夜が明けたらくちづけを(2)
廊下を進んで上へ続く階段に差しかかると、足音はよりはっきりと聞こえてきた。ロックが恐る恐るそこを覗き込んだ時、シャンデリアが照らす絨毯敷きの踊り場に、背の高い影が落ちてきた。下りてきたというよりも放り出されたように踊り場に転がったその人は、すぐに舌打ちしながら立ち上がる。
「しつこい野郎だ!」
呻く口元に血を滲ませ、短剣を握るフィービが階上を睨んだ。
それを見上げたロックは、思わず叫んでいた。
「フィービ!」
彼の無事を信じていなかったわけではないが、その姿を見つけるとやはりほっとした。結わえた栗色の髪はすっかり乱れ、骨太の体躯に身に着けた革鎧はところどころ壊れて剥がれ始めている。それでも両足で立つその姿は、確かに無事だと言えるはずだった。
フィービも目だけでこちらを向き、凛々しい横顔に一瞬だけ安堵の色が浮かんだ。もっともそれは直後に雲散し、階上から迫る何かを見据えて歯噛みする。
「ロクシー、逃げろ! 奴が来る!」
その言葉を裏づけるように、ロックの頭上で獣の咆哮が響いた。もはや人の声ではない唸り声はそう遠くなく、踏み轟かす足音と共にぐんぐん近づいてくる。
「フィービ、こちらだ!」
不意にエベルがそう叫んだ。
かと思うと、彼は階下にある扉の一つを開け放ち、ロックとフィービに追ってくるよう促す。ロックはフィービを案じて振り返ったが、反応はフィービの方が素早かった。すぐさまロックを小脇に抱え、エベルの後を追ってその部屋に飛び込む。
そこはどうやら、食堂のようだった。
長方形の大きな食卓があり、その大きさに見合う数だけの椅子があり、火の消えた燭台が卓上に並んでいる。暖炉も今は火が点されていなかったが、エベルはその中に自らの巨体を捻じ込むようにして入り込み、直にその姿が上へと消えた。どうやら暖炉の奥に隠し扉があり、そこから上へと逃げられるようだ。
ロックとフィービが奥を覗けば、上へ延びる狭い通路の先で金色の目が光っている。
「ひとまずこちらへ」
エベルが伸ばした毛むくじゃらの手に、まずはロックが掴まった。人狼閣下は片腕だけで造作もなくロックを引き上げ、続いてフィービも引っ張り上げる。
三人が通路を登り切った直後、食堂前の廊下を駆けていく荒々しい足音が聞こえてきた。食堂の扉が開いていることに気づく理性はなかったのか、足音は唸り声と共にそのまま通り過ぎ、やがて遠くに消えていった。
三人分の溜息が暖炉上の小部屋に揃って落ちた。
それからロックは辺りを見回す。
引っ張り上げられた先は、あの隠し通路の奥と同じような石造りの空間だった。小さな部屋には誰かの出入りが頻繁にあるのか、ここにもランタンの温かい光が点っている。小部屋の奥にはやはり通路が続いているようだが、折れ曲がったその先がどこへ通じているのか、一見しただけではわからなかった。
「何だここ」
フィービが至極もっともな疑問を漏らすと、エベルが尖った耳を動かす。
「緊急避難用の隠し通路だ。主に、私の正体を隠す為のものだった」
「へえ……」
「まさか私以外の人狼相手に必要となるとは思わなかったが」
エベルの声は物憂げだったが、この通路がひとまず三人の命を救ったことは確かだ。
「何にせよ、助かった」
フィービは小部屋の床に座り込み、疲労困憊の息をつく。
「大丈夫? 怪我してない?」
慌ててロックが駆け寄れば、フィービは何とも言えない苦笑を浮かべた。
「どうにか無事だ。何度か引っ掻かれたけどな」
物言いは軽口めいていたが、そんなに軽いものでないことはロックもよくわかっている。鎧を身に着けていなければ、さしものフィービも手酷くやられていたことだろう。
「お前こそ、あちこち傷作ってるじゃねえか」
フィービはそう言って、ロックの頬に手のひらを添えた。
温かく優しい手の感触に、ひりつくような痛みが加わる。つられて笑うと唇の端が更に痛んだ。
「まだ鏡見てないんだ。でも大したことないよ」
