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道化の仕立て屋、営業中(2)

 翌日の朝早く、ロックはフィービと共に貧民街へと帰ってきた。
 馬屋で借りた馬に乗り、往路よりはいくらかゆったりと走った。エベルが市警隊に口を利いてくれたお蔭で、呼び止められることもなく実に平穏な復路となった。

 しかし一日半も留守にしていれば、当然ながら案ずる者もいる。
「どこ行ってたの! もう、何度も心配させて……!」
 店を開ける前にと顔を出したパン屋で、ジャスティアはロックの顔を見るなり泣き崩れた。
 窯を見ていたカルガスも飛んできて、寝不足の顔に安堵の色を浮かべる。
「無事みたいだな、よかったよ」
「心配かけてごめん。僕もフィービも元気だよ」
 ロックが平謝りで詫びると、ジャスティアも落ち着いてきたようだ。やがて鼻を啜りながら語った。
「あんたとフィービが、トリリアン嬢の店に入った強盗を締めに行ったんじゃないかって噂になってたの」
 なかなかいい読みだ。
 実際、それに近いことをしてきた後だった。打ち明けるべきかどうか迷った末、ロックは曖昧にだけ答えておく。
「近いうちに、トリリアン嬢のところには連絡が行くと思う」
「全く……フィービはともかく、あんたが行くことはないでしょう」
 ジャスティアはロックの腕をぐっと掴んだ。
「こんなひょろひょろなんだから、危ない真似なんてするんじゃないの。するんだったら鍛えてからになさい」
 その言葉に苦笑しつつ、ロックもまた自分の腕を見下ろす。
 男のふりをするにしては細くて頼りない腕だ。だがこの腕にもできることはたくさんあった。これからの自分に必要なのは男の真似をして鍛えることではない。仕立て屋として、腕を磨いていくことだ。
「当面は仕立て屋らしく、おとなしくしてるよ」
 ロックはそう告げてジャスティアたちを安心させることにした。
 そして自分を案じてくれる人がいることを、焼きたてのジャガイモパンと一緒に心ゆくまで噛み締めた。

 トリリアン嬢の元へは数日のうちに連絡があったらしい。
 訪ねてきた市警隊が言うには、押し入った強盗犯が捕らえられて自白した為、その貯えから店の損害と怪我に対する補償金が支払われる――とのことだった。それが真実でないことはロックも知っていたが、トリリアン嬢自身は真偽の程に関心すらないようだった。
「押し入られただけで大金が貰えるなんて悪くないね」
 頭部に傷跡を残していながら、そんなふうにうそぶいていた。
「何だったら、もういっぺんくらい押し入られてもいいかもね」
 とまで言い切るからには、ミカエラは余程の額を彼女に支払ったようだ。『リーナス家から支払われた』と知らせなかったのは賢明だろう。きっと鼻血も出ないほど毟られたに違いない。
 ともかくも、トリリアン嬢は舞い込んできた大金に上機嫌だった。
「小僧、あんたにも心配かけたね」
 珍しくロックに話しかけてきたかと思うと、皺の深い顔に満面の笑みを浮かべる。
「来月の家賃、半分に負けてあげるよ。たまにはおまけしてやらんとね」
 ここで『タダにするよ』と言わないところはいかにもトリリアン嬢らしい。
「ありがとう、トリリアン嬢」
 ロックはお礼を言ったが、内心は少しばかり複雑だった。
 怪我をしてもなお健在の、トリリアン嬢のしたたかさに――ではない。
 実を言えば、近々今の部屋を引き払おうかと思っていたのだ。市場通りと店に近くて便利なのだが、父と娘が二人で暮らすには少々狭い。フィービが現在暮らしているのも小さな家なので、どこか二人暮らしに適した部屋を探そうという話が親子の間に持ち上がっていた。
 引っ越し先が見つかるのが先か、来月の家賃を払うのが先か。
 どちらに転んでも悪くはないかな、とロックは思っている。

