男装婦人の恋と憧憬(5)
燐寸を擦って、ランタンに明かりを灯す。すると狭い部屋はたちまち温かく照らされて、床にうずくまる人狼の姿を浮かび上がらせた。見慣れた部屋に彼の姿があるだけで、まるで非日常的な空間に見えてくるから奇妙だ。
「大丈夫ですか、エベル」
ランタンをかざしたロックが声をかけると、エベルはのっそり顔を上げる。人狼の顔からその胸中は窺えない。
「ああ……取り乱して済まなかった」
ただ、声はいつもより力がない。そのくせロックを気遣うように言い添える。
「人狼になるところを直に見せてしまったな。怖がらせたのでなければいいが……」
「怖くなんかないですよ。もう慣れっこです」
ロックはわざと明るく答えると、エベルに椅子を勧めた。木製の長椅子に刺し子のクッションを載せた簡素なものだが、屈強な人狼が腰を下ろしても微かに軋んだだけで受け止めてくれた。
背中を丸めて座るエベルが、そこで少しだけ笑い声を立てる。
「あなたにはいつも救われているな、ありがとう」
だが状況はあまり芳しくないようだ。短い笑いはすぐに溜息へと変わり、ランタンの揺れる光の中、人狼が広い肩を落とす。
「これほど抑えが利かなくなったのは、初めての時以来だ」
ロックもランタンを置くと、エベルの隣に腰を下ろした。そして話の続きを促す。
「初めての時? それはつまり、あなたが……」
「ああ、前に話しただろう。私がこの身に呪いを受けた日のことだ」
それはマティウス邸に招かれた際にエベルが語った話で、ロックもよく覚えていた。
先代のマティウス伯が蒐集した骨董品の中に、人狼の呪いを秘めた彫像が含まれていた。その呪いは八年前に過失によって解き放たれ、エベルの身に降りかかり、彼を人狼に変えてしまった。
現在のエベルは人狼であることに肯定的であり、慣れた様子を見せてもいたが、そんな彼にも『初めて』の時があったのだ。
会話の記憶を手繰り寄せるロックに、エベルが語りかけてくる。
「今でこそ私は、自由自在に人狼の姿に化けられる。だがかつてはそうではなかった。呪いを受けたばかりの頃、この力は制御の難しいものだった」
思い返せば、ロックの前でエベルはいつでも思うがままに化けてみせた。人から人狼になるのも、逆に人狼の姿から人に戻るのも、特に労せずしてやってのけた。
「では、その頃と同じことが起きていると?」
ロックの問いに、エベルは短く息をつく。
「そのようだ。実は先程から、人に戻れぬものかと何度か試してみてはいるのだが――」
「えっ、服もないのにですか!」
突然の申告にロックは慌てたが、エベルはそれどころではないようだ。
「だが、駄目みたいだ。いくら試したところで戻れそうにない」
尖った耳をくたりと寝かせ、尻尾も力なく垂れ下がっている。彼にとって予期せぬ問題が起きているのは間違いない。
「戻れないなんて大事じゃないですか。あなたは伯爵閣下でいらっしゃるのに」
ロックは慌てたが、エベルはそれを咎めるようにかぶりを振った。
「違うな、ロック。誰であろうと人狼の姿のままでいるのは大事だし、困難だ」
「それはそうですけど……」
むしろ、いかに由緒正しき伯爵家とは言え、人狼であることを許容されるはずもない。巷に流れる人狼の噂は人に化け、人を食らうと恐怖を煽るものばかりで、その悪評を伯爵という身分で覆せるとは思えない。発覚すればお取り潰しだけの騒ぎではなく、エベルの存在そのものが踏みにじられることだろう。
「戻るまで、ここで匿うことはできます」
悪い想像に胸をざわめかせたロックが名乗り出ると、エベルはそこでも少し笑った。
「ありがとう。万が一の時にはお願いするかもしれない」
だがもう一度かぶりを振って、
「しかしできれば、解決する手立てを考えよう」
と言った。
「呼吸のように自然にできたことが、急にできなくなるのは明らかに妙だ。これは……異常だ」
「ええ」
ロックとしても手を貸したいのはやまやまだった。だが原理もわからぬ呪いが相手では、知恵の絞りようがない。
「何か、お心当たりはないのですか?」
とにかくエベルを落ち着かせようと、なるべく穏やかに尋ねた。