「痕残らないといいけどな……全く、嫁入り前だってのに」
フィービが嘆くと、すかさずエベルが口を開いた。
「私が責任を持って娶る。心配は要らない」
「誰もそんなこと聞いてねえ」
噛みつくフィービの横で、ロックは密かに頬を赤らめる。どさくさに紛れてとんでもないことを言われた気がした。
もっとも、牧歌的な空気もここまでだった。エベルが不意に深呼吸をして、それからフィービに尋ねる。
「他の皆は……ルドヴィクスたちはどうしていた?」
人狼の表情こそ大きくは変わらなかったが、声音には明らかな恐れの色が窺えた。
フィービも真剣な顔つきで答える。
「執事さんなら無事だ。御者と小間使いは……俺が気づいた時、少なくとも息はあった」
「……そうか」
エベルが歯を食いしばった。
血が混じった汗を拭いながら、フィービは早口で続ける。
「あの野郎がいたんじゃ手当もできねえからな。俺は執事さんに二人を任せて、グイドを別の場所に引きつけることにした。楽しい追いかけっこの始まりだ」
そこでロックに目をやり、幾分か柔らかく言い添えた。
「お前の無事も確かめたかったが、執務室に姿がなかっただろ。閣下と一緒だと信じて、走り回るより他なかった」
「彼女一人を連れ出すので、精一杯だった」
やはりロックを見たエベルの言葉に、フィービはゆっくりと頷く。
「それが一番正しい選択だ。俺でもそうした」
ロックはふと、もしも自分がその選択を迫られていたらどうしていたかと考えた。
あの場でたった一人しか、自分の手では助けられないとしたら――身を顧みずにグイドに飛びかかることはできたロックでも、その選択はできなかったに違いなかった。誰も選べないまま立ち尽くしていただけかもしれない。
だからこそ、これから先の選択は重要だ。
一人を選べないなら、誰もを助けたいと思うなら、どんな手を尽くせばいいだろう。
フィービが険しい面持ちで、次の言葉を口にする。
「で、次の優先順位は? あいつをどうする、閣下」
ロックと話していたからだろう、エベルは迷わず即答した。
「グイドを死なせるわけにはいかない。救うなら、彼奴も含めて皆だ」
「正気かよ……」
フィービが嘆いたのは、それがたやすいことではないと察していたからだろう。苦々しく聞き返した。
「いや、むしろあいつを正気に戻す方法はあるのか?」
するとエベルは金色の瞳を瞬かせる。
「人狼の力は、自らの意思によって抑えることができる。だが今のグイドには恐らく不可能だ」
「眠らせるのは?」
ロックは口を挟んだ。
以前エベルから聞いた、呪いを解き放った夜の出来事を覚えていたからだ。その夜をエベルは、冷たい石の床の上で、一人寂しくやり過ごしたという。
「一番最初の時、エベルは寝て起きたら元に戻っていたんですよね? 同じことがグイドにも起きないでしょうか」
「私もそれを期待したいところだが、どうやって眠らせるかが問題だろう」
エベルは頷き、硬い爪が光る手でふさふさの顎を撫でた。
「上手いこと疲弊して寝入ってくれればいいのだが、それまでに皆の体力が持つかわからない。どうにかして昏倒させるか、殴って正気に戻すしかない」
「大雑把な作戦だな。生け捕りにするってか?」
フィービは呆れたようだが、エベルには他の考えはないようだ。
「済まないが、それしかあるまい」
「真正面から行って、俺と閣下だけで勝てるか? 相手は相当見境ねえぞ」
「地の利はこちらにある。不意を打てば勝機も見えるだろう」
大雑把というより、わずかな希望に縋るような作戦だった。
エベルもフィービもそれが可能だと確信しているわけではないようだ。他に手立てがないのはロックにもわかる。相手はもはや言葉も届かぬ獣と同じだ。それでも生け捕りにして、正気に戻さなければならない。
「罠を仕掛けましょうか」
思いついて、ロックが口を開いた。
エベルが、フィービがそれぞれ振り向く。そんな二人に、ロックも必死の思いで告げた。
