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未来への契り(1)

 ニーシャが『フロリア衣料店』を訪ねてきた時、ロックもフィービも驚いた。
 もっとも当のニーシャも、ここが二人の店だとは知らなかったようだ。ぼんやりと店内を見回した後、握り締めていた紙を一枚差し出す。
「ロック……だよね? これ、お願いできない?」
 その紙はまさしく、尋ね人の告知だった。

 尋ね人『クリスター・ギオネット』、二十八歳男、痩せ型、銀髪に灰色の瞳――紙面には丁寧な字でそう書かれている。
 どこかの絵師に描かせたのか、特徴をよく捉えたクリスターの似顔絵入りだ。それだけでも相応の金がかかっているはずだが、ニーシャはその張り紙を何十枚も作らせたらしい。
 紙面の最後には習いたての子供のような筆致で、『にーしゃ』と署名が入っている。
 この張り紙は既に、貧民街のあちらこちらに貼られている。ロックも今朝、店に来る前に見かけていたところだ。

 改めてクリスターの似顔絵を眺めたロックは、面を上げてニーシャを見つめた。
 一週間前にジャスティアの店で会った時よりも、頬はこけ、目は泣き腫らしたように赤く、唇も蒼ざめている。彼女がやつれているのは明らかで、その理由はやはり行方知れずのクリスターにあるのだろう。
「わかった、外に貼っておくよ」
 ロックは頷いて答えた。
 それでニーシャはぎこちなくだが微笑み、次いで尋ねる。
「あれからクリスターを見てない?」
「いいや、あいにく」
 振られ続けた一週間の後、ロックはクリスター捜しを諦めていた。
 だが彼の所在が不明であることは、訪ねてくる客の様子から十分察している。
「そう……何かあったんじゃないといいけど……」
 ニーシャは唇を震わせ、俯いた。
「帝都にいるのかどうかさえわからないの。家の場所も、皆知らないって言うし」
 さすがに二週間の不在は長すぎる。ニーシャにとってはそれ以上、会っていないことにもなる。
 クリスターは何らかの理由で帝都から高飛びしたのではないか、そんな噂さえ立ち始めていた。
「あんたは心当たりないの?」
 フィービも見かねたか、ニーシャに向かってそう尋ねた。
 するとニーシャは力なくかぶりを振る。
「何も。クリスターがいなくなるなんて思わなかった」
 切なげに零れたその言葉がロックの胸を打った。
 そんな思いをさせられるのは、さぞかし辛いことだろう。ましてや大切な人が相手なら――。
「例の、大口の仕事については? 何か聞いてない?」
 更に突っ込んでフィービが問う。
 ニーシャは試しに考え込んでみたようだが、やがて肩を落とした。
「わからない。クリスターは仕事の話、あまりしないから」
 それから目に涙を浮かべ、鼻を啜る。
「ただ、すごくお金になる仕事なんだとは言ってた」
「お金に……そう。どのくらいの?」
「全部終わったら、あたしを故郷に連れてってくれるって」
 遂に堪えきれなくなったか、ニーシャははらはらと涙を流した。
「南方に一緒に帰って、あたしの両親に会って、結婚しようって言ってくれた」
 それを聞いたフィービが、何か言いたげにロックを見る。
 考えられ得る可能性は一つではなく、ロックは泣くニーシャを黙って見守ることしかできなかった。

 ニーシャが店を出ていった後、ロックは貴族特区のエベル宛てに手紙を書いた。
 以前注文を受けていた礼服の仮縫いがようやく終わったので、一度ご来店願いたい旨をしたためた。
 それから、クリスターについて書き加えるかどうかは少し迷った。エベルへの手紙に悪い知らせは綴りたくないというのが本音だ。だが彼も店まで来れば、あの張り紙を目にすることになるだろう。
 だから迷った末、こう記した。
 ――クリスター・ギオネットはあれきり姿を見せていません。もし彼の家の場所を覚えておいででしたら、お力をお借りできないでしょうか。