 ロック自身はと言えば、当面は『道化の仕立て屋』を続けることにした。
「貧民街で店をやるなら、男の方が安全よ」
 例によって、フィービがそう主張したからだ。
 ロックも同じように思う。貧民街で女として生きることは楽ではない。余計な苦労を背負い込まない為にも、ここにいる間は男装の仕立て屋として振る舞うつもりだった。皆には相変わらず軟弱だ、頼りないと言われ続けるだろうが、ロック自身はこの期に及んで屈強な身体を目指すつもりなどなかった。
 そしてフィービもまた、店ではこれまで通りに美しく化粧をし、ドレスを着て過ごすことにしたという。
「ずっとこの風体でやってきたんですもの。店にいるうちはこれで行くわよ」
 栗色の髪を下ろし、ロックが仕立てたドレスに身を包んだフィービは、相変わらず黙っていれば骨太の美女にしか見えない。
 もっともその心中は今なお複雑なようだ。
「この歳になっても、どう生きたいかなんてわからないんだけどね」
 ロックの前ではそう言って、苦笑していた。
「せっかくだから、やりたいことは全部やってやるつもり。店ではドレスを着るし、家に帰ったら父親らしいことをする。こうして生き甲斐を見つけたんだから」
 フィービが大きな骨張った手でロックの頭を撫でる。母とは全く違う手なのに、同じように温かくてくすぐったい。
 ロックとしても、フィービには好きなように、そして幸せに生きて欲しいと思っている。
 その上で、ロックには一つの夢がある。
「お金を貯めて、市民権を買うのはどうかな」
 それはかつてフィービが叶えられなかった夢だ。
「晴れて帝都市民になれたら、商業地区に店を出すんだ。いいと思わない?」
 貧民街で細々と生計を立てるのもいいが、やはり治安はよろしくない。
 商業地区でなら、ロックもロクシー・フロリアとして、何の憚りもなく店を営めるはずだ。
「夢が大きいのはいいことだけど、覚悟が要るわよ」
 フィービは諭す口調で言う。
「仮にお金が貯まったとして、お偉いさんの機嫌を取らなきゃ買えないような代物なんだから」
「その辺は閣下に口を利いてもらおうよ」
 ロックは当てにする気満々で応じた。
 せっかく得た人脈を活用しないのはもったいない。
 それに商業地区に店を出せれば、エベルもより通いやすくなるはずだ。いかに人狼の健脚でも、貴族特区から貧民街では遠すぎる。冷やかしでもいいからもっと足繁く通っていただく為に――というのは、少々現金だろうか。
「店の名前も考えておかなきゃね」
 そこでロックは小首を傾げ、
「『フロリア=ベリック衣料品店』ってのはどうかな?」
 思いつくままに口にしてみたところ、フィービには思いきり笑われた。
「もうちょっと捻ったら?」
「僕、捻るの苦手なんだよ。どんなのがいいと思う?」
 逆に尋ねてみれば、彼は考えることもなく即答する。
「『ロクシー』がいい」
「お店の名前だよ?」
 挙げられた名前にロック自身は戸惑った。
 だがフィービは誇らしげに、紅を引いた唇を歪める。
「いい名前だろ。父さんがつけたんだ」

 それでロックはきょとんとして、数回瞬きを繰り返した。
 思えば誰が、なんてことは意識したことがなかった。母だろうと漠然と思っていたのは、ずっと父の顔さえ知らなかったからだ。

「すごく、いい名前だと思う。僕も好きだよ」
 ロックは笑顔で頷く。
「素敵な贈り物をありがとう、父さん」
 するとフィービは照れ隠しか、ロックの頬を指でつついた。
「店では『フィービ』だって言ってるでしょう」
「自分が最初に言ったんだろ、父さんって」
「そうだった?」
 とぼけるフィービがおかしくて、ロックも声を上げて笑った。
 父が生まれて初めてくれたものだと思ったら、自分の名前が一層好きになった。店の名前にするのは少し恥ずかしい気もするが、皆に呼ばれるのも悪くはない。
 エベルも、気に入ってくれそうな気がする。
「『衣料の店ロクシー』とかかな」
「『仕立て屋ロクシー』でもいいな」
「いいね、それ。頑張って市民権買わないとね」
 目標は決まった。両親が叶えられなかった夢を叶えて、今よりもっと大きな店を持つ。そして仕立て屋として、もっとたくさんの客を幸せにする。
 それこそがロックの夢だ。
 もっとも、フィービはその夢に一抹の不安を覚えているらしい。
「閣下に相談したら、市民権なんて買う必要ないって言いそうだがな……」
「え? そうかな、どうして?」
「もっと手っ取り早い方法があると言うに決まってる。いいか、金が貯まるまで断じて相談はするなよ」
 言い聞かせるようなその言葉に、ロックが再びきょとんとした時だ。

