夜が明けたらくちづけを(4)
ロックたちの前に現れたヨハンナは、思いのほか元気そうだった。スカートから覗く足首に包帯を巻き、目の下や顎に青痣を浮かべていたが、ロックの姿を見るなり弾けるような笑みを見せた。
「ああ、ロック様! ご無事で何よりでございますっ!」
階段を駆け上がってきた彼女は、三階で出迎えたロックに飛びついてきた。
ロックは多少よろけつつもそれを受け止めた。彼女の大仰な感情表現が、少し照れる。
「お、お蔭様で。ヨハンナこそ大丈夫でしたか?」
尋ねると、ヨハンナはロックに抱きついたまま顔を上げた。
そして真面目くさって答える。
「ちっとも大丈夫ではございませんでした。あんなに恐ろしい体験はそうそう味わいたくはございません。まるでお芝居のような一夜でしたもの!」
「……何かこう、妙に楽しげに聞こえるな」
ロックの背後でフィービがこっそりぼやく。
それが聞こえなかったのか聞き流したのかはともかく、ヨハンナはロックを心配そうに見返した。
「ロック様こそ、きれいなお顔にお怪我を……なんておいたわしい!」
彼女の後からはルドヴィクスとイニエルが、やはりいくつか傷を拵えた顔で階段を上ってくる。怪我をしているのも、それでいて無事に朝を迎えられたのも皆同じのようだ。
「僕なら大丈夫です。それからもちろん閣下もご無事です」
ロックがそう語ると、ルドヴィクスが勢い込んで尋ねてくる。
「して、閣下はどちらに?」
「向こうの部屋です。リーナス卿が落ち着かれたので、傍についていらっしゃいます」
それで執事と御者はエベルたちがいる部屋へと駆け込んでいった。無事だと聞いても、その目で確かめたいと思ったのだろう。
ただ一人、ヨハンナだけはまだロックにしがみついていた。その身体は微かに震えていて、瞳には大粒の涙が浮かんでいる。
「ヨハンナ? 本当に大丈夫ですか?」
心配になり、ロックはもう一度確かめる。
するとヨハンナは鼻を啜り、泣き声まじりに呟いた。
「わ、わたくしは大丈夫です……。あの、皆様がご無事で、本当によかったなって……実感したら急に涙が……」
そこからはもう堪えようがなくなったのか、ぽろぽろと涙を零して泣き始めた。
昨夜こそ火掻き棒を手に勇敢さを見せたヨハンナだが、見る限り彼女はロックよりも年若い。
彼女のような人がマティウス邸に雇われた経緯はわからないものの、あのような事態はそうそうあるものではないだろう。彼女にとっても昨夜は恐怖と狂乱の一夜だったはずだ。迎えた朝に訪れた平穏を噛み締め、ふと気が緩んで泣いてしまう心情は、ロックには十分理解できた。
だからロックはヨハンナの背中をさすり、しばらくその涙に付き合うことにした。
蚊帳の外のフィービは居心地悪そうにしていたが、少なくとも咎め立てては来なかった。目を逸らす横顔が、ほんの少しだけ和んだ様子に見えた。
そうしてひとしきり泣いたヨハンナが、
「もう、平気です。ありがとうございます」
ロックから一歩離れた後、その顔にはようやく微笑が浮かんだ。照れたような、少女らしいはにかみ笑いだった。
「わたくしがロック様を独占していては、閣下に申し訳ないですから」
「別に、閣下のものと決まったわけじゃねえけどな」
フィービがまたしてもぼやいたが、やはりそれも聞き流したヨハンナが、泣いたばかりの瞳をきらきらと輝かせる。
「お二人で大いなる障害を乗り越えた後ですもの、この後はじっくり愛を確かめあう時間でございます! 是非是非ここで! できればわたくしの目の前で!」
ロックは彼女が泣き止んだことに安堵しつつも、その言い分にはいつものように圧倒されていた。
「え……な、どういうこと?」
