男装婦人の恋と憧憬(3)
妹ミカエラのドレスについて、グイドは事細かな注文を寄越した。「絹を使って夜会服を作れ。帝都一美しく、妖艶な仕立てで頼む」
夜会服における当世流行の仕立ては、首の後ろでリボンを結ぶ、肩を出した仕様のドレスだ。
ご婦人方の美しい鎖骨を露わにした最新式のドレスは、古風なうるさ型の顔を顰めさせつつ、こと若い貴族の間で人気を呼んでいるようだ。腰から下は身体に沿うような縫製にして、腰のくびれや脚線美を誇るのも流行りだった。
グイドが求めているのはまさにそういった蠱惑的なドレスであるらしい。
「生地は無論、上等の絹だ。色は――」
グイドはそこでちらりとミカエラの黒髪を見やり、
「紫がいいだろうな。お前を引き立てる神秘的な色だ」
と言った。
ミカエラは困ったように微笑んでいる。
「お兄様、そのようなドレスをわたくしが着こなせますでしょうか」
「何を言う。近頃のお前はすっかり女らしくなった」
グイドは妹の懸念を軽く笑い飛ばした。
ロックに向ける視線は刺々しいの一言だが、ひとたび妹に向き直ればその顔は緩みに緩む。
「その美しい肌を隠しておくのももったいない。色気のある服を試してみてもいい頃だろう」
「お兄様、ミカエラはまだ十九でございます」
ミカエラがはにかむと、グイドはその艶やかな黒髪を優しく撫でる。
「次の月には二十歳だ。もう子供ではないだろう、ミカエラ」
どうやら見た目の通り、ミカエラ・リーナスはロックと同い年のようだ。
もっとも口ぶりはどこか幼く、兄に対して甘えるように話してみせる。
「ミカエラはまだまだ子供でいとうございますのに……」
「駄目だ。お前が子供のままでは、エベルも目を覚まさない」
グイドはそんな妹をたしなめると、彼女の美しい額を指でつついた。
「彼奴の婚約者にふさわしいのはやはりお前だ。そうだろう?」
「わたくしは……」
何か言いたそうにしながらも、ミカエラは長い睫毛を伏せてしまう。
もじもじと恥じらっているようにも、何かを悲しんでいるようでもあるその態度から、彼女の本心はまだ読み取れない。
ロックは黙って成り行きを見守っていたが、そこでグイドが再び睨みつけてきた。
「そういうわけだ、仕立て屋」
口調もまた挑発的に、まるで当てつけのように言い放つ。
「妹には意中の男がいる。彼奴を誘惑し、惹きつけ、ミカエラこそが運命の女であると気づかせるようなドレスを仕立てろ」
「かしこまりました」
挑発に乗る気もないロックは、努めて冷静に応じた。
店の隅ではフィービが、用心深くこちらの様子を窺っている。彼女はリーナス兄妹が来店して以降、賢明にも沈黙を守り続けていた。だが時々ロックを案じるように視線を向けてくるので、ロックとしても心強かった。
グイドの意図はわかっている。
エベルにふさわしいのはロックではなく、妹ミカエラであると主張したいのだろう。
無論、主張するだけでは飽き足らず、それを目に見える形で証明したがっている。ミカエラに女らしさを強調したドレスを仕立てようとしているのもその為で、上手く事が運んだ暁には『男に恋するのをやめろ』とエベルに告げるつもりなのかもしれない。
ロックとしては、それでエベルの気が変わってミカエラを選ぼうと構わないのだが――構わない、はずなのだが多少もやもやするものがあるのは恐らくグイドの嫌味に対する苛立ちだろう。
ともかくグイドのことはさて置いても、初めて出会うエベルの元婚約者には奇妙な気まずさを覚えている。
どちらかと言えばそれは、罪悪感に近かった。
「それでは採寸をいたします。こちらへ」
ロックは奥にある試着室へ案内しようと、ミカエラに声をかけた。
すると当然のようにグイドもついてきて、勝手に帳を開けては小さな試着室内を検める。
そして、
「妹をこんな狭いところに押し込むつもりか?」
などと文句をつけるので、ミカエラ自身に咎められる始末だ。
「もう、お兄様ったら……向こうへ行っていて!」
「ミカエラ、この仕立て屋が何か無礼な真似をしたら、すぐにこの兄を呼べ」
そう言い残してグイドが退出した後、ミカエラは声を落としてロックに告げた。
「ごめんなさい。うちの兄はいつもああなの」
「いいえ、気にしておりません」
ロックは笑顔で嘘をついた。
途端、公爵令嬢は花がほころぶような微笑を浮かべる。
「ありがとう。さ、心配性の兄を待たせないうちに済ませてしまいましょうか」
その口調は実に穏やかで、棘もなく、兄妹なのにこうも似ないものかとロックは内心驚いていた。
