夜が明けたらくちづけを(6)
「好きなら、一緒にいればよかったのに」率直な感想が、ロックの口からついて出た。
「せっかく好きになったのに離れなきゃいけないなんて、寂しいだけだよ」
もちろん今更言っても詮無いことだ。かえって父を傷つけるだけかもしれない。
それでも、ここ最近の騒々しい日々を潜り抜けてきたロックには、どうしても異を唱えたくなる理由があった。
だがフィービは静かに笑うばかりだ。二杯目の葡萄酒を飲み干した後、
「そりゃ正論だけどな、そんな単純な話じゃない」
ロックを見下ろし、諭すように告げてくる。
「お前だって、好きな奴と店とどっちか選べって言われたらどうする? 迷うだろ?」
言われてロックも考えてみたのだが、天秤に載せて軽重をつけられるような事柄ではなかった。
あの店は父が命を賭して稼いだ金で構えたもので、決して粗末にはできない。そして想い人は――ロックにとっては、今はまだ理屈で語れるような対象ではない。ただ傍にいたいからいるのだし、彼の支えになりたい。それだけだ。
それでロックは、父に負けじと杯の葡萄酒を一息で空にした。
その勢いに乗じるように、きっぱりと言い切った。
「僕なら両方大事って言うよ。どっちも失いたくない」
するとフィービは面白いものでも見るように目を瞠る。
「へえ」
ロックの杯にお替わりを注ぎながら、頬を緩めた。
「豪気な意見だ。若いっていいよな」
「自分は若くないみたいな言い方してる!」
「馬鹿言うな、俺はもう四十過ぎだぞ。若くねえよ」
そして、尚も反論したがるロックを宥めるように、
「愛してるってだけじゃ、どうにもならないこともある」
と言った。
「俺もベイルもお互い、どうしても譲れないものがあった。だから一緒にいられなかった。それだけだ」
それだけ、などと言われるのは、ロックはやはり納得がいかない。
大切なものを全部手に入れて、守り抜くことは、それほど難しいことなのだろうか。
「俺なんかが真っ当な家庭を持てるとは思ってなかった」
フィービはその言葉に、微かな諦念を滲ませる。
「それが数年叶っただけでも出来すぎだ。幸せだったよ」
また葡萄酒を傾けつつ、いとおしげに娘を見ていた。
「まして今は、こんなに可愛い娘が傍にいるんだからな。これ以上望むものなんてない」
ロックは言葉もなく、葡萄酒を湛えた杯を見下ろしている。
フィービが母と出会う前、どんな人生を歩んできたかはわからない。だが彼がたった数年で終わった結婚生活を幸福だと言い切ったことで、その過酷な生き様が窺い知れるように思えた。ほんの一時であっても、苦難の多い日々であっても、幸せであったのは間違いないのだろう。
なのに、父を幸福にした母は、もういない。
残されたのは自分だけだ。
「ベイルの最期、どんなだった?」
今度はフィービが、ロックに向かって尋ねた。
それを答えるのに抵抗がなかったわけではない。だがフィービは真剣そのものの顔で娘を見ていたし、覚悟も決めているようだ。
だからロックも正直に告げた。
「熱が高くてうなされてばかりだったんだ。譫言みたいに繰り返し名前を呼んでたよ……父さんの」
看取ったあの日の記憶は、今も脳裏に焼きついている。
「……そうか」
フィービが唇を噛んだ。
何かを堪えるように、ぐっと喉を鳴らすのが聞こえた。
かくして愛し合っていた二人が、再び共に暮らすことは叶わなかった。フィービはもちろんのこと、母ベイルも、死の間際には悔やんでいたかもしれない。愛する人の傍にいられなかったことを――そして、娘を一人残していくことを。
だがそれでも、母はロックにこう言った。
『帝都にはあなたのお父さんがいるの。フレデリクス・ベリック、彼を訪ねて。きっとあなたを助けてくれるから』