思わずぽかんとしていれば、ちょうど廊下の向こうからエベルが現れた。まだ人狼の姿のまま、きびきびとした足取りで近づきながら声をかけてくる。
「ロクシー、酒は見つけられたか?」
「ああ、そういえば」
ヨハンナたちとの再会ですっかり忘れていた。
酒瓶はフィービが選び、ちゃんと持ってきていた。エベルはそれを受け取ってから、ヨハンナに気づいて狼の貌を和らげる。
「ヨハンナ、君も大事ないようでよかった」
「はい、閣下……」
どういうわけか、ヨハンナはぼんやりと答えた。
先程までのはしゃぎようはどこへやら、酷く不思議そうにエベルを見つめている。ここで働く小間使いなら人狼の姿が珍しいこともないはずだが、何かに驚いているようだ。
「どうかしたのか?」
エベルも怪訝に思ったか、すぐに彼女へ尋ねた。
するとヨハンナはエベルとロックを見比べつつ、おずおずと唇を動かす。
「閣下、今、ロック様のことを『ロクシー』とお呼びになりましたか?」
「……あ」
しまったというように、エベルが声を上げる。
ロックもはたと気づいた。言われてみれば昨夜、ヨハンナがロックの正体を知る機会はなかったはずだ。女の名前で呼ばれているのを目の当たりにして、彼女が戸惑うのも無理はない。
エベルやイニエルには知られた後だ。黙っていても仕方ないだろうと、ロックは口を挟んだ。
「ああ、それなんですけど。実は僕――」
その瞬間、エベルとフィービは同時に反応し、
「後にしよう、ロック」
「今は言わない方がいいんじゃねえか」
慌てて止めようとしたのだが、残念ながらロックの言葉の続きが先んじた。
「――ずっと。男のふりをしていたんです。黙っててごめんなさい」
たちまちヨハンナが瞬きを止める。
息が詰まったような声で言った。
「ご、ご婦人でいらっしゃるのですか?」
「はい」
「つまりロック様は、男装をしていらっしゃったと?」
「そういうことになります」
ロックが丁寧に答える横で、エベルとフィービは天井を仰ぐ。
そしてヨハンナの顔が凍りついたかと思うと、
「あっ……」
小さな悲鳴の後で、彼女は背中から倒れた。
「えっ、ヨハンナ! そんなに驚いた!?」
慌てて抱き留めたロックの腕の中で、ヨハンナは気を失っている。瞼だけがぴくぴく動いていた。
「ああ、これは大事だ。急いで彼女を運ぼう」
さしものエベルもうろたえていたし、フィービはくたびれた様子で深い深い息をつく。
「だから言ったろ。言うなって」
ヨハンナはグイドとは別の部屋に運び込まれ、寝台に寝かされた。
主たるエベル曰く、彼女は『少々』感激屋なのだということだ。
「以前、街の劇場で素晴らしい芝居を見たそうだ。古代帝国時代、禁じられていた男性同士の恋物語ということだったが……」
その影響でヨハンナは、エベルとロックの恋路に大いなる興味と思い入れを抱いていたらしい。
芝居と同じ状況をその目で、直に見られるという興奮が、彼女を舞い上がらせていたのかもしれない。
「何となくですが、理解できました」
ロックは曖昧に相槌を打ってから、率直な思いを述べた。
「では彼女は、僕が女だと知って落胆したでしょうね」
しかしエベルは広い肩を竦める。
「私の予想だが……気持ちが落ち着いたら彼女は、こう言いそうな気がする。『男装というのも、それはそれで劇的だ』と」
「どっちにしろ黙ることはなさそうだ」
とは、顔を顰めたフィービの感想だった。
酒を与えられたグイドはどうにか眠りに就いたようだが、一人にしておくわけにはいかない。
そこでフィービを含めた男手で、代わる代わる彼を見張ることになった。誰もがほとんど一睡もしておらず、休息を取る必要もあったからだ。
