろうとしない。
代わりに給仕をするヨハンナが、なぜかずっとうずうずしている様子で――どうもロックに話したくてたまらないことがあるようだった。