その言葉は真実になった。
フィービはいつでもロックの傍にいて、辛い時には励ましてくれたし、困った時にはあらゆる手を尽くして助けてくれた。昨夜だってフィービが来てくれたからこそ、ロックはドレスを着て華やかな敵陣に飛び込んでいけた。
「母さんは僕に、父さんに会いに行きなさいって言ったんだ」
ロックは父にそう告げる。
「父さんのことを心から信じてたんだよ。僕を助けてくれるって」
「まあ、そのくらいはな」
何でもないことのようにフィービが応じた。三杯目の葡萄酒にも顔色一つ変えず、平然と頷いてみせる。
「さっきも言ったが、俺は自分が男か女かさえわからない人間だ。この歳になっても掴みかねてるし、一生わからないままかもしれない」
夜風にたなびく栗色の髪がきれいだった。
「だがそれでも、お前の父親だって事実は確かだ」
いつしか残照も掻き消え、美しい横顔を星明かりが照らし始める。
そこに浮かんでいるのは迷いのない表情だった。
「今となっては俺が掴んでる、たった一つの揺るぎない縁だ。これがあれば、お前さえいれば、自分が何者かなんて悩む必要はもうない」
「……父さん」
ロックは震える声で呼びかけた。
酔いが回ってきたのだろうか。嬉しいような、泣きたいような、ごちゃ混ぜの感情が身体中を支配していた。
自分だって同じだ。失くしてきたものもあったし辛い目にも遭ったが、ずっと会いたかった人にようやく会えた。それも、もう二度と会えないかもしれないと思っていた人だ。
「ずっと会いたかったんだ。父さんのこと、どんな人だろうって想像ばかりしてた」
「なら、がっかりしたろ。こんなので」
「そんなことない!」
ロックは決然とかぶりを振る。
「父さんは思ってた以上に優しくて、強くて、格好いい人だった」
その言葉はフィービの耳に少々くすぐったかったようだ。呷った葡萄酒にむせている。
「……墓場まで持っていこうと思ってたんだけどな」
軽く咳き込んだ後で、そう言ってきた。
「普通に考えたら嫌だろ、父親がオカマなんて」
それについてはロックも正直に答える。
「そりゃ最初はすごく驚いたよ」
母の遺言通りに父親の元を訪ねてみれば、いたのは美しい父の恋人、それも男だった。驚かないはずがない。
「おまけに父さんまでいないって言われて、いたのがフィービだけで、驚いたし悲しかった」
今度こそ一人ぼっちになってしまったと思った。
「でも『フィービ』が親身になってくれて、ずっと僕の傍にいてくれて。そしたら思うようになったよ、父さんがフィービを好きになるのも当たり前だって。こんなに素敵な人なんだから」
それが父本人だとは思いもしなかったが――答えがわかった今、何もかもが腑に落ちる。
彼が身体を張ってまで、いつも自分を助けに来てくれた理由。自らの危険さえ顧みない献身は、まさしく愛情によるものだった。
「ずっと傍にいてくれてありがとう」
感謝を告げれば、フィービはそれを噛み締めるように目を伏せた。
「ずっといるさ。お前が嫁に行くまではな」
「なら、当分は一緒だね」
ロックはためらいもなく言い切る。
だがフィービは半分笑って、半分は探るように尋ねてきた。
「本当か? もう予定が立ってたりしないよな?」
「あ、あるわけないよ」
エベルとは想いを確かめ合ってはいたが、将来の話まではしていない。
相手は伯爵閣下だ。嫁取りともなれば恋愛のように自由とはいかないだろうし、時期が来ればそのことで思い悩む日が来るのかもしれない――とは思いつつも、エベルならその辺りの解法も既に心得ているような気もした。何せ男同士でも構わないと言い切るような人だ。
だからロックも深刻には捉えていない。ようやく自覚した恋を、ひとまずは楽しめたらと思っている。