 店のドアベルが鳴り響いて、嬉しい来客を知らせてくれた。
 戸口に立っているのは鳶色の髪と金色の瞳の、端正な顔立ちをした青年だ。彼はロックと目が合うと、金色の瞳をゆっくりと細めて切り出した。
「こんにちは。繁盛しているかな、ご店主」
「いらっしゃいませ、エベル」
 ロックも大喜びで駆け寄り、懐かしささえ覚える彼の顔を見上げる。
 あの夜から既に十日が過ぎていた。その間、エベルはマティウス邸の修繕に立ち会う為に何かと忙しかったようだ。ロックも顔を見たいのはやまやまだったが、落ち着くまではと我慢を続けてきた。
 そしてようやく合わせた顔は、記憶にあるものより少しばかりやつれている。
「少し、お痩せになりました?」
 ロックが気遣うと、エベルはためらいがちに頷いた。
「少しだけな。ここ数日はどうしても忙しかった」
 だがすぐに明るい口調で言い添える。
「そのお蔭で、我が家はすっかり元通りだ。またいつでも遊びに来てくれ、ロクシー」
「店では『ロック』です、閣下」
 フィービが素早く口を挟んだ。
 それでエベルは目を丸くして、
「ああ、そうか」
 腑に落ちた様子でロックを眺める。
 今日も仕立て屋のシャツとベスト、スラックスを身に着け、以前と変わらぬ男装姿だ。何も変わっていないはずだとロック自身は思っていたが、エベルは感心したように見入っている。
「私の目には、あなたは女にしか見えないな。それも以前よりきれいになった」
 五感に優れた人狼閣下のお言葉だ。真実なのかもしれないが、ロックは気恥ずかしさにはにかんだ。
「それは困ります。僕は道化の仕立て屋ですから」
 人の目を欺けないのでは、道化を演じる意味もない。
 だがどうしたって欺けず、真実を見抜いてくる相手もいる。そういう人と出会えたことが、ロックには不思議と幸福に思えた。

 その後、ロックはエベルを試着室へと案内した。
 先日破いてしまった正装の礼服を一揃い新調する為、採寸の必要があったからだ。フィービは何かと気を揉んでいたが、エベルの採寸はロック自身がやりたかった。
 そして巻尺を指で押さえ、首周りや肩幅、胸囲や腰囲などを一つ一つ丁寧に測った。
「……やっぱり、お痩せになったみたいですね」
 採寸を終えたロックが案じると、エベルは懸念を払拭するように笑う。
「あなたが食事に付き合ってくれれば、すぐに元通りになる」
「それならいつでもお付き合いします」
 万感を込めて、ロックは頷いた。
 いろんなことがあったあの夜を過ぎ、ようやく日常が戻ってきたように思う。無論、あの彫像がある限りは平穏とは言いがたく、エベルにとっても解決すべき命題が残った形となっている。だからこそロックは、エベルが過ごす日常を明るく、幸福に彩りたいと願っていた。
「新しい礼服は、どのようなお仕立てにしましょうか」
 ロックの問いに、エベルも朗らかに答えた。
「一つ決めていたことがある。あなたのドレスに合わせたものがいい」
「僕の……?」
「あの暁色の夜会服だ。装うあなたをもう一度この目で拝みたい」
 ミカエラの為にと仕立てた絹のドレスは、今もロックの手元にある。
 一度着たものを渡すわけにはいかなかったし、元よりグイドに突き返されたものだ。ロック自身もあれきり着る機会もないまま、大切にしまい込んでいた。
 あのドレスにもう一度、袖を通す機会は訪れるだろうか。
「その時、隣に並び立つ私が、あなたと釣り合うような正装に仕立てて欲しい」
 エベルはそう言って、巻尺を握るロックの手を取った。
 そしてその指先に優しく口づけたので、ロックは頬に熱を上らせながら答える。
「エベルでしたら、何を着ても見劣りすることなんてないですよ」
「では、更に見栄えのいいものを。あなたが惚れ直すような仕立てで頼む」
 それを当の仕立て屋に頼むのだから、全く返答に困ってしまう。

 だがロックも仕立て屋として客の要望には応えたい。
 それに自分も、誰かの為に装う楽しみを覚えたばかりだ。
 想い人にも同じように楽しんでもらえたら、これ以上の幸いはない。
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