着てきたドレスを脱ぎ、下着姿になったミカエラを、ロックは粛々と採寸した。
嫁入り前のミカエラは楚々とした婦人だったが、そこは身分貴い令嬢らしく、仕立て屋の前で下着姿になることに抵抗はないようだ。ロックが指と巻尺をその身体に当てても、恥じらうことなく堂々としていた。
もっとも、彼女には別の安心感もあったようだ。
「仕立て屋さん、あなたって男の方なの?」
採寸の間に屈託なく尋ねてきて、ロックを密かに苦笑させた。
「ええ、その通りでございます」
「不思議ね。そんな感じがあまりしない……と言ったら失礼かしら?」
「いいえ」
かぶりを振るロックに、ミカエラは尚も無邪気に続ける。
「わたくし、男の仕立て屋さんってどうも苦手だったの。でもあなたはそうではなくて、なぜかしら。身体を見てもらっていても、なぜかほっとするの」
それは彼女の勘によるものか、はたまた何か知った上で言っているのか――いずれにせよ、男装のロックをひやりとさせるには十分だった。
「きっと、仕事に誇りを持ってやっているからだと存じます」
動揺はおくびにも出さず、ロックはそう答えておく。
「麗しいご婦人を前に仕事を忘れるような輩は、仕立て屋の風上にも置けません」
「全くその通りね。さすがはエベルが贔屓にするお店だわ」
ミカエラは感心しつつ、元婚約者の名を口にした。
採寸の数字を書き留めるペン先が、そこで微かに震えた。
ロックが顔を上げずにいれば、それに気づかぬミカエラは声を弾ませる。
「エベルのお洋服もあなたが仕立てているの?」
「……ええ」
「彼、素敵な人でしょう? お兄様ととても仲のよいお友達なの」
ミカエラの声には一切の陰りがなく、陽光のようにただただ明るい。
だがロックの記憶には少し違うふうに刻まれている。エベルの屋敷で出会った時、二人は険悪な空気だった。エベルはグイドを幼なじみだと語ったが、その時の表情は決して明るくはなかった。
そしてグイドはロックに辛く当たっている。彼の真意は聞かずとも、薄々察しがついている。
「お兄様はエベルが大好きなのよ。自分が女に生まれていたら、きっとエベルと結婚していたと思うわ」
くすくす笑ったミカエラが続ける。
「だからどうしても、わたくしにエベルと結婚して欲しいみたい。わたくしたちの婚約は八年も前に一度解消されているのに、お兄様は諦めていないの。どうしたらエベルが考え直してくれるかって、いつもそればかりよ」
その言葉にロックは、どう反応すべきかわからない。
黙ってミカエラを見つめ返せば、彼女はそこで可愛らしく小首を傾げた。
「仕立て屋さん、どうかとびきり素敵なドレスを仕立ててちょうだい」
「は、はい。お任せください」
「エベルが考え直してくれるようなドレスをお願いね」
ミカエラの物言いに切実さはなく、その頼みも少女のような無垢さで告げられた。
だがロックはやはり返す言葉も浮かばずに、深々と頷くしかなかった。
「かしこまりました、ご令嬢」
採寸を終え金を支払った後、グイドとミカエラは仲睦まじく帰っていった。
貧民街には場違いな馬車の音が遠ざかった後、ずっと口を開かなかったフィービがようやく声を発した。
「請け負っちゃって、本当によかったの?」
その声は冷静だったが、ロックの耳には警告の強さに聞こえた。
「……うん。払いのいい客だっただろ」
建前はそう答えたものの、フィービはそれを鼻で笑う。
「そうじゃなくて。あんたの気分の問題よ」
「僕は、別に。仕事は仕事だし、貰った分はやるよ」
「賭けてもいいわ。あの坊っちゃんはろくでもないことを考えてる」
フィービの言う通りだとロックも思う。
だが、ミカエラも同じように望んでいる。美しいドレスでエベルの目に留まることを願っている。それならロックに口を差し挟む権利があるはずもない。
「僕にできることは、注文通りのドレスを仕立てることだけだよ」
ロックは気持ちを切り替えようと溜息をつく。
つやつやとした紫色の絹を仕入れて、とびきりのドレスを仕立てよう。流行最先端の型を真似て、腕によりをかけて最高の夜会服を作り上げるのだ。品を失わない程度に身体の線を浮かせたそのドレスは、華奢なミカエラをより美しく引き立てるだろうし、グイドが望んだように妖艶にもしてくれるだろう。
だが、ロックが仕立てたドレスを着たミカエラを、エベルはどんなふうに見るだろうか。
「閣下には言っておきなさいよ」
ロックの内心を見透かしたように、フィービがそう囁いた。
「えっ、な、何を?」
弾かれたように面を上げれば、呆れたような笑みがロックを見据えている。