一方、グイドの見張りには力不足であろうロックは、一人でヨハンナの傍につくことになった。
「あなたも疲れているはずだ。必要とあらば、好きな部屋を使って休んでくれ」
エベルはそう勧めてくれたのだが、ロックは気絶した彼女について多少の責任を感じている。今は他にできることもないので、体力の許す限り、ヨハンナの様子を見ていることにした。
だが一睡もしていないのはロックも同じだ。
長い夜を経てようやく迎えた休息の時、椅子に一人で座っていればどっと疲れが押し寄せてくる。加えて窓から差し込む朝日が眩しく、カーテンを引くと室内は程よく暗くなる。
座り直した椅子の上、ロックはいつしか舟を漕ぎ始めていた。
それから、どのくらい経っただろう。
浅い眠りの中、ロックの身体は椅子を離れてどこかへ運ばれているようだ。瞼が重くて開かないが、誰かに抱きかかえられているらしい。
ロックは微睡みながら、浮遊感にも似たその心地を味わっていた。忍ばせた足音、微かに軋んで開いたドア、薄暗い部屋の中でそっと身体が下ろされる。冷たい敷布と柔らかい枕の感触があった。
すべすべした誰かの手が、ロックの髪を優しく撫でた。
「ん……」
目を抉じ開けたのは、その手の主を確かめたかったからだ。
そしてぼやける視界の先にいたのは、鳶色の髪と端整な顔立ち、そしていつでも変わらぬ金色の瞳の青年だった。彼は浅く寝台に腰かけ、身を乗り出すようにしてロックを見下ろしている。
「起こしてしまったか」
エベルが不意に、その瞳を瞠った。
ロックは瞬きを繰り返して、人に戻った彼の顔をとっくりと眺めた。それから自分が寝台の上に横たえられていることに気づき、慌てて起き上がる。
「しまった……僕、寝ちゃってました」
「いや、いい。あなたも少し休むべきだ」
そう言って、エベルは優しく目を細めた。
「ヨハンナなら心配は要らない。とても気持ちよさそうに眠っていたよ」
「そうですか……」
先程の気絶は疲労の蓄積から来るものでもあったのだろう。そこへ彼女にとって衝撃の事実を聞かされたのだから、倒れるのも無理はない。
「エベルは戻られたんですね」
ロックがその変化に言及すると、エベルは髪をかき上げながら苦笑する。
「いつまでも裸というわけにはいかないからな。着替えをしておきたかった」
彼は新しいシャツとズボンに身を包んでいた。昨夜着ていた正装服は一連の騒動で破けてしまっていたから、その後のエベルはずっと裸だったということになる。
相手は毛皮に覆われた人狼だ。何を意識することもないはずだが、ロックはちょっと頬を赤らめた。
「言われてみれば、そうでしたね……」
その顔を見て、エベルがおかしそうに吹き出す。
「恥ずかしがられても困るな。あなたの前で化けにくくなる」
ロックは気まずく思い、寝台の上で膝を抱えた。
エベルもすぐに笑うのをやめ、わずかに視線を落として語を継ぐ。
「日が高くなったら、ミカエラに使いをやる」
その時に起こるであろう事態を想像してか、表情は硬い。
「彼女をここに招き、グイドと会わせるつもりだ。あなたも立ち会ってはくれないか」
「ええ、構いません」
乗りかかった船だとばかり、ロックは頷いた。こうなったら最後まで見届けるのも運命というものだろう。
エベルには自分がいる。そう告げたばかりだ。
答えを聞いたエベルが胸を撫で下ろす。
「よかった。私にも心の支えが必要だからな」
そしてなめらかな手を伸ばし、ロックの頬に触れた。気遣わしげな手の優しさと温かさに胸が高鳴る。ロックがその手に自分の手を重ねると、エベルは幸せそうに口元を緩めた。
「あなたはまさに私の女神だ」
「言いすぎです」
「そんなことはない。私もこの家も皆、あなたによって救われた」
