menu

狩るものと狩られるもの(1)

 帝都に降った雨は、一晩で止んだ。
 だがその雨によって、貧民街のあちこちにあった尋ね人の張り紙はすっかり濡れ落ちてしまった。
 ロックの店に貼り出していたものも同様だ。翌朝、出勤してきたロックはそれを見つけると拾い上げ、天日に当ててよく乾かしてから貼り直しておいた。クリスターの似顔絵はすっかり滲んでしまったが、それでも文字はかろうじて読み取れる。
 尋ね人『クリスター・ギオネット』、二十八歳男、痩せ型、銀髪に灰色の瞳。
 彼の行方は依然として不明のままだった。

 一方、ロックの身の周りにも小さな変化があった。
 クリスターの家を訪ねた翌日以降、ロックはフィービの部屋に身を寄せるようになっていた。
「何だか物騒に思えてな」
 という言葉の通り、フィービは家捜しの後で娘の身を案じたらしい。
 もともと親子二人で暮らす話は持ち上がっていた。クリスター絡みのあれこれで引っ越し先を探す暇がなかっただけだ。
 しかし同業者の謎の失踪、それも彼が謎の客から不審な注文を受けた後という事情もあり、ロックも父との同居には諸手を挙げて賛成した。

 今は少しずつ荷物を運び出し、フィービの部屋へ持ち込んでいるところだ。
 もっともフィービの部屋も二間しかなく、ロックが全ての荷物を運び込むのは不可能だった。正式な引っ越しはまだ先の話であり、落ち着いたら新居探しも始めるつもりではある。それまでは今まで通り、トリリアン嬢に家賃も払い続けなければならないが、背に腹は変えられない。
 当面は親子ともども、身の安全を第一に考えることにしていた。

 始まった経緯はさておき、父と娘の二人暮らしは実に楽しく、和やかだった。
 何せフィービは料理が上手い。以前から仕事が立て込んでいる時には食べ物を差し入れてくれたが、一緒に暮らすとなればそれも毎日になる。疲れて帰った夜、空腹のままで寝台に転がり込むということがなくなるのはこの上ない幸いだった。
「父さんは料理人にもなれたんじゃない?」
 夕食の後、ふくれたお腹をさすりながらロックは言った。
 するとフィービは化粧を落とした顔を顰める。
「赤の他人の為に作ってやるなんてごめんだね」
「え、そうなの?」
「こういうのは自分と、身内の為だから楽しいんだよ」
 少し照れながらそう答えたので、ロックはもったいないと思いつつも腑に落ちた。
「母さんにもよく作ってあげたの?」
「まあな。一緒に暮らしてる時は、手が空いてる方が作った」
 昔話をする時、フィービはいつもこそばゆそうにしてみせる。
 父にとって幸せな思い出なのだろう。そんな父を見るのが、ロックも嬉しい。
「父さんと母さんは、どっちが料理上手かったの?」
 続けて尋ねてみた。
 もちろんロックはどちらの手料理も食べたことがある。答えはちゃんと知っているが、父が何と答えるか知りたかった。
 案の定、フィービは照れ隠しでロックを睨む。
「秘密だ」
「わあ、ずるい! 教えてくれないんだ!」
「親をからかおうとしても無駄だ、ロクシー」
 そうして大きな手で、ロックの葡萄酒色の髪をくしゃくしゃと掻き混ぜた。
 ロックはくすぐったさにげらげら笑い、それを見てフィービもにやりとする。
「いいからお前はあの手紙を読んでやれ」
 顎でしゃくって示したのは、卓上に置かれたままの一通の手紙だ。
 今日の昼間に『フロリア衣料店』まで届けられたもので、送り主はエベルだった。赤い封蝋で閉じられたまま、まだ一度も開かれていない。昼間は店が忙しくて読む暇がなかったのだ。
 それでロックは手紙を拾い、長椅子に腰を下ろして封を開く。
 そして便箋を取り出したところで、フィービが背もたれの後ろから覗き込んできた。
「『愛を込めて』って書いてあったか?」
「わあっ。父さん、覗かないで!」
 ロックが喚くと、父親はしてやったりとばかりに高笑いする。
 どうやら先程からかおうとした仕返しのつもりらしい。苦笑しつつ、改めてロックは手紙を読んだ。