 配達夫に手紙を届けてもらった翌日、エベルは返事よりも早く店に現れた。
 既に『フロリア衣料店』の外壁に貼られた張り紙を見た後なのだろう。店内に入ってきた時、その表情は普段より硬かった。

「彼は行方不明なのか?」
 試着室に入り、仮縫いを終えた礼服を身体に合わせながら、エベルはロックにそう尋ねた。
「そのようなんです」
 ロックは頷き、説明を続けた。
「僕の部屋の前に現れた夜以来、僕は一度も見かけていません。他の人も、その翌日の昼以降は誰も会っていないそうです」
「ふむ。失跡の理由は?」
「それが、わからなくて」
 かぶりを振り、ロックはエベルに上着を羽織らせる。
 エベルも慣れた様子で袖を通し、それから眉を顰めた。
「わからない? 前触れもなくいなくなったのか?」
「ええ。そもそも自分から去ったのか、事件に巻き込まれたのか、それともまだこの辺りに身を潜めているのか……それすら不明です」
 話しながらロックはエベルの背後に回り、そっと襟刳りを直す。
 礼服の仕立ては採寸通りにできているようだった。あとは本縫いに入るだけだ。
 しかしその前に、気がかりなことは解決してしまいたい。
「ただ、ニーシャが――クリスターの恋人が辛そうでした」
 ロックが口にした名前に、振り向いたエベルが怪訝そうにする。
「ニーシャ……張り紙にあった署名の主か」
「そうです。彼女が張り紙を、貧民街中に配ってるんですが」
 恋人の行方を突き止める為に。
 と、ロックは当然のように思っているが、フィービの考えは違うようだ。
「恋人って言っても、ニーシャの自称よ」
 試着室の外から不機嫌そうな声がする。
「結婚の話が出たから逃げたって考え方もできるわ」
「フィービの考えは冷たすぎるよ。何で結婚で逃げるのさ」
 ロックが中から反論すれば、大仰な溜息が返ってきた。
「誰もが喜んで結婚したがるわけじゃないのよ。若いわねえ、ロック」
 その通りロックはまだ二十歳、結婚に夢も希望も抱ける年頃だ。
 クリスターとニーシャの関係が実際にどんなものだったのかは知らない。だがニーシャの涙を見た後では、彼女に肩入れしてしまうのも無理のない話だろう。
「エベルはどうお思いですか?」
 ロックが水を向けると、仮縫いの礼服に身を包んだエベルは静かに笑んだ。
「結婚に関してなら、あなたの夢を壊すことはないと誓おう」
 そして目を瞬かせたロックの前で、真面目な顔に戻って続ける。
「クリスターの話については、これだけの情報では何とも言えない」
「そう、ですよね……」
「だが調べてみる必要はある」
 金色の瞳が警戒するように、すっと細められた。
「これが事件ならば、危険は取り除いておかねばなるまい。あなたが暮らす街だからな」
 ロックは彼の端整な顔を見上げ、密かな安心感を覚える。
 頼れる相手がいるのは幸いなことだ。その点において、今のロックは実に恵まれていた。

 仮縫いの礼服を脱ぎ、試着室を出たエベルに、ロックはお茶を振る舞った。
「安物ですから、お口に合えばいいのですが」
 そう前置きして出されたお茶に、伯爵閣下はためらわず口をつけ、そしてよく味わってから微笑んだ。
「とても美味しいお茶だ、ありがとう」
「よかった。フィービが淹れてくれたんです」
 胸を撫で下ろしたロックが言い添えると、エベルはむせかけた。
 そこでフィービが紅を引いた唇の両端を吊り上げる。
「あら閣下、あたしではご不満?」
「……そのようなことは、決して」
 エベルは手巾で上品に口元を拭う。
 それから改まってロックに向き直る。
「手紙では、クリスターの家を覚えているかと尋ねていたな」
「ええ。実は彼の家のありかを、ニーシャですら知らないんです」