「さっきの坊っちゃんのことよ。店に来たってね」
「ああ、うん。もちろん言うよ」
ミカエラのことはさておき、グイドが来たことを知らせないわけにはいかない。
そもそも二人の来店が、エベルの紹介であるようには思えなかった。グイドがわざわざロックの店を探し当てたのだとすれば、ただの客ではないことも明白だ。
それだけにミカエラの屈託のなさが、ロックの心を惑わせる。
まるで告げ口をするような罪悪感が、胸の奥にわだかまっている。
「だけど、どうして婚約を解消したのかしらね」
フィービはフィービで、別のことを気にしているようだ。独り言のように呟いた。
「話を聞く限り、公爵家側はそれを望んでなかったようじゃない? 閣下の独断ってことかしらねえ」
ロックはそれについての答えを知っている。
人狼の呪いがエベルとミカエラを引き裂き、そしてグイドを変えてしまった。
だが事実に対する認識は、エベルとリーナス兄妹の間でいくらかの差異があるようだ。エベルが人狼となっても彼を見捨てず、解消された婚約話すら復活させようとしている。それだけなら美しい話に思えるが、ロックにはグイドの態度が引っかかって仕方がなかった。
ミカエラが言うように、エベルに執着しているのはグイドの方に思えたからだ。
その日の夜、約束通りにエベルが迎えに現れた。
ロックは店を閉めた後、彼と共に食事に出かけることにした。行き先は以前と同じ、公衆浴場の下にあるパン屋だ。
賑々しい女将ジャスティアに出迎えられ、店の奥に通された後、ロックは乾杯の前に切り出した。
「今日、リーナス公爵のご子息がいらっしゃいました」
その瞬間まで、エベルはそわそわと落ち着きのない様子だった。朝の続きだろうか、何か話したいことがあるそぶりでもあったし、純粋にロックとの夕食を楽しみにしていたようでもあった。人狼の姿ならぶんぶん振り回された尻尾が見えるであろう態度で座っていたが、ロックが切り出したその一言で急に冷静になったようだ。
「グイドが、あなたの店に?」
「ええ。妹君もご一緒です」
「ミカエラも? どういうことだ」
エベルは不審そうに唸った。
「あなたには失礼な物言いかもしれないが、あの二人は貧民街で買い物をするような性分ではない。まさか客として来たのではあるまい?」
確かに、来店直後のミカエラの戸惑いはその通りに見えた。
ロックはきっぱりとかぶりを振る。
「いいえ、お客様としておいででした。ミカエラ嬢のドレスを仕立てて欲しいと」
「ますます解せないな。あのグイドが、溺愛してやまないミカエラの為に、あなたに服を仕立てさせるだと……?」
解けない難題にぶつかり、エベルがこめかみを押さえた。
その答えも、ロックはほぼ手中に収めていると言ってもいい。やはり告げ口のような後ろめたさはあったが、言っておかねばなるまい。これはロック以上に、エベルにかかわりの深い話なのだから。
言い訳めいたことを思いつつ、息をついてから切り出す。
「公爵子息が仰るには、振り向かせたい殿方がいるのだそうです」
「ミカエラにか? いや、まさか……」
「あなたに考え直して欲しいとのことでしたよ、エベル」
ロックはそう続けたが、妙に皮肉めいた物言いになってしまい、後になってから自ら慌てた。
「あの、顧客の情報を漏らしたのは、これが大事なことだと思ったからです。普段はこんなにぺらぺら話したりはしません」
ぼそぼそと弁解すれば、今度はエベルが首を横に振る。
「ああ、教えてくれてありがとう」
それから端整な顔を和らげ、安心させるように続けた。
「心配しなくていい。私の心はあなたのものだ」
心配、していたわけではないのだが――。
ロックは内心、奇妙に安堵していた。
「あなたがどれだけ美しいドレスを仕立てようと、それを誰が着ようと、あなた以外の人に心奪われるはずがない」
エベルが朗らかに続けたので、ロックもつられるように笑う。
「それは正直、仕立て屋として不本意なお言葉です」
「では、あなたの仕立てるドレスはそれほど美しいものなのか?」
「僕の腕はご存知でしょう。夢のように美しく仕立ててみせます」
そう答えれば、エベルは想像を巡らせたようだ。うっとりと表情をとろけさせて、こう言った。
「ならば、あなたがその身にまとったところを見てみたいものだ」
「……僕は男ですよ、エベル」
一応釘を刺してはみたものの、エベルの耳には入らなかったらしい。
ロックを見つめる金色の瞳は、既に今とは違う姿を想像しているようだった。