 文面には、エベルらしい丁寧な筆跡が綴られていた。
 用向きの一つは、先日持ちかけられた墓参りについてだ。いい日取りを選んで、父の墓参に付き合って欲しいとのことだった。
 そしてもう一つはクリスター・ギオネットについてだ。
 彼について調べるうち、気がかりな情報を得た。詳細は会った時に話したいので、二人で訪ねてきて欲しい――そう記されている。

「クリスターのこと、何かわかったんだ」
 手紙を読み終えたロックは、静かにそう呟いた。
 そして手紙を畳んでしまうと、それを待っていたようにフィービが隣に座る。
「何がわかったって?」
「それは書いてなかった。手紙じゃ言えないことなのかもしれない」
 いい知らせかどうかはわからない。
 だがここまで手間をかけたのだから、どんな真実でも辿り着きたい。
「僕も調べてはみたけど、手がかりないしね」
 あの日持ち帰ったクリスターの帳簿を、ロックは改めて精査してみた。
 だが顧客の素性に繋がる情報はおろか、クリスター失踪の理由さえ何一つ浮かんでは来なかった。

 唯一、不審に思えた点がある。
 例のローブ三十着の注文について、書き損じを塗りつぶしたような跡が見つかった。『青地のローブ』と記されたその直前に、数文字分の塗りつぶした形跡があったのだ。
 これがペンで書かれたものならインクの染みだと思えたが、クリスターは帳簿にも炭筆を使用していた。
 彼は『青地のローブ』と記す直前、何かを誤って書き込んだのだろう。

「何と書こうとしてたか、わかればな……」
 ロックは嘆いたが、さすがに塗りつぶされたものを読み解く術はない。
 クリスターに関してはほぼ行き詰まっている現在、エベルが入手した情報に期待を寄せる他なかった。
「しかし近頃、随分と特区にご縁があるな」
 フィービが乾いた笑い声を立てる。
「仕事以外であの辺をうろつく日が来るとは思わなかった」
 そう語るフィービが、貴族の娘と恋に落ちたというのもまさに奇縁だ。
 両親の馴れ初めは聞いていたが、まだ下級貴族の母と傭兵の父とが上手く結びつかなかった。
「閣下に、母さんの家のことを話したよ」
 ロックは素直に打ち明けた。
 フィービもそうなることを予期していたのだろう。目を細めて応じる。
「アレクタス家のことはご存知だったろ?」
「うん。有名なの?」
「まあ、有名っつったらそうだな……」
 珍しく言葉を濁したフィービが、溜息まじりに続けた。
「あの家はなあ……火種には事欠かないんだ」
 穏やかではない物言いだ。
 ロックは長椅子の上で膝を抱えた。
「……敵が多いってこと?」
「そうだな。内にも外にも多かった」
 そこでフィービは十指を顎の下で組み、険しい表情になる。
「ベイルに初めて会ったのも護衛の仕事だった。アレクタス家は貿易をやっててな、金はあった。だが儲けすぎてあちこちから目をつけられた」
 貿易商、金持ち――母が香木を持っていたことと、それらの事実が繋がったようだ。
 もっとも晩年の慎ましい暮らしぶりからはかけ離れていて、ロックはそのことを切なく思う。
「それで身辺警護に傭兵を使っていた。危険な仕事だったが報酬はよかった」
 フィービは淡々と語ろうとしている。
 だが髪をかき上げる仕種に、隠しきれない気恥ずかしさが覗いていた。
「結局、二度と雇ってもらえなくなったがな。護衛どころか、家出の遠因になっちまった」
「それは仕方ないね」
 ロックはにやっとした。
 そんな娘の顔を拗ねたように見た後、フィービは目を伏せる。
「でもな、ベイルはあの家にいづらかったんだとも思うぜ。実の姉と跡目を継ぐのはどっちかって、常に競わされてたんだから」