「いつもと違うことが起きたのなら、いつもと違う要因が何かあるはずです」
「そうだな……」
人狼はふさふさの顎を撫でながら唸り、直に片耳をぴくりと揺らした。
「そういえば声を聞いた。ここの通りの前で、私を呼ぶ声がした」
「そんなことを言ってましたね」
エベルが足を止めた時のことを覚えている。
初めは部屋に上がり込む口実かと失礼なことを思ったロックだが、どうやらエベルの耳にはその声が、本当に聞こえていたらしい。あの時、裏路地にはロックとエベル以外の人影はなかったというのに――背筋の寒くなる話だ。
思わず身を震わせたロックをよそに、エベルは思索に沈んでいた。
「あの声、どこかで聞いた覚えがある……」
唸る声は苦しげで、その記憶を引き出そうにも出てこない様子だった。耳と耳の間を鋭い爪で掻きながら、どうにかして絞り出そうと苦心している。
ロックはそんなエベルの、狼そのものの横顔を黙って見つめていた。
彼が苦悶する様子を見ていると、ロックまでもどかしさで胸が苦しくなってくる。彼の苦境にここまで心寄せている自分自身に驚きつつ、必死に考えを巡らせていた。
そのうちふと、一つの可能性が浮かんできた。
「呪いの彫像は、一つきりなのですか?」
おずおずと、ロックはその可能性を口にした。
それがどのような意図で作られたものかは定かではない。だがもし――呪いをかける為に作られたものだとしたら。
恐ろしい話だが、人狼を生み出す為に作られたものだとしたら、その意地の悪い作成者はたった一つで満足するだろうか。
「わからない。私も、複数ある可能性はあると思っていた」
エベルは意外なほど素早く答えてから、金色の瞳をロックに向けた。
「だが私が知っているのは一つきりだ。私に呪いをかけたものは、既にこの世にない」
「それもあなたのお父上が傭兵に集めさせた骨董品なのでしょう?」
ロックも、金色の瞳を見つめ返しながら続ける。
真実を掴みかけている。そんな予感がしていた。
「なら、もし一つきりではないのだとしたら。近くにそれがあると考えるのはどうでしょうか。彫像に秘められた呪いの力が、初めての時のように再びあなたに影響を及ぼしつつあると」
無論、ロックに呪いの知識などはないから、これは完全な当て推量だ。
だがその可能性は十分にある。初めての時にしか起こり得なかったことが、ロックの部屋の近くで起きたということは――。
「近くに……? あなたの部屋にということか?」
エベルが訝しがったので、ロックは慌てて言い直す。
「いえ、この下です。階下に古道具屋があるんです」
「そうなのか!?」
たちまちエベルは食いついて、毛むくじゃらの手でロックの肩を鷲掴みにした。
大きな手の感触にびくりとしつつ、ロックは頷く。
「え、ええ。この部屋の大家がやっていて、たまに遺跡帰りの傭兵が骨董品を持ち込むそうです」
「そうか……それなら理屈は通る!」
エベルは興奮した様子で椅子から立ち上がると、すぐにロックを振り返った。
「早速だがロック、店に件の彫像があるか確かめられるか?」
「いえ、この時分ではちょっと……。お婆さんがやっているお店ですから」
彼の食いつきようにロックは戸惑っていた。まだ仮説のつもりで口にしたのに、エベルはすっかり確信しているようだ。
「明日の朝一番で確認してみます」
そう告げればエベルはじれったそうに身体を震わせた。
「明朝か。それまでは身動きが取れないな」
人狼の毛並みが風吹く草原のように逆立って、ランタンの光の中で黄金色に艶めいた。
ロックは一瞬見惚れてから、肝心なことに気づいて問いかける。
「もし彫像が下のお店にあったなら、どうしますか? あれが近くにある限り、エベルは元に戻れないのだとしたら……」
「ひとまずはあなたの手で、どこかへ遠ざけてもらいたい」
エベルはそう言ってから、考え考え続きを口にする。
「その後は……使いをやるので、その者に引き渡してくれ。私の手元に届いたら、私が責任を持って破壊する」
言葉の終わりで彼の声が、低く、重く沈んだ気がした。