エベルから賞賛され、ロックは恥じ入り、俯いた。
ロック自身、あの時どうして身体が動いたのかわからない。
自分の中にあれほどの勇気が眠っていたとは知らなかった。もう一度同じことができるかと問われれば、きっと首を傾げるだろう。
しかし全ては上手くいった。考えるべきこと、やるべきことはまだ山ほどあるが、ひとまずは気を緩めてもいいはずだ。そう思うと途端に眠くなってきた。
あくびを噛み殺したロックを見て、エベルが小さく笑った。
「少し眠るといい。必要であれば食事でも、湯浴みでも、何でも申しつけてくれ」
「では、少しだけ休ませてください」
今はとにかく眠い。普段なら空腹を覚えて目覚める頃合いのはずだが、身体は食事よりも睡眠をより熱烈に欲しがっている。
「ああ」
エベルは頷くと、目をこするロックの頬から手を離す。
だがすぐに、その指先で唇に触れてきた。
「では眠る前に、あなたの唇で私を幸せにしてくれないか」
言われたことの意味がわからず、ロックはきょとんとする。
エベルは笑んでいたが、一歩も譲らぬ口調で続けた。
「いくらでもしてくれると言っただろう」
「あ! そ、そうでしたね」
思い出してロックはますます赤くなり、
「あの時の約束を叶えてもらいたい」
嬉しそうな顔つきでエベルはねだる。
「い、今ですか?」
「今だ。約束の履行は早い方がいい」
彼が不退転の態度を見せたので、ロックも覚悟を決めた。
「じゃあ……」
ぎくしゃくと頷く。
「頼む」
エベルが静かに目をつむる。
人狼相手にするのとは勝手が違った。
目の前にあるのは伯爵閣下のこの上なく端整な顔立ちだ。瞼が下りると彫刻のような美しさがより際立ち、ロックも思わず見とれてしまいそうになる。唇の位置はよりわかりやすく、重ねるのに技術は必要ないはずだが、ロックは恐る恐る顔を近づけた。
鼻が触れ合うほどの距離まで来た時、気恥ずかしくなってロックも目を閉じた。
それからもう少しだけ、顔を前に近づける。
つむる前の目算では間違いなく口づけられるはずだったのだが、ロックの唇は少し外れて、エベルの口の端に当たったようだ。
「あれ……」
思わず声を漏らすと、エベルが笑いを堪えたのがわかった。
慌ててやり直す。一度唇を離して、今度は真正面から顔をぶつける。すると唇より先に互いの鼻同士が衝突し、ロックは痛みに呻いた。
「いたっ……ご、ごめんなさい」
「いや、大丈夫だ」
目を開ければ、エベルも同じように鼻を押さえていた。恐らく痛かったのだろう。
「僕、あまり上手くないですね」
ロックは苦笑したが、エベルは笑わなかった。
「私にとってはその方がいい」
そう言うなりロックを勢いよく抱き寄せ、その唇を奪った。
荒々しく塞がれた口では呼吸をする余裕もなかった。柔らかい感触とは裏腹に、貪るような口づけだった。唇を甘く噛まれ、髪を指で掻き乱され、あっという間に訳がわからなくなる。
「あっ、エベル、待っ――」
寝台の上に押し倒されたロックが、絶え絶えの声を上げた時だ。
不意に呆気なく唇が離れ、エベルが身を引くのがわかった。恐る恐る目を開ければ、唇を意味ありげに歪めた彼の顔がある。
胸を忙しなく上下させるロックを満足そうに見下ろして、エベルは言った。
「おやすみ、ロクシー」
そして呆然とするロックを残し、弾む足取りで部屋を出ていく。
ドアが静かに閉められた後、ロックは天井を見上げてぼやいた。
「目、冴えちゃったんだけど……」
それは彼に対する文句の声だったはずなのだが、不思議なことに口元が緩んで、ちっとも不満げには聞こえなかった。
ただ目が冴えたのは事実だ。
それから半時ほど、ロックは寝台の上で寝返りを打ち続けなくてはならなかった。