 実の姉という単語に、ロックはどきりとした。
 エベルからも聞いていた話だ。アレクタス家を出ていった妹、跡を継いだ姉。しかしその跡継ぎはなく、養子を取るという話も出ていると――。

 迷いながら、おずおずと切り出す。
「閣下も、母さんのお姉さんのことを言ってたよ」
 ロックにとっては伯母に当たる人物だ。例によって、現実見は皆無だが。
「跡継ぎがいなくて揉めているみたいだから、僕の素性は黙ってた方がいいって」
「そうだな、言わない方がいい」
 フィービも否定せず、頷いた。
 そしてロックの髪を手で梳きながら、あやすような口調で語りかける。
「実を言えばな、お前とベイルが住んでた村にも何度か使いが来てた」
「『使い』って?」
「アレクタス家が雇った人間だ。お前たちをこそこそ嗅ぎ回ってた」
「嘘っ」
 ロックは驚いたが、フィービは冷静に続けた。
「俺が訪ねていった時もたまに見かけたからな。何人か締め上げて吐かせたこともあって、知ってた」
 何もかもが初耳の話だ。
 ロックが貧しいながらも穏やかな少女期を過ごしている傍らで、父の暗躍があったとは。
「父さん、母さんのことをすごく守ってたんだね」
「お前のこともだ、ロクシー」
「すごいや、ありがとう」
 感謝を告げればフィービは口元を緩めたかけたが、すぐに引き締めた。
「とは言え、全部を潰せたとは思えないからな。向こうもベイルに娘がいたことくらいは把握済みだろう」
 そこまで言われてようやく、ロックの頭にひらめくものがあった。
「もしかして、それで僕に男の格好をさせてるの?」
 その遅すぎた推察は、正解だったようだ。
 フィービは笑って頷いた。
「それもある」
「そう、だったんだ……」
「父親だってことは黙ってるつもりだったからな。どう言いくるめるか、頭捻った」

 しかしフィービの苦労をよそに、男に憧れていたロクシー・フロリアは抵抗なく男装を始めた。
 そして三年が過ぎ、今のところロックの素性を見抜いた者はエベルの他には誰もいない。およそ男らしくない華奢さがかえって軟弱者らしく映るようだ。
 お蔭でこの貧民街で、仕立て屋として平穏に暮らしてくることができた。

 できればこれからも平穏でありたいと、ロックは思う。
 守ってくれた父の恩に報いる為にも。
「僕が今日まで無事だったのも、父さんのお蔭だよ」
 ロックの言葉に、フィービは黙ってその頭を抱き寄せてきた。
 そして額をくっつけて顔を覗き込むと、言い聞かせるように語を継いだ。
「心配するな。嫁に行くまでは必ず守ってやる」
 青い目が酷く真剣で、ロックはつい笑ってしまいそうになる。
「まだ行く予定もないよ」
「本当か?」
「本当だってば」
 エベルからは『未来を共に』と言われた。
 ロックも同じように思う。だが、それも今すぐではないはずだ。
 その前に、親孝行をしておきたいと思っている。せっかく一緒に暮らし始めたのだから。
「ロクシー、覚えておけ」
 娘を真っ直ぐに見つめて、父は言う。
「お前の未来はお前のものだ。好きなように、お前が決めろ」
「うん」
「だがお前が迷う時は、いつでも俺を頼れ。そういう時に手を貸すのは、親の務めだ」
「わかったよ、父さん」
 今はまだ、迷ってはいない。
 だがこの先のことはわからない。
 少し前まで、誰かと恋に落ちることなど想像もできなかったように――ロックは自らの運命が平坦なものではないことを、おぼろげながら察し始めていた。
 それでもロックは一人ではなく、傍で手を差し伸べてくれる人たちがいる。
 だから不思議と怖くはなかった。

 数日後、ロックとフィービは店を休み、貧民街の外に出た。
 出迎えの馬車に乗り込み、エベルが待つ貴族特区へと向かっていた。
top