はっとしたロックが見上げた先で、人狼は総毛を逆立てている。鋭い牙を剥き出しにして、尖った耳を後ろに倒し、鼻の上に皺を寄せている。
「あれは、壊さなくてはならない」
低い声の響きには、決意と苦悩が滲み出ていた。
呆然としたのは、以前受けた印象と違っていたからだ。
エベルはロックに語ったはずだ。人狼になったことで素晴らしい力を得たと。呪いを解き放った父を恨んではいないと。
だが今、ロックの目の前に立つエベルは確かに憤り、そして呪いを忌んでいるように見える。
ロックの驚きに気づいたのだろう。
「私がこんなことを言うのは不思議か?」
やがてエベルが尋ねてきて、ロックは正直に答えた。
「はい。あなたはその呪いをよいものだって……」
「私にとってはその通りだ。その点について悔いはない」
きっぱりと言い切るエベルは、しかし迷わずに続ける。
「だが、呪われるのは私だけでいい。他の者が――例えばあなたが同じ呪いを受けたらと思うと、そんなものは壊して、消してしまわねばならない」
不意にランタンの炎が揺れ、金色の瞳の中にも何かの光が過ぎった。
「それこそが呪いを受けた私の務めであると、そう思っている」
エベルの口調からは、一片の迷いもない揺るぎなさが窺える。
気圧されたロックは息を呑み、それ以上は何も言えなかった。
考えてみれば、得体のしれない呪いが素晴らしいもののはずがない。エベルは明るく振る舞っていたが、それが全て真実であったかどうか、今となってはわからない。
ただ彼の怒りと苦悩に触れた時、ロックは不思議な気持ちを覚えた。
自分はまだエベル・マティウスという人を何も知らないのかもしれない。なぜか、そう思った。
その後、エベルは何度か『試した』らしいが、やはり人の姿には戻れなかった。
もう夜も更けていたし、人狼の姿のままでは外にも出られない。だからロックはエベルを部屋に泊めることにした。
「あなたの部屋に泊まる機会を得られるとは……」
ロックの申し出を聞いたエベルは、尻尾をぶんぶん振り回していた。
「まさしく僥倖というものだろうな。せっかくだから堪能させていただこう」
「堪能するほどのものもないですよ。狭いところです」
ロックに笑われても気にする様子はなく、金色の瞳をきらきらさせて室内を見回す。
「ふむ……さすがはあなたの部屋だ。あなたの匂いがする」
「嗅がないでください!」
はしゃぐエベルを咎めつつ、ロックは寝床の用意をした。
客人と言えばせいぜいフィービくらいのこの部屋に、当然ながら寝台は一つしかない。エベルは床でもいいと言ったが、伯爵閣下を床や長椅子に寝かせるのはさしものロックも気が引けた。
そこで寝台の横にキルトを何枚か重ねて置き、肌触りのいい麻布でぐるりと包んだ。人狼の巨体に合わせた大きさにするのは少々苦心したが、何度か彼に寝てもらって、ちょうどいい大きさの寝床を作り上げた。
「毛布はおかけしますか?」
急造仕立ての寝床に横たわったエベルを見下ろし、ロックは尋ねた。
毛皮で覆われた彼には不要かと思ってのことだが、背中を丸めて横向きに寝転がるエベルは意外にも、頷いた。
「ああ、頼む」
「ではどうぞ。暑かったら退けてくださいね」
毛布を一度ふわりと広げて、人狼の身体に覆いかける。
大きな毛布はエベルをすっぽりと包み込み、彼はどこかくすぐったそうに笑った。
「ありがとう、ロック。世話になってばかりだな」
「そんなことないですよ」
ロックは首を横に振り、それからできるだけ優しく彼に言った。
「明日のことが全部上手くいって、早く戻れるといいですね」
するとエベルは毛布から鼻先を覗かせ、人のように目を瞬かせた。
「こんなに優しくしてもらえるなら、ずっとこのままでもいい」
「普段の僕は優しくないですか?」
苦笑して聞き返すと、エベルは一瞬押し黙ってから、とびきり甘い声で応じる。
「いいや。あなたはいつでも私の救い主だ」
その声音、あるいは言葉に動揺したせいではないが、ロックは答えられずに彼の傍を離れた。
静かな夜だからか、二人きりだからだろうか。
彼の一言が妙に耳に残って、離れなかった。