 クリスターの家を知る者はなく、当然ながら彼を訪ねて、その安否を確かめられる者もいない。
 もしかすれば今もなお、自宅で仕事に追われているだけかもしれない。悪い方に考えるなら、自宅で臥しているという可能性もある。倒れて助けも呼べぬまま――などということも十分考えられるだろう。

「二週間も前のことですから、難しいかとは思いますが……」
 ロックがおずおずと続ければ、確かにエベルも眉間に皺を寄せていた。
「実のところ、覚えていると断言できるほどではない」
 ましてやエベルはクリスターを尾行しただけで、帰路を記憶しようと努めたわけではないはずだった。
 そしてここは貧民街、次から次へと掘っ建て小屋が造られ、一日で裏路地の構造が変わってしまうような街だ。仮に道を覚えていたところで、無事に辿りつけるかどうかわかったものではない。
「だが、あなたの前で『できない』とは言いたくないな」
 エベルはロックに流し目を送ると、意を決したようだ。
「記憶を辿り、彼の家を探し当ててみよう」
「ありがとうございます、エベル」
 ロックは感謝を込めて頭を下げる。
「なら、あたしも行くわよ」
 すかさずフィービが名乗りを上げた。
「人手は多いに越したことないでしょう」
「確かに。何があるかわからないからな」
 同意したエベルは、そういう可能性も既に想定しているようだ。
 犯罪が日常茶飯事の貧民街で、クリスターが何か厄介事に巻き込まれたと考えるのは当然のことだろう。ロックの細腕は荒事にはからきしなので、フィービがいてくれると更に心強い。
「あたしは、あの野郎の安否が気になっているんじゃないの」
 フィービは釘を刺すように言う。
「正直な話、クリスターが高飛びしてようが悪い妖精に攫われてようがさしたる興味はないわ。あたしの興味はただ一つ、あいつが受けた大口の仕事についてよ」
 そういえば彼は、ニーシャに対してもそのことばかり尋ねていた。
「フィービはそれが、クリスターがいなくなった理由だと思うの?」
 ロックの問いに、フィービはなめらかな顎を撫でる。
「大いにあり得ると思ってるわ。実入りのいい仕事にかまけて他の仕事を放り出す、それもあの阿漕なクリスターがよ。そんな上手い話、貧民街にはそうそうないわ」
 実際、彼に仕事を与えた客についてはロックも気になるところだ。
 同じ型の服ばかり作っていたという点からして、工場か何かからの注文と思われたが――この辺りでそういった施設ができたという話はとんと聞かない。もしかすればその客は、貧民街の人間ではないのかもしれない。
「もしそうなら、うちだって他人事じゃない」
 今度はフィービが、じっとロックを見つめてくる。
「次にその客が現れるのはうちの店かもしれない。危険な芽は先んじて潰すに限る、そうでしょう?」
「違いないね」
 ロックも異論はなかった。
 やはりこの件はどうしても、他人事は思えない。

 三人が店を出たのは、日が落ちてからのことだった。
 それには理由がある。エベルがクリスターの後をつけた時、彼は屋根に上っていた。家々の屋根を伝い、クリスターの銀色の髪を見下ろしながら尾行を続けたのだ。
「屋根に上がったところを市警隊に見られると厄介だ」
 とのことで、日没後の出発となった。
 店を閉め、一旦はロックの部屋の前へ向かう。そしてあの夜と同じように、ロックが見守る前でエベルが屋根の上に飛び乗ってみせる。
「相変わらず身軽なものね」
 フィービが舌を巻くほどの敏捷さで跳び上がったエベルが、建物の上から声をかけてくる。
「では行こう。ゆっくり進むから、追い駆けてくれ」
 そして屋根から屋根へと、獣さながらの軽い足取りで飛び移る。
 ロックとフィービは彼の影を追い、貧民街の路地を早足で歩き始めた。
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