「決めたんだ。仕立て屋の仕事、もっと頑張るって」
夢で見たことを思い出し、ロックは朗らかに続けた。
「母さんが言ってた。仕立て屋は皆を幸せにする仕事なんだって。だから僕も、僕が手がけた服でもっとたくさんの人を幸せにしたい」
「そうだな、いい夢だ」
フィービが他人事のように頷いたので、慌てて言い添える。
「皆の中には父さんだって入ってるよ!」
「俺が? 俺はもう、お前がいるだけで十分――」
「だーめ! 僕は親孝行するって決めたんだから!」
せっかく親子でいることが叶ったのだ。
これまでの恩を返し、母ができなかった分まで父を幸せにしたい。
「父さんのことも、これからうんと幸せにしてあげる」
ロックは父を真っ直ぐに見つめて、誓った。
「だから楽しみにしててね、父さん」
するとフィービは、柔らかく目を細める。
ロックと同じ青い瞳が、ほんの少し潤んで揺れたように見えた。
「いい子に育ったな、ロクシー」
感慨深げなその呟きを、ロックもまたくすぐったい思いで聞いていた。
「父さんにそう言ってもらえると嬉しいな」
「ああ。本当に……久し振りに、幸せだ。長い夜が明けた気分だ」
ほころぶ口元を隠すように、フィービが杯を呷る。
それを見ていたロックはふと、悪戯めいたことを思いついた。
隣に立つフィービの肩に手を置いて、そのまま軽く背伸びをする。
そして背の高い彼の頬に、かつて母がしてくれたように、そっと唇を押し当てた。
大切な家族に捧げる、親愛の口づけだ。
「お……」
さすがのフィービもこれには戸惑ったようだ。
ロックが身を離した後、どうしようもなく緩んだ照れ笑いを浮かべる。
「まさか酔っ払ったんじゃないだろうな、ロクシー」
「違う。親子なんだからこれくらいするよ」
それが父の照れ隠しだとはわかっていても、真っ向から反論しておく。
「母さんもよく、してくれたんだ。だから父さんにしたっていいだろ」
「駄目とは言ってないけどな」
フィービは口元を引き締めようと躍起になっていたが、全くどうにもならなかった。
結局、幸せそうな顔つきで言った。
「けどお前、こういうのは安売りしないで取っとけよ。いざって時に好きな男とするもんだ」
それについては問題ない。
ロックも、杯を傾けながら答える。
「もうしたから、大丈夫」
たちまちフィービが振り向いた。
先程までの緩み切った表情はどこへやら、愕然とした様子で聞き返す。
「……今、何て言った?」
「え? 何が?」
ロックはとぼけてみせたが、それで父が納得するはずもない。
「したってまさか、閣下とか!?」
飛びつくような勢いで尋ねてきたので、その慌てようにロックはくすくす笑った。
「父さん、僕もう二十歳だよ。子供みたいに心配しなくても平気だよ」
「お前さっきはまだ嫁に行かないって言っただろ!」
「今だって行くとは言ってないよ」
「嫁に行くわけでもない相手にそういうことするのはもっと駄目だ!」
自分のことは棚に上げ、フィービが血相を変えている。
この人は本当に父親なんだ、改めてロックは実感する。
「父さん、心配してくれてありがとう」
感謝を告げてもう一度、その頬に口づけてみれば、フィービは喜怒哀楽全てが入り混じった顔になる。
「ご、誤魔化すな! いつからそんな手管を使うようになった!」
「手管とかじゃないよ。全部、本当の気持ち」
ロックには今、大好きな人がたくさんいる。
もしかしたら本当に酔っ払っているのかもしれない。
でもロックはいい気分だった。自分の手で幸せにしたい人がたくさんいる。やはり一人なんて選べないが選ぶ必要だってない、皆を幸せにしてしまえばいい。
そう思えることが、たまらなく幸せだった。