「グイドを生け捕りにする袋を僕が作ります。敷布でも毛布でも、あるいはカーテンなどでも構いません。丈夫な布を縫い合わせて作った袋で、彼の動きを封じるというのは」
わずかな希望を、少しでも確かなものに引き上げたい。
そう思って続けた。
「もちろん相手は人狼です。そう長く足止めできるわけではないでしょうが、短い間でも彼の視界を奪い、動きを止められたら、勝算がもっと見えてくるはず」
「いいな。上手くやれれば逆転できる」
フィービが即座に賛同し、エベルもすかさず首肯した。
「ああ、悪くない策だ」
それから尖った耳と耳の間を掻きつつ、言いにくそうに尋ねる。
「しかし、あなたにこれを聞くのは失礼だろうが……急ぎの仕事になるぞ、大丈夫か?」
「僕は仕立て屋です、安心してお任せください」
ロックは誇りを持って答えた。
この仕事はこれまで受けたものの中でも、最も迅速さと確実さが問われる注文になりそうだ。
三人は小部屋の奥の通路を這うように抜け、今度は三階にある部屋へと出た。
「ここは私の寝室だ」
エベルがそう語った通り、部屋の奥には大きな寝台が置かれていた。室内はロックの自室よりもはるかに広く、飾り棚や織物の壁掛け、風景を描いた絵画などが飾ってある。だが応接間などと比べると華美ではなく、木製の落ち着いた調度が揃っていた。
「あるものは何でも使っていい」
部屋の主の厚意にあずかり、ロックは寝台から毛布と敷布を引き剥がす。
普段から裁縫道具は持ち歩いている。腰から下げた道具袋から針と糸を取り出して、ロックは早速作業にかかる。
だが毛布と敷布を縫い合わせ始めた時だ、
「……近くに来たか」
エベルが耳をぴくりと動かし、標的の接近を察知した。
あいにくロックの耳にはまだ聞こえなかったが、座り込んでいた床の微かな振動は感じ取れた。我を忘れたグイドの胸中など推し測りようもないが、暴れ足りぬ欲求をぶつける相手でも探し回っているのかもしれない――。
「なら、様子を見てくる」
そう言い出したのはフィービだ。素早く立ち上がったその姿を、ロックは驚いて目で追う。
「だ、大丈夫? 危なくない?」
しかしフィービはその心配を一笑に付した。
「心配すんな。また追いかけっこしてくるだけだ」
「でも――」
「それに、ここまで押しかけられたら困るだろ。遠ざけておかねえとな」
尚も案じるロックを諭した後、フィービはちらりとエベルを見やる。
何も言われぬうちからエベルは顎を引いた。
「ロクシーは私が守る。袋が縫い終わり次第、すぐに追い駆けよう」
「ああ。準備ができたら知らせてくれ、そっちに誘導する」
フィービも頷き返した後、不安を消せないロックに向かってこう言った。
「お前はお前の仕事を頑張れ」
「……うん」
ロックがぎこちなく応じると、フィービは極上の笑みと共に片目をつむった。
「帰ったら葡萄酒を開けるぞ。愛してるぜ、ロクシー」
そして扉を静かに開くと、廊下に出た後、やはり静かに閉めてみせる。
走り去る足音が響いた後、直にそれも聞こえなくなった。
ロックは針を手にしたまま、わずかな間、閉じた扉を見つめていた。
父が残していった言葉に、呆気に取られてもいた。同じことをロックは、その頃はまだ他人だと思っていたフィービに告げた。本人に伝わっているとは露とも知らず。
「……愛してる、か」
エベルが低い声で、その言葉を繰り返す。
それでロックは少し慌てて、
「あの、彼は――つまり、僕の父なんです。多分ですけど、確実に」
そんなふうに弁解してみれば、エベルは驚きもせず短く笑った。
「私は少し前から、そうではないかと思っていた」
もしかすれば、近しいがゆえに目を曇らせていたのかもしれない。
更に呆然とするロックに対し、腑に落ちた様子でエベルが呟く。
「にしても、あなたたち親子はよく似ているな」
そうでありたいとロックも思う。
父のように勇敢で、母のように優しく、そして仕事の早い仕立て屋でありたい。
ロックは父の為に、そして皆の為に心を込めて袋を縫う。